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弥生土器

ジャパンナレッジで閲覧できる『弥生土器』の世界大百科事典のサンプルページ

改訂新版 世界大百科事典
弥生土器
やよいどき

弥生文化に用いられた軟質,赤焼きの土器。縄文土器に後続し,古墳時代の土師器(はじき)に先行する。1884年に東京本郷の弥生町向ヶ丘貝塚(弥生町遺跡)で採集された土器がもとになって,90年代から〈弥生式土器〉の名称が生まれた。最近では,細別するときに加曾利B式,遠賀(おんが)川式など〈式〉をつけるほうが明快だという考えから,総称としては〈式〉を抜いて〈縄文土器〉〈弥生土器〉の名が使われる。なお近年までは,冒頭に掲げた定義とまったく逆に,〈弥生式土器〉の行われた文化・時代を弥生文化,弥生時代と呼んできた。現在もそう説明する研究者,書物は多い。しかし,土器のほうから文化を規定する定義は,実際の運用上,いまや形骸化している。弥生土器が行われたのは,弥生文化の領域,すなわち南は九州地方から北は東北地方までである。その南と北では沖縄先史時代後期土器と続縄文土器が行われた。ただし最近では,沖縄本島を弥生文化の領域に含める可能性も論じられている。

器種と用途

特定の形,容量,装飾をそなえた器を器種と呼ぶとき,弥生土器を構成するおもな器種に壺,甕(かめ),鉢,高杯(たかつき)があげられる。ただしそのいずれにも,形,大きさ,装飾によってそれぞれ2~10以上の器種が区別できることも多い。ほかに台を独立して作った器台(きだい)がある。壺は胴が丸く,頸(くび)がすぼまり,口が大きく外反する形状を典型とする。弥生土器で甕と呼ぶのは,釣鐘を逆さにしたような形状の,丈が高く広口の器であって,縄文土器の研究では深鉢(ふかばち)と呼ぶものに相当する。高杯はコンポート(脚付きのフルーツ皿)に似た形状。ただし台付鉢との区別は必ずしも厳密なものではない。台付壺,台付甕もあり,壺や甕には別作りの蓋をそなえるものもある。

 壺の主用途は貯蔵にあり,実際に米,モモ(種子),貝などの食物が入って見いだされたり,貝製の腕輪を収納したまま出土した実例もある。貯蔵用の穴ぐら(貯蔵穴)に壺がたくさん入っていることもあり,籾や米を蓄えたことも疑えない。とはいえ気候湿潤な日本では,米に限らず食物を容器のなかに貯蔵すると,変質したり虫がついたりするから,長期にわたる貯蔵には不向きである。日本やフィリピンの民族例をみても,土器・陶器は水,酒,油,漬物等々,水ものの蓄えに用いることに力点がおかれている。弥生土器の壺も水もの貯蔵にも用いたに違いない。なお弥生土器の壺には,籠状に編み包んで水などの運搬に用いたとみられるもの,紐通しの孔をあけた井戸の水汲み用のもの,食事の際に水や酒の容器とした細頸壺(ほそくびつぼ),そして明らかに煮炊き専用のものも含まれている。

 甕は,大きさ,容量によって用途が異なる。容量2~7l程度の小型・中型品が煮炊きに使われた。これらは火熱を受け,煤(すす)に覆われていることによって明らかである。内部に飯がこげついて残っていることも多く,米を直接煮て食べる調理法が一般的であったことを証明している。底部に孔をあけた甕や鉢があり,これを甑(こしき)つまり蒸器と考え,米を蒸して食べたとする説が普及している。しかし,この考えは確実性に乏しい。大型の甕は火にかけた痕跡をとどめておらず,水を蓄えたと考えるのにふさわしい。

 鉢,高杯は,食物を盛りつけるための器である。《魏志倭人伝》によると,3世紀の倭人は高杯(籩豆(へんとう))を用い,手づかみで食べたという。当時の鉢,高杯は量が多く,食事の際にめいめいが器をもった可能性もある(食器)。このほか特殊な土器として,製塩に用いた鉢状の器〈製塩土器〉がある。製塩土器については〈塩〉の項目の[古代の土器製塩]を参照されたい。

 日常の生活に用いる土器は,しばしば転用され,墓に供えられたり,幼児を葬る棺や再葬の納骨容器(再葬墓)としても使われている。本来,埋葬や祭儀用に作った土器もある。代表的なものは,北部九州の甕棺(かめかん)で,高さ1mに達する特大の甕を棺として用いている。また甕棺墓地でまとまって見いだされる壺,甕,高杯,鉢,そして壺をのせる高い器台は,ていねいな作りで赤く塗ってあり,使用の痕跡をとどめておらず,明らかに墓地で営まれる祭りのため特別に作り,使ったものである。岡山県を中心とする地域においては,弥生時代末の墳丘墓に大型の壺,器台を立て並べてあり,特殊壺,特殊器台と呼ばれている。後者が古墳時代の円筒埴輪の祖形になったことは確実視されている。縄文土器が,深鉢(6~7割),鉢(2~3割)を主要器種とし,土瓶や壺その他さまざまな形の器種は残る1割程度を占めるにすぎないのに対して,弥生土器では壺が全体の5割前後と,きわめて目だつ存在となっている。弥生時代中ごろに高杯が主要な器種となり,それ以来,壺,鉢にも台をつけるものが増え,そして台を独立させた器台が登場する。ただし東日本においては,高杯,器台は弥生土器の主要器種をなさないことが多く,むしろ土師器の器種として普及している。これらは農耕祭祀の発達と階級社会への歩みの反映とみてもよい。

様式と地域性

弥生土器の研究では,壺,甕,鉢,高杯の各器種からなる組合せ一式(セット)を〈土器様式〉としてとらえており,年代変遷や地方差を扱う際の単位としている。これは縄文土器の研究で〈土器型式〉と呼ぶものに相当している。なお縄文土器の研究では,大きな共通性をもつ複数の土器型式をひとまとめとして〈様式〉と呼ぶ者もいる。弥生土器の様式の変遷を地方ごとに調べる作業,すなわち編年的研究の大枠はほぼ完成している。どの地方の土器様式も5~7程度で,縄文土器の型式の数が一地方で数十に達するのに比べて少ないのは,当然ながら弥生文化の時代の全期間が短いからである。弥生文化を区分するときには,土器様式を大別して前期,中期,後期の3期に分ける。しかしこの区分法は,地方によりまた研究者によって一致せず,他地方間の土器,文化,社会を比較するにあたっては特に注意が必要である。北部九州の第Ⅰ~Ⅴ様式土器の時期が,畿内の第Ⅰ~Ⅴ様式土器に,それぞれほぼ対応する事実から,時期名としても仮にⅠ~Ⅴ期と呼べば,全国的に時期の対応を等しく扱うことができる。

 Ⅰ期(前期)の弥生土器は,福岡県遠賀川の川床の遺跡(遠賀郡水巻町立屋敷遺跡)から採集された土器に基づいて〈遠賀川式土器〉と総称されている。先がとがった工具で引いた線による文様(篦描(へらがき)文),貝殻の縁を使った単純な線文様や綾杉文,木の葉文などを飾る。現在では遠賀川式土器はさらに細別され,福岡市板付遺跡の環濠集落に伴う〈板付式土器〉が最古のものとして扱われている。ただしこれを最古の弥生土器と認めるかどうかは問題であって,従来,晩期縄文土器として扱われてきた板付式に先行する土器を,最古の弥生土器と認める考えが強まってきている。遠賀川式土器は,太平洋岸では名古屋付近,日本海岸では京都府丹後半島まで在地の土器として存在し,これらより東では,青森県に及ぶ各地で運ばれた土器として見いだされている。今後の研究の進展状況によっては,東北地方においても前期から弥生時代が始まることが認められるようになるかもしれない。

 Ⅱ~Ⅳ期(中期)の弥生土器は地方差が明瞭である。九州地方では輪郭の曲線の美しさと磨いた肌の美しさとを追求し,文様をほとんど捨て去った須玖(すぐ)式土器が代表をなす。中国・四国地方から愛知県・石川県に及ぶ範囲では,先端が3本以上に分かれた工具で引いた線(櫛描(くしがき)文)で飾った櫛描文土器が発達し,これ以東の地方および九州地方にも影響を与えた。土器製作と文様を描くのに,一種の回転台が利用されたと考えられている。中期後半には櫛描文は衰退し,回転台上で横方向になでる際の起伏を文様化した凹線文が発達する。東日本では,各種の曲線文様や縄文を用いた土器が発達している。

 後期の弥生土器は全国的に装飾をしだいに失い,また作りが粗略化する方向をとる。この動きは西日本に早く,東日本では遅く,土師器に至って実現している。仕上げもみごとで美しく飾った土器が,粗略な作りとなり文様も失うのは,一見,技術的退化ともみえ,確かに美術史的見地からすると後退しているといえる。しかしこれは,時間と労力とをかけての土器作りが意味をもたない時代の到来を示している。例えば弥生時代終りころの畿内の土器と名古屋地方の土器とを比べると,後者は美しく前者をはるかにしのいでいる。しかし社会の発達は畿内が先に進み,名古屋は後れていたのである。また一般実用の〈使う土器〉が消耗品として粗略に仕上げられた反面,台頭する有力者の祭りや墓にかかわる〈見せる土器〉はていねいに美しく作る傾向があり,弥生土器から土師器への推移に,古墳時代における支配者にかかわる技術と一般庶民の技術との分裂の徴候をかいまみることができる。なお奈良県唐古遺跡を中心とする近畿地方では,Ⅳ期(中期末)に鹿,高床建物,人物などを土器に描くことが始まり,九州,関東に及んだ。Ⅴ期(後期)に入ると絵画よりも記号風の表現が多くなるが,竜を描いたものも数例あり,水を呼ぶ想像上の動物としての竜の知識が伝わっていたこともわかる。

製作技術

教科書や概説書などでは,縄文土器と弥生土器が明瞭に識別できるかのように記しているものが多い。しかし,そう簡単ではない。弥生土器は,かつて〈ろくろ〉を利用して作ったものと解釈されていた。しかし1950年代以来否定説が強まり,現在はそれが定説となった。弥生土器を焼成した窯(かま)についても報告例があるが,構造の整ったものはない。弥生土器程度の土器が,窯なしで焼成できることは世界の民族例が示している。弥生土器の焼成温度は600~800℃程度で,酸素を十分供給した状況(酸化炎)で焼き上げてある。この項の冒頭,弥生土器を軟質赤焼き土器として定義づけたが,軟質赤焼き土器とは,ろくろ,窯を用いず,1000℃未満の酸化炎で焼成した土器をいい,こうした基本的な窯業技術は,縄文土器,弥生土器,土師器に共通のものである。3者を土器そのもので識別することが必ずしも容易でないのは当然である。弥生文化の定義を優先し,その文化の土器を弥生土器ととらえる論理的根拠はここにある。日本列島における一系の軟質赤焼き土器のうち,古いものが縄文土器,中ごろのものが弥生土器,新しいものが土師器と呼ばれている。

 弥生土器が縄文土器と異なっている技術的特徴は,鉄器時代の土器にふさわしく,鉄斧で割った板の木目を利用して器面をなでて刷毛目(はけめ)と呼ぶ文様を施し,また鉄の刃で刻んだ櫛描文を描き,溝を彫った叩き板で叩き目をつけ,鉄のナイフで彫った文様を押しつける(スタンプ文)など,土器作りにかかわる木の工具に鉄の利用が目だつことがあげられる。世界の民族例に照らすと,ろくろ登場前の土器作りは女の仕事であることが多いが,土器そのものの観察から,作り手が男女いずれであったかを判定することは至難のわざである。しかし,大阪府南部和泉地方の櫛描文土器には,女が作ったといえるものがある。同地方の櫛描文土器は,外面の櫛描文様に対応して,櫛描文が6帯ならば内面に指による細線状の痕跡が6帯残っており,右手で文様を描くとき左手を土器の内側にあてて工具の動きを受けたことがわかる。ところがこの痕跡は,頸が細く女の手ならば入るが,乾燥・焼成による2割の縮みを考慮に入れても,男の手の入らないものにまで認められる。

弥生土器の成立

現在,最古の弥生土器のとらえ方には,二つの考えが対立している。第1は弥生文化の土器が弥生土器とみる立場から,現段階で最古とみられる水田が営まれた時期の土器(佐賀県唐津市菜畑(なばたけ),福岡県糸島市の旧二丈町曲り田,福岡市板付下層)を最古の弥生土器とみる考えである。これらの土器では壺の占める割合が大きく,その点でも弥生土器の名にふさわしい。第2の考えは,これを縄文土器として扱い,板付遺跡の環濠を伴う集落遺跡の時期の土器を最古の弥生土器とする。いずれにせよ弥生土器の技術,器種,装飾の多くは,縄文土器からの伝統を受け継ぐものといえる。特に,米を調理するというまったく新しい食生活が始まったにもかかわらず,その煮炊きには新しい形の器種を採らず,縄文土器の深鉢の系譜を引く甕を用いているのはおもしろい。一方,縄文土器から受け継がなかったものもある。縄文土器を特色づける波状の突起をもつ口は,弥生土器にはほとんどみられない。それは縄文土器の呪術とかかわる煮炊きが終りを告げたことを意味する。また弥生土器の成立にあたって,朝鮮半島の無文土器からの影響を認める人もある。朝鮮の土器が,北部九州など西日本で盛んに見いだされはじめており,近い将来この点についても明らかにされることが期待できる。

農民の土器

弥生土器は稲作農民の土器であるから,世界各地の新石器時代農耕民の土器と比較して共通するところも多い。数多くの器種からなり,農耕祭祀とかかわる高杯,器台をそなえるなどである。しかしユーラシアの新石器時代農民の土器が,器種によって粘土の精粗を区別したのに対して,弥生土器ではその使い分けは明らかでなく,また,西アジア,中国の新石器時代農民の土器を特色づけた彩文土器は,弥生土器には登場しなかった。ただし,中国華北で焼成前に彩文を描いた硬質赤焼き土器が,中国東北地方では焼成後に彩文を描いた硬質黒陶に変じている。西日本の古い弥生文化では,軟質赤焼き土器を焼成後にいったん黒く塗って下地とし,この上に赤色で文様を描いている。これは大陸の彩文土器の系統に属するといえるかもしれない。
→土器 →弥生文化
[佐原 眞]

[索引語]
縄文土器 弥生式土器 弥生文化 弥生時代 器台 壺 深鉢 高杯∥高坏 細頸壺(ほそくびつぼ) 甕棺 特殊器台 土器様式 土器型式 遠賀川式土器 篦描 板付式土器 須玖(すぐ)式土器 櫛描文土器 竜 軟質赤焼き土器 刷毛目 スタンプ文 無文土器
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検索コンテンツ
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4. 【弥生土器】やよい(よひ) どき
新選漢和辞典Web版
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8. あげじいせき【上地遺跡】山口県:下松市/末武上村
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9. あざみのうちいせき【薊之内遺跡】福島県:岩瀬郡/長沼町/桙衝村
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10. あたごやまいせき【愛宕山遺跡】愛媛県:八幡浜市/八幡浜浦
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11. 熱田貝塚
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前期より後期に至る各様式の弥生土器のほか、土師器(はじき)、須恵器(すえき)も出土する。明治30年代からすでに遺物が採集されていたが、1908年(明治41)鍵谷
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17. ありおかいせき【有岡遺跡】高知県:中村市/有岡村
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18. あわいむら【粟井村】香川県:観音寺市
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19. いえじま【伊江島】沖縄県:沖縄島北部/伊江村
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20. いかだやまいせき【筏山遺跡】山形県:山形市/旧南村山郡地区/二位田村
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21. いかだやまこふん【筏山古墳】山口県:玖珂郡/玖珂町/玖珂本郷
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平根式鉄鏃一個と〓五本が、終末期の弥生土器の破片におおわれた状態で埋置されていた。さらにこの墳墓の封土の真上に経塚があり、その封土の直径五メートル
22. いぎすえいせき【伊喜末遺跡】香川県:小豆郡/土庄町/伊喜末村
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昭和一六年(一九四一)弥生土器と縄文土器が表面採集され、遺跡であることが明らかになった。その後、試掘調査が行われたが、同二七年本格的な調査にとりかかり、縄文土器
23. いけだむら【池田村】茨城県:筑波郡/筑波町
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桜川西岸に所在。北は中菅間村。筑波稲敷台地末端の舌状形台地上の字福王地には縄文前期・中期の土器・石器、弥生土器・土師器・須恵器の出土をみる福王地A遺跡、縄文前期
24. いごうさくいせき【飯合作遺跡】千葉県:佐倉市/下志津村地図
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25. いさべいせき【砂部遺跡】兵庫県:加古川市/旧印南郡地区/砂部村
日本歴史地名大系
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26. いしだいいせき【石台遺跡】島根県:松江市/旧意宇郡地区/東津田村
日本歴史地名大系
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27. いしだいせき【石田遺跡】山形県:寒河江市/楯南村
日本歴史地名大系
それらの遺物が再葬墓を構成するものであることはほぼ確実である。当遺跡の弥生土器は石田I式・石田II式として、当地方における弥生土器の編年の指標となっている。その
28. いしだがわいせき【石田川遺跡】群馬県:太田市/米沢村
日本歴史地名大系
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29. いしづかいせき【石塚遺跡】富山県:高岡市/旧礪波郡地区/石塚村
日本歴史地名大系
出土したが、中心は弥生時代である。弥生時代の遺構としては、溝と多数の土壙がある。土壙内からは弥生土器や土器を再利用した紡錘車・打製石鏃、炭化米・クルミ等が出土し
30. いずみし【出水市】鹿児島県
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31. 出流原遺跡
日本大百科全書
発掘調査が行われ、南関東地方の弥生時代中期前半に編年される須和田(すわだ)式土器を主体とする弥生土器を埋納した大小37個の土壙(どこう)が検出された。このうち、
32. いそかべいせき【磯壁遺跡】奈良県:北葛城郡/香芝町/礒壁村
日本歴史地名大系
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33. いぞうぐう【伊雑宮】三重県:志摩郡/磯部町/上之郷村
日本歴史地名大系
また伊豆諸島や能登半島ではサメに襲われた時に「イソベさん」と呪文を唱えれば助かるという伝えがある。なお境内では弥生土器片・土師器・須恵器・瓷器・祭祀用土器片が出
34. 板付遺跡画像
日本大百科全書
、台地上に巡らされた東西81メートル×南北110メートルの長円形の環溝が検出され、縄文土器と弥生土器の接点が確認された。1978年には台地下で弥生時代初頭の水田
35. いたばしむら【板橋村】福島県:白河市
日本歴史地名大系
)。中世城館跡は確認されていないが、舘・舘ノ前などの小字が残る。明戸遺跡は天王山式に後続する弥生土器片・石器・紡錘車などが出土したほか、古墳時代を中心とした住居
36. いちいせき【市遺跡】滋賀県:愛知郡/愛知川町/市村
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られる遺物も発掘されている。そのほか古墳時代後期の土壙、近世末の井戸跡などが確認されており、弥生土器も出土。当遺跡は弥生時代に集落として成立し、以後平安時代を盛
37. いちのさわいわかげいせき【一ノ沢岩陰遺跡】山形県:東置賜郡/高畠町/安久津村
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核・局部磨製石斧・有溝砥石(矢柄研磨器)を伴出した。そのほか縄文時代前期から後期の縄文土器、弥生土器、土師器、縄文時代の凹石・石皿・
38. いちはらてらのしたいせき【市原寺ノ下遺跡】兵庫県:多可郡/加美町/市原村
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39. いでのむら【井手野村】大分県:直入郡/直入町
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明治八年(一八七五)に名子山・釘小野・二俣・城後・橘木の五ヵ村と合併し上田北村となる。神ノ原から弥生土器、小児用の組合せ式石棺が発見されている。原口天満神社があ
40. いとくのもりこふん【イトクノ森古墳】奈良県:橿原市/畝傍地区/畝傍村
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41. いなくだしいせき【稲下遺跡】山形県:村山市/稲下村
日本歴史地名大系
現状は果樹林。昭和三七年(一九六二)発掘調査が行われた。検出された遺構は熱を受けた集石のみである。弥生土器は数型式のものが包含層中で混在していた。(一)太い沈線
42. いのうえやまいせき【井上山遺跡】山口県:防府市/西佐波令村
日本歴史地名大系
地性集落で、小貝塚を伴っていたと伝える井上山遺跡がある。昭和二七年(一九五二)この丘の斜面で弥生土器や石器がみつかり、地表採集が行われ、その状況が報告された(防
43. いのはなふんぼぐん【井の端墳墓群】兵庫県:赤穂郡/上郡町/山野里村
日本歴史地名大系
石は多い部分で四段積み。墳丘の一辺には裾に幅約二・三メートル、深さ約〇・四メートルの溝が掘られ、壺・高坏などの弥生土器が出土している。埋葬施設は中央に竪穴式石槨
44. いのむら【井村】大分県:臼杵市
日本歴史地名大系
があり、観音堂中の尊像は慈覚大師の作という(臼杵小鑑)。狭間には三島神社がある。縄文土器片・弥生土器片の散布する井村遺跡、弥生遺跡の坊主山遺跡がある。
45. いのめどうくついせき【猪目洞窟遺跡】島根県:平田市/猪目浦
日本歴史地名大系
にほぼ連続して人が住み、同時に墓地として利用した場所であったと考えられている。出土品としては弥生土器(前期・中期・後期)・土師器・須恵器ほかわずかな量の縄文土器
46. 伊場遺跡
日本大百科全書
)的掘立て柱建物跡群が検出され、中央部に幅約15メートルの大溝が埋没していた。環濠から大量の弥生土器や丹塗(にぬり)短甲状木製品が、また大溝から土師器(はじき)
47. いばいせきぐん【伊場遺跡群】静岡県:浜松市/旧敷知郡・引佐郡地区/伊場村
日本歴史地名大系
環濠集落とされている。遺物は中期の木製品・石製工具や瓜郷式の弥生土器が出土し、本格的な水田耕作が行われていたことが判明した。後期の遺物としては弥生土器や木製品が
48. いぶきじまむら【伊吹島村】香川県:観音寺市
日本歴史地名大系
。胆吹・気噴・井冨貴などと記した例もある。ナイフ形石器、縄文土器(黒土BII相当)の口縁部、弥生土器の高坏の脚部の一部片ほか、須恵器片が島の中央のゆるやかな台地
49. いまいずみいせき【今和泉遺跡】福島県:北会津郡/北会津村/今和泉村
日本歴史地名大系
見され、同三五年に調査された。木炭とともに炉跡が検出され、周辺からは壺・台付鉢・鉢・甕などの弥生土器や石鏃・磨石・凹石・磨製石斧などが出土している。出土土器は太
50. いまざといせき【今里遺跡】京都府:長岡京市/今里村
日本歴史地名大系
跡。昭和四一年(一九六六)、乙訓寺跡の発掘調査中に発見され、奈良時代の乙訓寺の遺構の下層から弥生土器・石器や古墳時代の土師器などが出土し、掘立柱跡や溝などが検出
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大坂の陣(国史大辞典・世界大百科事典・日本国語大辞典)
関ヶ原の戦の戦勝により、政治の主導権を獲得し、かつ戦勝者として大名の支配を可能にした徳川氏にとっては、中央政権を樹立し、その支配権を正当化し確立することが今後の課題となった。そのため戦後一門・譜代大名の創出とその要衝配置、ならびに豊臣秀吉恩顧の大名をはじめとする外様大名
関ヶ原古戦場跡(日本歴史地名大系)
慶長五年(一六〇〇)九月一五日に行われた徳川家康の率いる東軍と石田三成の率いる西軍との合戦場跡。決戦は東西約四キロ、南北約二キロ、標高一三〇メートルの関ヶ原台地で展開され、この戦いに勝利したことで家康は事実上天下の支配者となり、慶長八年の征夷大将軍補任によって名目上からも全国統一の権威をもった
桶狭間古戦場伝説地(日本歴史地名大系)
[現]豊明市栄町 南舘名鉄本線中京競馬場前駅(名古屋市緑区)南方二〇〇メートルの、国道一号を横断した所にある。国指定史跡。この辺りは知多半島に続く丘陵地で谷間が多く、豊明市内には大狭間・小廻間の地名が多い。狭間(廻間)というのは「はさまった間」を意味するといわれ、国史跡指定地は谷あいにある。
小豆坂古戦場(日本歴史地名大系)
[現]岡崎市羽根町 小豆坂 羽根地籍東方の丘陵地。松の木立に覆われた起伏の多い一帯が今川義元と織田信秀の軍が激しく戦った小豆坂古戦場である。「信長記」などによると、天文一一年(一五四二)八月、今川義元は駿遠三の兵を率いて、当時織田信秀の支配下にあった安祥城(現安城市)を攻撃し
国府・府中・城府・駿府(日本歴史地名大系)
古代に駿河国の国衙が置かれた地。静岡平野の中央、安倍川下流の左岸に位置する。現在の静岡市中心部とされる。古代の駿河国府の比定地については、現在の駿府城跡北方の長谷通の南側あるいは北側、駿府城跡の南東地区(城内中学校・青葉小学校などを含む一帯)、駿府城跡北東の横内・上足洗方面


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佐渡金山(世界大百科事典)
新潟県佐渡郡(佐渡国)相川町(現,佐渡市)を中心とした金銀山。天文年間(1532-55)鶴子(つるし)(現同市,旧佐和田町)で発見された銀山は,文禄(1592-96)から慶長(1596-1615)にかけて坑道掘りの技術の導入にともない,その中心が
楯築遺跡(世界大百科事典・日本歴史地名大系)
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