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邪馬台国

ジャパンナレッジで閲覧できる『邪馬台国』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・Encyclopedia of Japanのサンプルページ

国史大辞典
邪馬台国
やまたいこく
二、三世紀の日本列島内にあった小国の一つで、対馬国(のちの対馬島上県・下県郡、現在の長崎県上県・下県郡)以下二十八の小国を統属していた倭国連合の盟主国。二世紀末から三世紀前半まで女王卑弥呼が都としていた国。この国への道程は『魏志』倭人伝によれば諸韓国の一つ狗邪韓国(弁辰狗邪国・金官国・駕洛国ともいい、現在の大韓民国慶尚南道金海郡)から千余里渡海して対馬国に至り、また南へ千余里渡海して一大(支)国(のちの壱岐島壱伎郡・石田郡、現在の長崎県壱岐郡)に至り、さらに千余里渡海して末盧国(のちの肥前国松浦郡、現在の長崎県北松浦・南松浦郡、佐賀県東松浦・西松浦郡一帯、その中心は佐賀県唐津市付近か)に至る。そこから東南へ五百里陸行して伊都国(のちの筑前国怡土郡、現在の福岡県糸島郡前原町を中心とする一帯)に至り、また東南の奴国(のちの筑前国那珂郡、現在の福岡県福岡市・春日市一帯)へは百里、東行して不弥国(のちの筑前国穂波郡穂波郷、現在の福岡県飯塚市・嘉穂郡一帯、もしくは筑前国宇美、現在の福岡県粕屋郡宇美町)へは百里、南の投馬国(のちの筑後国上妻・下妻郡、現在の福岡県八女市・八女郡一帯のほか出雲説・但馬説など)へは水行二十日、南の邪馬台国へは水行十日、陸行一月で到達し、また帯方郡からは一万二千余里の地点にあったという。この国には伊支馬・弥馬升・弥馬獲支・奴佳〓の四つの官があり、魏への派遣官は、みな大夫と称していた。七万余戸の人口があり、国の以北にある諸国を検察するため伊都国に常駐していた一大率(あるいは大率)という官が特置されており、諸国はこれを畏憚していたと伝える。さらに国中には古代中国の地方官である刺史に類する官(あるいは一大率のこととみなされている)があって、魏の都洛陽や帯方郡さらに諸韓国に使者を派遣する場合、もしくは帯方郡の使者が倭国を来訪した際に、すべて船着場で捜査し、文書や物資を女王のもとに伝送するのに誤りがないようにしていたという。また国々には市があって物資の交換取引を監督する大倭と呼ばれる役人がいた。この国の王は、もと男子であったが、二世紀後半に倭国が乱れ戦いがつづいた後に卑弥呼が共立されて女王となり、宮室・楼観・城柵が厳重に設けられ、兵士が武器を手にして守衛していた。女王卑弥呼の死の直前、従来より不和であった狗奴国(のちの肥後国球磨郡、現在の熊本県球磨郡一帯か)と戦い、戦乱の最中に卑弥呼は世を去ったらしい。この後、男王が立てられたが、国中は服さないで戦乱となり、千余人が死んだ。そこで卑弥呼の宗女で時に十三歳の壱与(台与とも)を王に立てると国中は安定をとりもどしたという。大人・下戸の階層があり、また婢・生口など下層の階級の者も存在していた。婢は王などに召し使われ、また殉死させられていたらしい。生口は朝貢物として魏の皇帝に贈られていた。さらに持衰(じさい)と呼ばれ航海の安全を図るため精進潔斎をしてすごす特殊な職能者もいた。尊卑の差序が明確で顔面・身体にほどこした入れ墨で尊卑の差をあらわし、身分秩序は厳然としており、軽罪の者は妻子を没し、重罪を犯した者は、その門戸・宗族を没するという法秩序も整っていた。租税を納める制度も存在し、軍事物資を貯えたらしい邸閣も備わっていた。倭人の男子は冠をかぶらず髪を露出し、木緜(もくめん)を頭に巻き、ほとんど縫っていない横幅の布を身体にまとい、婦人は髪を延びるままにして束ね、布の中央に穴をあけ、頭をその穴にとおして着る衣服(貫頭衣)を着用し、すべて裸足で暮していた。食事の時は、〓豆(竹・木で作った高坏)を用い、箸などを使わず手で直(じか)に食べていた。屋内では父母兄弟の寝室が別々になっており、身体には朱丹を塗っていた。人が死ぬと棺は用いるが、槨は拵えず、土で冢を作った。死者をその冢に葬るまでの十余日間、喪に服し、肉食は避け、喪主は哭泣し、他の者は歌舞飲酒してすごした。死者を埋葬したあと家をあげて死の汚れを除くため水に入って沐浴し身を浄めた。また動物の骨を焼き、〓(ひび)割れを見て吉凶を占う卜筮も行なっていた。このような倭人の習俗は、邪馬台国に居住していた人々も同様であったとみなしてよい。邪馬台国の時代は、考古学の時期区分では弥生文化時代の後期後半にあたるので、すでにひろく水稲耕作が行われていた。『魏志』倭人伝にも「禾稲・紵麻を種え、蚕桑緝績し、細紵・〓緜を出だす」とある。この記事から稲作を中心に、麻を栽培し、絹織物や綿織物が生産されていたことが察せられる。また女王卑弥呼が魏の皇帝に献上した物品の中に倭錦・絳青〓などの織物があったことによって錦や高級な絹布が織られていたと考えられる。邪馬台国の所在についての代表的見解は、大和説と九州説とであり、九州説にはさらにさまざまな地域に比定する説があって分立している。邪馬台国大和説は、『日本書紀』神功皇后摂政三十九年・四十年・四十三年条の分注に『魏志』倭人伝を引用し、卑弥呼を神功皇后に比定していたらしいことからすれば、すでに同書の編纂時代から存在していたことになる。この分注引用記事によったためか以後、大和説は長く引き継がれ、邪馬台国研究が学問的な対象となる江戸時代にまで至る。松下見林が『異称日本伝』で「卑弥呼は、神功皇后の御名、気長足姫尊を、故れ訛りて然か云ふ」と述べていることからも、それは明らかであり、そのあとを受けた新井白石も、『古史通或問』において「邪馬台国は即今の大和国なり」と主張していた。ところが新井白石は、やがて『外国之事調書』において邪馬台国を筑後国山門郡(福岡県山門郡)に比定するようになり、邪馬台国九州説の中ではもっとも有力な邪馬台国山門郡説の先鞭をつけた。新井白石の死後五年にして誕生した本居宣長は、邪馬台国を大和にあった国とみなしていたが、魏に朝貢したのは神功皇后ではなく、「熊襲」などの類が神功皇后の名を騙って通交したのであるとし、「熊襲偽僭説」の先駆けとなった。この説を発展させたのが鶴峯戊申(しげのぶ)であり、邪馬台国を大隅国囎唹郡(鹿児島県曾於郡)に比定し、また近藤芳樹は、肥後国菊池郡山門郷(熊本県菊池市一帯)説を主張した。ここに邪馬台国九州説での代表的三説、山門郡説・囎唹郡説・山門郷説が出揃い、これらがともに明治時代にまで及んだ。明治四十三年(一九一〇)に白鳥庫吉の「倭女王卑弥呼考」、内藤虎次郎(湖南)の「卑弥呼考」が発表され、近代における邪馬台国研究の画期となった。白鳥庫吉は詳細な里程論と日数論の上に立って、邪馬台国は肥後国(熊本県)内にあったとし、卑弥呼をその地方の女酋とみなした。一方、内藤虎次郎は『魏志』倭人伝の本文批判をとおして、邪馬台国は大和に擬するほかはないとし、卑弥呼を倭姫命にあてた。この両論以後、両者の間をはじめ大和説・九州説に拠る研究者の間に邪馬台国論争が展開された。白鳥説を承けて橋本増吉が、また内藤説を継いで笠井新也が代表格となって、それぞれ九州説・大和説を発表した。橋本増吉は邪馬台国を筑後国山門郡の地とし、笠井新也は卑弥呼を倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)命とし、卑弥呼の冢を箸墓(はしのはか)とみなした。この間、梅原末治は、三角縁神獣鏡が魏代の製作の可能性の高いことを説いて、この鏡が近畿地方に濃厚に分布することから邪馬台国大和説に同調して、考古学の見地からする新しい方向づけをした。その後マルクス史学者は、考古学からの指摘を重視して大和説をとる者が多く、邪馬台国は当時の日本列島内のもっとも先進的な社会を形成させており、国家体制への明確な徴候がみられるという指摘がなされ始めた。第二次世界大戦後、邪馬台国研究は活況を呈し、諸説は乱立し、現今に至るまで定説は打ち立てられていない。しかし『魏志』倭人伝の文献研究は深められ、邪馬台国の性格や構造、卑弥呼の王権についての研究も著しく進み、関係する論著が数多く出版されている。戦後の主立った論説をあげれば邪馬台国九州説では、榎一雄が『魏志』倭人伝の里程・日程記事をとりあげて、従来邪馬台国に至るまでの行程を直線的に読みとってきたことを退けて、伊都国までの行程記事は、それ以前の国からの方位・距離を示し、到達する国名をあげているのに対して、伊都国からは、方位・国名・距離の順に記述しているのは、伊都国から奴国・不弥国・投馬国・邪馬台国などそれぞれの国に至ることを意味しているものとし、邪馬台国は伊都国から南へ水行十日、または陸行一月で到達する地点、すなわち筑紫平野のうちに求められるとしたことが注目される所説とされている。一方、邪馬台国大和説では、小林行雄が三角縁神獣鏡の特殊な分有関係の存在に着目して、三世紀中葉の政治的情勢を見究め、邪馬台国九州説の成立は困難になると論じたことが、大和説に有力な一つの支えとなったものとしてあげることができる。また九州説からする藤間生大(せいた)邪馬台国を中心とする諸小国で構成されていたとする連合国家論、井上光貞の邪馬台国の政治体制を原始的民主制の段階とみなした論説、さらに大和説の立場にたっての上田正昭の専制君主制萌芽的形態論などが相ついで提出された。卑弥呼が共立によって王となったこと、卑弥呼の死後、王位継承にあたって国人が服さなかったことなどから当時の邪馬台国の王制が確固たる世襲王制であったとはみなされないことをふまえて邪馬台国を古代国家の端緒形態と指摘した石母田正(いしもだしょう)の所論も注目された。かつて内藤虎次郎は、『魏志』倭人伝の本文批判の中で、諸版本が邪馬台国を「邪馬壹国」に作っていることを取りあげて、「邪馬壹は邪馬臺の訛なること、言ふまでもなし。梁書、北史、隋書皆臺に作れり」と論じていたが、古田武彦が「邪馬壹国」論を発表し、邪馬台国は諸版本の記すとおり、「邪馬壹国」が正しいとした。この論は『魏志』倭人伝の本文批判を再検討する気運を促した点で評価できるが、古田説への疑問は多方面から寄せられている。→魏志倭人伝(ぎしわじんでん),→親魏倭王(しんぎわおう),→台与(とよ),→卑弥呼(ひめこ)
[参考文献]
石原道博編訳『新訂魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』(『岩波文庫』)、三木太郎『邪馬台国研究事典』一、佐伯有清編『邪馬台国基本論文集』、三品彰英編『邪馬台国研究総覧』、佐伯有清『研究史邪馬台国』、同『研究史戦後の邪馬台国』、武光誠編『邪馬台国辞典』
(佐伯 有清)


日本大百科全書(ニッポニカ)
邪馬台国
やまたいこく

弥生(やよい)文化中・後期に確認される倭(わ)の女王国。『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』の刊本には邪馬国とみえるが、定説どおり邪馬台(〓)国とするのが妥当。邪馬台は正式には「やまと」と読むが、大和(やまと)王権と区別するために一般には「やまたい」と呼称している。

[関 和彦]

所在地

邪馬台国の所在地に関しては古くから論争があり、いまだに定まるところがない。それは、史料の『魏志倭人伝』(正式には『三国志』魏書倭人条)の記載が所在地を確定するには内容的に不十分だからとされている。しかし、この問題は、日本古代国家の起源・性格、日本国土の統一時期、大和王権とのかかわり、記紀神話・伝承との絡みなど日本古代史研究上、そして国民の関心上、重要な位置を占めている。現在、学説の二大潮流として邪馬台国畿内(きない)説と九州説とがある。『魏志倭人伝』には帯方(たいほう)郡から邪馬台国への行程記事があるが、そのまま行程をとると九州のはるか南方の海上に邪馬台国の位置が求められるという矛盾のなかで、畿内の大和にその所在を求める論者は行程方位を変更・解釈し、九州論者は山門(やまと)・山戸(やまと)などを前提に距離・日数を短縮・理解し、持論を展開してきた。最近では、記紀神話・伝承の世界と邪馬台国を直結的に解釈する研究が顕在化し、市民権を得つつある兆候のなかで、種々雑多な見解が輩出し、邪馬台国研究の全体を視野に入れることは不可能となってきている。第二次世界大戦における敗北まで、邪馬台国の存在は国民に知らされなかったことをかんがみると、その存在自体が皇国史観と相いれないといえる。タブーであった邪馬台国が自由に論議される情況は歓迎されるべきものであるが、厳しい研究の史学史的総括が必要になってきている。また位置比定のためには、文献批判をさらに緻密(ちみつ)化するとともに大局的把握をつねに意図する姿勢をもたねばならない。弥生時代から古墳時代への移行期の墳墓研究、集落研究の成果の吸収、青銅器文化の評価、記紀批判のさらなる進展、神話学への接近、国語学の成果の尊重(上代特殊仮名遣いの甲類・乙類)などの多面的・複合的研究がまたれる。さらに、最近注目されている地域国家論、日本海文化論、そして大量の銅剣などが出土した荒神谷(こうじんだに)遺跡(島根県)なども視野に入れるべきであろう。

[関 和彦]

邪馬台国の登場

倭国はもともと男子を王としていたが、2世紀後半の倭の大乱の混迷が続くなかで邪馬台国の一女子卑弥呼(ひみこ)が諸国によって「共立」され、倭の女王に就任することでまとまったという。彼女が倭王に「共立」された背景は、彼女自身のシャーマンとしての能力が「能(よ)く衆を惑わす」というようにきわめて優れていたことと、彼女の所属していた邪馬台国が倭の30余国のなかでもっとも巨大であり(7万余戸)、政治的組織(官制)が整っていたからであろう。邪馬台国の卑弥呼は武力で諸国を制圧し、諸国に君臨したのではなく、逆に「共立」されたのであるから、その当初は政権の基盤は弱いものであったと推測できる。

[関 和彦]

女王卑弥呼

卑弥呼は神に仕えるため(「鬼道(きどう)」を事とし)に宮殿にこもり、生涯独身を通し(神の妻)、婢(ひ)1000人をはべらせ、男子1人を介して辞を伝え、男弟をして政治をとらしめたという。しかし、卑弥呼はシャーマンとして神権的政治を展開しつつ、一方において中国魏王朝に倭の女王として朝貢し、冊封(さくほう)体制という外部の秩序のなかで国内の統治を強化するというもう一つの顔をもっていたことを忘れてはならない。卑弥呼に関して「卑弥呼はだれか」という問題関心があり、神功(じんぐう)皇后、天照大神(あまてらすおおみかみ)、倭(やまと)姫、倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)という説が提出されている。「卑弥呼はだれか」という発想が皇室系譜に結び付けるという主旨になっていることに気がつく必要がある。卑弥呼は卑弥呼であり、必要なのはその後嗣(こうし)壹与(いよ)も含めて、その史的性格などを多面的に追究することにある。

[関 和彦]

社会

邪馬台国を頂点とする倭人社会における身分としては「大人(たいじん)」「下戸(げこ)」「奴婢(ぬひ)」の3層が析出できる。「大人」は共同体の首長層と考えられ、文身(ぶんしん)(入墨(いれずみ))により特権的地位を示し、祭祀(さいし)を主導し、4~5婦を擁し、支配層を形成していた。当時の人々は「門戸」(家族)、「宗族」を構成し、竪穴(たてあな)住居に生活し、農業(禾稲(かとう)など)、狩猟採集、漁労に従事していた。生産などの事を決するには、卜占(ぼくせん)を行い、吉凶を占っていたという。

[関 和彦]

政治

邪馬台国は30余の国々、すなわち、対馬(つしま)、一支(いき)、末盧(まつろ)、伊都(いと)、奴(な)、不弥(ふみ)、投馬(とうま)、斯馬(しま)、巳百支(しはき)、伊邪(いや)、都支(とき)、弥奴(みな)、好古都(ここと)、不呼(ふこ)、姐奴(そな)、対蘇(つそ)、蘇奴(そな)、呼邑(こお)、華奴蘇奴(かなそな)、鬼(き)、為吾(いご)、鬼奴(きな)、邪馬(やま)、躬臣(くし)、巴利(はり)、支惟(きい)、烏奴(うな)、奴(な)の諸国の頂点にたつ国であり、もっとも官制が整っていた。卑弥呼のもとには男弟がおり、官として伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)があり、伊都(いと)には特別に一大率(いちだいそつ)を置き、また市を監督する大倭(たいわ)を設置したという。さらに、いくつかの国に共通している卑狗(ひこ)・卑奴母離(ひなもり)も邪馬台国の派遣官的存在である可能性が大である。以上の官制を通して、連座制を伴う法が運用され、租賦制が施行されたらしい。卑弥呼の都は「宮室(きゅうしつ)、樓観(ろうかん)、城柵(じょうさく)」によって構成され、その周囲はつねに兵が守衛するという厳しさであったという。邪馬台国に関して部族的性格の強い小国家連合とする見解、初期的専制国家とする見解があるが、その両面を発展的に把握することも可能である。所在論とも絡めて今後とも多面的研究が必要であり、大和王権の国造(くにのみやつこ)制・伴造(とものみやつこ)制とのかかわりにも目を向ける必要がある。

[関 和彦]

外交

卑弥呼は国内的権力強化、そして狗奴(くな)国との抗争とのかかわりのなかで中国の魏王朝に朝貢し、その冊封体制の秩序のなかで自己の地位の強化を図っている。西暦239年(景初3)卑弥呼は大夫難升米(なしめ)らを魏の都洛陽(らくよう)に派遣し、生口(せいこう)と斑布(はんぷ)を献上している。魏の明帝は卑弥呼を「親魏倭王」に任命し、金印紫綬(しじゅ)、銅鏡などを下賜し、明帝が背後にあることを知らしめよといったという。243年(正始4)には大夫伊声耆(いせいき)らを派遣し、247年には、狗奴国との対立のなかで載斯烏越(さしうえつ)を帯方郡に派遣し、戦況を報告せしめている。その結果、中国皇帝の詔書・黄幢(こうどう)(軍旗)の賜与を受けている。卑弥呼の死後、宗女の壹与は掖邪狗(えきやく)を魏に派遣し、卑弥呼の外交を継承した。また266年(泰始2)に西晋(せいしん)の武帝のもとに遣使したのも壹与であろうと考えられている。

[関 和彦]

邪馬台国のその後

卑弥呼は狗奴国との戦争の渦中に死んだという。その後、男王がたったが、諸国は離反し、国中は乱れ、当時1000余人が死んだという。そういうなかで卑弥呼の宗女、年13なる壹与が擁立され、ふたたび倭国は治まった。その壹与を女王とする倭国がその後どうなったかは、266年の遣使以後まったく不明である。いわゆる「空白の4世紀」の霧のなかに姿を消していくのである。

 邪馬台国畿内説にたてば、邪馬台国はそのまま大和王権へと移行・発展していくと考えるのが普通である。一方、九州説では種々の見解に分かれる。神武(じんむ)東征伝説を史実、史実の反映と考え、邪馬台国が東遷して大和王権となったとする邪馬台国東遷説をはじめとし、投馬国東遷説、騎馬民族説、ネオ騎馬民族説などがある。もう一つは逆に、大和王権によって邪馬台国が滅亡したとする見解である。位置論・政治形態論と絡み、最終的結論は彼岸(ひがん)のかなたにあるが、日本古代国家形成期の要(かなめ)となる問題であり、ないがしろにはできない。東アジア世界のなかで把握するという視点を堅持し、記紀批判の重要性を認識しつつ、考古学の成果を吸収していくことが解決への道であろう。

[関 和彦]



改訂新版 世界大百科事典
邪馬台国
やまたいこく

2~3世紀の日本列島の中にあった国。その所在地は,北部九州とも畿内大和ともいわれている。《魏志倭人伝》の版本に〈邪馬壹国〉とあるので,〈邪馬壱(壹)国(やまいちこく)〉とするのが正しいとする説があるが,中国の古い諸書に引用された《魏志》には〈邪馬臺(台)国〉とあるので,〈邪馬壱国〉説は疑わしい。《魏志倭人伝》によると,邪馬台国は,女王の都する所で,官に伊支馬(いきま),弥馬升(みましよう),弥馬獲支(みまかくき),奴佳鞮(ぬかてい)の四つがあり,7万余戸の人口があったという。この国の王は,2世紀末に近いころに倭国内の諸小国の首長によって共立された女性の卑弥呼(ひみこ)であった。女王以前には男王が立てられていたというが,当時の邪馬台国の王家は,卑弥呼が生まれた家の近親者によって王位が継承されていたということはなかったであろう。

 邪馬台国は,対馬国,一支国,末盧(まつら)国,伊都(いと)国,奴(な)国,不弥(ふみ)国,投馬(つま)国,斯馬国など二十数ヵ国を統属下においていたが,倭国の中には,狗奴(くな)国のような邪馬台国連合の傘下に属していない国もあった。邪馬台国には女王の卑弥呼が君臨していたので,《魏志倭人伝》は,邪馬台国を〈女王国〉とも呼称している。女王卑弥呼の下には,政治を助けていた弟がおり,多数の奴婢を抱え,伊支馬以下の四つの官が備わり,宮室・楼観・城柵が立派に造られ,護衛の兵士も存在し,さらにその社会は,大人・下戸・奴婢の身分から成り立っていて,古代国家の様相がみとめられる。しかし,その反面,女王卑弥呼は,王となってから人々の前にその姿をあらわすこともなく,飲食をとるのにも,ただ1人の男性の手にゆだねられていたことは,原始的国家の王に多い〈幽閉された王〉の姿をほうふつさせている。こうした邪馬台国の複雑さは,原始社会から古代社会へと移り変わる社会に生じる古さと新しさとを具有した原始的古代国家であったことによるのである。
→弥生文化
[佐伯 有清]

[索引語]
魏志倭人伝 邪馬壱国 卑弥呼


Encyclopedia of Japan
Yamatai
邪馬台国 / Yamatai Koku

Country in the Japanese islands, visited by Chinese envoys from the year 240. It was described in the Chinese book Sanguo zhi (Sankuo chih; History of the Three Kingdoms), written by Chen Shou (Ch'en Shou; 233−297) toward the end of the 3rd century. There are a few earlier, fragmentary references to Japan in the Chinese histories, but this is the oldest extensive description of Japan in any language. Its rich lode of information on the 3rd-century Wa people, as the Chinese called the Japanese, and their fascinating queen, Himiko, is fundamental to any understanding of early Japanese history. This famous account is both illuminating and puzzling, largely because of the frustrating obscurity of its data on the location of Yamatai, Himiko's capital.

Chen Shou and the Wei Zhi

Rather than direct knowledge of Japan, Chen Shou apparently depended on archival records and earlier historical treatments of China's short-lived Wei dynasty (220−265), the northernmost of the three kingdoms into which China was divided for much of the 3rd century. Chen's history of Wei, the Wei zhi (Wei chih; J: Gishi), was the first and largest part of the Sanguo zhi. The last volume of the Wei zhi, devoted to “accounts of the eastern barbarians” and covering the peoples of Manchuria, Korea, and Japan, has a section on the Japanese Wa people, or woren (wo-jen; J: wajin). Among Japanese scholars this account is conventionally referred to as the Gishi wajinden (the Wei zhi Account of the Wa People).

Chen's account includes important information on the population and official titles in the key communities, an extensive statement on the manners and customs of the land of the Wa, and a brief section on administrative and social structure. Next there is a substantial statement on Queen Himiko, the character of her rule, and her close diplomatic relations with Wei from 239 until her death a short time after 247. The account then concludes with some details of the succession struggle that followed her burial.

The Land of the Wa People and Queen Himiko

The interesting ethnographic description of the Wa shows a sharply stratified society, with social and regional distinctions indicated by tattoo markings. Although living quarters were segregated according to age and sex, the mixing of the sexes in public activity appeared noteworthy to the Chinese observers. There was an intense concern with pollution and purification.

There appears to have been considerable commerce, both between Wa communities and with Korean and Chinese towns on the peninsula. There was a revenue office for the collection of various levies in grain and other products. Each community had markets under the supervision of a senior official based in Ito (Itokoku) in northwestern Kyūshū and appointed by Queen Himiko in Yamatai.

Queen Himiko was a personage of considerable mystery. According to the Chinese observers, the Wa had once been ruled by a king, but at some time during the 160s and 170s there had been a civil war that ended with the accession of Himiko. She devoted herself completely to religious affairs and was able to “delude the crowd.” She was rarely seen but was assisted by her younger brother, who exercised power for her. If she was between 10 and 15 at her accession, she might have been in her nineties when she died in the late 240s.

Most readers have assumed that the capital, Yamatai, with its reported 70,000 households, must have been somewhere in the central or southern part of Kyūshū. However, the oldest Japanese historical works, the Kojiki (712) and the Nihon shoki (720), contain nothing about Yamatai and Queen Himiko; rather the Nihon shoki refers to an Empress Jingū ruling in Yamato, in the Nara Plain in Japan. The compilers of the Nihon shoki were apparently trying to reconcile the information in the Wei zhi, to which they refer several times, with their dogmatic view that Japan had always been ruled from Yamato. Thus the chronicle gives the impression that, if there was any diplomatic contact between Wei and a Japanese female ruler, it would have involved a legitimate female sovereign in Yamato. In effect, readers with access to both the Chinese and Japanese accounts were asked implicitly to take Empress Jingū as Himiko and Yamato as Yamatai.

Conflicting Views

The first scholar to depart from the view of the chronicles was Motoori Norinaga. In his Gyojū gaigen (1778, An Outline on the Subduing of Foreigners), an anti-Chinese polemic on Japan's historical foreign relations, he took the Wei zhi directions literally and concluded that Yamatai was in Kyūshū and not to be identified with Yamato. He believed that the Wei observers were mistaken in thinking that the queen herself was in Yamatai. Possibly they had heard of Japan's queen (Jingū), but any diplomatic representation from her must have been bogus, since in Motoori's view no Japanese ruler would ever have sent tribute to China. By dissociating the queen from Yamatai he was able to locate the latter in Kyūshū, as the Wei zhi seemed to require, without dishonoring the sacred Yamato tradition. Many scholars of the 19th century adopted Motoori's view. Because of the great distances indicated by the Wei zhi, most of the early Kyūshū theorists located Yamatai as far south as possible, in the Satsuma and Ōsumi areas (now Kagoshima Prefecture).

But this created geopolitical problems. It was hard to imagine that a regime so far removed from the major areas of Kyūshū life could have dominated those areas, which, as history, tradition, and (later) archaeology showed, were in the northwest. Moreover, the Wei zhi located the hostile country of Kunu south of Yamatai, but there was nothing south of Satsuma. In 1910 Shiratori Kurakichi decided to reject entirely the long trip indicated by the Wei zhi and decided that Yamatai was in the Kumamoto area. South of that, in Satsuma, was Kunu. According to Shiratori, neither Yamatai nor Kunu was within the sphere of the main Yamato state in the Kinai (Kyōto-Ōsaka-Nara) area until their supposed conquest by Yamato sometime during the 4th century.

The Yamato Theory Reborn

Shiratori's treatment put the Kyūshū theory on much firmer philological and historical foundations than the earlier proponents had achieved. Yet, just at the time of his epochal article in 1910, Naitō Konan revived the traditional Yamato, or Kinai, theory. The many localization problems of the Kyūshū theory, together with a residual belief in the basic Yamato tradition, encouraged Naitō to reexamine the Wei zhi text. Citing a number of instances of confusion between south and east in Chinese historical writing, he emended “south” to “east” and thus turned the itinerary toward the Kinai area. This theory had the advantage of not having to reject, as had Shiratori, the Wei zhi's great distances. In bringing Yamatai back to Yamato, he could also draw on other material in the Nihon shoki to clarify the Wei zhi text.

The Significance of the Yamatai Debate

From the appearance of the articles by Shiratori and Naitō in 1910, no fundamentally new theory arose, only new arguments for the old theories. By the 1960s, most minds had been made up, and Kinai and Kyūshū theorists often seemed to be speaking only to their respective partisans. Moreover, the mass media became attracted to the issue.

But the localization of Yamatai is not a mere game, as it has sometimes seemed. If the growth and formation of the Japanese state is to be understood, it is of fundamental importance to know where Yamatai was. And yet, given the great differences in the two principal theories, and the determination and zeal with which they are advocated by very serious scholars, it is difficult to imagine that there will be an early solution.

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検索コンテンツ
1. やばたい‐こく【邪馬臺国】
日本国語大辞典
「やまたいこく(邪馬臺国)」に同じ。
2. 邪馬台国
日本大百科全書
学説の二大潮流として邪馬台国畿内(きない)説と九州説とがある。『魏志倭人伝』には帯方(たいほう)郡から邪馬台国への行程記事があるが、そのまま行程をとると九州のは
3. 邪馬台国
世界大百科事典
,倭国の中には,狗奴(くな)国のような邪馬台国連合の傘下に属していない国もあった。邪馬台国には女王の卑弥呼が君臨していたので,《魏志倭人伝》は,邪馬台国を〈女王
4. やまたい‐こく【邪馬臺国・耶馬臺国】
日本国語大辞典
都、水行十日、陸行一月」では「邪馬壹国」とあり、後漢書では「邪馬臺国」とあるが、「壹」は「臺」の誤りで、「臺」は「台」と通じるから「やまと」と読めるとする説があ
5. やまたいこく【邪馬台国】
国史大辞典
)、三木太郎『邪馬台国研究事典』一、佐伯有清編『邪馬台国基本論文集』、三品彰英編『邪馬台国研究総覧』、佐伯有清『研究史邪馬台国』、同『研究史戦後の邪馬台国』、武
6. Yamatai 【邪馬台国】
Encyclopedia of Japan
Country in the Japanese islands, visited by Chinese envoys from the year 240. It
7. 邪馬臺国論考 1
東洋文庫
邪馬台国学の先覚者橋本増吉による『魏志倭人伝』研究の決定版。邪馬台国は九州筑後国山門郡にあったとの立場から,邪馬台国大和説に敢然と論駁を加える。各巻に解説を付す
8. 邪馬臺国論考 2
東洋文庫
邪馬台国学の先覚者橋本増吉による『魏志倭人伝』研究の決定版。人類学・言語学・考古学の研究成果に着目し,邪馬台国の風俗・習慣,葬制と墓制,卜法と信仰,生活および生
9. 邪馬臺国論考 3
東洋文庫
邪馬台国学の先覚者橋本増吉による『魏志倭人伝』研究の決定版。邪馬台国をとりまく古代の国際情勢に周到な目配りをし,文献をはじめ遺跡・遺物の総合的研究から邪馬台国
10. 邪馬台国論争
世界大百科事典
の銅鏡,および考古学的遺物からみた邪馬台国への言及があって,邪馬台国大和説は大きく膨らんだ。その後,邪馬台国問題は,単にその所在論にとどまることなく,邪馬台国
11. 新井白石[文献目録]
日本人物文献目録
生『新井白石の晩年と花卉』松下政蔵『新井白石の半面』板『新井白石の兵談』内藤耻叟『新井白石の邪馬台国観』宮崎道生『新井白石のヨハンバッティスタ物語について』鮎沢
12. いきのくに【壱岐国】画像
国史大辞典
」と記し、さらに壱岐島が倭人の百余国の一国として、女王国邪馬台国に統属していることを記している。市糴の北は現勝本港であり、南は郷ノ浦港か印通寺港か、あるいはその
13. いずみし【和泉市】大阪府地図
日本歴史地名大系
魏の景初三年(二三九)銘銅鏡が出土していて注目される。景初三年は「魏志」東夷伝倭人条によれば邪馬台国女王が魏明帝から詔書を受け、親魏倭王の称号や品物を下賜された
14. 一大率
日本大百科全書
一大率の官名は、『晋書(しんじょ)』にみえ、中国の剌史(しし)に比定されるが、常駐して女王国(邪馬台国(やまたいこく))以北の周辺諸国の検察を行い諸国に畏憚(い
15. 一大率
世界大百科事典
3世紀の邪馬台国の時代の官名。《魏志倭人伝》に〈女王国より以北には,特に一大率を置き,諸国を検察せしむ〉とある。さらに同書には〈諸国之(これ)を畏憚す。常に伊都
16. いちだいそつ【一大率】
国史大辞典
ところから、邪馬台国大和論では一大率を大宰府の先蹤的官制と考えるが、年代からみても、直接の結びつきはない。 [参考文献]榎一雄『邪馬台国』(『日本歴史新書』)、
17. いとぐん【怡土郡】
国史大辞典
あげている。『魏志』倭人伝にある「伊都国」は怡土と同音で、三世紀の半ばにこの地に置かれた治所は、邪馬台国に来往する使節の文書を検索した。旧怡土村(前原村)村内に
18. 伊都国
日本大百科全書
朝鮮系磨製石器などが採集され、縄文晩期ころより朝鮮との交渉が確認される。奴(な)国とともに漁業、交易に活躍し、邪馬台国以前から繁栄した古代国家である。井上幹夫
19. 伊都国
世界大百科事典
3世紀の邪馬台国の時代に倭にあった小国の一つ。後の筑前国怡土(いと)郡,今の福岡県糸島郡。その中心は,三雲,井原の地とみなされている。《魏志倭人伝》によると伊都
20. いよ【壱与】
日本人名大辞典
?−? 3世紀の邪馬台国(やまたいこく)の女王。「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」によると,魏の正始8年(247)ごろ,卑弥呼(ひみこ)の死後にたった男王に国中が
21. 色画像
世界大百科事典
“いろ”という概念をもったのではないかと考えられる〉(《万葉の色相》)という。それとは別に,邪馬台国の人々は朱丹(水銀系および鉄系統の顔料)で身体装飾をしていた
22. えきやく【掖邪狗】
日本人名大辞典
?−? 3世紀中ごろの官吏。邪馬台国(やまたいこく)の大夫(たいふ)。卑弥呼(ひみこ)の使者として魏(ぎ)(中国)の正始(せいし)4年(243)魏に派遣され,率
23. えのきかずお【榎一雄】
国史大辞典
法名は史芳院淡雅日静居士。墓は横浜市西区元久保町の川合寺にある。その研究領域はきわめて広く、西域史のほか邪馬臺国をめぐる日本上古史や東西に渉る人の往来、文化交流
24. 王
世界大百科事典
のは,古代オリエント諸国からゲルマン諸民族の王まで共通している。また,《魏志倭人伝》にみえる邪馬台国の女王卑弥呼が,魏に使者を送り貢物を献じてその保護を求める〈
25. 王朝交替論
世界大百科事典
応神以前の天皇は存在しないとされ,水野祐は,仲哀以前を〈古王朝〉,応神以後を〈中王朝〉とし,邪馬台国と戦った狗奴国が東遷して,この〈中王朝〉を形成したと考え,い
26. おうみのくに【近江国】滋賀県
日本歴史地名大系
立したようで、当然近江にもその波は及んだことであろう。残念ながらその実態は知りがたいが、あの邪馬台国の時代に近江にもいくつものクニができたのではないか。やがて三
27. おおくわごう【大桑郷】岐阜県:美濃国/山県郡
日本歴史地名大系
また「日本地理志料」は同町梅原の辺りに及ぶとしている。なおこの地を「魏志倭人伝」にみえる鬼国に比定する見解が、邪馬台国畿内大和説の場合に行われている。
28. おおちのはか【大市墓】奈良県:桜井市/三輪・纏向地区/箸中村
日本歴史地名大系
が発見されている)。第二は、「魏志倭人伝」に記される邪馬台国の女王卑弥呼を倭迹迹日百襲姫命と比定し、箸墓を卑弥呼の墓とする説があることによる。もちろん、
29. おおつかやまこふん【大〓山古墳】
国史大辞典
出土した。一古墳から三十面以上の三角縁神獣鏡が出土し、それらが中国製の魏晋鏡であるとすれば、邪馬台国女王卑弥呼の「銅鏡百面」ともかかわる可能性があり、椿井大塚山
30. おおつかやまこふん【大〓山古墳】 : 大〓山古墳/(一)
国史大辞典
出土した。一古墳から三十面以上の三角縁神獣鏡が出土し、それらが中国製の魏晋鏡であるとすれば、邪馬台国女王卑弥呼の「銅鏡百面」ともかかわる可能性があり、椿井大塚山
31. かいこういぜん【開港以前】 : 日朝関係
国史大辞典
人社会は、百余国に分立した状態から地域的統合にむけて進み始め、三世紀には諸「王」を従属させた邪馬台国が存在していた。これらの「国」は、朝鮮半島経由で前漢・後漢・
32. 垣内(かいと)遺跡[考古学]
イミダス 2018
。淡路島に遺跡が成立した背景には瀬戸内海運の重要性があり、垣内遺跡をめぐる勢力関係の解明は、邪馬台国成立史を理解する鍵になると考えられる。 [宇野隆夫]2010
33. 鏡画像
世界大百科事典
でなく文明社会にあっても,鏡面魔術の実例は多く,鏡を恐れるがゆえの迷信は数知れない。日本でも邪馬台国の女王卑弥呼が,魏王から銅鏡百面を贈られたのは,鏡面魔術を駆
34. かもまち【加茂町】島根県:大原郡
日本歴史地名大系
その内部から「景初三年陳是作」の文字が書かれた三角縁神獣鏡が発見された。これは景初三年(二三九)中国の魏王から邪馬台国の女王卑弥呼に青銅鏡一〇〇枚が下賜されたう
35. 神原神社古墳
日本大百科全書
的な前期古墳の一つで、とくに「景初三年」銘鏡は、大阪府黄金塚(こがねづか)古墳のそれとともに邪馬台国(やまたいこく)の卑弥呼(ひみこ)が魏(ぎ)に遣使した年(2
36. かんばらじんじゃこふん【神原神社古墳】島根県:大原郡/加茂町/神原村
日本歴史地名大系
の同向式四神四獣鏡で、「景初三年陳是作鏡」で始まる四一文字の銘文がある。景初三年(二三九)は邪馬台国の女王が魏に遣使した年であり、卑弥呼の鏡を出土した古墳として
37. キノフィルムズ[映画]
イミダス 2018
皮切りに映画制作に乗り出し、2015年までに75本以上の制作に関与している。以後同社は「まぼろしの邪馬台国」(08年)、「おとうと」(10年)といった東映、松竹
38. 九州地方画像
世界大百科事典
先史時代,北九州はいち早く大陸の水稲技術を取り入れ,弥生文化の先駆をなした。3世紀の《魏志倭人伝》に見える邪馬台国は,北九州にあったという有力な説もある。7~9
39. きんせい【近世】 : 日中関係
国史大辞典
ぶんえい・こうあんのえき),→文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき),→明(みん),→邪馬台国(やまたいこく),→倭寇(わこう),→倭の五王(わのごおう)
40. 魏(中国,曹魏)
世界大百科事典
譲り,魏は5代45年で滅んだのである。→三国時代川勝 義雄 倭との関係 239年(景初3)6月,倭の邪馬台国の女王卑弥呼(ひみこ)の使者が魏軍の占領まもない帯方
41. ぎ【魏】
国史大辞典
経由する魏と倭の交渉は、魚豢『魏略』や陳寿『三国志』魏書倭人伝にわが国に関する最古のまとまった記事(著名な邪馬台国の女王卑弥呼の所伝をはじめ倭人の風習などを含む
42. 魏志倭人伝
日本大百科全書
地理的景観、風俗、物産、政治、社会などのようすが比較的詳細に書き留められている。またよく知られている邪馬台国(やまたいこく)やその国の女王卑弥呼(ひみこ)のこと
43. 魏志倭人伝
世界大百科事典
受けつぎ,邪馬台国の存在していた時代とは,それほど隔りのない時期に書かれたものであるから,その史料的価値は高い。倭人伝は,倭国の地理的位置づけから書きはじめられ
44. ぎしわじんでん【魏志倭人伝】
国史大辞典
橋本増吉『(東洋史上より観たる)日本上古史研究―邪馬台国論考―』、三品彰英編『邪馬台国研究総覧』、佐伯有清『研究史邪馬台国』、同『研究史戦後の邪馬台国』、石原道
45. 魏晋南北朝画像
日本大百科全書
全国的に豪族層が著しく発達し、それが支配者層や民衆に大きい影響を与えたこととがあげられる。なお、魏には邪馬台国(やまたいこく)の女王卑弥呼(ひみこ)が使をやって
46. くちよせ【口寄せ】画像
国史大辞典
伝えるという発想は、古代の祭政一致の時代には最も一般的にみられた政治形態であった。『魏志』東夷伝にみえる邪馬台国の女王卑弥呼が能く衆を惑わした「鬼道」については
47. 狗奴国
世界大百科事典
3世紀の倭の中の一国。邪馬台国の南に位置し,邪馬台国と対立していた。《魏志倭人伝》に〈其の南に狗奴国有り,男子を王と為す。其の官に狗古智卑狗有り〉〈倭の女王卑弥
48. くな‐こく【狗奴国】
日本国語大辞典
「魏志倭人伝」にみえる、三世紀に日本に存在したと伝える国名。邪馬台国の南方にあって服属せず、卑彌呼は年来これと不和であったという。邪馬台国九州説では、狗奴国を熊
49. 国
日本大百科全書
『漢書(かんじょ)』以下の中国史書にみえる奴国(なこく)などの小国家、『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』にみえる邪馬台国(やまたいこく)のような地域的統合国家、統
50. 国画像
世界大百科事典
,例えば対馬国,末盧国などのように〈国〉と称した。そして有力な首長がさらにいくつかの〈国〉を統属したのが,邪馬台国配下の政治連合をはじめとする各地のいわゆる地域
「邪馬台国」の情報だけではなく、「邪馬台国」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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邪馬台国(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・Encyclopedia of Japan)
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