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  11. 立花宗茂

ジャパンナレッジで閲覧できる『立花宗茂』の辞書・事典・叢書別サンプルページ

国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書

国史大辞典
立花宗茂
たちばなむねしげ
 - 一六四二
安土桃山・江戸時代前期の武将。筑後国三潴郡柳川を居城とした立花家の初代大名。大友氏の一族吉弘氏から出て、筑後の高橋氏を継いだ高橋鎮種(紹運)の子。鎮種の同僚で立花城城督の戸次(べっき)鑑連(道雪)の娘〓千代の婿として戸次家に入った。はじめ宗虎と名乗ったというが管見の限りでは宗虎と名乗った文書はいずれも写しであり今のところ確証を得ない。統虎(むねとら)・正成・親成・尚政などと名乗り、宗茂の名乗りはもっとも新しい。官途は左近将監・侍従・飛騨守。天正十二年(一五八四)に道雪と実父紹運が協同して筑後へ遠征したときに立花城を守り、事無きを得た。同年秋道雪が筑後で病死したため、闇千代の代官として立花城督となり、紹運とともに大友氏の筑前支配の責任を担った。同十四年には紹運の守る岩屋城、弟統増(直次)のまもる宝満城を落とした島津勢が迫り、降伏を勧告したが、豊臣秀吉に立花の名字まで貰っているということを理由にこれを拒否して城を守り通し、秀吉勢の九州上陸で島津勢が撤退を始めると、筑後の星野氏が島津方として守る高鳥居城を攻め落とした。これらの功績により統虎は十五年六月に小早川隆景の与力として、筑後三池郡・山門郡・三潴郡・下妻郡を与えられた(三池郡は弟統増領)。養父道雪時代の立花城の軍事力は、道雪の先祖以来、あるいは道雪の時代からの被官、道雪の豊後時代からの寄揆(与力)、筑前立花城督就任に伴って大友氏から寄揆として付けられた立花城周辺の大友氏被官によって構成されていた。したがって統虎はこれらの構成メンバーを同質な「家臣」として編成し直さねばならなかった。しかし寄揆は統虎と本質的には対等な地位にある大友氏の被官だった過去があり、これを家臣化することにはかなりの困難が本来ならばあったはずである。統虎がこれに成功した理由はなによりも中央政権=豊臣政権によって大名として認定されたという事実である。統虎が島津氏から降伏を勧告された際に秀吉から立花の名字を貰ったからという理由で断わったのは、立花の名字すなわち立花城主、つまり大友氏の立花城の代官(城督)ではない独立権力者という立場を与えられたという認識に基づくものであろう。そしてこの立場は豊臣氏の軍勢が九州に上陸することによってさらに強化され、十五年五月にはそれまで筑前での寄揆であった薦野氏に立花の名字を与え、また文書の宛所の位置も統虎が秀吉から受け取る文書の宛所の位置に替え、秀吉と統虎の関係をそのまま旧寄揆との関係に当てはめた(のちに文書形式は変更)。下筑後を受け取ると山門郡の柳川を居城とし、十七年には領内を検地して御前帳の提出に備えた。この時の御前帳高(秀吉への指し出し高)は計十万石、その内高橋領一万石であったらしい。文禄元年(一五九二)には秀吉の動員に従って朝鮮に侵入した。朝鮮では碧蹄館の戦で島津氏らと小勢で明の大軍を破り、勇名を轟かした。慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦では直接参戦はしなかったが西軍に属し、敗戦後柳川に帰って佐賀の鍋島氏、肥後の加藤氏を相手に戦ったが、結局加藤清正の勧告を受け入れて降参し、主な家臣を加藤清正に預けて浪人。江戸へ赴いた。同八年に徳川家康・同秀忠に召し出されて陸奥国棚倉で一万石を与えられて大名に取り立てられ、同十五年には陸奥・上総で一万石を加増され、二度の大坂の陣には徳川方として参戦した。元和六年(一六二〇)十一月に下筑後三潴・下妻・山門で十万九千六百石余を与えられ、再び柳川へ戻った。その後将軍秀忠の相伴衆となる。寛永十四年(一六三七)に隠居、弟直次の子忠茂を養子として跡を譲った。同十五年島原の乱の際は、隠居の身ながら将軍家光に命ぜられて島原に赴いた。同十九年十一月二十五日死亡。法名大円院松隠宗茂。墓は東京都練馬区桜台の広徳寺別院にある。
(木村 忠夫)


立花宗茂花押
タチバナムネシゲカオウ
立花宗茂花押



立花宗茂印
タチバナムネシゲイン
立花宗茂印



改訂新版 世界大百科事典
立花宗茂
たちばなむねしげ
1568-1642(永禄11-寛永19)

豊臣期・江戸初期の武将。筑後柳河藩主。初名は宗虎,統虎。剃髪後,立斎と号した。父は高橋紹運。立花鑑連(あきつら)(戸次道雪(べつきどうせつ))の養子となり,1585年(天正13)立花城主。87年豊臣秀吉の九州平定に功をたて,筑後山門(やまと)郡等4郡13万2000石を与えられ柳河城主。朝鮮の役では碧蹄館の戦で名を挙げた。関ヶ原の戦では西軍に属したため所領没収,のち奥州棚倉に移封されたが,大坂の陣の功で1620年(元和6)旧領5郡10万9600石に復領した。
[森山 恒雄]



日本大百科全書(ニッポニカ)
立花宗茂
たちばなむねしげ
[1569―1642]

安土 (あづち)桃山時代~江戸初期の大名。筑後 (ちくご)(福岡県)柳川(柳河) (やながわ)藩藩祖。高橋紹運 (じょううん)長男。永禄 (えいろく)12年豊後 (ぶんご)(大分県)に生まれる。1580年(天正8)立花鑑連 (あきつら)の養子となり、85年家督を継いだ。86年九州の諸大名に先だって豊臣 (とよとみ)秀吉に服し、翌年の九州征伐には先鋒 (せんぽう)を務めた。その戦功により柳川13万石余を与えられ、従四位下侍従 (じゅしいげじじゅう)に叙任、左近将監 (さこんしょうげん)と称した。秀吉の小田原攻略、文禄 (ぶんろく)・慶長 (けいちょう)の役に参戦。関ヶ原の戦いで西軍に属して、改易されたが、1603年(慶長8)徳川秀忠 (ひでただ)に召し出されて、陸奥棚倉 (むつたなぐら)(福島県棚倉町)に1万石を与えられた。1610年3万石に加増。大坂冬・夏の陣に参戦。20年(元和6)柳川城主となっていた田中氏の絶家・改易で、ふたたび柳川周辺に10万9000石余を与えられ、旧領のほとんどを回復した。22年飛騨守 (ひだのかみ)。37年(寛永14)隠居。38年島原・天草一揆 (いっき)の鎮圧に参加。その後剃髪 (ていはつ)して立斎 (りゅうさい)と号した。室は立花鑑連娘、のち離婚して家臣矢島秀行 (やじまひでゆき)娘を継室とし、その没後葉室頼宣 (はむろよりのぶ)娘をめとった。

[荒野泰典]

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検索コンテンツ
1. 立花宗茂
日本大百科全書
安土あづち桃山時代~江戸初期の大名。筑後ちくご(福岡県)柳川(柳河)やながわ藩藩祖。高橋紹運じょううん長男。永禄えいろく12年豊後ぶんご(大分県)に生まれる。1
2. 立花宗茂
世界大百科事典
1568-1642(永禄11-寛永19) 豊臣期・江戸初期の武将。筑後柳河藩主。初名は宗虎,統虎。剃髪後,立斎と号した。父は高橋紹運。立花鑑連(あきつら)(戸次
3. たちばな‐むねしげ【立花宗茂】
日本国語大辞典
安土桃山・江戸初期の武将。筑前国(福岡県)の人。初名統虎(むねとら)。剃髪して立斎という。立花城主戸次(べつき)鑑連(道雪)の養子。島津氏の豊後侵入を防いで以来
4. たちばなむねしげ【立花宗茂】画像
国史大辞典
?―一六四二 安土桃山・江戸時代前期の武将。筑後国三潴郡柳川を居城とした立花家の初代大名。大友氏の一族吉弘氏から出て、筑後の高橋氏を継いだ高橋鎮種(紹運)の子
5. たちばな-むねしげ【立花宗茂】
日本人名大辞典
1569−1643* 織豊-江戸時代前期の大名。永禄(えいろく)12年8月13日生まれ。高橋紹運の長男。戸次(べっき)(立花)鑑連(あきつら)の養子。豊臣秀吉の
6. 立花宗茂[文献目録]
日本人物文献目録
【図書】:0件 【逐次刊行物】:4件 『三川雑記抄 軍人立志篇』富村登『立花宗茂事蹟考』岡茂政『立花宗茂の逸事』無名氏『碧蹄館と立花宗茂』名越珂次郎
7. 立花宗茂印[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
8. 立花宗茂花押[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
9. たちばなむねしげちょうせんき【立花宗茂朝鮮記】
国史大辞典
文禄の役における立花宗茂勢の動向をまとめた軍記。一巻。別名『立花朝鮮記』『天野源右衛門朝鮮軍物語』『朝鮮南大門合戦記』。特に碧蹄館の戦で立花勢が明提督李如松の軍
10. 立花宗茂感状写(著作ID:362765)
新日本古典籍データベース
たちばなむねしげかんじょううつし 立花飛騨守殿御感状之写 文書 
11. 立花宗茂筆記(著作ID:362776)
新日本古典籍データベース
たちばなむねしげひっき 立花宗茂(たちばなむねしげ) 記録 
12. ローマ字印[図版]画像
国史大辞典
HIS バリニァーノ印 「HIS FRCO」 大友義鎮印 「FRCO」 大友義鎮印 「fida」 立花宗茂印 「Tada toxi」 細川忠利印 「tada u
13. 立花朝鮮記(著作ID:362732)
新日本古典籍データベース
たちばなちょうせんき 天野源右衛門朝鮮軍物語 天野源右衛門物語 立花宗茂朝鮮記 朝鮮軍物語 朝鮮南大門合戦記 天野貞成(あまのさだしげ) 戦記 
14. あさいむら【朝日村】福岡県:朝倉郡/夜須町
日本歴史地名大系
たとき壊された(続風土記)。村内北方に村田出羽守吉次(黒田二十四騎の一人)の墓や、木村備前(立花宗茂実父高橋紹運家士)の墓がある(続風土記附録・村田氏世譜)。庄
15. あらひらじようあと【安楽平城跡】福岡県:福岡市/早良区/重留村
日本歴史地名大系
統房は立花城(現新宮町)へ退いた(続風土記拾遺)。なお同一四年島津氏が立花城を攻撃した際、戸次統虎(のち立花宗茂)に対し下城したならば「早良之郡ニ荒平と申名城」
16. ありあけかい【有明海】福岡県:総論
日本歴史地名大系
近年ではタイラギをはじめとする貝類がとれなくなるなど、有明海の汚濁が進んでいる。近世の干拓は、立花宗茂の改易後筑後一国の国主となった田中吉政の時代から盛んに行わ
17. あんこつほ【安骨浦】
国史大辞典
朝鮮政府は日本戦船の遮截殲滅を策し、統制使元均は釜山襲撃の計を以て、六月十九日まずこの地を衝いたが、立花宗茂の守兵に阻まれ、さらに島津義弘・高橋統増の軍と加徳島
18. いしかわ-よりあき【石川頼明】
日本人名大辞典
1000石をあたえられ豊臣秀吉につかえる。のち加増され1万2000石を領する。関ケ原の戦いでは石田方の立花宗茂(むねしげ)に属し,大津城を攻めたが敗北。慶長5年
19. いしだみつなり【石田三成】画像
国史大辞典
三成の誘いに応じて挙兵した諸大名は、毛利輝元・小早川秀秋・吉川広家・宇喜多秀家・島津義弘・鍋島勝茂・伊東祐兵・立花宗茂・長宗我部盛親・小西行長・増田長盛・長束正
20. いなりまち【稲荷町】福岡県:柳川市/柳川城下
日本歴史地名大系
初め光円寺と号していた。蒲池氏滅亡後廃寺となったが、岩屋城(現太宰府市)で戦死した宝珠山光国を弔うため、立花宗茂が光国の子了俊へ柳川城三の丸に寺地を与え再興させ
21. いのかみむら【伊野上村】福島県:東白川郡/棚倉町
日本歴史地名大系
配した。慶長七年(一六〇二)佐竹氏の移封により翌八年幕府領、同年一〇月から棚倉藩領。同藩初代藩主立花宗茂は築城せず自身の居住屋敷で支配した。同年の陸奥国南郡赤館
22. いまこがむら【今古賀村】福岡県:山門郡/三橋町
日本歴史地名大系
。同城は「南筑明覧」には天正年間(一五七三―九二)から慶長五年(一六〇〇)まで柳川の支城で、立花宗茂の臣立花右衛門大夫が守っていたとされる。口伝では末松伊豆守の
23. いわやじようあと【岩屋城跡】福岡県:太宰府市/観世音寺村
日本歴史地名大系
日条など)。この岩屋城合戦では島津方も多くの死傷者を出している。本丸跡に紹運の長男統虎(のち立花宗茂)の子孫にあたる筑後柳川藩主立花氏が建立した「嗚呼壮烈岩屋城
24. うちやまはん【内山藩】
国史大辞典
筑後国(福岡県)にあった藩。天正十五年(一五八七)豊臣秀吉は九州征伐後、立花宗茂を筑後柳川に封じ、筑後下(しも)四郡十三万二千石を領させ、さらに三池郡内三十四
25. えいこうじ【永興寺】福岡県:山門郡/瀬高町/大塚村
日本歴史地名大系
慶長六年(一六〇一)尊隆により中興され、田中吉政から寺領六〇石を寄進され、次いで元和七年(一六二一)に立花宗茂からも寺領を寄進されたという。延宝九年(一六八一)
26. えたむら【江田村】熊本県:玉名郡/菊水町
日本歴史地名大系
田左衛門次郎分として「江田村田地弐拾町江田太郎跡」がみえる。天正一四年(一五八六)八月二日、立花宗茂を攻めた帰路に上井覚兼は島津義弘の使僧と当地で会っている(「
27. おうしゆうこうじ【奥州小路】福岡県:柳川市/柳川城下
日本歴史地名大系
本小路南方の東側に位置する武家地。北は堀を隔てて袋小路、東は土居と堀を隔てて江曲村(現三橋町)。小路名は立花宗茂が奥州棚倉(現福島県棚倉町)で召抱えた家臣を住ま
28. おおかわし【大川市】福岡県
日本歴史地名大系
よる船大工の技術を生かした指物造りに始まると伝える。〔近世〕天正一五年豊臣秀吉の九州仕置後は立花宗茂領となり、家臣の由布美作が酒見城の城番となった。関ヶ原の戦後
29. おおのじまむら【大野島村】福岡県:大川市
日本歴史地名大系
又曰向野」とあるように、地形から釜蓋島あるいは向野とよばれていた。文禄年間(一五九二―九六)立花宗茂によって開拓が始まり、のち津村氏が干拓したという。延宝六年(
30. おおむたし【大牟田市】福岡県
日本歴史地名大系
の関ヶ原合戦で大坂方に属した立花宗茂・高橋統増は所領を没収され、代わって田中吉政が筑後一国の領主となり、柳川城に入部した。元和六年(一六二〇)の田中氏除封後立花
31. おおやこうじ【大屋小路】福岡県:柳川市/柳川城下
日本歴史地名大系
隔てて袋小路。小路名は、当地に屋敷を構えた家臣大屋氏にちなむ。大屋氏は元来織田家に仕えていたが、立花宗茂が陸奥棚倉(現福島県棚倉町)にいた頃に召出され家臣となっ
32. おだむら【小田村】福岡県:山門郡/瀬高町
日本歴史地名大系
和紙の生産地で、溝口村に和紙製法を伝えた日源とともに越前福井から当地に移住した矢賀部新左衛門が、元和六年に立花宗茂の知遇を受けて創業したと伝える(元禄二年「従前
33. おはな【御花】福岡県:柳川市/柳川城下/外小路
日本歴史地名大系
は足利尊氏から立花貞載へ与えられたものと伝え、国指定重要文化財の銘長光の剣は実父高橋紹運から立花宗茂に与えられたものという。
34. おぼえ‐がき【覚書】
日本国語大辞典
之候」*東遷基業〔1732〕二一・宗茂与如水清正和睦の事「如水清正相談し立花宗茂に下城を勧むべしとて〈略〉覚書を出し授く」*妻〔1908~09〕〈田山花袋〉二二
35. かいぜんじ【開善寺】福岡県:北九州市(旧豊前域)/小倉北区/小倉城下/馬借町
日本歴史地名大系
二年「知行帳」県史資料九)。寛永一五年島原の乱では松平信綱が当寺に宿泊、細川忠利・鍋島勝茂・立花宗茂・小笠原長次ら大名一六人が参集して、上意が申渡された。黄檗宗
36. 家訓集 178ページ
東洋文庫
「参着」は到着すること。以下の文中の「鍋嶋、立花」は肥前佐賀城主の鍋島直茂と筑後 柳川城主の立花宗茂のことをさす。(7) 「孔明」は諸葛孔明のこと。中国三国時代
37. かじやまち【鍛冶屋町】福岡県:柳川市/柳川城下
日本歴史地名大系
通りの中ほどより西に延びる道があり、ここを鬼童口とも(柳河明証図会)、鬼童町ともいう(寛政三年町小路絵図)。立花宗茂が刀鍛冶下坂兼先を召抱えて当地に住まわせ、鍛
38. かたはらまち【片原町】福岡県:柳川市/柳川城下
日本歴史地名大系
道幅は三間余、長さは四三間余、瑞松院門前は長さ二九間余(柳川惣町図)。元和六年(一六二〇)の立花宗茂の柳川再封の際、かねてから宗茂に通じていた浪人坂巻平兵衛(宗
39. 甲子夜話 3 177ページ
東洋文庫
甲子夜話四十四〔一〕 立花宗茂の父は〔名忘る。道雪斎か〕足疾にて馬上ならず、行歩も不自由なりしゅゑ、出陣のときは台に乗り、士卒数人に舁き出させ、戦場に及べば、持
40. 甲子夜話 4 354ページ
東洋文庫
〔西〕 又一小冊を善庵より借る。『南大門合戦記』と標せり。南大門とは朝鮮王城の門なり。この記は立花宗茂の内なりし天野源右衛門と云しが、目撃の事実を録せしなり。こ
41. 甲子夜話 4 362ページ
東洋文庫
は帰られたり。扱都より打出たる軍勢、其日午の時ばかりに隆景を先として押来る。日本惣勢の先陣は立花宗茂。二陣は小早川隆景。三障は浮田秀家。夫より段々に備だり。敵の
42. 甲子夜話三篇 3 137ページ
東洋文庫
海4立花宗茂、有馬晴信、大村嘉前、松浦鎮信、守レ焉。自二南海一距二唐島一二十余里間、拠二要害一列二戦艦岨自二唐島一十里造北、為二竹島4鍋嶋直茂守レ焉。自二竹島一
43. かまちじよう【蒲池城】福岡県:柳川市/蒲池村
日本歴史地名大系
ており、柳川城の北の支えとして機能していたようである(「小野和泉他二名覚書」同文書)。同年の立花宗茂改易後筑後へ入封した田中吉政の代に廃城となったようである。
44. かまちむら【蒲池村】福岡県:柳川市
日本歴史地名大系
川丹波他二名連署知行村付状」家長家文書)、元和九年には立花宗茂が土器師彦三郎(家長方親)に蒲池村のうち二一石余を宛行っている(「立花宗茂知行宛行状」同文書)。享
45. 上妻氏
世界大百科事典
のばした豊後大友氏の知遇をうけ,酒井田氏,甘木氏などと上妻郡一揆衆を構成した。文禄年間にいたり立花宗茂の配下に入り,1622年(元和8)に三池郡隈村に100石を
46. 看羊録 朝鮮儒者の日本抑留記 38ページ
東洋文庫
〈舟で務安に至った〉毛利壱岐守〔勝信〕毛利民部大輔〔高政〕〈舟で務安に至った〉湯川立橘左根(立花宗茂)藤堂佐渡守〔高虎〕〈舟で務安に至った〉寺沢志摩守正成
47. 看羊録 朝鮮儒者の日本抑留記 41ページ
東洋文庫
羽柴筑前侍従(小早川隆景)  羽柴久留米侍従(毛利秀包)  羽柴柳川侍従(立花宗茂)  高橋主膳〔三郎直次〕  筑紫上野介〔広門〕  安芸宰相(毛利輝元)  対
48. 看羊録 朝鮮儒者の日本抑留記 127ページ
東洋文庫
などのことを主管している。平戸島は、 松浦法印〔鎮信〕がこれを食邑としている。楊川立橘左根(立花宗茂)なる者も、やはり肥前の一隅 の地を食邑としている。〔領〕地
49. きたおおむたむら【北大牟田村】福岡県:大牟田市
日本歴史地名大系
旧高旧領取調帳でも北大牟田村で高二五七石余。元和八年立花宗茂は大牟田村のうち三〇石を良清寺(宗茂夫人菩提寺、現柳川市)に寄進した(「立花宗茂寄進状」立花家文書)
50. きただむら【北田村】福岡県:八女郡/立花町
日本歴史地名大系
組支配の鉄砲組)は万延二年(一八六一)に一〇人いた(「御山筒誓紙血判帳」立花町史)。柳川藩主立花宗茂が将来した陶工が男子名で男ノ子焼を作ったとされる(同書)。文
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一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
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徽宗(世界大百科事典)
中国,北宋第8代の皇帝。在位1100-25年。姓名は趙佶(ちようきつ)。第6代皇帝神宗の第11子。母はその侍御陳氏。兄の第7代皇帝哲宗の病死後,向太后(しようたいこう)(神宗の皇后)の支持をうけて帝位についた。太后摂政中は,新(革新政策)
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