時代概観
平安時代とは、8世紀末784年(延暦3)の長岡京遷都から、12世紀末の鎌倉幕府創始(諸説があるが、ここでは1185年の平氏滅亡、源頼朝 (よりとも)の守護・地頭 (じとう)設置とする)までの約400年間をいう。この時代は、古代から中世への移行期であり、古代律令 (りつりょう)国家支配が崩壊してから武士の政権の基盤が形成される時代、日本で封建制が形成される時代として早くから注目されてきた。この時代には公地公民の律令国家支配が崩れて、11~12世紀にしだいに中世荘園 (しょうえん)制が形成されてくるが、これは中世村落が形成されてくる社会的動向に基づく。そしてそれら荘園公領を「一所懸命」の地とする武士が勢力を強めてきて、12世紀後期には平氏が中央政界で権勢を振るうに至り、次の鎌倉時代を迎える社会的実体ができる。
文化の面では、大陸文化を模倣・吸収してきたなかからようやく国風 (こくふう)文化とよばれるような文化が諸分野で出現したが、10世紀末から11世紀初頭にかけて王朝文学の花が開いたのもその代表的な一例である。
さて政治の面では、藤原北家 (ほっけ)が勢力を強めて10世紀後期には摂関 (せっかん)時代を迎えたが、11世紀後期には後三条 (ごさんじょう)天皇が即位して摂関家の勢力が下降し、白河 (しらかわ)上皇が院政を開始してから院の専制が続いたが、12世紀後期には平氏が中央政界で権勢を振るう、という筋で叙述されるのが普通である。もちろん摂関家から院へという線が政治史上重要であることはいうまでもないが、その線だけから政治史全体を解釈しようとして、律令国家支配が衰退して地方政治が荒廃したという説明をすると、ではそのような衰退・荒廃のなかからなにゆえに王朝文化の花が開くのか、と問われるのである。摂関家から院へという線と並行して、平安時代に国家支配の制度や政策がどのように変化していったかという研究が進められているが、それらを総合した政治史を組み立てなければならない。9世紀に律令国家支配が行き詰まると、10世紀初頭に新たな国家体制へ転換した(これを「王朝国家」という)。律令国家支配が平安時代を通じて衰退し続けたのではなく、王朝国家に転換して国家支配を維持していたのである。摂関時代の摂関家の権勢も王朝国家支配に立脚していたのであり、また武士の台頭も王朝国家の地方政治によって裏づけられていたことを見逃してはならない。
政治・外交
政治史は国家の政策と不可分である。ところで平安時代には支配体制の変更を伴う政策の転換が二度あったが、それはかならずしも政界主導者の交替と関係がないので、ここでは国家支配体制の転換でもって時期区分を行う。平安時代は、9世紀は前代に引き続いて律令 (りつりょう)国家体制だが、10世紀初頭に王朝国家体制に転換した。この王朝国家体制をいつまでと考えるかについては二つの見解がある。一つは12世紀末の鎌倉幕府創始(これを中世国家の始まりとする)までとし、11世紀40年代を境として前期王朝国家と後期王朝国家とに分ける見解である。もう一つは、11世紀中期までを王朝国家とし、以後を中世国家とする見解である。ここでは前者によることとする。
律令国家期
(10世紀初頭まで)桓武 (かんむ)天皇は784年(延暦3)長岡に都を遷 (うつ)し、794年に平安京に遷都した。こうして天武 (てんむ)系の平城京を去った桓武天皇の政治は、律令国家期の画期をなすと評価できる歴史的意義をもつものであった。長岡京では朝堂院と内裏 (だいり)とが分離されていたが、それは、それまで天皇が官人を把握して政務を行う方式がとられていたのが、天皇は内裏にいて、全官人を統轄する太政官 (だいじょうかん)を通じて政務をみるという方式にかわったことを示している。また律令国家成立当時の中央政界の有力貴族が8世紀末には没落していく一方、桓武朝に新興氏族が参議に登用されたことに示されるように、氏族の存在形態がかわりつつあった動向のなかで桓武朝の意義が注目される。800年には全国的規模で班田が行われたが、全国的な班田はこれが最後で、9世紀にはもはや全国一斉の定期的な班田はみられず、国ごとに散発的に行われたにすぎない。これは、律令国家支配の基本にある戸籍計帳に基づく個別人身支配が無実化したことに基本的原因がある。が、桓武朝からあとも9世紀前期の間、律令制の基本的枠組みのなかで、現状に対応しながら律令国家支配を強めようという国政的努力がなされた。9世紀の国政史の画期となるのは承和 (じょうわ)年間(834~848)である。承和年間に国ごとに課丁数が固定された事例がみられるが、これは、もはや実際に課丁の実数によって人頭税を徴収することが不可能になったので、国ごとに固定した課丁数だけの収取を確保しようとした政策の表れである。それは国司に中央貢進物を請け負わせたことを意味するが、なお中央政府は律令制中央集権支配原則を固守していた点で後述の王朝国家体制への転換と区別され、宇多 (うだ)天皇の寛平 (かんぴょう)年間(889~898)の国政や、それに続く醍醐 (だいご)天皇初期の左大臣藤原時平 (ときひら)主導による律令制振興の試みはその表れである。
藤原北家 (ほっけ)台頭の基礎を築いた冬嗣 (ふゆつぐ)は810年(弘仁1)に蔵人頭 (くろうどのとう)となってからあと左大臣まで昇進した。その子良房 (よしふさ)は、9歳で即位した清和 (せいわ)天皇の事実上の摂政 (せっしょう)を行っていたと考えられるが、866年(貞観8)に摂政とされた。良房の養子基経 (もとつね)は、光孝 (こうこう)天皇が即位すると事実上の関白とされ、次の宇多天皇のもとでも関白となった。また承和年間以降、公卿 (くぎょう)のなかで藤原氏と源氏とが圧倒的多数を占める傾向が強まっていくのであるが、この現象は承和年間以降の国司請負政策とも関連する面があるであろう。
外交では、838年(承和5)の遣唐使が最後のものとなり、894年(寛平6)の遣唐使派遣は菅原道真 (すがわらのみちざね)の上表によって中止された。このころ唐は衰亡しており(907滅亡)、またすでに大陸から商船が来航していたことがその背後にあったのである。
前期王朝国家期
(10世紀初頭~11世紀40年代)902年(延喜2)の左大臣藤原時平主導による律令制振興の試みが失敗してからあと、おそらく忠平 (ただひら)が兄時平の跡を継いでから、律令国家の支配原則をかえる新しい国家体制=王朝国家体制への転換が行われた。かくて出発した前期王朝国家では、中央政府は国司(9世紀ごろから守 (かみ)に権限と責任とが集中して「受領 (ずりょう)」とよばれるようになる)に任国内支配を委任して、中央政府から諸国国内の行政についてもはや指令を出さなくなった。ただし重大な問題が生ずると中央政府は官使を派遣した。国司は任国内支配を委任されたかわりに、国ごとに定められた量の中央貢進物を進納しなければならなかった。このような新体制になると、中央政府は前代のような諸国国内に立ち入った行政を行わなくなり、公卿もただ諸国の国司から裁決を仰ぐため申請してきたものを審議するだけになった。かつては、摂関時代の公卿たちが国政に関心を向けずもっぱら朝廷の行事を先例どおりに行うことだけに専心しているのは政治の退廃であり、このような退廃の下で地方政治は荒廃したと説明されるのが常であったが、そうではなく、王朝国家では前代に比べて中央の国政の事務量が激減した結果なのであり、新体制下で国家支配は維持されていた。したがって、939年(天慶2)に東西で相次いで反乱に突入した平将門 (まさかど)の乱と藤原純友 (すみとも)の乱に対してともに鎮圧させることができたのであった。他方、任国内支配を委任された国司はその権限によって巨富を蓄えたのである。
このような中央政界では藤原氏と源氏とが公卿のほとんどを独占し、醍醐・村上 (むらかみ)両天皇の時期には摂政・関白が置かれなかったが藤原氏の権勢は揺るがなかった。967年(康保4)に冷泉 (れいぜい)天皇が即位すると藤原実頼 (さねより)が関白となり、以後ほぼ摂政・関白が常置されていって世にいう摂関時代となった。なかでも995年(長徳1)に藤原道長が内覧となってから1027年(万寿4)に道長が死去するまでの間は摂関時代の最盛期であったが、この最盛期を中心にした前後のころ、988年(永延2)尾張 (おわり)国の郡司・百姓らが尾張守藤原元命 (もとなが)を訴えて都に上ったような国司苛政 (かせい)上訴事件が20余ばかり史料上にみいだされる。その裏面には在地勢力の台頭があり、その動きが国司の支配を崩しつつあったのである。
この時期には、外国商船が日本に来航するには一定の年数を隔てなければならないという年紀の法が存在していたが、この年紀の法は延喜 (えんぎ)年間(901~923)に定められた。またいつごろ定められたものかは不明だが、わが国の人々が政府の許可なく海外に渡航してはならないという禁令が行われていた。なお1019年(寛仁3)に刀伊 (とい)の賊船が対馬 (つしま)・壱岐 (いき)に来襲した。
後期王朝国家期
(11世紀40年代~12世紀末)関白頼通 (よりみち)がまだ中央政界で権勢を保っていた11世紀40年代に、前期王朝国家体制から後期王朝国家体制への転換が行われた。後期王朝国家では、諸国国内の行政組織や制度が大幅に変更され、新興の在地勢力(これが中世の武士となる)が、新たな行政単位となった郡・郷などの郡司・郷司に任命された。このように新行政単位として出現した郡・郷・保・村などが、このあと中世を通じて所領となっていくのであり、それが荘園 (しょうえん)領主の領有に入ると荘園になったので、中世の荘園の基になるものはここに実体を現してきたといってよい。1040年(長久1)の荘園整理令から始まる平安後期荘園整理令は、この中世荘園の実体が現れてきた社会情勢に対応するものであった。
1068年(治暦4)藤原氏を外戚 (がいせき)としない後三条 (ごさんじょう)天皇が即位し、その前年に藤原頼通は関白を辞した。1069年(延久1)の延久 (えんきゅう)の荘園整理令は長久 (ちょうきゅう)の荘園整理令(1040)以来の系譜を引くものであったが、記録荘園券契所が設けられて荘園の公験 (くげん)を審査した。後三条天皇の時代には贄人 (にえびと)を供御人 (くごにん)として再組織するなど天皇家私経済の制度が整えられたほか、延久宣旨枡 (せんじます)の制定などが行われた。
1086年(応徳3)白河 (しらかわ)院政が開始された。白河院政期の三天皇(堀河 (ほりかわ)、鳥羽 (とば)、崇徳 (すとく))はいずれも幼少で即位しており、院が幼少の天皇にかわって実質的に国政を裁断することが恒常化し、重要な公卿評定も院御所で行われるようになったが、その裏には、太政官機構の重要な職にある人々の多くが院司や院殿上人 (いんのてんじょうびと)などになって、院と結び付く関係になっていたということがあった。白河院が崩じたあと鳥羽院政となり、1156年(保元1)に鳥羽院が崩じた直後に保元 (ほうげん)の乱が生じ、乱で勝利した後白河 (ごしらかわ)天皇は保元新制を出したが、まもなく後白河院政に入り、荘園制の進展に伴う緊張した政治情勢の下で国政における院の専制が強まった。
1159年(平治1)の平治 (へいじ)の乱のあと急速に平清盛 (きよもり)が中央政界で地位を高めてきて、67年(仁安2)清盛は太政大臣となった。清盛の妻時子の妹滋子 (しげこ)(のち建春門院)は後白河上皇の皇子を産んでいたが、この皇子が即位して高倉 (たかくら)天皇となった。また清盛の娘徳子(のち建礼門院)が高倉天皇の中宮 (ちゅうぐう)となって産んだ皇子が安徳 (あんとく)天皇である。このように平氏一門は全盛期を迎えたのだが、『平家物語』(吾身栄花 (わがみのえいが))に「惣 (そう)じて一門の公卿十六人、殿上人三十余人」とあるのは延べ人数であって、一時点でこのようなことがあったわけではない。また「平家知行 (ちぎょう)の国三十余箇国、既に半国にこえたり」という状態になったのは1179年(治承3)11月のクーデター以後であった。一方、急速に中央政界で権勢を強めてきた平氏に対して反平氏の動きがおこり、77年に院近臣による平氏打倒の陰謀が摘発され(鹿ヶ谷 (ししがたに)事件)、また後白河法皇や摂関家の側から反平氏の策動があったのに対して、79年11月清盛は関白を交替させ、さらに後白河法皇を幽閉した。平氏政権とはこのクーデター以後をいう。これに対して寺院勢力が団結して対抗し、1180年に以仁 (もちひと)王が挙兵した。これを鎮圧した清盛は福原遷都を強行したが、8月に源頼朝 (よりとも)が東国で挙兵した。こうして反平氏の軍が各地で起こるなかで、12月に平重衡 (しげひら)の軍は南都を焼き討ちし、東大寺、興福寺をはじめとする諸寺堂舎は焼失してしまった。この直前に清盛は後白河法皇の幽閉を解いたが、もはや平氏は孤立しており、翌81年(養和1)閏 (うるう)2月清盛は病死した。83年(寿永2)源義仲 (よしなか)の軍が京都に迫って平氏一門は西国へ落ちて行った。義仲はまもなく京都で孤立し、84年(元暦1)源範頼 (のりより)・義経 (よしつね)の軍に敗れたあと、源氏の軍は一ノ谷で平氏を破り、85年(文治1)屋島から敗走した平氏は壇ノ浦で滅亡した。
後期王朝国家期に入っても大陸との外交関係は前期と変わりはなかったが、12世紀ごろからわが国と宋 (そう)との直接貿易が盛んになってきた。わが国の商業が発達してくると宋銭や唐銭が流入するようになり、12世紀末には政府が禁令を発しても銭貨の流通を止めることはできなかった。西国に勢力をもっていた平清盛はこの実情を知っていたので、積極的に対宋貿易に乗り出した。清盛の時代には瀬戸内海の海賊を支配下に置き、清盛が厳島 (いつくしま)神社を信仰したことから上皇や貴族たちの厳島参詣 (さんけい)が流行したのも瀬戸内海航行が保証されていたからであったが、清盛は1170年(嘉応2)に宋船を大輪田泊 (おおわだのとまり)に来航させ、以後、大輪田泊の大修築工事を行って、宋船の来航による貿易が活発になった。それまでわが国に来航した外国船は大宰府 (だざいふ)管内で止められる定めであったから、貴族たちは宋船の大輪田泊来航に驚いた。このころにはわが国の造船・航海技術も進んできたので、大陸貿易はいっそう盛んになった。
社会・経済
『日本霊異記 (りょういき)』に収められた8世紀ごろの一説話に、財産の内容として「奴婢 (ぬひ)」「馬牛」が記されていたのが、12世紀前期に成った『今昔 (こんじゃく)物語集』に収められた同じ説話では、財産の内容が「領シケル田畠」「仕 (つかえ)ケル従者」と改められている。このことは平安時代400年間の経済的変化を示す一例である。11世紀から12世紀に荘園 (しょうえん)制が展開するのは、田畠を領し従者をもつことが最重視される社会になるとともに中世村落が形成されてきた歴史的動向に基づくのである。
富豪の輩と王臣家荘
平安時代初期の9世紀には奴婢や馬牛などの動産で富が代表されていたが、9世紀後期には富豪の輩 (ともがら)の経済的活動が律令 (りつりょう)国家支配の大きな障害となっていた。彼ら富豪の輩は稲や銭などを周辺の農民に私出挙 (しすいこ)し、また周辺農民の調庸納入をかわりに請け負い、富豪の輩の営田を耕作する農民の賦役をもって元本と利息分とにあて、こうして自らの勢力範囲をつくりあげていた。彼ら富豪の輩は9世紀後期には王臣家と結び付いて、王臣家の権威で国郡に租税を納めなかった。律令国家はこの王臣家荘に対する禁令を繰り返し発した。藤原時平 (ときひら)主導の902年(延喜2)の律令制振興策に含まれた延喜 (えんぎ)の荘園整理令もその一つである。王朝国家体制への転換によって諸国国内に「名 (みょう)」という徴税単位が設けられたが、そこでは富豪の輩の勢力範囲も「名」とされ、国衙 (こくが)支配下に位置づけられることになった。
臨時雑役免除の荘園と領域開発の動き
前期王朝国家期の社会的動向として注目されるのは、主として先進地域でみられた臨時雑役 (ぞうやく)免除荘園の激増と、全国的にみられた領域開発の動きである。まず臨時雑役免除荘園の激増であるが、王朝国家の税制体系は官物 (かんもつ)と臨時雑役とからなり、臨時雑役は国司が免除しうるものであった。畿内 (きない)・近国の在地集団は国郡から賦課されてくる臨時雑役を免れるため、ある一つの権門勢家・寺社と身分関係を結び、そこへの奉仕を口実に国司に対して臨時雑役の免除を要求し獲得したが、臨時雑役は田地について賦課・免除されていたので、こうして臨時雑役が免除された田地も荘園の一つであった。11世紀中期には、和泉 (いずみ)国(大阪府南部)の大多数、丹波 (たんば)国(京都府、兵庫県)の過半数が臨時雑役免除とされていた。このように臨時雑役免除の荘園は、在地の集団が能動的に臨時雑役を免れるための方策をとった結果であって、ここで臨時雑役免除とされた田地は彼ら在地集団が耕作している公田・墾田であり、その墾田は彼らが集団として身分関係を結んだ権門寺社に寄進していたものと考えられる。その後さらにその権門寺社が本来受給すべき国家的給付の代替として官物も免除されるようになると、臨時雑役免除の荘園であったものが一円領有の荘園となる。中世の畿内・近国の権門寺社領荘園の多くはこのようにして成立したものであり、一般的に在地領主をもたないタイプの荘園であった。
また10世紀末から11世紀にかけて全国的に荒廃田や未開地の開発が進められた結果、中世で所領といわれたものの原型が出現してきた。前期王朝国家体制下では「名 (みょう)」制度に規制されて開発田を領域として所有することができなかったが、新興の在地勢力を先頭に集まった農民たちは荒廃田や未開地を開発し、名目的に摂関家に寄進しその威を借りるなどして国郡司の介入を実力で排除していた。そしてこのような新開発地に公田耕作農民が流入したため既存公田が荒廃し、国司は荒廃公田対策に苦しむようになった。11世紀40年代に行われた後期王朝国家体制への転換によって新興在地勢力の領域が公認されたのは、この新興在地勢力を先頭とした新開発の動きを非合法のままで抑圧しようとすれば、もはや国司の任国内支配が維持できなくなったからである。かくて新興在地勢力は、その開発地を新たな行政単位として公認されてその郡司・郷司に補任 (ぶにん)され、一転して国衙支配の一端に位置づけられることになった。彼ら新興在地勢力が中世の武士となっていくのだが、武士たちはこのように郡司・郷司に任命されることによって所領内部の支配を固めることができたのであり、平安末期に武士が台頭してくる基盤はここにあったのである。またこのように新たな郡・郷・保などの行政単位が設定された裏には中世的な村落が形成されつつあったことがあり、これら新行政単位が中世荘園の基となるのであった。
中世的所領・荘園の構造
新興在地勢力が郡司・郷司に任命された新行政単位は、その郡司・郷司ら在地領主の立場からいえば所領というわけであるが、その所領内の農民たちは、一般的には在地領主に身分的に従属しない独立的存在であった。在地領主は身分的に従属する所従や下人を多く従えていたが、百姓に対して身分的にはもともと対等であった。ただ彼らは郡司・郷司に任ぜられて国衙行政権をもつがゆえに、その行政単位のなかで百姓たちに公権力で臨むことができた。だからもともと在地領主の支配基盤はあまり強いものではなく、領域内外に存在する同質の在地有力者に郡司・郷司の職を奪われる危険性をもっていた。所定の官物・雑役を国衙に進納できなかったならば国司から所職を改替されてしまうのである。国衙に対する職務を勤めている限り彼らがもつ郡司・郷司の職を子孫に相伝することができたが、その内実は危険に満ちたものであった。
このような中世的所領の構造はそのまま荘園の構造に通ずるものであり、荘園となると彼ら在地領主は荘官(在地荘官の最高責任者は一般に下司 (げし)とよばれた)となったが、やはり同様に改替される危険に脅かされていた。荘園の内部で「名 (みょう)」という固定的な徴税組織が出現してくるのはほぼ11世紀末から12世紀にかけてのころであるが、それは、かつて前期王朝国家の諸国国内で「名」という徴税単位が設定されていたのを、荘園の内部で模倣したのであり、ここに出現した荘園内の「名」は中世後期に至るまで固定するのが常であった。
荘園や公領諸所領の存在形態には地域差がある。たとえば11世紀中期以降の新しい国内行政単位のあり方でも、中部地方東半部から関東・東北地方にかけては郡が基本であり、中部地方西半部から西では郷が行政単位になる性格が強い(郡が行政単位となっていても、その内部で郷の存在が失われていない)。一般に先進地域の荘公所領では在地領主が存在せず根本住人といわれる有力農民たちが村落内を主導するタイプが多く、辺境地域では公権力をもつ在地領主が一族を領域内の各地に配置して強力な支配を行うタイプが多い。一般的には在地領主の下に、在村地主や、名主・在家である平百姓がいて、この在村地主や平百姓が「住人」とよばれて村落構成の中核をなし、彼らも若干の所従・下人を従えていた。平百姓の下位に位置する小 (こ)百姓は不安定な小農民であった。ただしこれらの村落内身分は固定的ではなく流動的なものがあった。中世的所領が出現して荘園制が展開していく過程で、在地領主が領域内の支配基盤を強化するため、平百姓を身分的に従属させようとした。平百姓たちはその在地領主の動きに反発し、両者の対立が次の鎌倉時代を通じて社会問題となっていく。
経済の諸問題
農業においては二毛作が12世紀に行われていた。12世紀初期に伊勢 (いせ)国(三重県)で水田の裏作に麦を植えていたことを示す史料があり、農民の生活の向上を促進したものと思われる。平安後期には商工業の発展の跡がうかがわれ、権門寺社が商工業者を従えるようになっていた。11世紀中期には諸官衙や王臣家の召使い・雑色人 (ぞうしきにん)たちが私機を構えて綾 (あや)や錦 (にしき)を織り、私利をむさぼっているので、これを停止するよう禁令が出されている。「座」の初見は、1092年(寛治6)の史料にみえる山城 (やましろ)国(京都府中・南部)の八瀬 (やせ)里における村落の座の事例である。この八瀬里の座は青蓮 (しょうれん)院の支配下で、おそらく駕輿丁 (かよちょう)を奉仕して臨時雑役免除の特権を得ながら、生業としては薪 (たきぎ)売りをしていたものと思われる。また荘園内に、荘園領主が必要とする特定目的に奉仕する手工業者のための給田が設けられた事例が12世紀ごろからみえ始める。これらは荘園領主のために奉仕した事例だが、この背後には商工業の発展が推測されるのであり、平安末期にわが国で銭貨の流通が盛行した事実はそれを裏づける。わが国では皇朝十二銭の鋳造が958年(天徳2)の乾元大宝 (けんげんたいほう)を最後として、以後は行われなかった。が、11世紀ごろから宋 (そう)銭や唐銭が輸入され始め、1179年(治承3)には、近ごろ天下の上下にわたって銭の病がはやっている、と記されるに至った(『百練抄 (ひゃくれんしょう)』)。
民衆の生活
菅原道真 (すがわらのみちざね)が讃岐守 (さぬきのかみ)として赴任した886年(仁和2)から4年間に、彼が讃岐国(香川県)の人々の暮らしを同情してつくった「寒早 (かんそう)十首」(『菅家文草 (かんけぶんそう)』巻3)に次のようなものがある。租税を免れるため本貫 (ほんがん)の地を離れて他国に流浪する浮浪人は、かえって逃れ先で税を責め取られている。鹿 (しか)の皮の着物も破れ、円形茅葺 (かやぶ)きの家一間を住まいとし、子を背負い妻を連れて物ごいに歩いている。賃船を生業とする人はまったく土地ももたず、風波の激しい日にも棹 (さお)を操っているが、彼らの望みはただ雇われる機会が多いことだけである。漁業を生業とする人は釣り糸が切れないかと心配しながら魚を釣り、それを売って租税にあてるので、天気や風向きばかりが気がかりである。塩を売る人は海水を煮る仕事に命をすり減らしている。讃岐の風土は製塩に適してはいるが、豪族が利益を独占するので、人々は港で官人に何度も事情を訴えている。国の薬草園で働く人々は賦役として薬草を弁別する作業に従事しているが、わずかの量でも欠けると鞭 (むち)で打たれる。ここには農業以外の生業で暮らす人々のありさまも記されていて興味深いが、浮浪人に対する取締りはこの時期までのことであった。「田堵 (たと)(田刀)」という用語は平安時代にだけみられたものであるが、その史料的初見は859年(貞観1)の元興寺 (がんごうじ)領近江 (おうみ)国(滋賀県)愛智荘 (えちのしょう)検田帳である。そこでは元興寺から遣わされた田使 (でんし)が、田刀ら農民が元興寺田として登録されていた田を他領としてしまい、元興寺に地子 (じし)を納めていないことを追及する。田刀とは耕作農民のなかで彼らを代表する立場の者をいうが、田使の追及に対し在地の実情に即して巧みに反論し、田使がようやく寺田を回復するまで10年余りを要したのであった。11世紀には一般に「田堵」と記されているが、それは農業経営に熟達している者という意味である。土地の慣習に詳しい代表者格の者を「旧老田堵」と称した例もあるが、また国から国へと渡り歩きながらその農業経営技術で荘田経営を請け負っている実例もみられる。
平安時代には百姓が国司の非法を訴えることも多かった。もともと国司は国家の地方行政を現地で執り行う強大な権限をもっているのだが、百姓の側にも国司の不正を中央に訴える権利が認められていた。9世紀初期弘仁 (こうにん)年間(810~824)に伊賀国(三重県北西部)百姓がそれを行った実例があるが、9世紀末から10世紀初めにかけて国司を訴える動きが高まっていたことが三善清行 (みよしきよゆき)の『意見封事十二箇条』に記されている。その一例として、834年(承和1)から翌年にかけて佐渡国(新潟県)の百姓が、国司が余利を求めて旧館を捨てて新館をつくったり、海浜山沢の利をひとりむさぼるなどをあげて訴えている。次の高まりが10世紀後期から11世紀前期の時期にみられたことは前述した(「政治・外交」参照)。これら諸国の百姓が国司を訴えた事件の高揚期がいずれも国家支配体制転換の直前であったことは注目される。そして両時期とも百姓の上訴によって国司たちが大きな打撃を受けていたのであった。
945年(天慶8)京では東西の国々から諸神が入京するという噂 (うわさ)が広まっていた。その神の名は志多羅 (しだら)神とか小藺笠 (こいがさ)神とか八面神とかいわれていた。7月末になって志多羅神と号する神輿 (しんよ)三前 (まえ)が数百人の人々に担がれて摂津(大阪府、兵庫県)の河辺 (かわのべ)郡から豊島 (てしま)郡に入ってきた。その神輿は、菅原道真の霊を祀 (まつ)った自在天神の額がかかったものと、宇佐春王 (うさはるおう)三子と、住吉神との三前であった。そこへ道俗男女貴賤 (きせん)老少を問わず群衆が集まってきて昼夜を分かたず踊り狂った。そして歌舞のなかを神輿は東方の島下 (しまのしも)郡へと向かったが、この間に新たに神輿三前が加わったようで、群衆の数も数千、数万と増大して山崎郷に至り、さらに石清水八幡宮 (いわしみずはちまんぐう)に入って大群衆が奉幣し歌舞した。この間、群衆は志多羅の神の名を詠み込んだ歌をうたっていたが、それは農民の祝い歌であって、その文言の一部分は田遊 (たあそび)の歌として現在までも伝えられている。このようなことは1012年(長和1)にもあり、鎮西 (ちんぜい)から設楽 (しだら)神が上洛 (じょうらく)している。かような現象は、それまでの地域的・封鎖的な信仰を破って、広く一般民衆の信仰へと拡大したものであり、また「荒田開かむ」などという歌詞は、そのころ農村の主導的地位にあった田堵たちの積極的な動きを表現したものであった。
先述した菅原道真の「寒早十首」のなかに漁業を生業とする人々を描いたものがある。彼ら海民のなかには、あるいは天皇に御贄 (みにえ)を貢進する供御人 (くごにん)となったり、あるいは諸社の神人 (じにん)となって奉仕するかわりに特権を保護されている者もあったが、彼らは田畑をもつことなく、海上で生業を営んでいた。ところが11世紀後期ごろから、これら海民のなかで、定着して田畑をも耕作するもの、漁獲物の交易によって商業を行うもの、船による輸送に重点を置くものなどが分化してくる。このことは社会的分業が発達してきたことの現れであった。
文化
唐風文化の受容による達成
大陸文化の吸収・消化に努めてきた日本では、9世紀にはその度が進み、大陸文化形式による文化的表現を行うようになってきた。最澄 (さいちょう)と空海 (くうかい)は同時に入唐 (にっとう)し、最澄は天台宗を伝え、空海は真言密教を学んで帰国し真言宗を開いた。天台宗も密教の色彩を濃くしていき、鎮護国家と現世利益 (りやく)の秘密修法を国家的・政治的な要請によって修し盛行したが、その後、王朝国家体制に転換した10世紀ごろからは、貴族の個人的要請によって貴族の日常生活のなかに入っていくようになるのである。一方、仏教は9世紀には本格的に地方に浸透してゆくようになり、地方における造寺・造仏は一段と盛んになった。神仏習合の動きがこの時期に顕著になるのは、旧来の共同体が解体に向かって、仏教が民衆のなかに浸透しつつある過程でみられるもので、それに伴って神の観念も変化して神に人格的な性格が現れ、祖先神として歴史上の人物を祀 (まつ)ることもみられるようになった。9世紀には、漢文学や法典その他で日本の人々が著作を出すようになってくる。9世紀前期には、漢文学の教養は「文章は経国の大業」として『凌雲 (りょううん)集』『文華秀麗 (ぶんかしゅうれい)集』『経国集』らの勅撰 (ちょくせん)漢詩文集が編纂 (へんさん)され、法律関係では、養老令 (ようろうりょう)の解釈を国家的に統一した『令義解 (りょうのぎげ)』が出された。9世紀後期には『田氏 (でんし)家集』『紀家 (きけ)集』『菅家文草 (かんけぶんそう)』『菅家後集 (こうしゅう)』など私家漢詩文集が出され、漢文学の形式をとりながら日本人の感情を表現する日本漢文学の作品が現れてきた。また一時は漢文学隆盛の陰になっていた和歌も9世紀後期には表面に現れてきて六歌仙が出た。仏像彫刻の面では、奈良時代と変わってこの時期には一木造が主流となり、また密教の流行に伴って密教的な彫刻が現れ、曼荼羅 (まんだら)が作成されたが、そこには密教絵画の技法がみられた。書では空海、嵯峨 (さが)天皇、橘逸勢 (たちばなのはやなり)の「平安の三筆」が出た。
国風文化
10世紀ごろから世に国風 (こくふう)文化といわれるような日本の風土や人々の感情から生み出された文化が各分野で現れてくるが、長い間大陸文化を摂取してきて、これを自らのものとして駆使するに至ったことを示す。10世紀の初め唐が滅亡し、ついで朝鮮半島でも新羅 (しらぎ)にかわって高麗 (こうらい)が建国したが、このような政治情勢のもとで大陸から文化的な強い影響を受けることがなかったことも関係があったであろう。仮名の成立は国風文化の形成を象徴するものである。もともと漢文は日本の言語と関係のない文章表現であったが、その漢字を使って日本の言語を表現する手法はすでに万葉仮名として使われていた。この手法の延長線上で字形がくふうされてきたのである。片仮名は仏典などの漢字を読む際に便宜的に使われ始めていた。また万葉仮名を記すにあたって漢字を草体に崩した草 (そう)仮名が使われ始めていたが、両者ともしだいに整理され、草仮名の系が平仮名になって、10世紀初期には仮名が成立した。905年(延喜5)に撰上された最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』が仮名で記されていたことは、仮名が勅撰集に用いられたということで歴史的意義をもつものであった。以後「三代集」と称されるような勅撰和歌集が相次いで撰進され、自由な文章表現ができることから私的な場で日常的に使われるようになっていった。それに伴って『竹取物語』『伊勢 (いせ)物語』『大和 (やまと)物語』などの物語が著されてきたが、ここでは私的世界の細かい感情が、和歌の表現と違ってストーリーとして構成された物語という形式で表現されたのであった。摂関時代に現れた『枕草子 (まくらのそうし)』『源氏物語』は文学の最高級の作品とされている。このころも漢文が公的な地位を占めていたのであるが、漢詩と和歌とが同じ場で詠まれるようになり、また朗詠が流行するなかで、漢詩とその趣 (おもむき)にあった和歌とをあわせ載せた『和漢朗詠集』が撰された。この時期の書では三蹟 (さんせき)といわれた小野道風 (おののとうふう)、藤原佐理 (すけまさ)、藤原行成 (ゆきなり)が出て、行成の草仮名の書など国風の趣を強めた。
建築では日本の風土に適した構造の寝殿造ができて、そのための装飾として内部に置かれた障子や屏風 (びょうぶ)には、日本の題材を描いた大和絵 (やまとえ)が現れてきた。仏教では、密教の修法 (しゅほう)が王朝世界で行われる一方で、天台教学のなかから生まれた浄土教が流行した。10世紀に空也 (くうや)が京の市井で念仏を説いたが、10世紀末に源信 (げんしん)が著した『往生 (おうじょう)要集』は僧侶 (そうりょ)や貴族たちの間で広く読まれて浄土教の社会的流布に大きな役割を果たした。11世紀に政治的・社会的不安が深刻化してくると末法思想が僧侶のみならず貴族や地方の人々にも広まり、1052年(永承7)に末法に入るという説が絶望感をあおった。かくて極楽 (ごくらく)浄土への願望が強まり、貴族たちは阿弥陀 (あみだ)堂をつくって極楽浄土を現出しようとし、それが彼らの日常生活の場として使われるまでになったが、そこにみられた絵画や彫刻などで浄土教芸術が展開した。藤原頼通 (よりみち)がつくった宇治の平等院鳳凰 (ほうおう)堂は当時のおもかげを伝えるもので、堂内の阿弥陀如来 (にょらい)像は定朝 (じょうちょう)の作であって、このころ完成されてきた寄木 (よせぎ)造の手法によるものである。寄木造によって、一木造ではできない大型の仏像をつくることが可能になり、また仏師の集団が組織されて、分業によって製作することができるようになった。
地方への関心と文化の地方伝播
後期王朝国家体制への転換は諸国で新興在地勢力が台頭してきた結果であるが、それは、既存の国家支配秩序に安住していた貴族にもはや昔日の夢を追うことはできないことを告げ知らせたものであった。院政期ごろには、王朝貴族文化の世界に地方社会への関心がみられるようになるとともに、文化が地方に及んでいった。『栄花 (えいが)物語』の正編は長元 (ちょうげん)(1028~37)ごろの成立と考えられているが、続編や『大鏡 (おおかがみ)』の成立は摂関時代より後の成立と推定されている。ここでは摂関家の全盛が物語で叙述されており、急激な社会情勢の変化のなかで歴史を回顧する貴族たちの意識が観取される。一方、台頭してきた武士の世界を述べた『陸奥話記 (むつわき)』や、『日本霊異記 (りょういき)』の系譜を引きながらも新たに武士や庶民たちの社会の題材を加えた『今昔 (こんじゃく)物語集』が現れ、後白河 (ごしらかわ)法皇の編著である『梁塵秘抄 (りょうじんひしょう)』には広い地域の広範な階層の人々の今様 (いまよう)歌謡群が収められている。院政期に京の文化が地方に及んでいったことを示す好例として次のようなものがある。奥州平泉の中尊寺金色 (こんじき)堂は、この地方を支配した藤原氏三代の栄耀 (えいよう)のさまをいまにしのばせるものである。また西においては豊後 (ぶんご)国富貴 (ふき)寺の阿弥陀堂がある。安芸 (あき)国厳島 (いつくしま)神社は、平氏の熱烈な信仰を受けたことから、平氏全盛期に上皇や貴族の厳島参詣 (さんけい)が流行し、急速に歴史上にクローズアップされてきた。同社に伝えられてきた平家納経は豪華な装飾経で、平氏一門全盛期の栄華と平安文化の絢爛 (けんらん)さをしのばせる。