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  11. 大森貝塚

大森貝塚

ジャパンナレッジで閲覧できる『大森貝塚』の日本大百科全書・世界大百科事典・日本歴史地名大系のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

大森貝塚
おおもりかいづか

アメリカの動物学者エドワード・S・モースが1877年(明治10)6月、横浜から東京・新橋 (しんばし)へ向かう汽車の車窓から発見した貝塚。東京都品川区大井6丁目、東海道本線の線路ぎわに「大森貝塚」の碑がある。また大田区山王1丁目地内に「大森貝墟 (きょ)」の碑がある。これはモースが大森貝塚の南にも小貝塚があると記したものであろう。したがって現在は一群のものとして両地を国の史跡に指定している。

 モースは1877年10月、この貝塚の発掘調査を実施し、1879年東京大学理学部英文紀要の第一冊として『SHELL MOUNDS OF OMORI』の表題で、同貝塚の発掘調査報告を刊行した。また同年12月、矢田部良吉訳で『大森介墟古物編』が刊行された。これは日本における学問的な発掘調査の最初のものであり、また前記著書も発掘調査報告書として最初のものである。すなわち大森貝塚は日本の考古学研究、とくに縄文土器文化研究の第一歩を踏み出した記念すべき遺跡である。

 なお、大森貝塚は縄文文化後期から晩期にわたる比較的規模の大きな貝塚で、モースの発掘した土器、石器などの資料は、現在も東京大学総合研究博物館に保存されている。

[江坂輝彌]2018年9月19日



世界大百科事典

大森貝塚
おおもりかいづか

京浜東北線大森駅の北側の,東京都品川区大井6丁目(旧,鹿島町)に,かつて存在した縄文時代後・晩期の鹹水(かんすい)産貝塚。1877年にE.S.モースが発見し,同年から翌年にかけて発掘調査した。学術上の目的で調査された日本で最初の遺跡である。モースはこの成果を《Shell Mounds of Omori》(矢田部良吉訳《大森介墟古物編》1879)として報告した。報告書は,正確で写実的な遺物の図を豊富に掲げ,遺物の詳細な観察にもとづく用途が記されたり,各国の先史遺跡の事例をも引合いにするという高水準の内容で,今日でも報告書の鑑(かがみ)とされている。大正末ごろになると,貝塚の正確な位置もわからなくなり,大田区と品川区に二つの記念碑が昭和初期に別々にたてられた。このため国史跡もこの2ヵ所をあわせて指定している。その後,発掘に際しての畑地借上げ書類が《東京市史稿》に登載されていることがわかり,上記の位置であることが判明した。
[安孫子 昭二]

[索引語]
大森介墟古物編


日本歴史地名大系

東京都:品川区大井村 > 大森貝塚
大森貝塚
おおもりかいづか

[現]品川区大井六丁目

東京湾の奥部、遠浅の浜に延びた標高一三メートルの台地斜面にあり、国指定史跡。明治五年(一八七二)の鉄道開通に伴い、線路敷設のために遺跡のある台地の東側が削り取られた。そのときに貝塚の一部が露出し、土とともに貝類や土器片も線路の基盤に敷きつめられた。同一〇年六月、横浜に着いたばかりのアメリカ人E・S・モースは横浜から新橋に向かう途中、大森駅を出発してすぐに車窓より露呈した貝層を見つけた。同年九月一六日、モースは東京大学の助手松村任三と生徒の松浦佐用彦・佐々木忠次郎らとともに大森貝塚を踏査した。その後も何回か貝塚の実地調査をし、その成果をアメリカの雑誌Nature(一八七七、第一二巻四二二号)に発表した。大森貝塚は現在の海岸線から八〇〇メートルほど入った所にあり、貝層の長さは六〇メートル、厚さは三〇―一八〇センチほどで、その上部に九〇センチほどの堆積土がある。採集した貝類ではテングニシ、バイ、サザエ、カキなどが多く(岩波文庫「大森貝塚」。後述の「大森介墟古物編」と貝の種類が異なる)、次いで土器である。土器の文様は変化に富み、デザインは創造性にあふれている。石器類は目にしないが、骨角製品にはイノシシの牙製の鏃や鹿角製の銛がみられるなど、大森貝塚の特徴を述べている。また貝類の出土量を外国の貝塚と比較し、当貝塚が古い年代のものとしている。ここにはモースの貝塚の分析方法や相対年代の算出法など、科学的なとらえ方がみられ、これは明治一二年に出版された報告書Shell Mounds of Omoriで、いっそう科学性が深められていく。たとえば貝塚出土のハイガイやスガイと現生する貝類と比べ、その違いから東京湾の縮小を、あるいは土器を機能的に分け、生活を反映する容器と、人骨に残る傷跡から食人の風習があったとみている。出土遺物の図化にあたり測点を決めて実測するなど、今日の報告書の手本となっている。さらに啓蒙活動として邦文で「大森介墟古物編」を同年に出版したり、講演したり、大学内で出土品を展示したりするなど、広く人々に発掘の成果を伝えた。

大正一四年(一九二五)一二月、モースがマサチューセッツ州セーラムで亡くなると、翌年東京人類学会は「人類学雑誌」に追悼文を載せた。このとき大森貝塚の位置をめぐって食違いが生じ、のちに二つの石碑「大森貝塚」(品川区)と「大森貝墟」(大田区)と刻んだものが建つことになる。貝塚の所在地について、佐々木は大森区新井宿山王下あらいじゆくさんのうした二五五〇番地(現大田区)の臼井邸内、松村瞭(松村任三の子息)らは品川区大井町鹿嶋谷かしまだに二九五五番地の殿村邸内だと主張した。両者は大森貝塚とモース顕彰のために貝塚の地に記念碑の建立を計画し、昭和三年(一九二八)に大阪毎日新聞社社長本山彦一らにより殿村邸内に建てられた。石碑を建てる際、その横に貝層が出ていたと発起人の大山柏は記している。佐々木らは翌四年に臼井邸内に縦書の碑を建てた。松村は佐々木が大森貝塚だと主張する地点を掘ってみたが、貝殻の一つも出ず、地形が低すぎるという。同四五年「大森貝墟」碑のある隣に電話局(現NTTデータ)が建つにあたり発掘が行われたが、土器片も貝殻片もまったく出なかった。

昭和五二年はモースが大森貝塚を発掘してから一〇〇年目になる。考古学研究会は機関誌「考古学研究」を大森貝塚発掘百年記念号として特集を組んだ。このなかで佐原真は東京都が昭和四四年に刊行した東京府の稟議録を引用し、モースが発掘した大森貝塚は荏原えばら郡大井村の桜井甚右衛門の土地、つまり同村二九六〇番地字鹿嶋谷(現大井六丁目)であることを、地主への土地補償証などから実証した。同五八年臼井邸のある地が売却されるに伴い調査が行われたが、出土遺物は確認されなかった。

昭和五九年「大森貝塚」碑が建つ地が品川区の遺跡公園となり、整備にあたって範囲確認調査が実施され、縄文時代後期の加曾利B2式と晩期の安行3a式土器を包含する貝層の存在を突止めた。さらに平成五年(一九九三)の調査で、貝層のほか住居跡六軒(うち加曾利B式四・曾谷式一)が確認され、土製耳飾・土偶・土製円盤・釣針・刺突具・角製彫刻品・犬歯穿孔品・貝輪が出土した。住居跡の発見は集落構造を知るうえで大きな意味をもった。数次の調査により当遺跡からは縄文後期の堀之内I式から晩期の安行3d式までの土器が連続して出ており、主要期は加曾利B式期である。土製品は土偶・土版・有孔球状品、石器は打製石斧・石皿・磨石・石棒、骨角製品は銛頭・釣針・〓・鍬・刺突具、魚類はタイ、マグロ、イルカ、サメ、貝類はハイガイ、アサリなど二五種、動物はニホンジカ、イノシシ、サル、鳥類はガン、カモ、人骨である。なおハインリヒ・フォン・シーボルトも明治一〇年に大森貝塚を調査しており、出土遺物の一部がウィーン民族学博物館などにある。

現在モースが発掘した辺りは区立大森貝塚遺跡庭園として保存され、本山彦一らが建てた記念碑や貝層の一部を発掘した状態で見ることができる。出土遺物は近くの区立品川歴史館に展示されている。明治一〇年モースらの発掘による出土品は東京大学総合研究博物館に所蔵され、国指定重要文化財。

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1. 大森貝塚画像
日本大百科全書
東京都品川区大井6丁目、東海道本線の線路ぎわに「大森貝塚」の碑がある。また大田区山王1丁目地内に「大森貝墟きょ」の碑がある。これはモースが大森貝塚の南にも小貝塚
2. 大森貝塚
世界大百科事典
京浜東北線大森駅の北側の,東京都品川区大井6丁目(旧,鹿島町)に,かつて存在した縄文時代後・晩期の鹹水(かんすい)産貝塚。1877年にE.S.モースが発見し,同
3. おおもり‐かいづか[おほもりかひづか]【大森貝塚】
日本国語大辞典
東京都JR大森駅付近、品川区と大田区にまたがる縄文時代後期の貝塚遺跡。明治一〇年(一八七七)来日したアメリカのモースが発見・発掘し、日本先史学の源を開いた。史跡
4. おおもりかいづか【大森貝〓
国史大辞典
発見した。その後、彼は東京大学の生物学科の御雇教師として迎えられ、九月十六日はじめて線路伝いに大森貝塚に足を運んだ。そしてその後十一月に至るまで随時調査した。日
5. おおもりかいづか【大森貝塚】東京都:品川区/大井村地図
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彦・佐々木忠次郎らとともに大森貝塚を踏査した。その後も何回か貝塚の実地調査をし、その成果をアメリカの雑誌Nature(一八七七、第一二巻四二二号)に発表した。大
6. 大森貝塚の碑[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
品川区大井のJR線沿いに建つ。大森貝塚は品川区と大田区にまたがる遺跡で、この碑のある品川区側の遺跡一帯は品川区立大森貝塚遺跡庭園となっている。国指定史跡 東京都
7. アイヌじんせつ【アイヌ人説】
国史大辞典
日本石器時代の住民はアイヌの祖先であるという小金井良精の説をいう。明治十年(一八七七)モースの大森貝塚発見以来わが国の石器時代の遺跡が科学的に調査されるようにな
8. あかいし-いちへい【赤石市平】
日本人名大辞典
?−? 江戸時代後期の陶工。播磨(はりま)(兵庫県)の人。舞子(まいこ)焼をつくり,大森貝塚を発見したモースに評価された。作品には「赤石市平」「まひこ」「市平」
9. あらかわく【荒川区】東京都地図
日本歴史地名大系
中心に形成されている。縄文時代後期の日暮里延命院貝塚は西日暮里三丁目の延命院の崖下にあり、都内では大森貝塚(大田区)に次いで明治二一年(一八八八)に報告されてい
10. えばらぐん【荏原郡】
国史大辞典
郡名は『万葉集』二〇、天平勝宝七歳(七五五)進献の防人歌にみえるのが初見。郡内には考古学上著名な大森貝塚・亀甲山古墳などがあり、また菅苅・六郷・江戸・赤坂の各荘
11. おおいむら【大井村】東京都:品川区地図
日本歴史地名大系
大の村。東は海に面して海沿いを江戸時代の東海道が走り、立会川が蛇行しながら東流して海に注ぐ。大森貝塚の所在地。古代の東海道大井駅(「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条)
12. 大田(区)画像
日本大百科全書
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13. おおたく【大田区】
国史大辞典
低地には東海道本線・京浜東北線・京浜国道が通じ、駅を中心に大森・蒲田の商店街が発達している。史跡には大森貝塚、弥生時代の久ヶ原遺跡、多摩川沿いの亀甲山古墳、寺院
14. おおたく【大田区】東京都地図
日本歴史地名大系
発掘されている。後期前半では犬埋葬土壙が馬込貝塚で多く発見され、後期後半にはモースの発見した大森貝塚が形成された。晩期前半では昆虫形土製品などの珍品を出土する下
15. おお‐もり[おほ‥]【大森】
日本国語大辞典
の地名。東京湾北西岸の低地にある地区。江戸時代は天領で、埋立地の造成以前は浅草海苔の主産地。大森貝塚がある。〔二〕旧東京市の新二〇区の一つ。昭和七年(一九三二)
16. 大森(東京都)画像
日本大百科全書
名の由来。東海道本線(JR京浜東北線)の西側は山手やまのて台地で、JR大森駅北方の台地末端に大森貝塚がある。台地が住宅地なのに反して、東側の沖積低地は商工業地区
17. おおもりかいきょこぶつへん【大森介墟古物編】
国史大辞典
石版刷りなどの図版十八葉。わが国最初の遺跡発掘の学術報告書。『明治文化全集』科学篇、大森貝塚保存会編『大森貝塚』(昭和四十二年)所収。→モース (斎藤 忠)
18. 大森貝墟の碑[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
大森貝塚」の碑(品川区大井)の数百m南、大田区山王にある。一時モースが発見した貝塚の正確な位置が不明となったことで、昭和時代初期に別々に建てられたともいわれて
19. 陸平貝塚
世界大百科事典
茨城県稲敷郡美浦村に存在する縄文時代中・後期の鹹水(かんすい)産貝塚。E.S.モースの弟子で大森貝塚の調査にも参加した佐々木忠次郎,飯島魁が,1879年に,霞ヶ
20. おかだいらかいづか【陸平貝〓
国史大辞典
明治十二年(一八七九)佐々木忠次郎が霞ヶ浦に淡水貝類調査に赴き発見。同年飯島魁とともに調査。邦文予報に大森貝塚土器と比較して、大森を古く、陸平を新しく見た。この
21. おかだいらかいづか【陸平貝塚】茨城県:稲敷郡/美浦村/馬掛村
日本歴史地名大系
同一六年には英文の報告書「Okadaira Shell mound at Hitachi」が刊行されている。大森貝塚の大森式土器と対比して、陸平式土器とよばれ、
22. おもなお雇い外国人
日本大百科全書
1877年(明治10)腕足類研究のため来日、東京大学で動物学や生理学を講義。ダーウィンの進化論を紹介し、また大森貝塚を発見するなど考古学や人類学にも貢献。187
23. 貝塚画像
日本大百科全書
大昔住んでいた人間によるとの想定で発掘したのはE・S・モースが最初で、彼により1877年(明治10)9月、大森貝塚(東京都大田区・品川区)が発掘調査された。以後
24. 考古学画像
世界大百科事典
を導入したものである。 日本における科学的な考古学は,1877年,アメリカ人E.S.モースが大森貝塚の発掘を行ったときに始まるとされている。86年,坪井正五郎ら
25. こうこ‐がく[カウコ‥]【考古学】
日本国語大辞典
主として過去を研究し、当時の文化、生活様式、歴史などを明らかにする科学。明治一〇年(一八七七)モースが大森貝塚を知り、その調査を行なったのが日本における考古学の
26. こうこがく【考古学】
国史大辞典
刊行され、また同じ年、アメリカの生物学者モースEdward Sylvester Morseが大森貝塚の発掘を行なったりして、近代考古学がスタートしたが、それより
27. こうこがくのれきし【考古学の歴史】 : 考古学
国史大辞典
刊行され、また同じ年、アメリカの生物学者モースEdward Sylvester Morseが大森貝塚の発掘を行なったりして、近代考古学がスタートしたが、それより
28. 子育ての書 1 5ページ
東洋文庫
オールコックのいうように、日本の子どもは「自然の子」(『大君の都』)であるとみる人が多かった。明治初頭、大森貝塚の発見者として知られるモースの著作『日本その日そ
29. 品川(区)画像
日本大百科全書
となり、東京臨海高速鉄道(2002年全線開通)が通じた。 国指定史跡の大森貝塚は南の大田区に接する大井地区にあり、大森貝塚遺跡庭園として品川歴史館とともに整備さ
30. しながわく【品川区】東京都地図
日本歴史地名大系
ースが発見、発掘し、日本考古学発祥の地とされている大森貝塚(縄文後期・晩期)があり、貝塚ではこのほか縄文中期・後期の西光寺貝塚もある。大森貝塚北方に位置する大井
31. 指紋画像
世界大百科事典
その一人は1874年から13年間東京築地病院の外科医であったフォールズHenry Fauldsである。彼は大森貝塚から出た土器に残されていた指紋の跡に興味をもち
32. 小シーボルト蝦夷見聞記 129ページ
東洋文庫
避ける意味からも、上記の書物については時に典拠の明   示を省略した。*1  具体的には、東京都大田区の大森貝塚と埼玉県比企郡吉見町の吉見百穴を指す。二つの遺跡
33. 小シーボルト蝦夷見聞記 130ページ
東洋文庫
見解を誤りとするほかはないが、黎明期の日本考古学史Lにおいては画  期的な意義を有した。なお大森貝塚については、現在発掘地点は不明であるが、石器時代のも  ので
34. 小シーボルト蝦夷見聞記 244ページ
東洋文庫
後にウィーン民族学博物館に保管された大コレクションの中にも考古学関係のものが含まれている。内容はやはり「大森貝塚からの目の粗い土器の欠片、ナイフ、石斧、スクレー
35. 小シーボルト蝦夷見聞記 253ページ
東洋文庫
一八七七年(明治一〇)ないし一八七八年(明治一一)初頭にこの仕事にとりかかったと推測されてはいた。モースの大森貝塚「発見」は一八七七年(明治一〇)六月であった。
36. 小シーボルト蝦夷見聞記 260ページ
東洋文庫
v・シーボルトの名も著作も知らなかったようである。また、日本史跡研究会(一。ミ"ゴ田㎝)は、大森貝塚の項で、ただモース発掘「の後ほとんど調査は行われておらず」と
37. 小シーボルト蝦夷見聞記 265ページ
東洋文庫
St5hnen, 2 Bde., Wtirzburg-Leipzig.玉利勲一〇㏄ω『発掘への執念一大森貝塚から高松塚まで』。新潮社、東京。∈Φ凶轟碧5負ぢω駄
38. 小シーボルト蝦夷見聞記 281ページ
東洋文庫
本書の冒頭や二四頁でも述べられているが、より具体的には、ハインリッヒとモースが関わった、東京の大森貝塚と埼玉県の吉見百穴の発掘などに起因している。父・大シーボル
39. 小シーボルト蝦夷見聞記 282ページ
東洋文庫
一般的な考古学の対象や方法を論じた日本最初の考古学概説書で、日本語による個人出版であった。これに対し後者は、大森貝塚や吉見百穴のほか、群馬県や埼玉県などで調査・
40. 小シーボルト蝦夷見聞記 289ページ
東洋文庫
北海道の名付け親でもある松浦武四郎と親交があった。大森貝塚の人々をプレ・アイヌと考えたモースは、論敵でもあったハインリッヒに対しては、微妙な距離を置いていた。大
41. 小シーボルト蝦夷見聞記 295ページ
東洋文庫
新刊」『アメリカン・ナチュラリスト』第一  四巻、一八八○年九月、六五六~六六五頁(モース『大森貝塚』近藤義郎・佐原真編訳、岩波
42. 小シーボルト蝦夷見聞記 296ページ
東洋文庫
化  明治中期のアイヌの村から』(北横保男  訳、六興出版、一九八五年)。(21) モース『大森貝塚』解説(近藤義郎・佐原真編訳、岩波文庫、一九八三年)。(22
43. 小シーボルト蝦夷見聞記 297ページ
東洋文庫
はじ            めヨーロッパを回った。一八七五 明治 八 二三 ナゥマンなどと共に、大森貝塚や東京近辺の貝塚・古墳の調査研究を始          
44. 新石器時代画像
日本大百科全書
若い時分にこれらの貝塚の発掘調査に従事した生物学者のモースは、外人教師として東京大学に赴任し、東京都の大森貝塚を目ざとく発見した(1877)。モースがこの貝塚を
45. ジュウェット
日本人名大辞典
明治9年(1876)日本政府の招きで来日。東京開成学校,その後身の東京大学で化学をおしえる。モースが発掘した大森貝塚の出土品の化学分析を担当。13年に帰国し,オ
46. じょうもんしきどき【縄文式土器】
国史大辞典
現在の東京都品川区大井六丁目二十七番地所在の貝塚(東海道本線大森駅近傍の線路際にあったため、モースは大森貝塚とした)を発掘調査し、同十二年に東京大学法理文学部英
47. 縄文土器
世界大百科事典
縄文時代に行われた土器の総称。その名はE.S.モースが1877年に発掘した大森貝塚発見の縄目文様をもつ土器をcord marked potteryと説明したこと
48. じょうもん‐どき【縄文土器】
日本国語大辞典
はじめ縄蓆文(じょうせきもん)土器とも称されたが、昭和初期にこの名称に統一された。明治一〇年(一八七七)、大森貝塚を発掘したE=S=モースが、その土器をCord
49. つぼい‐しょうごろう【坪井正五郎】
日本国語大辞典
人類学者。江戸生まれ。モースの大森貝塚発掘に触発されて考古学、人類学を学び、人類学会を創設。のち会長となり、わが国の人類学の発展に寄与した。そのコロボックル説は
50. 東京(都)画像
日本大百科全書
土器が出土している。また海進もみられ貝塚などが形成された。1877年(明治10)モースによる大森貝塚の発見は有名である。この時代の文化を縄文文化とよぶ。紀元前3
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