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  11. 佐渡金銀山

ジャパンナレッジで閲覧できる『佐渡金銀山』の辞書・事典・叢書別サンプルページ

国史大辞典・日本歴史地名大系

日本歴史地名大系
佐渡金銀山
さどきんぎんざん

[現]相川町宗徳町

町部中心街約一・五キロ東方の標高一一〇メートルの山中の宗徳そうとく町にある。町北部へ注ぐ北沢きたざわ川上流のみぎ沢と左沢の渓谷の間に突出た台地上で、東は白子しらこ嶺と青野あおの嶺、南は中山なかやま嶺、北は小仏おぼとけ峠に境し、西に日本海を見下ろす臨海鉱山。鉱床の主要脈である青盤・大立脈が鉱床帯南部を東西に、大切・鳥越脈が北部を東西に走る。一七世紀前半頃世界有数の銀山として知られた。古くは鶴子つるし銀山(現佐和田町)入川にゆうがわ鉱山を支山とし、現在も稼行が続いている。

〔開発〕

「佐渡風土記」によると、慶長六年(一六〇一)に鶴子銀山の稼行人三浦治兵衛・渡部儀兵衛・渡部弥次右衛門の三人が、あゆ(現濁川)の川伝いに登り、てての山の湧上り(露頭)を掘り、多くの金銀を得たのが発見の端緒。手分けして六拾枚ろくじゆうまい道遊どうゆう割間歩わりまぶを稼いだとする。しかし、豊臣秀吉の命で採鉱技術者を佐渡へ派遣する旨を記した文禄四年(一五九五)正月一七日の石田三成宛浅野長吉書状(舟崎文庫蔵)や慶長五年の羽田村検地帳(佐渡志)に「佐州海府之内羽田村金山町当起」と金山きんざん町の名がみえ、また鶴子銀山の百枚間歩ひやくまいまぶと同時期に稼がれたとみられる六拾枚の坑名がみえるところから、慶長以前に鶴子山の一坑区として稼行が始まっていたとする説が強い。慶長八年大久保長安が佐渡支配となり、翌九年に鶴子の陣屋を相川に移して開発が本格化する。この前後の盛況を「当代記」慶長七年の項には「佐渡国に銀倍増して一万貫目上被納」と伝える。長安は石見いわみ銀山(現島根県大田市)の宗岡佐渡・吉岡出雲らを手代として佐渡へ送り、御直山三六ヵ所を新規に開発させ、山主には俸米一〇〇俵と炭・留木・鉄・松蝋燭など必要な資材を与えた(佐渡年代記)。従来の請山制をやめて、出鉱高を一定率で山主分と公納分に振分ける荷分けの制度を採用して、山主を保護しつつ経営の支配権を強めた。一五五八年にメキシコ銀山で試みた水銀によるアマルガム製錬法を導入していたことが、長安手代の岩下惣太夫・草間内記らが記した慶長年間の川上家文書(相川郷土博物館蔵)にみられる。

元和四年(一六一八)鎮目市左衛門が佐渡奉行となり、銀山は幕府老中の支配下に置かれる。鎮目は山主への資材の官給制度をやめた代りに公納分を減らし、労働者や町人に二割安米の払下制度を採用。これによって米不安を解消し、労働力の確保に努めるなど実務型の経営策で産金高を増やした。翌五年の掟(佐渡年代記)には、「一山衆中の下人並大工・穿子の公事は、其組々に年寄衆双方之理非を聞届扱可被相済、従雖為親類知音毛頭依怙贔免被致間敷候事」「一町人中之公事は、其町々之問屋・年寄・中使相談いたし扱可被相済事」「一在郷之百姓と山衆・町衆との公事は、其町々中使と談合ニ可被相済事」と触れ、法度の運用をゆるめ、公事出入を自治組織にゆだねた。鉱山町は活気付き、諸山で砂金流しや柄山(捨鉱)拾いが、町人請負いで盛んに行われている(同年「鉱山の各番所への触状」同書)。この頃の盛況ぶりを「佐渡風土記」は「鎮目市左衛門殿支配十ケ年之間、銀山大盛前後ニ無之事也。一ケ年に御運上銀八千貫目余宛納ル。但寛永ニ移リ一年ニ八度・九度或ハ拾弐度杯江戸ヘ登リ候。一度の平均千三百貫目宛ト申伝候」と伝える。寛永(一六二四―四四)の後半期に入ると、乱掘と坑内湛水で出高は衰え、寛文三年(一六六三)から九年間の運上銀は七千七五九貫八〇〇匁余と、盛時の一年分にも満たない。最大の富鉱帯といわれた割間歩の稼行も、同六年には深敷による排水難でとまり、「多人数渡世を失ひ、追々餓死のもの三、四千人程に及びし故、今年より明年へかけ勝手次第他国出、相応の渡世に有付へき旨国中へ触出し、他国出の者髻に符印を附出せしとなり」という惨状を呈した。延宝八年(一六八〇)には「銀山内役家人家不残流失し、北沢・濁川迄の人家悉く押流し、諸間歩へ落込し水、割間歩敷内へ廻りて、樋百八拾弐艘の内百四十五艘迄水下となる」大雨が追打ちをかけている(以上「佐渡年代記」)

元禄期(一六八八―一七〇四)になると、再び復興期が訪れる。元禄三年には、幕府勘定方の荻原重秀が佐渡奉行兼務となり、水没した割間歩の水を、地底伝いに相川港へ吐出させる南沢水貫間切みなみざわみずぬきけんぎりの掘削に着手し、元禄七年の佐渡一国検地で増徴した年貢米の代金を、鉱山の立直しにふり向け、幕府から計一五万両の資金を鉱山に投入する積極策をとった。元禄一六年の上納銀は二千九八六貫四〇匁余で、荻原着任前の四倍近くにふえる。この頃を「元禄の大盛り」という。寛政(一七八九―一八〇一)から文化(一八〇四―一八)にかけて極端に衰微し、文化一〇年の上納銀は五七貫余となり、「役人始市中の困窮、思出候ても冷気を覚申候」(以上「佐渡四民風俗」)という退勢ぶりを呈した。文政(一八一八―三〇)の頃金沢瀬兵衛・泉本正助奉行は、島内富豪からの献金・借入金を銀山復興にあて、同一一年には越後水原すいばら(現北蒲原郡水原町)の富豪五人から三千両の寄付も得たが(佐渡国略記)、往時の繁栄をみることはなかった。

〔諸役運上〕

長安が採用した特色ある仕事に口屋(番所)の設営がある。慶長九年から島内のおもな港一一ヵ所に置かれ、諸国から入る物資・商品に取引価格の一割を、入役または十分の一役とよぶ関税を取立てた。「相川町誌」によると奥州の木材、京坂の衣料、越中・越後・庄内の米、九州の陶器、石見の紙・瓦、能登の酒などが入津したとし、寛永一七年に佐渡奉行伊丹康勝の留守居役衆から、島内の浦々横目衆に与えた触書(舟崎文庫蔵)に「急度申遣し候。御口屋の外より入役之儀は不及申、肴物成共一切出申間敷」とし、口屋を経ない諸色取引は前々から御法度であるとしている。入役は色役(現物)で徴収され、大間おおま町のせり町でせり売りにし、奉行所の御金蔵に納めた。元和八年の一ケ年分諸番所御役並諸役納覚(佐渡風土記)によると、相川の大間町・しば町・上相川かみあいかわ町・羽田はねだ町・材木ざいもく町の五つの口屋の入役総額は、銀四〇五貫六二九匁余にのぼり、全島一一の口屋の六九・八パーセントを占める。この一〇倍の諸財貨を積んだ諸国廻船が相川めがけて入津したことがわかる。

「相川町誌」によると、往時の徴税帳に記された移入品は一千七〇〇余種を数えたとし、おもな品目として、米・大豆・石見紙・上下・金引芋・書物・短冊・深香・味噌・花蓙・蝋燭・鎧・鉄・篠竹・大麦・胡麻・糸縞・袈裟・和薬・法華経・掛物・梅干・鴨・砥石・物指・箪笥・寒天・干鰯の二八種目をあげる。入役のほかに特別な商品は請座制による運上金が取立てられた。たばこ座運上は「佐渡風土記」によると寛永一二年一千六五〇両・同一三年三千三五四両・同一四年三千六八三両など、正保元年(一六四四)まで連年の記録が残る。寛永一四年に伊丹奉行から佐渡留守居役に宛てた手紙(佐渡年代記)に「たばこ座上京町伏見長三郎せり申候。千五百両には申付間敷候。山田兵右衛門手代は千七百両、二千両迄にせり申候事」と、奉行がせり高を指示している。金銀製錬用の鉛の需要も大きく、元和六年に越中の清兵衛が一千五〇両で請負いを願ったが、山主の片山勘兵衛に同額で落札した記事(同書)がみえる。当時の鉛の船積地は、越後の村上であった。

〔貨幣の鋳造〕

島内通用として上銀や笹吹銀(秤量貨幣)が用いられていたが、元和五年から佐渡印銀の鋳造が始まり、弥十郎やじゆうろう町に印銀役所が建てられる。「佐渡年代記」によると最初八〇〇貫目の吹立てがあったといい、銀山大工賃や租税は印銀決裁とした。品位は銀六分、銅・鉛四分(佐渡志)で、寛保二年(一七四二)の印銀相場は、慶長小判一両に対し六四匁だった。銀の他国流出を防ぐのに効果があり、他国廻船の取引には一般貨幣が用いられた。この印銀鋳造は宝暦一一年(一七六一)まで続いた。佐渡小判の鋳造は元和七年からで、それまでは山出しの筋金・砂金・灰吹銀が江戸へ上納され、小判にして佐渡に回漕されたが、輸送難や金相場の変動による損失が伴うため、金銀座請負人の後藤庄三郎手代の後藤庄兵衛・浅香三十郎ら小判師を呼び、奉行所内に後藤役所を設けた。「佐渡志」によると一枚の重さを四匁七分六厘とし、背面に「佐」の一字を彫ったという。元禄一五年には一万三千五一〇両の佐渡小判が運上の元高勘定に繰込まれている(佐渡年代記)。その後一時小判にせず延金のままで上納することもあったが、正徳四年(一七一四)から再び鋳造が始まり、文政元年の小判所廃止まで続いた。鋳銭(寛永通宝)は正徳三年に、江戸の商人糸屋八左衛門が職人四二人を引連れて来島、佐渡産銅の払下げを受け、下戸炭屋浜おりとすみやはま町に銭座を設けたのに始まる。収支が償えず一年で廃止したが、享保二年(一七一七)に一丁目浜町に官営の工場を建て、一年に一万貫文を鋳造した(佐渡年代記)。「佐渡志」によると銅・錫・鉛による合鋳で「一銭の重きこと一匁、大きさは文銭に似て背に佐文字あり」とする。元文五年(一七四〇)には一時鉄銭も鋳られるなど変遷があり、明治二年(一八六九)頃まで続いた。

〔産金輸送〕

御金荷の輸送記録は、元和九年に鎮目奉行が宰領役人須田権右衛門・志村五兵衛に宛てた道中心得書(佐渡年代記)が初見で、灰吹銀四千貫目を信州・甲州路を経て駿府すんぷ(現静岡市)に上納しており、「甲州より駿府への道筋は難所にて用心あしく候間、盗人の用心・火の元無油断被致候」とし「銀附馬ころひ落さぬよふ念入可被申候」などとみえ、「御伝馬の御朱印は一疋に附三箱附の積り」とある。初期は将軍発行の御朱印による公儀御用荷物として送られ、宝永四年(一七〇七)の荻原奉行への上申書(佐渡相川の歴史)では、老中証文を取寄せて輸送に当たっている。江戸への輸送路は原則として信州路経由で無賃継立であり、輸送路に当たる諸藩は、近郷の村々に特別の夫役組織を課していた。小木おぎ(現小木町)から船出して、最初の上陸地で北国街道付出しの基点となる出雲崎いずもざき(現三島郡出雲崎町)と、第一日目の宿泊地になる高田藩領鉢崎はつさき宿(現柏崎市)高田たかだ宿(現上越市)などでは佐州御用掛役とよばれる御金荷陸揚げの人馬や在宿中の警固人足、費用の負担記録が残る(桑原孝「佐渡御金荷の輸送」)。上納金銀荷および奉行送迎用の御用船は、慶長八年八〇挺立の新宮丸・小鷹丸の二艘が紀州で造られ、辻将監と加藤和泉差配の水主一六〇人が御抱えになった(佐渡年代記)。同書によると元和六年にも四〇挺立の御運上船二艘と二〇挺立の小早船二艘が造られている。「佐渡国略記」には、御金荷が道中で紛失した記録が一例だけみえ、元禄元年一〇月、小木湊で船待ち中、小判一千五〇〇両入り一箱が盗難にあい、近隣羽茂はもち(現羽茂町)へ通ずる小路脇の雪隠の壺から発見されたと伝えている。

明和三年(一七六六)の宰領役人矢ヶ崎藤吉・水品弥八の日記(麓三郎「佐渡金銀山史話」)によると、金銀一万四千三三五両余を八箱に、正銀五〇〇貫三七匁余を五〇箱に、灰吹銀三七〇貫三九五匁余を二八箱に詰め、馬四五頭で六月一四日相川を出立したとし、道順として小木・越後出雲崎経由柏崎・高田・堂尻・矢付新町を経て、善光寺・坂木さかき上田うえだ小諸こもろ軽井沢かるいさわ(現長野県)松井田まついだ高崎たかさき(現群馬県)熊谷くまがや浦和うらわ(現埼玉県)板橋いたばし(現東京都)と北国街道・中山道をたどり、七月六日江戸へ着いている。

〔鉱山町の風俗〕

開坑とともに諸国から人が集まり上相川千軒・北沢千軒といわれる町が生れる。「佐渡年代記」慶長一五年条に「米穀は米屋町にて商買せしめ、炭薪は炭屋町・材木町、紙類は紙屋町にて商ひ、外にての商売を免さす、此頃他国より人多く来り住し故、京町より新五郎町辺の家々、皆三階作りになし世帯を別つといふ。南沢・北沢・水金沢・山之神辺なと空地もなく、谷々には吉野作りとて、大木を渡し其上に家を建、住居せしと也」とあり、同一九年条に「佐渡銀山近年繁昌し、京・大坂の遊女歌舞妓群集し、国々より〓きびすを継て来れる商客・金穿の夫是に耽り、財産を皆尽て故郷に帰ることを得さるによつて、必佐渡へ往ものは、本国にて三年を限りて帰るへし、其期を過は死没すと思ふへしと父母妻子に告て離別すと聞ゆ」と記す。宝暦期の「佐渡四民風俗」によると、上相川柄杓ひしやく町に熊野比丘尼が数多く住み、町中を勧進し、売女同然の営みをしながら柄杓役(売春税)を公納していたと伝える。また「佐渡風土記」慶長一八年の項には「総山釜口(坑口)三百余口」と銀山の盛況ぶりを伝え、「銀山功者成者共御陣屋へ御召、御酒など被下、殊更於御広間賭事を御免御覧被成」とし、奉行が坑夫・金掘りの機嫌をとって作業能率の増進に努めた様子を伝える。能楽もこの頃伝わり「佐渡相川志」に「大久保石見守殿舞楽ヲ好ミ、和州ヨリ常太夫・杢太夫二人ヲ召ス。其外脇師・謡・笛・太鼓・大太鼓・狂言師等ニ至ル迄渡海シ来リ、山之内弥兵衛ト云フ処ニ住ス。石見殿陣屋ニテ能アリ。或ハ上相川大山祇(神社)等ニモアリ」とあり、「撮要佐渡年代記」寛永一三年の項には「相川春日社に初めて神事能行はる」とし、相川の能楽の広がりを伝えている。

〔近現代〕

明治維新後の明治二年に官行となり、翌三年工部省所管となる。英人技師ガワー、スコットら御雇外国人により火薬採掘、削岩機・揚水機など西洋の新技術の導入によって産額は伸びた。同二二年に宮内省御料局の所管に移り、同二九年に兵庫県生野いくの鉱山とともに一七三万円で三菱合資会社に払下げられ、民営移管となった。現在三菱金属鉱業の子会社である佐渡金山株式会社佐渡鉱山の経営となり、月産金三・七キロ、銀六五キロを生産している。



地図・資料
自然地名と道筋「新潟県のおもな自然地名と道筋」(PDF)

国史大辞典
佐渡金銀山
さどきんぎんざん
佐渡には相川(新潟県佐渡郡相川町)・鶴子(つるし、同佐和田町)・滝沢(同新穂村)・西三川(同真野町)・大須(同)など十ヵ所以上にのぼる金・銀・鉛鉱山がある。佐渡金山はそれらの鉱山の総称であり、江戸時代には「佐渡のかなやま」と通称された。佐渡の金が歴史上にはじめて姿をあらわすのは『今昔物語集』であるが、その鉱山は西三川砂金山であるといわれている。佐渡金銀山が歴史上重要な役割をになうようになるのはポルトガル船が銀を求めて日本に渡来して以後のことに属する。鶴子銀山の開発が天文十一年(一五四二)からとされるのはそうした情勢とかかわりがある。鶴子銀山は越後寺泊の商人外山茂右衛門によって稼がれた。西欧の灰吹精錬がこのとき到来したのであろう。天正十七年(一五八九)、豊臣秀吉の意をうけて佐渡に兵を出した上杉景勝は、鶴子銀山の港をもつ土豪沢根氏をたすけて領主河原田本間氏を滅ぼし、銀山を領有した。文禄三年(一五九四)豊臣秀吉は坑道掘の技術者を景勝のもとに派遣して金銀山の開発を急がせ朝鮮出兵の軍資金を得ようとした。やがて慶長三年(一五九八)景勝の会津移封、秀吉の死、それにつづく関ヶ原の戦を経過して慶長五年の秋には、徳川家康の代官田中清六が国請取りに来国して以来天領とされた。江戸時代、佐渡金山といえば相川の金銀山を意味した。相川は全山かたい岩盤の山であるが、新技術の導入によって一躍日本最大級の鉱山となった。田中清六時代(慶長五―八年)、それまでの山主による一年単位の請負をやめ、運上入札制とした。それは希望者に自由な探鉱を保証し、鉱石が発見されると、それまでの費用分として一定期間の掘取りを許し、そのあとは十日間ごとの運上量を入札させ、高額の者にせりおとさせた。この経営法によって鉱山は活況を呈し各地に新鉱脈が発見されて、慶長七年ころには一年間の銀運上は一万貫にも及び、諸国から沢山の金掘りが相川に集まった。相川が羽田村から分離されたのは慶長五年秋の指出検地のときであった。慶長八年の夏大久保長安が佐渡支配を命ぜられると、長安は石見から岩下惣太夫・宗岡佐渡・吉岡出雲などを佐渡に派遣してそれまでの経営に変革を加えた。陣屋を相川にうつし、陣屋下に大間港をつくって生産・流通の根拠地とした。経営としては、先の運上入札法による短期稼業が鉱山の施設投資をおろそかにさせる欠陥をもつため、それをやめて直山(じきやま)制とした。陣屋の投資による水ぬき坑道を開削し、出た鉱石を山主と陣屋が分けた(荷分制)。また、西洋の技術の水銀精錬法を採用して経費を減じた経営革新の結果、長安時代の初期、銀運上は六、七千貫に達したが、その末期には銀の運上額は一年二千貫を割った。坑道は深くなり、経費が増加して陣屋取分が減少したのである。元和四年(一六一八)佐渡奉行となった鎮目市左衛門は、山主の経営を保障し陣屋取分を減少させる従来の荷分法を改め、出鉱の一定率を確保することにした。味方但馬が大山師として知られるのは、この時代である。彼はアルキメデスポンプ(水上輪)を採用するなど技術革新にも力を入れた。こうして金銀山は再び活況に趣き、元和七年の灰吹銀運上は六千二百三十貫・筋金運上三十五貫・小判二万三千七百両に及んだ。しかし鎖国以後、深坑による水替経費の増加に加え銀価格の下落もあって金銀山は不振となり、慶安四年(一六五一)幕府は出方不振の鉱山の休止を命じ、寛文期にはついに運上額は千貫を割った。元禄三年(一六九〇)佐渡奉行となった荻原重秀は金銀山の復興に全力をあげ、総額で二十五万両にものぼる投資を行なった。今もその機能を果たしている南沢疎水坑道(一〇〇〇メートル)は、このときのものである。元禄から宝永期、銀運上額は一年に二千貫にせまったが、享保期、幕府は赤字を理由に採算に合わない鉱区から手を引こうとして、鉱山の沈滞はその極に達した。享保の末には灰吹銀運上は年に三百貫を割りこみ、実質上の赤字は享保十七年(一七三二)に一年六千四百両に及んだ。宝暦六年(一七五六)佐渡奉行になった石谷清昌は経営法を大幅に変更した。精錬施設を一区画に集約し、銅山を開発した。やがて安永七年(一七七八)からは経費きりつめのため無宿者を銀山に送りこむなどして、幕末の鉱山は荒廃の極に達していた。明治二年(一八六九)鉱山は官行となり、英人技師ガワーによって洋式方法がとりいれられたが、なかなか軌道にのらなかった。明治十八年大島高任が佐渡鉱山局長に任命され、鉱山の復興に力がいれられることになった。明治十九年一月から政府は不換紙幣を整理するために銀貨との兌換を実施することにしたが、その銀貨鋳造の原料を佐渡・生野の鉱山に求めたからである。明治十九年の統計では金三十六貫・銀九百三十八貫が生産され、その後も次第に増産されていった。明治二十九年鉱山は生野鉱山・大阪製煉所とあわせ百七十三万円で三菱合資会社に払い下げられ、その後は三菱が稼業して戦後に及んだ。
[参考文献]
『佐渡相川の歴史』資料集三、麓三郎『佐渡金銀山史話』、田中圭一『佐渡金山』(『歴史新書』一〇三)
(田中 圭一)
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佐渡金銀山の関連キーワードで検索すると・・・
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検索コンテンツ
1. さどきんぎんざん【佐渡金銀山】
国史大辞典
じめて姿をあらわすのは『今昔物語集』であるが、その鉱山は西三川砂金山であるといわれている。佐渡金銀山が歴史上重要な役割をになうようになるのはポルトガル船が銀を求
2. さどきんぎんざん【佐渡金銀山】新潟県:佐渡郡/相川町/相川町
日本歴史地名大系
発見されたと伝えている。明和三年(一七六六)の宰領役人矢ヶ崎藤吉・水品弥八の日記(麓三郎「佐渡金銀山史話」)によると、金銀一万四千三三五両余を八箱に、正銀五〇〇
3. 佐渡金山画像
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新潟県佐渡島、佐渡市各地にある金銀山の総称。古く砂金採取が行われたころ(『今昔こんじゃく物語集』)佐渡金山の中心は佐渡の南部三川みかわ砂金山(旧、佐渡郡真野まの
4. 佐渡金銀山遺跡[百科マルチメディア]画像
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写真は、水銀を使って低品位の鉱石から金を回収した搗鉱場とうこうばの跡。現在は基礎部分のみが残る。国指定史跡 新潟県佐渡市©Shogakukan
5. あいかわきんざん【相川金山】
国史大辞典
佐渡金銀山(さどきんぎんざん)
6. あぶらどたんこう【油戸炭鉱】
国史大辞典
廃藩置県で廃坑、九年以後民間人星野竹次郎の手で開坑された。油戸は石炭を大量に使用する釜石鉄山および佐渡金銀山その他陸羽各鉱山などに近いため、十二年五月これを官収
7. いくのぎんざんあと【生野銀山跡】兵庫県:朝来郡/生野町
日本歴史地名大系
て、その数八八〇軒余という(同書)。元和七年(一六二一)藤川甚左衛門が銀山奉行として就任、佐渡金銀山(現新潟県相川町)の竹村九兵衛を補佐役として経営の改善を図っ
8. かじまち【鍛冶町】新潟県:佐渡郡/佐和田町
日本歴史地名大系
)の鍛冶法度には「銀山御入用鑽御定之鈍目無相違打立指上可申候」とあり、鍛冶町鍛冶が慶長以後佐渡金銀山での鉄製品需要にこたえてきたことを推測させる。同家に伝えられ
9. 佐渡[市]
世界大百科事典
)のことである。1594年(文禄3)豊臣秀吉は朝鮮出兵のための財政をまかなうため上杉景勝に佐渡金銀山(佐渡金山)の積極的な開発を命じた。1600年佐渡は徳川家康
10. 佐渡国画像
日本大百科全書
に移封され、1600年(慶長5)からは徳川家康の領地となり、江戸幕府直轄地となった。全島が佐渡金銀山のお囲い村とされたのである。佐渡で最初の検地は1600年上杉
11. 佐渡奉行
世界大百科事典
佐渡奉行と呼ばれる最初は17年(元和3)の鎮目市左衛門と竹村九郎右衛門のときからである。そのころは佐渡金銀山の繁栄期で,奉行は1人が佐渡に,1人が江戸にあってそ
12. 柴田収蔵日記 1 村の洋学者 18ページ
東洋文庫
ら、こうした過積載によって廻船の村に大金がころげ込んだ。文化十一年(一八一四)佐渡奉行所は佐渡金銀山の開発のために村方に「出し金」を要請したが、そのとき宿根木村
13. 島根のすさみ 佐渡奉行在勤日記 363ページ
東洋文庫
(昭和四十一年発行)がある。O『越後佐渡農民騒動』(石井清吉著 昭和四年)  《鉱山に関するもの》○『佐渡金銀山史話』(麓三郎著 昭和三十一年)O『佐渡金山史』
14. すいじんろく【吹塵録】
国史大辞典
『勝海舟全集』(勁草書房)、同(講談社)に収録されている。ただし、本編末尾の御所・江戸城・大坂城・佐渡金銀山・金分銅など二十六葉の図を収めた図画の部は未刊のまま
15. 大気汚染画像
世界大百科事典
だしたミューズやドノラの事件が有名である(スモッグ)。石炭使用がなかった日本では,江戸時代の佐渡金銀山や別子銅山などの坑夫が被害をうけた煙害の記録がある。明治か
16. たけながしきん【竹流金】
国史大辞典
どを溶かして流し固めた金。竿金ともいう。十六世紀ころには秤量貨幣として通用し切遣いされた。佐渡金銀山より江戸幕府へ貢納した筋金というのも竹流金で、長さ六寸ほど、
17. みくにかいどう【三国街道】群馬県:総論
日本歴史地名大系
越えて往来するなど、重要な軍事の道であった。江戸時代に入り、慶長八年(一六〇三)大久保長安が佐渡支配となり、佐渡金銀山の開発が本格化すると江戸―越後の往来が頻繁
18. やまし【山師】
国史大辞典
修理する支柱夫にあたるが、ある鉱山では坑内外の監督をいうところもある。山師稼行は世襲が多く、佐渡金銀山開創期の有力な山主味方家重の子孫は佐渡の代表的山元として明
「佐渡金銀山」の情報だけではなく、「佐渡金銀山」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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関ヶ原の戦の戦勝により、政治の主導権を獲得し、かつ戦勝者として大名の支配を可能にした徳川氏にとっては、中央政権を樹立し、その支配権を正当化し確立することが今後の課題となった。そのため戦後一門・譜代大名の創出とその要衝配置、ならびに豊臣秀吉恩顧の大名をはじめとする外様大名
関ヶ原古戦場跡(日本歴史地名大系)
慶長五年(一六〇〇)九月一五日に行われた徳川家康の率いる東軍と石田三成の率いる西軍との合戦場跡。決戦は東西約四キロ、南北約二キロ、標高一三〇メートルの関ヶ原台地で展開され、この戦いに勝利したことで家康は事実上天下の支配者となり、慶長八年の征夷大将軍補任によって名目上からも全国統一の権威をもった
桶狭間古戦場伝説地(日本歴史地名大系)
[現]豊明市栄町 南舘名鉄本線中京競馬場前駅(名古屋市緑区)南方二〇〇メートルの、国道一号を横断した所にある。国指定史跡。この辺りは知多半島に続く丘陵地で谷間が多く、豊明市内には大狭間・小廻間の地名が多い。狭間(廻間)というのは「はさまった間」を意味するといわれ、国史跡指定地は谷あいにある。
小豆坂古戦場(日本歴史地名大系)
[現]岡崎市羽根町 小豆坂 羽根地籍東方の丘陵地。松の木立に覆われた起伏の多い一帯が今川義元と織田信秀の軍が激しく戦った小豆坂古戦場である。「信長記」などによると、天文一一年(一五四二)八月、今川義元は駿遠三の兵を率いて、当時織田信秀の支配下にあった安祥城(現安城市)を攻撃し
新沢権現堂古戦場(日本歴史地名大系)
[現]大内町新沢 新沢の八幡神社の背後に館跡があり、権現堂ノ館・荒沢之城・新沢館・小助川館などとよばれ、元亀―天正(一五七〇―九二)の頃に矢島大井氏の一族小助川治部少輔が居館を構えていたという(「小助川氏系図」由利郡中世史考)。館の広さは東西一〇〇間、南北三〇間であったが


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白川庄・白川郷(日本歴史地名大系)
北流する庄(しよう)川の上流域、現荘川村と白川村を中心とする地域は白川郷と総称される。標高一〇〇〇―二〇〇〇メートル級の山々に囲まれ、狭隘な渓谷に集落が点在する。白川の名称は、白山の白水(しらみず)谷に源を発して庄川に流入する大白(おおしら)川の水が
佐渡金銀山(国史大辞典・日本歴史地名大系)
[現]相川町宗徳町町部中心街約一・五キロ東方の標高一一〇メートルの山中の宗徳(そうとく)町にある。町北部へ注ぐ北沢(きたざわ)川上流の右(みぎ)沢と左沢の渓谷の間に突出た台地上で、東は白子(しらこ)嶺と青野(あおの)嶺、南は中山(なかやま)嶺
笹子トンネル(日本国語大辞典)
解説・用例(トンネルは{英}tunnel )〔一〕JR中央本線笹子駅と甲斐大和駅(旧初鹿野駅)の間にある鉄道トンネル。下り線の笹子トンネルは明治三六年(一九〇三)完成。全長四六五六メートル。上り線の新笹子トンネルは昭和四〇年(一九六五)完成


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