[現]相川町宗徳町
町部中心街約一・五キロ東方の標高一一〇メートルの山中の宗徳町にある。町北部へ注ぐ北沢川上流の右沢と左沢の渓谷の間に突出た台地上で、東は白子嶺と青野嶺、南は中山嶺、北は小仏峠に境し、西に日本海を見下ろす臨海鉱山。鉱床の主要脈である青盤・大立脈が鉱床帯南部を東西に、大切・鳥越脈が北部を東西に走る。一七世紀前半頃世界有数の銀山として知られた。古くは鶴子銀山(現佐和田町)と入川鉱山を支山とし、現在も稼行が続いている。
〔開発〕
「佐渡風土記」によると、慶長六年(一六〇一)に鶴子銀山の稼行人三浦治兵衛・渡部儀兵衛・渡部弥次右衛門の三人が、鮎川(現濁川)の川伝いに登り、父の山の湧上り(露頭)を掘り、多くの金銀を得たのが発見の端緒。手分けして六拾枚・道遊・割間歩を稼いだとする。しかし、豊臣秀吉の命で採鉱技術者を佐渡へ派遣する旨を記した文禄四年(一五九五)正月一七日の石田三成宛浅野長吉書状(舟崎文庫蔵)や慶長五年の羽田村検地帳(佐渡志)に「佐州海府之内羽田村金山町当起」と金山町の名がみえ、また鶴子銀山の百枚間歩と同時期に稼がれたとみられる六拾枚の坑名がみえるところから、慶長以前に鶴子山の一坑区として稼行が始まっていたとする説が強い。慶長八年大久保長安が佐渡支配となり、翌九年に鶴子の陣屋を相川に移して開発が本格化する。この前後の盛況を「当代記」慶長七年の項には「佐渡国に銀倍増して一万貫目上江被納」と伝える。長安は石見銀山(現島根県大田市)の宗岡佐渡・吉岡出雲らを手代として佐渡へ送り、御直山三六ヵ所を新規に開発させ、山主には俸米一〇〇俵と炭・留木・鉄・松蝋燭など必要な資材を与えた(佐渡年代記)。従来の請山制をやめて、出鉱高を一定率で山主分と公納分に振分ける荷分けの制度を採用して、山主を保護しつつ経営の支配権を強めた。一五五八年にメキシコ銀山で試みた水銀によるアマルガム製錬法を導入していたことが、長安手代の岩下惣太夫・草間内記らが記した慶長年間の川上家文書(相川郷土博物館蔵)にみられる。
元和四年(一六一八)鎮目市左衛門が佐渡奉行となり、銀山は幕府老中の支配下に置かれる。鎮目は山主への資材の官給制度をやめた代りに公納分を減らし、労働者や町人に二割安米の払下制度を採用。これによって米不安を解消し、労働力の確保に努めるなど実務型の経営策で産金高を増やした。翌五年の掟(佐渡年代記)には、「一山衆中の下人並大工・穿子の公事は、其組々に而年寄衆双方之理非を聞届扱可被相済、従雖為親類知音毛頭依怙贔免被致間敷候事」「一町人中之公事は、其町々之問屋・年寄・中使相談いたし扱可被相済事」「一在郷之百姓と山衆・町衆との公事は、其町々中使と談合ニ而可被相済事」と触れ、法度の運用をゆるめ、公事出入を自治組織にゆだねた。鉱山町は活気付き、諸山で砂金流しや柄山(捨鉱)拾いが、町人請負いで盛んに行われている(同年「鉱山の各番所への触状」同書)。この頃の盛況ぶりを「佐渡風土記」は「鎮目市左衛門殿支配十ケ年之間、銀山大盛前後ニ無之事也。一ケ年に御運上銀八千貫目余宛納ル。但寛永ニ移リ一年ニ八度・九度或ハ拾弐度杯江戸ヘ登リ候。一度の平均千三百貫目宛ト申伝候」と伝える。寛永(一六二四―四四)の後半期に入ると、乱掘と坑内湛水で出高は衰え、寛文三年(一六六三)から九年間の運上銀は七千七五九貫八〇〇匁余と、盛時の一年分にも満たない。最大の富鉱帯といわれた割間歩の稼行も、同六年には深敷による排水難でとまり、「多人数渡世を失ひ、追々餓死のもの三、四千人程に及びし故、今年より明年へかけ勝手次第他国出、相応の渡世に有付へき旨国中へ触出し、他国出の者髻に符印を附出せしとなり」という惨状を呈した。延宝八年(一六八〇)には「銀山内役家人家不残流失し、北沢・濁川迄の人家悉く押流し、諸間歩へ落込し水、割間歩敷内へ廻りて、樋百八拾弐艘の内百四十五艘迄水下となる」大雨が追打ちをかけている(以上「佐渡年代記」)。
元禄期(一六八八―一七〇四)になると、再び復興期が訪れる。元禄三年には、幕府勘定方の荻原重秀が佐渡奉行兼務となり、水没した割間歩の水を、地底伝いに相川港へ吐出させる南沢水貫間切の掘削に着手し、元禄七年の佐渡一国検地で増徴した年貢米の代金を、鉱山の立直しにふり向け、幕府から計一五万両の資金を鉱山に投入する積極策をとった。元禄一六年の上納銀は二千九八六貫四〇匁余で、荻原着任前の四倍近くにふえる。この頃を「元禄の大盛り」という。寛政(一七八九―一八〇一)から文化(一八〇四―一八)にかけて極端に衰微し、文化一〇年の上納銀は五七貫余となり、「役人始市中の困窮、思出候ても冷気を覚申候」(以上「佐渡四民風俗」)という退勢ぶりを呈した。文政(一八一八―三〇)の頃金沢瀬兵衛・泉本正助奉行は、島内富豪からの献金・借入金を銀山復興にあて、同一一年には越後水原(現北蒲原郡水原町)の富豪五人から三千両の寄付も得たが(佐渡国略記)、往時の繁栄をみることはなかった。
〔諸役運上〕
長安が採用した特色ある仕事に口屋(番所)の設営がある。慶長九年から島内のおもな港一一ヵ所に置かれ、諸国から入る物資・商品に取引価格の一割を、入役または十分の一役とよぶ関税を取立てた。「相川町誌」によると奥州の木材、京坂の衣料、越中・越後・庄内の米、九州の陶器、石見の紙・瓦、能登の酒などが入津したとし、寛永一七年に佐渡奉行伊丹康勝の留守居役衆から、島内の浦々横目衆に与えた触書(舟崎文庫蔵)に「急度申遣し候。御口屋の外より入役之儀は不及申、肴物成共一切出申間敷」とし、口屋を経ない諸色取引は前々から御法度であるとしている。入役は色役(現物)で徴収され、大間町の勝町でせり売りにし、奉行所の御金蔵に納めた。元和八年の一ケ年分諸番所御役並諸役納覚(佐渡風土記)によると、相川の大間町・柴町・上相川町・羽田町・材木町の五つの口屋の入役総額は、銀四〇五貫六二九匁余にのぼり、全島一一の口屋の六九・八パーセントを占める。この一〇倍の諸財貨を積んだ諸国廻船が相川めがけて入津したことがわかる。
「相川町誌」によると、往時の徴税帳に記された移入品は一千七〇〇余種を数えたとし、おもな品目として、米・大豆・石見紙・上下・金引芋・書物・短冊・深香・味噌・花蓙・蝋燭・鎧・鉄・篠竹・大麦・胡麻・糸縞・袈裟・和薬・法華経・掛物・梅干・鴨・砥石・物指・箪笥・寒天・干鰯の二八種目をあげる。入役のほかに特別な商品は請座制による運上金が取立てられた。たばこ座運上は「佐渡風土記」によると寛永一二年一千六五〇両・同一三年三千三五四両・同一四年三千六八三両など、正保元年(一六四四)まで連年の記録が残る。寛永一四年に伊丹奉行から佐渡留守居役に宛てた手紙(佐渡年代記)に「たばこ座上京町伏見長三郎せり申候。千五百両には申付間敷候。山田兵右衛門手代は千七百両、二千両迄にせり申候事」と、奉行がせり高を指示している。金銀製錬用の鉛の需要も大きく、元和六年に越中の清兵衛が一千五〇両で請負いを願ったが、山主の片山勘兵衛に同額で落札した記事(同書)がみえる。当時の鉛の船積地は、越後の村上であった。
〔貨幣の鋳造〕
島内通用として上銀や笹吹銀(秤量貨幣)が用いられていたが、元和五年から佐渡印銀の鋳造が始まり、弥十郎町に印銀役所が建てられる。「佐渡年代記」によると最初八〇〇貫目の吹立てがあったといい、銀山大工賃や租税は印銀決裁とした。品位は銀六分、銅・鉛四分(佐渡志)で、寛保二年(一七四二)の印銀相場は、慶長小判一両に対し六四匁だった。銀の他国流出を防ぐのに効果があり、他国廻船の取引には一般貨幣が用いられた。この印銀鋳造は宝暦一一年(一七六一)まで続いた。佐渡小判の鋳造は元和七年からで、それまでは山出しの筋金・砂金・灰吹銀が江戸へ上納され、小判にして佐渡に回漕されたが、輸送難や金相場の変動による損失が伴うため、金銀座請負人の後藤庄三郎手代の後藤庄兵衛・浅香三十郎ら小判師を呼び、奉行所内に後藤役所を設けた。「佐渡志」によると一枚の重さを四匁七分六厘とし、背面に「佐」の一字を彫ったという。元禄一五年には一万三千五一〇両の佐渡小判が運上の元高勘定に繰込まれている(佐渡年代記)。その後一時小判にせず延金のままで上納することもあったが、正徳四年(一七一四)から再び鋳造が始まり、文政元年の小判所廃止まで続いた。鋳銭(寛永通宝)は正徳三年に、江戸の商人糸屋八左衛門が職人四二人を引連れて来島、佐渡産銅の払下げを受け、下戸炭屋浜町に銭座を設けたのに始まる。収支が償えず一年で廃止したが、享保二年(一七一七)に一丁目浜町に官営の工場を建て、一年に一万貫文を鋳造した(佐渡年代記)。「佐渡志」によると銅・錫・鉛による合鋳で「一銭の重きこと一匁、大きさは文銭に似て背に佐文字あり」とする。元文五年(一七四〇)には一時鉄銭も鋳られるなど変遷があり、明治二年(一八六九)頃まで続いた。
〔産金輸送〕
御金荷の輸送記録は、元和九年に鎮目奉行が宰領役人須田権右衛門・志村五兵衛に宛てた道中心得書(佐渡年代記)が初見で、灰吹銀四千貫目を信州・甲州路を経て駿府(現静岡市)に上納しており、「甲州より駿府への道筋は難所にて用心あしく候間、盗人の用心・火の元無油断被致候」とし「銀附馬ころひ落さぬよふ念入可被申候」などとみえ、「御伝馬の御朱印は一疋に附三箱附の積り」とある。初期は将軍発行の御朱印による公儀御用荷物として送られ、宝永四年(一七〇七)の荻原奉行への上申書(佐渡相川の歴史)では、老中証文を取寄せて輸送に当たっている。江戸への輸送路は原則として信州路経由で無賃継立であり、輸送路に当たる諸藩は、近郷の村々に特別の夫役組織を課していた。小木湊(現小木町)から船出して、最初の上陸地で北国街道付出しの基点となる出雲崎(現三島郡出雲崎町)と、第一日目の宿泊地になる高田藩領鉢崎宿(現柏崎市)や高田宿(現上越市)などでは佐州御用掛役とよばれる御金荷陸揚げの人馬や在宿中の警固人足、費用の負担記録が残る(桑原孝「佐渡御金荷の輸送」)。上納金銀荷および奉行送迎用の御用船は、慶長八年八〇挺立の新宮丸・小鷹丸の二艘が紀州で造られ、辻将監と加藤和泉差配の水主一六〇人が御抱えになった(佐渡年代記)。同書によると元和六年にも四〇挺立の御運上船二艘と二〇挺立の小早船二艘が造られている。「佐渡国略記」には、御金荷が道中で紛失した記録が一例だけみえ、元禄元年一〇月、小木湊で船待ち中、小判一千五〇〇両入り一箱が盗難にあい、近隣羽茂(現羽茂町)へ通ずる小路脇の雪隠の壺から発見されたと伝えている。
明和三年(一七六六)の宰領役人矢ヶ崎藤吉・水品弥八の日記(麓三郎「佐渡金銀山史話」)によると、金銀一万四千三三五両余を八箱に、正銀五〇〇貫三七匁余を五〇箱に、灰吹銀三七〇貫三九五匁余を二八箱に詰め、馬四五頭で六月一四日相川を出立したとし、道順として小木・越後出雲崎経由柏崎・高田・堂尻・矢付新町を経て、善光寺・坂木・上田・小諸・軽井沢(現長野県)、松井田・高崎(現群馬県)、熊谷・浦和(現埼玉県)・板橋(現東京都)と北国街道・中山道をたどり、七月六日江戸へ着いている。
〔鉱山町の風俗〕
開坑とともに諸国から人が集まり上相川千軒・北沢千軒といわれる町が生れる。「佐渡年代記」慶長一五年条に「米穀は米屋町にて商買せしめ、炭薪は炭屋町・材木町、紙類は紙屋町にて商ひ、外にての商売を免さす、此頃他国より人多く来り住し故、京町より新五郎町辺の家々、皆三階作りになし世帯を別つといふ。南沢・北沢・水金沢・山之神辺なと空地もなく、谷々には吉野作りとて、大木を渡し其上に家を建、住居せしと也」とあり、同一九年条に「佐渡銀山近年繁昌し、京・大坂の遊女歌舞妓群集し、国々よりを継て来れる商客・金穿の夫是に耽り、財産を皆尽て故郷に帰ることを得さるによつて、必佐渡へ往ものは、本国にて三年を限りて帰るへし、其期を過は死没すと思ふへしと父母妻子に告て離別すと聞ゆ」と記す。宝暦期の「佐渡四民風俗」によると、上相川柄杓町に熊野比丘尼が数多く住み、町中を勧進し、売女同然の営みをしながら柄杓役(売春税)を公納していたと伝える。また「佐渡風土記」慶長一八年の項には「総山釜口(坑口)三百余口」と銀山の盛況ぶりを伝え、「銀山功者成者共御陣屋へ御召、御酒など被下、殊更於御広間賭事を御免御覧被成」とし、奉行が坑夫・金掘りの機嫌をとって作業能率の増進に努めた様子を伝える。能楽もこの頃伝わり「佐渡相川志」に「大久保石見守殿舞楽ヲ好ミ、和州ヨリ常太夫・杢太夫二人ヲ召ス。其外脇師・謡・笛・太鼓・大太鼓・狂言師等ニ至ル迄渡海シ来リ、山之内弥兵衛ト云フ処ニ住ス。石見殿陣屋ニテ能アリ。或ハ上相川大山祇(神社)等ニモアリ」とあり、「撮要佐渡年代記」寛永一三年の項には「相川春日社に初めて神事能行はる」とし、相川の能楽の広がりを伝えている。
〔近現代〕
明治維新後の明治二年に官行となり、翌三年工部省所管となる。英人技師ガワー、スコットら御雇外国人により火薬採掘、削岩機・揚水機など西洋の新技術の導入によって産額は伸びた。同二二年に宮内省御料局の所管に移り、同二九年に兵庫県生野鉱山とともに一七三万円で三菱合資会社に払下げられ、民営移管となった。現在三菱金属鉱業の子会社である佐渡金山株式会社佐渡鉱山の経営となり、月産金三・七キロ、銀六五キロを生産している。