1. トップページ
  2. >
  3. カテゴリ一覧
  4. >
  5. 歴史
  6. >
  7. 遺跡
  8. >
  9. 日本の史跡

「日本の史跡」カテゴリの記事一覧

オンライン辞書・事典サービス「ジャパンナレッジ」の「日本の史跡」のカテゴリ別サンプルページです。
ジャパンナレッジは「国史大辞典」「日本国語大辞典」「世界大百科事典」「日本大百科全書」など60種以上の辞書・事典をパソコンやスマートフォンで利用できます。

→ジャパンナレッジについてもっと詳しく見る



大坂の陣(国史大辞典・世界大百科事典・日本国語大辞典)
関ヶ原の戦の戦勝により、政治の主導権を獲得し、かつ戦勝者として大名の支配を可能にした徳川氏にとっては、中央政権を樹立し、その支配権を正当化し確立することが今後の課題となった。そのため戦後一門・譜代大名の創出とその要衝配置、ならびに豊臣秀吉恩顧の大名をはじめとする外様大名
関ヶ原古戦場跡(日本歴史地名大系)
慶長五年(一六〇〇)九月一五日に行われた徳川家康の率いる東軍と石田三成の率いる西軍との合戦場跡。決戦は東西約四キロ、南北約二キロ、標高一三〇メートルの関ヶ原台地で展開され、この戦いに勝利したことで家康は事実上天下の支配者となり、慶長八年の征夷大将軍補任によって名目上からも全国統一の権威をもった
桶狭間古戦場伝説地(日本歴史地名大系)
[現]豊明市栄町 南舘名鉄本線中京競馬場前駅(名古屋市緑区)南方二〇〇メートルの、国道一号を横断した所にある。国指定史跡。この辺りは知多半島に続く丘陵地で谷間が多く、豊明市内には大狭間・小廻間の地名が多い。狭間(廻間)というのは「はさまった間」を意味するといわれ、国史跡指定地は谷あいにある。
小豆坂古戦場(日本歴史地名大系)
[現]岡崎市羽根町 小豆坂 羽根地籍東方の丘陵地。松の木立に覆われた起伏の多い一帯が今川義元と織田信秀の軍が激しく戦った小豆坂古戦場である。「信長記」などによると、天文一一年(一五四二)八月、今川義元は駿遠三の兵を率いて、当時織田信秀の支配下にあった安祥城(現安城市)を攻撃し
新沢権現堂古戦場(日本歴史地名大系)
[現]大内町新沢 新沢の八幡神社の背後に館跡があり、権現堂ノ館・荒沢之城・新沢館・小助川館などとよばれ、元亀―天正(一五七〇―九二)の頃に矢島大井氏の一族小助川治部少輔が居館を構えていたという(「小助川氏系図」由利郡中世史考)。館の広さは東西一〇〇間、南北三〇間であったが
粟ノ巣古戦場跡(日本歴史地名大系)
[現]二本松市沖 天正一三年(一五八五)一〇月に畠山氏と伊達氏の戦いがあり、畠山義継と伊達輝宗がともに死亡した所。塩松を支配下に置いた伊達政宗と講和するため畠山義継は小浜上館(現岩代町)で輝宗に対面するが、流言にまどわされて輝宗を捕らえ二本松に帰る途上であった。
史跡(改訂新版・世界大百科事典)
遺跡と同義で,明治時代末期以降現在でもその意味で使用されていることが多いが,1919年の〈史蹟名勝天然紀念物保存法〉以降は,遺跡のうち,特に法律にもとづいて指定保護されているものを指すようになり,現在では狭義の史跡は,国宝,重要文化財,名勝,天然記念物などとならぶ,文化財の種別
国府・府中・城府・駿府(日本歴史地名大系)
古代に駿河国の国衙が置かれた地。静岡平野の中央、安倍川下流の左岸に位置する。現在の静岡市中心部とされる。古代の駿河国府の比定地については、現在の駿府城跡北方の長谷通の南側あるいは北側、駿府城跡の南東地区(城内中学校・青葉小学校などを含む一帯)、駿府城跡北東の横内・上足洗方面
1
ジャパンナレッジは約1500冊以上(総額600万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題のオンライン辞書・事典・叢書サービス。
日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。
利用料金・収録辞事典・会員登録はこちら