日本史の時代呼称の一つ。8世紀末から12世紀末に至る400年間を政権の所在地平安京によって名づけたもの。その始期および終期については,いろいろな考え方が可能であるが,政治の画期に重点をおくと,平安京を開いた桓武天皇の即位の年,781年(天応1)を始点とし,平氏滅亡,守護・地頭設置,朝廷改革により,源頼朝が鎌倉政権を確立した1185年(文治1)を終点とするのが穏当であろう。さらにこの400年は,10世紀初頭の醍醐天皇の治世と,11世紀後半に入った後三条天皇の治世とを境として,前期・中期・後期に分けられるが,またおもに社会経済史的な観点から,前期と中期の境を古代史上の画期とし,中期・後期を古代末期と称することもあり,別に中期以降あるいは後期を中世に入れる見解もある。
まずこの時代の国内政治の推移を概観すると,称徳女帝の治下,皇位をめぐる暗闘と仏教政治により,律令支配体制は動揺し,これに危機感をいだいた律令官僚貴族藤原氏は,女帝の死去を機に,政局の転換を図った。藤原氏は天智天皇の皇孫光仁天皇を擁立し,皇統は天武系より天智系に移って,朝政刷新の気運が朝廷の内外にみなぎった。10年余の光仁朝の後を継いだ桓武天皇は,引き続いて仏教政治の払拭と律令政治の振興に努めたが,さらに旧体制からの脱却を決定づけるため,新都経営に着手した。すなわち長岡京の造営であり,さらに多少の曲折を経て,794年(延暦13)の平安遷都に実を結んだ。また前代以来の蝦夷の反乱に対し,天皇は坂上田村麻呂を登用して積極的な征戦と鎮定策を講じ,以後長く大規模な蝦夷の反乱は跡を絶つに至った。しかし長期にわたった造都と征夷が,財政と民生を圧迫したことは否定できず,桓武天皇の没後即位した平城天皇は,財政の緊縮と民政の振興に鋭意努力した。ただその反桓武朝的な政治姿勢が,譲位後にかかわらず,平城遷都を嵯峨天皇に強要するに及び,いわゆる薬子の変を引き起こし,平城上皇は落飾出家して政界から引退せざるをえなくなった。
この騒動を克服した嵯峨は,以後30年にわたり天皇あるいは上皇として宮廷に君臨し,平安宮を〈万代の宮〉と宣言して,平安王朝の基盤を確立した。嵯峨朝に始まる格式(きやくしき)と儀式の編纂は,中国生れの律令と儀制を日本の風土になじませ,やがて公家法と有職故実(ゆうそくこじつ)の世界に引き継がれた。また新設の蔵人所(くろうどどころ)と検非違使(けびいし)は,後世まで永く重要な機能を果たし,貴族政権に大きな地位を占めた。一方,嵯峨天皇の腹心として活躍した藤原冬嗣は,廟堂における北家藤原氏の優位を確立し,冬嗣の後を継いだ良房は,承和の変を機として,伴氏,橘氏等を朝廷から排除し,冬嗣の外孫文徳天皇を皇位につけることに成功した。ついで良房は人臣最初の太政大臣に任命され,その外孫清和天皇が幼少で即位するや,事実上執政の権を握り,さらに866年(貞観8)応天門の変を機に摂政の詔をこうむり,藤原摂関制へ道を開いた。
しかしその道は必ずしも平坦ではなく,宇多天皇の強烈な抵抗にあい,醍醐天皇の親政の意欲の前に,しばらく足ぶみせざるをえなかった。宇多天皇は生母班子女王とともに,藤原氏の後宮支配を抑制する一方,橘広相,菅原道真らを登用して藤原氏の専権を防ごうとし,醍醐天皇は諸政の刷新に熱意をもやした。ただ〈延喜の治〉とたたえられた治績も,格式や国史の編纂などに律令政治の最後の花を咲かせたのにとどまり,有名な荘園整理令も,これを境として中央政府の地方支配を後退させた。醍醐の没後まもなく起きた平将門の乱と藤原純友の乱は,朝廷に大きな衝撃を与えたが,これを〈承平・天慶(てんぎよう)の乱〉と名づけて,歴史の転換の標識とするのも理由なしとしない。946年(天慶9)即位した村上天皇は,朱雀朝以来の関白藤原忠平が没すると,摂関を置かず,忠平の2子実頼・師輔兄弟を左右大臣に配し,醍醐皇子重明親王や源高明を重用し,それらの協調の上に20年に及ぶ宮廷の平和と安定をもたらし,後世〈天暦(てんりやく)の治〉とうたわれる治世を現出した。しかしその間,忠平の妹である母后穏子,師輔の女皇后安子の後宮支配はいよいよ強まり,藤原氏全盛への地ならしが着実に進められた。また960年(天徳4)の内裏焼亡は,天皇に大きな挫折感を味わわせたばかりでなく,朝廷の矮小化の糸口を開くものとなった。
村上天皇についで即位した冷泉天皇は病弱のため,実頼が関白となって摂関制は再出発したが,師輔の後継者たちは,左大臣源高明を前途の障害になるとみて,969年(安和2)安和(あんな)の変を起こして高明を失脚させた。こうして他氏排斥に終止符をうった藤原氏は,やがて摂関の座をめぐって骨肉の争いを展開した。そして一時は兄兼通のもとに雌伏していた兼家が,兼通の没後,機をとらえて花山天皇出家事件を演出し,外孫の一条天皇を位につけ,待望の摂政の座についた。しかも兼家は右大臣を辞して,初めて無官の摂政となり,摂政を太政大臣以下三公の上に立つ最高至上の地位に押しあげた。ついで兼家の没後,摂関の座はその子道隆・道兼・道長および道隆の子伊周の間で激しく争われたが,結局は道長が最後の勝利をおさめて政権を握った。もっとも道長は,外孫後一条天皇の即位後短期間摂政に就任するまで,一条・三条両朝においては摂政にも関白にも任ぜられず,内覧宣下をうけた左大臣の地位にとどまった。しかしその地位は,関白に准ずる輔弼(ほひつ)の臣と,公事執行の権を握る一上(いちのかみ)の座を併せもつものであり,時人から摂政・関白に異ならずと評された。たしかに幼帝の代行者である摂政と,成人天皇を補佐する関白とは,制度上異なるところはあるが,摂関政治は,摂政ないし関白が朝廷を掌握し,主導する政治形態であるから,実際政治のうえでは両者の間に決定的な差異はなく,道長の例はその証左ともなる。道長は頼通に摂政を譲った後も,〈大殿〉と呼ばれて政治の実権を握り,政局の安定が続いた。それを支えたのは,道長の女子たちによって後宮を独占し,天皇をも一家のうちにとりこんだ外戚体制にほかならない。しかし外戚体制は,危険な両刃の剣でもある。道長の後を継いだ頼通・教通らは女子に恵まれず,ついに外戚の地位を維持することに失敗し,1027年(万寿4)道長が没すると,摂関家の勢威は急速に下降線をたどった。
そして1068年(治暦4)即位した後三条天皇は,宇多天皇以来170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇であった。その治世はわずか5年足らずであったが,天皇が強力におし進めた新政は,歴史の流れを大きく変えることになった。荘園整理令と記録荘園券契所の設置,宣旨斗の制定,皇室経済の再編と充実などがそれである。しかもこの新政は,権門勢家の上に立つ天皇の全国支配権を強く印象づけることになった。これを受け継いだ白河天皇親政期においても,朝廷は引き続き天皇を中心として回転し,院政成立の素地を作った。
いわゆる院政は,白河天皇のいだいた皇位継承の構図を実現することを目的とした譲位が契機となって始まったが,さらに1107年(嘉承2)堀河天皇の没後,幼少の鳥羽天皇が践祚するや,白河上皇の執政はいよいよ本格化し,常態化した。しかし院政といっても,特別の執政機関があったわけではなく,上皇は旧来の政治機構の背後にあって,それに指示と裁断を与え国政を動かしたのである。その上皇の耳目となり,手足となって活躍したのが,当時〈院近臣〉といわれた中・下級廷臣である。そして律令軍制が崩壊したなかで,武士を院の北面に伺候させるという形で掌握し,政権の支えとしたのは院政の大きな特色であり,これを巧みに利用して急速に台頭したのが平氏である。伊勢の中小武士団の首領にすぎなかった平正盛は,所領寄進などを媒介として白河上皇に結びつき,その子忠盛は北面の武士の統率者の地位を獲得し,さらに鳥羽院政下では有力な院近臣の一員にまでのし上がった。これに対し,源氏は義家没後の内紛や,その後継者為義の政治的才能の貧困により,平氏に勝るとも劣らない武力を持ちながら,中央政界においては劣勢を余儀なくされた。一方,貴族社会では,専制的な上皇の執政のもとで,旧来の慣行は無視され,秩序は乱れ,ついには恣意的な皇位継承が皇室や摂関家の内紛をよび起こし,武士を引きこんで抗争するまでに至った。
1156年(保元1)の保元の乱がそれで,騒乱は半日で終わったが,平安京創設以来初めての市中の合戦は,世人に大きな衝撃を与えた。この乱によって,武士の政治的立場は飛躍的に高まり,ことに源氏が為義・義朝父子の相克により大きな損傷を受けたのに対し,平氏は清盛を筆頭にして一族が朝廷に進出し,さらに平治の乱(1159)によって,源氏の勢力を都から一掃し,中央・地方の軍事権を掌握した。ただ清盛は独自の武家政権の樹立を志向せず,みずから太政大臣にのぼったのをはじめ,一門を朝廷の要職に配し,さらに女子の徳子を高倉天皇の皇后とし,外孫安徳天皇を位につけるなど,かつての藤原氏と同様の手法をもって政権の掌握を図った。この公家の外被をまとった武家政権に対し,危機感を強めた旧勢力は,おのずから後白河上皇のもとに結集し,なかでも強大な武力を誇る南都北嶺の寺社勢力は,反平氏的行動を強めていった。平安後期に入って,寺院の俗界進出,所領拡張運動は激化し,その尖兵として活動した僧兵の横行には,院政政権も手を焼き,源・平両氏の武力をもって鎮圧するほかなかった。しかし王法・仏法の守護を標榜する寺社勢力が,新興武士勢力の政権に危機感を高めたのは当然である。ことに万代の王城を捨てて摂津福原に遷都した清盛の行動は,彼らの反平氏運動に拍車をかけた。源頼朝をはじめ各地の源氏は,好機到来とみて兵を挙げ,1181年(養和1)清盛が没すると,その2年後には早くも平氏は都から追い落とされて西海に浮かび,85年(文治1)壇ノ浦の合戦に敗れて滅亡し,頼朝の鎌倉政権が確立するに至ったのである。
この時代の社会経済の動向は,一言でいえば律令的土地制度の崩壊と,それを背景とした武士勢力の台頭であろう。律令的土地制度の根幹は,いうまでもなく班田制であるが,口分田の班給は,800年(延暦19)の班田を最後として急速に廃退し,それに伴って調庸の欠負未進も常態化した。桓武天皇は勘解由使(かげゆし)を新設し,交替式を編纂して,国司の施政を督励したが,班田制の維持は年を追って困難になった。一方,貴族・社寺および富裕農民の土地兼併はますます進展し,皇室もこれに対抗して後院領以下の勅旨田を盛んに設定したため,公田はいよいよ減少して輸租の減退を招いた。また班田制と表裏をなす戸籍制度も崩壊し,課役の逃避が常態となった。さらに中央官司も財政の窮乏に苦しみ,その公用を支えるため,879年(元慶3)畿内5ヵ国に4000町の官田を設置し,ついでそれを諸司に配分したので,大蔵省などを中心とする財政の中央集権制が崩れ,さらに諸司が個別に領有する諸司田が広範に成立した。
そこで政府は,902年(延喜2)一連の荘園整理令を発し,国司の権限を強化し,荘園の増大を防ぐとともに,国司の検田によって国衙の基準国図に公田を登録し,公田の維持と租庸調の徴収を国司に義務づけた。しかしこれは中央政府が地方支配を国司に委任したことをも意味し,政府の統治力は地方から大きく後退することになり,以後地方の治安の乱れが慢性化する一因にもなった。またこの整理令は,一面では既設荘園の公認ともなり,国衙公田と荘園が併存する体制のもとで,富裕農民はいちだんと力をたくわえていった。彼らは国衙や荘園領主に官物・年貢を完納するかぎりにおいて,耕作権と下地進止権を保持し,空閑地や荒廃田の開墾に努めて治田を増やし,開発領主から武士への道を歩んでいった。また貴族社会においては,摂関政治の進展に伴い,公卿などの朝廷の上層部は,北家藤原氏や賜姓源氏に独占され,上流貴族と中・下流貴族の間の断層が深まって,階層分化が進んだ。
たび重なる荘園整理令にもかかわらず,権門勢家への荘園の寄進はいよいよ盛んになったが,律令俸禄制も頼りにならず,荘園の寄進にあずかることも少ない中・下級官人は,家学・家業を身につけて官司機構に足場を固める一方,実収の多い国司=受領(ずりよう)の地位の獲得に狂奔した。徴税請負人と化した受領は,一定の官物を中央に納めると,さらに収奪をほしいままにして私財をたくわえ,それを中央における活躍の支えとし,人事権を握る権門に財力奉仕して地位の維持を図り,任地の行政は在庁官人にまかせてかえりみなかった。こうして地方政治はますます荒廃し,在地豪族が随所に横行した。1027年(万寿4)ころから数年にわたって房総地方を荒らしまわった平忠常もその一人であり,奥羽の地も前九年・後三年の両役を経て,事実上奥州藤原氏の支配地域と化した。これら東国・奥羽の騒乱を鎮定したのは,頼信・頼義・義家の3代にわたる源氏で,この征戦を通じて源氏と東国武士との間には強固な主従関係が結ばれた。東国の有力な豪族は,広大な私領を開発し,在庁官人となって国衙機構に重要な地位を占め,強大な武力を擁する者が少なくなかった。彼らに棟梁として擁立された源氏が,近畿・西国の中小武士団を従える平氏に最終的に打ち勝った要因は,源・平両氏の率いる武士団の内容の差にあったともいえる。
この時代の初期は,唐風文化の最盛期といわれるが,前代以来中国から輸入された文物も,ようやく日本人になじみ,自前の漢詩文を創作する力を育てた。嵯峨天皇を中心とする宮廷では,《凌雲集》以下の漢詩集が相ついで勅撰され,唐礼を土台として《儀式》が編纂され,宮城の殿門も唐風の佳号がつけられた。また令制の大学では経書を講授する明経道を中心としたが,漢詩文の盛行を背景として,紀伝道が重んぜられるようになり,紀伝道中心の文章院が設立され,さらに藤原氏の勧学院のように,有力氏族の子弟教育機関も設けられた。中期に入って,和文・和歌の全盛期においても,漢詩文は廷臣必須の教養として重視されたが,その間,紀伝道は菅原氏・大江氏等の,明経道は清原氏・中原氏等の家学となり,学問専業化の道を開いた。
一方,和文・和歌は,9世紀末までに完成したかな文字の普及により,飛躍的な発展をとげた。905年(延喜5)《古今和歌集》が勅撰されてから,勅撰漢詩集に代わって勅撰和歌集がつぎつぎに撰集されたが,ことに《古今集》の仮名の序文は,和文が公式の場で認められたものとして,その意味は大きい。また仮名が女文字といわれた風潮と,藤原氏の外戚体制を背景として,後宮の女房を中心とする女流作家が輩出し,《源氏物語》《枕草子》などの名作を生み出した。しかし藤原摂関勢力の後退は,摂関家と後宮を活躍の場としてきた女房たちにも暗い影を落とし,よき昔をなつかしむ方向にむかわせた。道長の栄華をしのぶ《栄華物語》がその口火を切り,《大鏡》以下の〈鏡もの〉がこれに続いた。また同じころ,《今昔物語集》をはじめとする説話集が世に現れ,浄土信仰の盛行を反映して,往生談がその重要な部分を占めるとともに,地方や社会の下層からも多くの話が集められ,貴族の関心が広がっていく傾向を物語っている。その文体もかなの和文から漢文読み下しに近いかな交り文へ移り,さらにリズミカルな和漢混淆体の軍記物を生み出した。
つぎに目を宗教に転ずると,この時代の初め,入唐僧最澄および空海によって開かれた天台・真言二宗は,仏教界に新風を吹き込んだ。二宗は比叡山の延暦寺と高野山の金剛峯寺を拠点としたため,前代の南都仏教に対し,山岳仏教ともいわれるが,一面では祈禱を主とする密教の行法をもって,宮廷・貴族の精神生活に深く入りこんだ。しかし中期に入ると,天台僧徒の間に浄土思想がたかまり,《往生要集》を著して浄土信仰を説いた源信や,市中に阿弥陀念仏の功徳をとなえた〈市聖(いちのひじり)〉空也らの活動は,貴賤上下に大きな反響をよびおこした。さらに後期に入ると,1052年(永承7)を末法の初年とする末法思想が,災害や騒乱の頻発によって拍車をかけられ,人心は新しい救い,新しい仏教の出現を待ち望んだ。
また生活文化の面においても,この時代は民族文化の土台をきずき,その形成に大きく貢献した。朝廷の儀服は,唐風の礼服・朝服から,和様化した束帯・衣冠に移り,さらに着ごこちよい直衣(のうし)・狩衣が平常服となった。平安宮も大極殿以下朝堂院の殿舎は,瓦葺き・石畳の唐風宮殿であったが,居住区の内裏の殿舎は,檜皮(ひわだ)葺きに床板張の和風建築であった。これに系譜を引く貴族の邸宅は,寝殿を中心にして,前栽や築山,あるいは池を配し,自然を豊かに取り入れた寝殿造が普及し,屋内は障子や屛風で間仕切りして,大和絵がそれらを飾った。
朝廷・貴族の年中行事も,唐風の強い令制の節日(せちにち)行事に日本の季節と風土が影響してしだいに姿を変え,さらに民間の習俗も取り入れられた反面,宮中の追儺(ついな)が民間の〈鬼やらい〉になったように,宮廷から民間に流布した行事もあり,上下相応じて民俗をはぐくんだ。ことに平安末期には,庶民の遊芸であった田楽や今様が宮廷社会でもてはやされ,そこにも次代の文化のいぶきを感じとることができる。
蝦夷征討も一段落した804年(延暦23),桓武天皇は二十数年ぶりに遣唐使を派遣し,これに同行した最澄と空海が,帰朝後それぞれ新仏教を興したことはよく知られている。ついで838年(承和5),また遣唐使が発遣されたが,この2度の遣唐使が持ち帰った唐の文物が,唐風文化の興隆に拍車をかけたことはいうまでもない。その後894年(寛平6),宇多天皇は菅原道真を遣唐大使に任命したが,道真の上奏によって派遣を停止したため,承和の使節が最後の遣唐使となった。遣唐使停廃の理由としては,航海の危険や唐国内の騒乱などが考えられるが,一面では唐や新羅の商船の来航がますます盛んになり,それによる文物の流入や僧侶の渡航も絶えず,遣唐使を派遣する必要が減退したことも確かである。また新羅の北,唐の東に接する渤海は,唐と新羅に対抗するため,奈良時代からしばしば使節を日本に送って親交を求めてきたが,8世紀後半には,朝貢に名をかりた交易の利を目ざして頻繁に来航するようになった。
ところが10世紀に入ると,日本の歴史が大きな転換を経験するのと時を同じくして,東アジアでも各地に変動が起きた。まず中国では,907年唐が滅んで五代十国の乱世に突入し,926年には契丹が渤海を滅ぼして遼を建て,935年には高麗が新羅に代わって朝鮮半島を統一した。ついで960年に建国した宋は,979年ようやく中国統一に成功した。この間,動乱の余波として,新羅の辺民がしばしば対馬や北九州を侵したので,日本は辺境の防備を厳にするとともに,対外交渉にいちだんと消極的になった。しかし大陸の情勢が安定した10世紀後半には,宋の商船の来航と日本僧の入宋が盛んになり,ことに11世紀後半には,北方の遼の圧迫に苦しむ宋の神宗が,国書を贈って積極的に対日接近を図り,日宋貿易もますます活発になった。その後1127年,宋は女真族の金に追われて南遷し,南宋として再建されたが,12世紀後半に入ると,平清盛の貿易振興政策によって,再び日宋貿易が盛んになった。日本から砂金,水銀や漆器,屛風,扇子などの工芸品,さらに刀剣類が輸出され,かの地で名声を博したことはよく知られている。中国からは高級織物や書籍などが輸入され,日本の貴族の間に珍重されたが,とくに大量に輸入された宋銭は全国に流通し,商業・経済の発達に大きな役割を果たした。
こうして10世紀後半以降,おおむね平穏な対外関係を保っていた間に,突発的に起きたのが,1019年(寛仁3)の刀伊(とい)の入寇である。これは遼の支配下にあった女真族の一部族が壱岐・対馬を襲い,北九州にも上陸して寇掠した事件であるが,大宰権帥藤原隆家をはじめ,在地豪族の奮戦によって,短時日の間に撃退することができた。その際,高麗は北走する賊船を迎え撃ち,多数の日本人捕虜を救出して九州に送り返してきた。日本と高麗との間には公式の国交はなかったものの,かの元寇に至るまでは,終始友好的な関係が続いたのである。
→院政 →古代社会 →摂関政治 →律令制
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