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  11. 島津忠良

ジャパンナレッジで閲覧できる『島津忠良』の辞書・事典・叢書別サンプルページ

国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典

国史大辞典
島津忠良
しまづただよし
一四九二 - 一五六八
戦国時代の薩摩国の武将。父は島津(伊作)善久。母は新納是久の娘常盤。幼名は菊三郎。通称は三郎左衛門尉。明応元年(一四九二)生まれる。父善久の没後、母常盤の再嫁した相州家島津運久の家督を継承し、相模守を名乗り、本領伊作とともに田布施・高橋・阿多を領して薩摩半島中部に勢力基盤を築いた。大永七年(一五二七)、本宗家守護島津勝久が忠良の嫡子貴久を継子とするにあたり、忠良は出家し日新斎と号した。その後、忠良は、家督継承をめぐって争った島津実久の勢力を排除し、勝久を鹿児島から追放し、近世島津氏発展の基礎をつくった。忠良晩年ごろの僧日我は、忠良の領国形成には、伊集院忠朗の功績大なることを記している。また、紀伊国の根来寺で善久・運久・常盤の供養を行い、琉球貿易に関わっていることは、背後の経済基盤を推測させるものである。儒・仏の教養の深かった忠良が作った「いろは歌」は、近世薩摩藩の武士の教養の核をなすものとして重視された。永禄十一年(一五六八)十二月十三日加世田(鹿児島県加世田市)で没す。七十七歳。墓は加世田市の竹田神社(忠良の菩提寺日新寺が、明治の廃寺により神社となる)にある。
[参考文献]
『大日本史料』一〇ノ一 永禄十一年十二月十三日条、『鹿児島県史』一、北川鉄三編『島津史料集』、渡辺盛衛『島津日新公』(『島津中興記』)、三木靖『薩摩島津氏』(『戦国史叢書』一〇)、五味克夫「「島津家物語―日我上人自記―」について」(『鹿大史学』二三)
(福島 金治)


島津忠良花押
シマヅタダヨシカオウ
島津忠良花押

 ©Yoshikawa kobunkan Inc.


日本大百科全書(ニッポニカ)
島津忠良
しまづただよし
[1492―1568]

戦国時代の武将。幼名菊三郎。官は左衛門尉(さえもんのじょう)、相模守(さがみのかみ)。入道日新斎(じっしんさい)、愚谷軒(ぐこくけん)と号す。父伊作(いざく)善久の死後、母常磐(ときわ)(新納是久(にいろこれひさ)の女(むすめ))は相州(そうしゅう)家島津運久(よきひさ)に再嫁したため、伊作、相州両家を兼帯して勢いが強かった。当時守護島津勝久(かつひさ)は領国の統治に苦しみ忠良の援助を求め、忠良の嫡男貴久(たかひさ)を後嗣(こうし)とした。しかし勝久の夫人の弟島津実久(さねひさ)はこれに従わず、貴久、忠良に対抗したので、忠良は貴久を助けて、数年にわたり実久と戦い、ついにこれを退け、貴久の地位を確立させ、さらに貴久を援助して三州(薩摩(さつま)、大隅(おおすみ)、日向(ひゅうが))の経営にあたり、その統一事業を推進した。近世大名島津氏の基礎を確立した人物といえる。また忠良は幼時より母および伊作海蔵院の僧頼増(らいぞう)について儒仏の教えを受け、深く学問を好み、信仰心も厚かった。忠良の『伊呂波歌(いろはうた)』は近世薩摩藩の士風育成の聖典として尊重された。法名梅岳常潤在家菩薩。加世田(かせだ)市の竹田神社は忠良を祀(まつ)る。

[五味克夫]



改訂新版 世界大百科事典
島津忠良
しまづただよし
1492-1568(明応1-永禄11)

戦国時代の武将。相模守。号は梅岳,法名は愚谷軒日新(じつしん)。中世に薩摩・大隅・日向の守護家であった島津氏の庶家島津伊作家の9代善久の嫡男として生まれ,のち島津相州家運久の養子となり,薩摩半島に勢力を扶植。島津本家勝久,島津薩州家実久らと抗争のうえ,守護職を子島津貴久のものとし,1550年(天文19)貴久が鹿児島へ入城してから加世田へ引退。その後も行者的宗教者的活動で貴久の領国統治を支援。とくに神儒仏の合一,四書五経と朱子学の推奨,〈いろは歌〉の作成などで家臣団統率にあたり,近世大名島津氏の領国形成の精神的な基盤をつくった。江戸時代から最近に至るまで,鹿児島では日新斎の名で親しまれてきた。島津氏中興の人とされているが,《島津国史》以後は本家の当主には数えられていない。《大日本史料》第10編1の永禄11年(1568)条に〈日新菩薩記〉など関連史料が収録されている。
[三木 靖]

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検索コンテンツ
1. 島津忠良
日本大百科全書
戦国時代の武将。幼名菊三郎。官は左衛門尉(さえもんのじょう)、相模守(さがみのかみ)。入道日新斎(じっしんさい)、愚谷軒(ぐこくけん)と号す。父伊作(いざく)善
2. 島津忠良
世界大百科事典
1492-1568(明応1-永禄11) 戦国時代の武将。相模守。号は梅岳,法名は愚谷軒日新(じつしん)。中世に薩摩・大隅・日向の守護家であった島津氏の庶家島津伊
3. しまづただよし【島津忠良】画像
国史大辞典
一四九二―一五六八 戦国時代の薩摩国の武将。父は島津(伊作)善久。母は新納是久の娘常盤。幼名は菊三郎。通称は三郎左衛門尉。明応元年(一四九二)生まれる。父善久
4. しまづ-ただよし【島津忠良】
日本人名大辞典
1492−1568 戦国時代の武将。明応元年生まれ。父島津善久(伊作家)の死後に母が再嫁した相州家島津運久(ゆきひさ)の家督をつぎ,伊作・相州両家の所領をあわせ
5. 島津忠良[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:6件 【逐次刊行物】:0件 『島津日新公』渡辺盛衛『島津日新公小伝』伊地知茂七『日新公』堀勇吉『島津日新公のお話』伊地知茂七『島津日新
6. 島津忠良花押[図版]画像
国史大辞典
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7. あきめむら【秋目村】鹿児島県:川辺郡/坊津町
日本歴史地名大系
に「加世田村秋目津九玉大明神」とあるとともに、「当地頭嶋津藤原朝臣尚久」とみえる。島津尚久は島津忠良の三男で、宮之城島津氏の初代。なお同年の干支は辛未であるが、
8. あたぐん【阿多郡】
国史大辞典
阿多郡に鮫島氏があって、守護島津家に反抗した。北朝方は伊作に島津久長、阿多に二階堂氏がいた。戦国時代に島津忠良が出て伊作・田布施を合わせ、その子貴久が島津家十六
9. いけべむら【池辺村】鹿児島県:日置郡/金峰町
日本歴史地名大系
な一丸に阿多郡北方内池辺村を譲った(「禅麟譲状」同文書)。天文五年(一五三六)七月二三日には島津忠良・貴久父子が池辺村を市来院諏訪上社(現東市来町)に寄進してい
10. いざくすじ【伊作筋】鹿児島県:鹿児島市
日本歴史地名大系
第二次世界大戦前まで健児之舎(学舎)の年中行事の一つとして行われた竹田神社詣は、伊作峠を越えて日新公(島津忠良)を祀る加世田の竹田神社を参拝する行事であった。現
11. いしだにむら【石谷村】鹿児島県:日置郡/松元町
日本歴史地名大系
とみえ、下谷口村の諏訪明神(現伊集院町南方神社)の祭礼に奉仕していた。薩州家島津実久と相州家島津忠良・貴久との間で抗争中の天文五年(一五三六)、実久方であった石
12. いじゅういん【伊集院】鹿児島県:日置郡/伊集院町
日本歴史地名大系
竹ノ山・徳重(得重)・中山田があげられている。〔戦国時代〕大永六年(一五二六)一二月、相州家島津忠良は帖佐(現姶良町)の地頭辺川忠直を討滅した恩賞として守護勝久
13. いじゅういんごう【伊集院郷】鹿児島県:日置郡/伊集院町
日本歴史地名大系
石)、島津義弘菩提寺妙円寺(高四三石)、妙円寺塔頭で島津家久の母の菩提所芳真軒(高七〇石)、島津忠良室(貴久母)菩提寺の梅岳寺(高七五石)などがあった(三州御治
14. いじゅういんじょうあと【伊集院城跡】鹿児島県:日置郡/伊集院町/大田村
日本歴史地名大系
たが、これに反発した島津薩州家実久が大永七年(一五二七)五月当城を攻略し、町田久用を配した(島津忠良系図)。しかし貴久は父忠良と一千人の軍勢で天文五年(一五三六
15. いずみぐん【出水郡】
国史大辞典
起させ出水郡総地頭職を与えた。薩州家は国久・重久・忠興・実久・義虎・忠辰と続き大族となった。伊作領主島津忠良の子貴久が第十五代勝久の嗣となるや、実久は守護職を争
16. いちきいん【市来院】鹿児島県:日置郡/東市来町
日本歴史地名大系
守高幸と曾木某が配されている。大永六年(一五二六)頃から守護島津勝久、薩州家島津実久、相州家島津忠良・貴久父子の三者の対立が表面化し、市来衆は実久方として軍事行
17. いちきじょうあと【市来城跡】鹿児島県:日置郡/東市来町/長里村
日本歴史地名大系
主であった川上忠克を当地の地頭とした。天文八年(一五三九)閏六月一七日、薩摩半島を領国とした島津忠良・貴久は実久方の島津忠房・新納忠苗が守る当城の西側部分である
18. いりきむら【入来村】鹿児島県:日置郡/吹上町
日本歴史地名大系
河口部が湊として機能していたことをうかがわせる。永禄九年(一五六六)すでに薩隅統一を果していた島津忠良は本田九郎右衛門に伊作入来名内一ヵ所などを勲功の賞として与
19. うえやまじょうあと【上山城跡】鹿児島県:鹿児島市/鹿児島
日本歴史地名大系
あり、当城は上山氏の堂地居屋敷に続く山に築かれた城とみられる。天文八年(一五三九)相州伊作家島津忠良・貴久方の伊集院忠朗が当城を攻略して入城、同年貴久は当城へ向
20. うちじょうあと【内城跡】鹿児島県:鹿児島市/鹿児島
日本歴史地名大系
維持できなくなった島津氏は、文明年間(一四六九―八七)からの動乱のなかで、分家で伊作家と相州家を合せた島津忠良とその子貴久が下剋上にも相当する経過を経て本家の後
21. うわいむら【上井村】鹿児島県:国分市
日本歴史地名大系
う。同氏はその後島津氏に反旗を翻し、天文一〇年(一五四一)には本田董親・肝付兼演らと連合して島津忠良の部将樺山幸久が守る生別府城(現隼人町)を攻めている(「島津
22. えいじょうあと【頴娃城跡】鹿児島県:揖宿郡/頴娃町/郡村
日本歴史地名大系
および薩州家とが覇権争いを始めると、頴娃兼洪は伊作相州家の島津忠良(日新)と結んだ(享禄四年八月二三日「島津日新等連署起請文」島津忠良系図)。なお兼心の時に当城
23. えぼしだけじんじゃ【烏帽子岳神社】鹿児島県:鹿児島市/旧谿山郡地区/平川村
日本歴史地名大系
摂社に猿田彦大神を祀る。旧社地は現社地から二〇〇メートルほど離れている。古くは烏帽子岳飯綱大明神と称し、島津忠良が飯綱神の本尊を作り、天文年中(一五三二―五五)
24. おおうらむら【大浦村】鹿児島県:川辺郡/大浦町
日本歴史地名大系
る。天文二三年(一五五四)二月二日、島津忠良(日新)が加世田庄内大浦名の長田門を保泉寺(のちの日新寺、現加世田市)に寄進している(「島津日新寄進状」島津忠良系図
25. おおすみのくに【大隅国】鹿児島県
日本歴史地名大系
〔戦国大名島津氏〕大永六年(一五二六)から島津勝久の後継者をめぐり、薩州家島津実久と伊作家と相州家を兼ねた島津忠良とが直接抗争した(永禄一〇年「島津家物語―日我
26. おおなむちじんじゃ【大汝牟遅神社】鹿児島県:日置郡/吹上町/中原村
日本歴史地名大系
る。一〇月二五日の正祭には浜下りが行われ、武具装束の武者に守られた神輿行列があった。流鏑馬は島津忠良が加世田城を攻め落すことを祈願して行ったことに始まると伝えら
27. おくだりむら【尾下村】鹿児島県:日置郡/金峰町
日本歴史地名大系
「和名抄」阿多郡の項にみえる「田永郷」が正しくは「田伏郷」とすれば妥当と考えられる。永禄三年(一五六〇)には島津忠良が再興し自ら扁額を記したという(「多布施大明
28. かきもとじあと【柿本寺跡】鹿児島県:鹿児島市/鹿児島城下/下方限/平之馬場町
日本歴史地名大系
西田村窪田に典雄を移住させ、当寺を建立したと伝える。初め当地には虚空蔵堂があったが、本尊が破壊したので島津忠良所蔵の日秀作虚空蔵を安置させた。同像は島津貴久が護
29. かこいのはらいせき【栫ノ原遺跡】鹿児島県:加世田市/村原村
日本歴史地名大系
明応九年(一五〇〇)一一月一一日、島津忠興に攻められ苦境に陥った別府城の島津忠福を救うため、伊作久逸(島津忠良の祖父)は尾守ヶ城に攻め寄せたが、牟田之原で忠興方
30. 鹿児島(県)画像
日本大百科全書
禰寝(ねじめ)氏、北薩の渋谷一族などがその代表的なものである。14代勝久は伊作家(いざくけ)の島津忠良(ただよし)の援助を得ようとして忠良の長子貴久(たかひさ)
31. 鹿児島県史料[文献解題]鹿児島県
日本歴史地名大系
・和泉氏・佐多氏)・同三(新編島津氏世録支流系図のうち伊作氏、恒吉氏・石見氏、若松氏、西氏、島津忠良、亀山氏、島津忠将、島津忠興、島津尚久、島津久明・忠清・忠広
32. かささちょう【笠沙町】鹿児島県:川辺郡
日本歴史地名大系
片浦浦に津口番所、高崎山に異国船遠見番所があった。野間岳に祀られた野間権現宮(現野間神社)は、島津忠良の尊崇を受けたことから、祭礼は代々藩主の代参を迎えて加世田
33. かじきごう【加治木郷】鹿児島県:姶良郡/加治木町
日本歴史地名大系
が島津氏に背いたため、六月五日島津勝久は島津忠良に重貞を討たせた。その後、勝久は肝付兼演に加治木を与えた(以上「三国名勝図会」)。同年四月九日、島津忠良は帖佐院
34. かじきじょうあと【加治木城跡】鹿児島県:姶良郡/加治木町/段土村
日本歴史地名大系
に反し、島津忠良に攻められ当城で自刃した。天文三年(一五三四)溝辺から肝付兼演が当城に入った(以上「三国名勝図会」「島津国史」)。同六年兼演は薩州家島津実久方と
35. かじきちょう【加治木町】鹿児島県:姶良郡
日本歴史地名大系
当地を支配した。大永七年(一五二七)加治木城に拠る伊地知重貞が島津氏に背いたため、島津勝久は島津忠良に重貞を討たせ、のち勝久は肝付兼演に加治木を与えた。天文一七
36. 加世田
日本大百科全書
北西部には吹上浜(ふきあげはま)砂丘の一部がある。国道270号が南北に、県道が東西に走る。1539年(天文8)島津忠良(ただよし)(日新公(じっしんこう))の城
37. かせだ【加世田】
日本国語大辞典
鹿児島県、薩摩半島南西部の地名。戦国期、島津忠良(日新斎)の城下町。焼酎(しょうちゅう)、菓子の生産で知られる。昭和二九年(一九五四)市制。
38. かせだし【加世田市】鹿児島県
日本歴史地名大系
、また内紛もあって合戦が続いた。天文八年(一五三九)薩州家の実久方の拠点加世田城が、相州家の島津忠良(日新)によって攻略され、忠良は永禄一一年(一五六八)に没す
39. かせだじょう【加世田城】
国史大辞典
のちに薩州島津氏(島津久豊第二子用久の系統)の領するところとなり、八郎左衛門尉実久に至って、伊作・田布施領主島津忠良(日新斎)と対立し、本宗家守護職の相続をめぐ
40. かせだべっぷ【加世田別符】鹿児島県:加世田市
日本歴史地名大系
孫)は島津忠福(国久の弟)を加世田城に攻めた(以上「島津国史」)。この際、忠福救援に向かった島津忠良の祖父伊作久逸が「牟田の原」(現加世田市村原に比定される)で
41. かみこうどのむら【上神殿村】鹿児島県:日置郡/伊集院町
日本歴史地名大系
下谷口の諏訪明神(現南方神社)の祭礼に奉仕している。大永六年(一五二六)末頃から薩州家島津実久と相州家島津忠良・貴久は伊集院周辺で合戦を繰広げたが、天文五年(一
42. かみたにぐちむら【上谷口村】鹿児島県:日置郡/松元町
日本歴史地名大系
〇七石余。谷口城には戦国期島津実久の家臣肥後盛家が拠り、迫川を挟んだ陣の岡には実久と対抗した島津忠良・貴久方の陣所が置かれたという(上伊集院村郷土史稿)。山伏ヶ
43. かめがじょうあと【亀ヶ城跡】鹿児島県:出水市/武本村
日本歴史地名大系
は鹿児島も領して守護のようであったが(島津国史)、天文八年(一五三九)相州家と伊作家を兼ねる島津忠良に敗れ、実久の子義虎は戦国大名となる忠良・貴久父子に従った。
44. かわなべぐん【川辺郡】
国史大辞典
没落し、戦国時代には薩州家島津実久が川辺・加世田を領有していたが、天文八年(一五三九)伊作家島津忠良・島津本家十六代貴久の父子に攻略され、以後江戸時代は川辺・加
45. かわなべちょう【川辺町】鹿児島県:川辺郡
日本歴史地名大系
河辺郡は島津氏のうちの総州家から奥州家、そして薩州家の所領となったが、天文八年(一五三九)相州家の島津忠良(日新)が薩州家を攻めてその勢力を南薩から一掃し、三州
46. かわばたむら【川畑村】鹿児島県:加世田市
日本歴史地名大系
紀銘をもつ今泉寺鐘銘には、「大檀越日新在家菩薩」すなわち島津忠良(日新)の名が刻され、勧進衆として讃岐坊快義ら五名の名がみえる(島津忠良系図)。前掲再撰史では寺
47. かんがくきげん【漢学紀源】
国史大辞典
立てて記し、巻三は、桂門(桂庵門下)・儒俗(林家)について記し、次に薩摩の門流として、舜田・潤公(島津忠良)・月渚(月渚永乗)・一翁・黄友賢・南浦(文之玄昌)の
48. かんのんじあと【観音寺跡】鹿児島県:日置郡/金峰町/尾下村
日本歴史地名大系
嘉吉三年(一四四三)に島津忠国が当寺を浦之名から一手ヶ原に移し秀範を中興とし、天文三年(一五三四)に島津忠良が尾下村に移したとしている。本尊十一面観音は日羅自刻
49. きもつきぐん【肝属郡】鹿児島県
日本歴史地名大系
この時期鹿屋城(現鹿屋市)も兼興方で、肝付氏はしだいに肝付郡を中心に支配を広げた。兼興の子兼続(省釣)は島津忠良(日新)の娘を室とし、天文七年(一五三八)には高
50. きよみずじょうあと【清水城跡】鹿児島県:国分市/弟子丸村
日本歴史地名大系
本田氏の拠城として戦国期を迎えた。大勢力となった本田氏も、天文一七年(一五四八)三月董親のとき島津忠良・貴久方伊集院忠朗に当城を攻め落されたものの、城は安堵され
「島津忠良」の情報だけではなく、「島津忠良」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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