弥生(やよい)文化中・後期に確認される倭(わ)の女王国。『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』の刊本には邪馬壹国とみえるが、定説どおり邪馬台()国とするのが妥当。邪馬台は正式には「やまと」と読むが、大和(やまと)王権と区別するために一般には「やまたい」と呼称している。
邪馬台国の所在地に関しては古くから論争があり、いまだに定まるところがない。それは、史料の『魏志倭人伝』(正式には『三国志』魏書倭人条)の記載が所在地を確定するには内容的に不十分だからとされている。しかし、この問題は、日本古代国家の起源・性格、日本国土の統一時期、大和王権とのかかわり、記紀神話・伝承との絡みなど日本古代史研究上、そして国民の関心上、重要な位置を占めている。現在、学説の二大潮流として邪馬台国畿内(きない)説と九州説とがある。『魏志倭人伝』には帯方(たいほう)郡から邪馬台国への行程記事があるが、そのまま行程をとると九州のはるか南方の海上に邪馬台国の位置が求められるという矛盾のなかで、畿内の大和にその所在を求める論者は行程方位を変更・解釈し、九州論者は山門(やまと)・山戸(やまと)などを前提に距離・日数を短縮・理解し、持論を展開してきた。最近では、記紀神話・伝承の世界と邪馬台国を直結的に解釈する研究が顕在化し、市民権を得つつある兆候のなかで、種々雑多な見解が輩出し、邪馬台国研究の全体を視野に入れることは不可能となってきている。第二次世界大戦における敗北まで、邪馬台国の存在は国民に知らされなかったことをかんがみると、その存在自体が皇国史観と相いれないといえる。タブーであった邪馬台国が自由に論議される情況は歓迎されるべきものであるが、厳しい研究の史学史的総括が必要になってきている。また位置比定のためには、文献批判をさらに緻密(ちみつ)化するとともに大局的把握をつねに意図する姿勢をもたねばならない。弥生時代から古墳時代への移行期の墳墓研究、集落研究の成果の吸収、青銅器文化の評価、記紀批判のさらなる進展、神話学への接近、国語学の成果の尊重(上代特殊仮名遣いの甲類・乙類)などの多面的・複合的研究がまたれる。さらに、最近注目されている地域国家論、日本海文化論、そして大量の銅剣などが出土した荒神谷(こうじんだに)遺跡(島根県)なども視野に入れるべきであろう。
倭国はもともと男子を王としていたが、2世紀後半の倭の大乱の混迷が続くなかで邪馬台国の一女子卑弥呼(ひみこ)が諸国によって「共立」され、倭の女王に就任することでまとまったという。彼女が倭王に「共立」された背景は、彼女自身のシャーマンとしての能力が「能(よ)く衆を惑わす」というようにきわめて優れていたことと、彼女の所属していた邪馬台国が倭の30余国のなかでもっとも巨大であり(7万余戸)、政治的組織(官制)が整っていたからであろう。邪馬台国の卑弥呼は武力で諸国を制圧し、諸国に君臨したのではなく、逆に「共立」されたのであるから、その当初は政権の基盤は弱いものであったと推測できる。
卑弥呼は神に仕えるため(「鬼道(きどう)」を事とし)に宮殿にこもり、生涯独身を通し(神の妻)、婢(ひ)1000人をはべらせ、男子1人を介して辞を伝え、男弟をして政治をとらしめたという。しかし、卑弥呼はシャーマンとして神権的政治を展開しつつ、一方において中国魏王朝に倭の女王として朝貢し、冊封(さくほう)体制という外部の秩序のなかで国内の統治を強化するというもう一つの顔をもっていたことを忘れてはならない。卑弥呼に関して「卑弥呼はだれか」という問題関心があり、神功(じんぐう)皇后、天照大神(あまてらすおおみかみ)、倭(やまと)姫、倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)という説が提出されている。「卑弥呼はだれか」という発想が皇室系譜に結び付けるという主旨になっていることに気がつく必要がある。卑弥呼は卑弥呼であり、必要なのはその後嗣(こうし)壹与(いよ)も含めて、その史的性格などを多面的に追究することにある。
邪馬台国を頂点とする倭人社会における身分としては「大人(たいじん)」「下戸(げこ)」「奴婢(ぬひ)」の3層が析出できる。「大人」は共同体の首長層と考えられ、文身(ぶんしん)(入墨(いれずみ))により特権的地位を示し、祭祀(さいし)を主導し、4~5婦を擁し、支配層を形成していた。当時の人々は「門戸」(家族)、「宗族」を構成し、竪穴(たてあな)住居に生活し、農業(禾稲(かとう)など)、狩猟採集、漁労に従事していた。生産などの事を決するには、卜占(ぼくせん)を行い、吉凶を占っていたという。
邪馬台国は30余の国々、すなわち、対馬(つしま)、一支(いき)、末盧(まつろ)、伊都(いと)、奴(な)、不弥(ふみ)、投馬(とうま)、斯馬(しま)、巳百支(しはき)、伊邪(いや)、都支(とき)、弥奴(みな)、好古都(ここと)、不呼(ふこ)、姐奴(そな)、対蘇(つそ)、蘇奴(そな)、呼邑(こお)、華奴蘇奴(かなそな)、鬼(き)、為吾(いご)、鬼奴(きな)、邪馬(やま)、躬臣(くし)、巴利(はり)、支惟(きい)、烏奴(うな)、奴(な)の諸国の頂点にたつ国であり、もっとも官制が整っていた。卑弥呼のもとには男弟がおり、官として伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)があり、伊都(いと)には特別に一大率(いちだいそつ)を置き、また市を監督する大倭(たいわ)を設置したという。さらに、いくつかの国に共通している卑狗(ひこ)・卑奴母離(ひなもり)も邪馬台国の派遣官的存在である可能性が大である。以上の官制を通して、連座制を伴う法が運用され、租賦制が施行されたらしい。卑弥呼の都は「宮室(きゅうしつ)、樓観(ろうかん)、城柵(じょうさく)」によって構成され、その周囲はつねに兵が守衛するという厳しさであったという。邪馬台国に関して部族的性格の強い小国家連合とする見解、初期的専制国家とする見解があるが、その両面を発展的に把握することも可能である。所在論とも絡めて今後とも多面的研究が必要であり、大和王権の国造(くにのみやつこ)制・伴造(とものみやつこ)制とのかかわりにも目を向ける必要がある。
卑弥呼は国内的権力強化、そして狗奴(くな)国との抗争とのかかわりのなかで中国の魏王朝に朝貢し、その冊封体制の秩序のなかで自己の地位の強化を図っている。西暦239年(景初3)卑弥呼は大夫難升米(なしめ)らを魏の都洛陽(らくよう)に派遣し、生口(せいこう)と斑布(はんぷ)を献上している。魏の明帝は卑弥呼を「親魏倭王」に任命し、金印紫綬(しじゅ)、銅鏡などを下賜し、明帝が背後にあることを知らしめよといったという。243年(正始4)には大夫伊声耆(いせいき)らを派遣し、247年には、狗奴国との対立のなかで載斯烏越(さしうえつ)を帯方郡に派遣し、戦況を報告せしめている。その結果、中国皇帝の詔書・黄幢(こうどう)(軍旗)の賜与を受けている。卑弥呼の死後、宗女の壹与は掖邪狗(えきやく)を魏に派遣し、卑弥呼の外交を継承した。また266年(泰始2)に西晋(せいしん)の武帝のもとに遣使したのも壹与であろうと考えられている。
卑弥呼は狗奴国との戦争の渦中に死んだという。その後、男王がたったが、諸国は離反し、国中は乱れ、当時1000余人が死んだという。そういうなかで卑弥呼の宗女、年13なる壹与が擁立され、ふたたび倭国は治まった。その壹与を女王とする倭国がその後どうなったかは、266年の遣使以後まったく不明である。いわゆる「空白の4世紀」の霧のなかに姿を消していくのである。
邪馬台国畿内説にたてば、邪馬台国はそのまま大和王権へと移行・発展していくと考えるのが普通である。一方、九州説では種々の見解に分かれる。神武(じんむ)東征伝説を史実、史実の反映と考え、邪馬台国が東遷して大和王権となったとする邪馬台国東遷説をはじめとし、投馬国東遷説、騎馬民族説、ネオ騎馬民族説などがある。もう一つは逆に、大和王権によって邪馬台国が滅亡したとする見解である。位置論・政治形態論と絡み、最終的結論は彼岸(ひがん)のかなたにあるが、日本古代国家形成期の要(かなめ)となる問題であり、ないがしろにはできない。東アジア世界のなかで把握するという視点を堅持し、記紀批判の重要性を認識しつつ、考古学の成果を吸収していくことが解決への道であろう。
2~3世紀の日本列島の中にあった国。その所在地は,北部九州とも畿内大和ともいわれている。《魏志倭人伝》の版本に〈邪馬壹国〉とあるので,〈邪馬壱(壹)国(やまいちこく)〉とするのが正しいとする説があるが,中国の古い諸書に引用された《魏志》には〈邪馬臺(台)国〉とあるので,〈邪馬壱国〉説は疑わしい。《魏志倭人伝》によると,邪馬台国は,女王の都する所で,官に伊支馬(いきま),弥馬升(みましよう),弥馬獲支(みまかくき),奴佳鞮(ぬかてい)の四つがあり,7万余戸の人口があったという。この国の王は,2世紀末に近いころに倭国内の諸小国の首長によって共立された女性の卑弥呼(ひみこ)であった。女王以前には男王が立てられていたというが,当時の邪馬台国の王家は,卑弥呼が生まれた家の近親者によって王位が継承されていたということはなかったであろう。
邪馬台国は,対馬国,一支国,末盧(まつら)国,伊都(いと)国,奴(な)国,不弥(ふみ)国,投馬(つま)国,斯馬国など二十数ヵ国を統属下においていたが,倭国の中には,狗奴(くな)国のような邪馬台国連合の傘下に属していない国もあった。邪馬台国には女王の卑弥呼が君臨していたので,《魏志倭人伝》は,邪馬台国を〈女王国〉とも呼称している。女王卑弥呼の下には,政治を助けていた弟がおり,多数の奴婢を抱え,伊支馬以下の四つの官が備わり,宮室・楼観・城柵が立派に造られ,護衛の兵士も存在し,さらにその社会は,大人・下戸・奴婢の身分から成り立っていて,古代国家の様相がみとめられる。しかし,その反面,女王卑弥呼は,王となってから人々の前にその姿をあらわすこともなく,飲食をとるのにも,ただ1人の男性の手にゆだねられていたことは,原始的国家の王に多い〈幽閉された王〉の姿をほうふつさせている。こうした邪馬台国の複雑さは,原始社会から古代社会へと移り変わる社会に生じる古さと新しさとを具有した原始的古代国家であったことによるのである。
→弥生文化
Country in the Japanese islands, visited by Chinese envoys from the year 240. It was described in the Chinese book Sanguo zhi (Sankuo chih; History of the Three Kingdoms), written by Chen Shou (Ch'en Shou; 233−297) toward the end of the 3rd century. There are a few earlier, fragmentary references to Japan in the Chinese histories, but this is the oldest extensive description of Japan in any language. Its rich lode of information on the 3rd-century Wa people, as the Chinese called the Japanese, and their fascinating queen,
Rather than direct knowledge of Japan, Chen Shou apparently depended on archival records and earlier historical treatments of China's short-lived Wei dynasty (220−265), the northernmost of the three kingdoms into which China was divided for much of the 3rd century. Chen's history of Wei, the
Chen's account includes important information on the population and official titles in the key communities, an extensive statement on the manners and customs of the land of the Wa, and a brief section on administrative and social structure. Next there is a substantial statement on Queen Himiko, the character of her rule, and her close diplomatic relations with Wei from 239 until her death a short time after 247. The account then concludes with some details of the succession struggle that followed her burial.
The interesting ethnographic description of the Wa shows a sharply stratified society, with social and regional distinctions indicated by tattoo markings. Although living quarters were segregated according to age and sex, the mixing of the sexes in public activity appeared noteworthy to the Chinese observers. There was an intense concern with pollution and purification.
There appears to have been considerable commerce, both between Wa communities and with Korean and Chinese towns on the peninsula. There was a revenue office for the collection of various levies in grain and other products. Each community had markets under the supervision of a senior official based in Ito (
Queen Himiko was a personage of considerable mystery. According to the Chinese observers, the Wa had once been ruled by a king, but at some time during the 160s and 170s there had been a civil war that ended with the accession of Himiko. She devoted herself completely to religious affairs and was able to “delude the crowd.” She was rarely seen but was assisted by her younger brother, who exercised power for her. If she was between 10 and 15 at her accession, she might have been in her nineties when she died in the late 240s.
Most readers have assumed that the capital, Yamatai, with its reported 70,000 households, must have been somewhere in the central or southern part of Kyūshū. However, the oldest Japanese historical works, the
The first scholar to depart from the view of the chronicles was
But this created geopolitical problems. It was hard to imagine that a regime so far removed from the major areas of Kyūshū life could have dominated those areas, which, as history, tradition, and (later) archaeology showed, were in the northwest. Moreover, the Wei zhi located the hostile country of Kunu south of Yamatai, but there was nothing south of Satsuma. In 1910
Shiratori's treatment put the Kyūshū theory on much firmer philological and historical foundations than the earlier proponents had achieved. Yet, just at the time of his epochal article in 1910,
From the appearance of the articles by Shiratori and Naitō in 1910, no fundamentally new theory arose, only new arguments for the old theories. By the 1960s, most minds had been made up, and Kinai and Kyūshū theorists often seemed to be speaking only to their respective partisans. Moreover, the mass media became attracted to the issue.
But the localization of Yamatai is not a mere game, as it has sometimes seemed. If the growth and formation of the Japanese state is to be understood, it is of fundamental importance to know where Yamatai was. And yet, given the great differences in the two principal theories, and the determination and zeal with which they are advocated by very serious scholars, it is difficult to imagine that there will be an early solution.
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