1. 大森貝塚画像
日本大百科全書
東京都品川区大井6丁目、東海道本線の線路ぎわに「大森貝塚」の碑がある。また大田区山王1丁目地内に「大森貝墟きょ」の碑がある。これはモースが大森貝塚の南にも小貝塚
2. 大森貝塚
世界大百科事典
京浜東北線大森駅の北側の,東京都品川区大井6丁目(旧,鹿島町)に,かつて存在した縄文時代後・晩期の鹹水(かんすい)産貝塚。1877年にE.S.モースが発見し,同
3. おおもり‐かいづか[おほもりかひづか]【大森貝塚】
日本国語大辞典
東京都JR大森駅付近、品川区と大田区にまたがる縄文時代後期の貝塚遺跡。明治一〇年(一八七七)来日したアメリカのモースが発見・発掘し、日本先史学の源を開いた。史跡
4. おおもりかいづか【大森貝
】
国史大辞典
発見した。その後、彼は東京大学の生物学科の御雇教師として迎えられ、九月十六日はじめて線路伝いに大森貝塚に足を運んだ。そしてその後十一月に至るまで随時調査した。日
5. おおもりかいづか【大森貝塚】東京都:品川区/大井村地図
日本歴史地名大系
彦・佐々木忠次郎らとともに大森貝塚を踏査した。その後も何回か貝塚の実地調査をし、その成果をアメリカの雑誌Nature(一八七七、第一二巻四二二号)に発表した。大
6. 大森貝塚の碑[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
品川区大井のJR線沿いに建つ。大森貝塚は品川区と大田区にまたがる遺跡で、この碑のある品川区側の遺跡一帯は品川区立大森貝塚遺跡庭園となっている。国指定史跡 東京都
7. アイヌじんせつ【アイヌ人説】
国史大辞典
日本石器時代の住民はアイヌの祖先であるという小金井良精の説をいう。明治十年(一八七七)モースの大森貝塚発見以来わが国の石器時代の遺跡が科学的に調査されるようにな
8. あかいし-いちへい【赤石市平】
日本人名大辞典
?−? 江戸時代後期の陶工。播磨(はりま)(兵庫県)の人。舞子(まいこ)焼をつくり,大森貝塚を発見したモースに評価された。作品には「赤石市平」「まひこ」「市平」
9. あらかわく【荒川区】東京都地図
日本歴史地名大系
中心に形成されている。縄文時代後期の日暮里延命院貝塚は西日暮里三丁目の延命院の崖下にあり、都内では大森貝塚(大田区)に次いで明治二一年(一八八八)に報告されてい
10. えばらぐん【荏原郡】
国史大辞典
郡名は『万葉集』二〇、天平勝宝七歳(七五五)進献の防人歌にみえるのが初見。郡内には考古学上著名な大森貝塚・亀甲山古墳などがあり、また菅苅・六郷・江戸・赤坂の各荘
11. おおいむら【大井村】東京都:品川区地図
日本歴史地名大系
大の村。東は海に面して海沿いを江戸時代の東海道が走り、立会川が蛇行しながら東流して海に注ぐ。大森貝塚の所在地。古代の東海道大井駅(「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条)
12. 大田(区)画像
日本大百科全書
大森は幕府直轄の浅草海苔のりの主産地であり、台地や低地は江戸へ食料を供給する農村地帯であった。しかし、大森貝塚(国指定史跡、北に接する品川区の域内)や、多摩川台
13. おおたく【大田区】
国史大辞典
低地には東海道本線・京浜東北線・京浜国道が通じ、駅を中心に大森・蒲田の商店街が発達している。史跡には大森貝塚、弥生時代の久ヶ原遺跡、多摩川沿いの亀甲山古墳、寺院
14. おおたく【大田区】東京都地図
日本歴史地名大系
発掘されている。後期前半では犬埋葬土壙が馬込貝塚で多く発見され、後期後半にはモースの発見した大森貝塚が形成された。晩期前半では昆虫形土製品などの珍品を出土する下
15. おお‐もり[おほ‥]【大森】
日本国語大辞典
の地名。東京湾北西岸の低地にある地区。江戸時代は天領で、埋立地の造成以前は浅草海苔の主産地。大森貝塚がある。〔二〕旧東京市の新二〇区の一つ。昭和七年(一九三二)
16. 大森(東京都)画像
日本大百科全書
名の由来。東海道本線(JR京浜東北線)の西側は山手やまのて台地で、JR大森駅北方の台地末端に大森貝塚がある。台地が住宅地なのに反して、東側の沖積低地は商工業地区
17. おおもりかいきょこぶつへん【大森介墟古物編】
国史大辞典
石版刷りなどの図版十八葉。わが国最初の遺跡発掘の学術報告書。『明治文化全集』科学篇、大森貝塚保存会編『大森貝塚』(昭和四十二年)所収。→モース (斎藤 忠)
18. 大森貝墟の碑[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
「大森貝塚」の碑(品川区大井)の数百m南、大田区山王にある。一時モースが発見した貝塚の正確な位置が不明となったことで、昭和時代初期に別々に建てられたともいわれて
19. 陸平貝塚
世界大百科事典
茨城県稲敷郡美浦村に存在する縄文時代中・後期の鹹水(かんすい)産貝塚。E.S.モースの弟子で大森貝塚の調査にも参加した佐々木忠次郎,飯島魁が,1879年に,霞ヶ
20. おかだいらかいづか【陸平貝
】
国史大辞典
明治十二年(一八七九)佐々木忠次郎が霞ヶ浦に淡水貝類調査に赴き発見。同年飯島魁とともに調査。邦文予報に大森貝塚土器と比較して、大森を古く、陸平を新しく見た。この
21. おかだいらかいづか【陸平貝塚】茨城県:稲敷郡/美浦村/馬掛村
日本歴史地名大系
同一六年には英文の報告書「Okadaira Shell mound at Hitachi」が刊行されている。大森貝塚の大森式土器と対比して、陸平式土器とよばれ、
22. おもなお雇い外国人
日本大百科全書
1877年(明治10)腕足類研究のため来日、東京大学で動物学や生理学を講義。ダーウィンの進化論を紹介し、また大森貝塚を発見するなど考古学や人類学にも貢献。187
23. 貝塚画像
日本大百科全書
大昔住んでいた人間によるとの想定で発掘したのはE・S・モースが最初で、彼により1877年(明治10)9月、大森貝塚(東京都大田区・品川区)が発掘調査された。以後
24. 考古学画像
世界大百科事典
を導入したものである。 日本における科学的な考古学は,1877年,アメリカ人E.S.モースが大森貝塚の発掘を行ったときに始まるとされている。86年,坪井正五郎ら
25. こうこ‐がく[カウコ‥]【考古学】
日本国語大辞典
主として過去を研究し、当時の文化、生活様式、歴史などを明らかにする科学。明治一〇年(一八七七)モースが大森貝塚を知り、その調査を行なったのが日本における考古学の
26. こうこがく【考古学】
国史大辞典
刊行され、また同じ年、アメリカの生物学者モースEdward Sylvester Morseが大森貝塚の発掘を行なったりして、近代考古学がスタートしたが、それより
27. こうこがくのれきし【考古学の歴史】 : 考古学
国史大辞典
刊行され、また同じ年、アメリカの生物学者モースEdward Sylvester Morseが大森貝塚の発掘を行なったりして、近代考古学がスタートしたが、それより
28. 子育ての書 1 5ページ
東洋文庫
オールコックのいうように、日本の子どもは「自然の子」(『大君の都』)であるとみる人が多かった。明治初頭、大森貝塚の発見者として知られるモースの著作『日本その日そ
29. 品川(区)画像
日本大百科全書
となり、東京臨海高速鉄道(2002年全線開通)が通じた。 国指定史跡の大森貝塚は南の大田区に接する大井地区にあり、大森貝塚遺跡庭園として品川歴史館とともに整備さ
30. しながわく【品川区】東京都地図
日本歴史地名大系
ースが発見、発掘し、日本考古学発祥の地とされている大森貝塚(縄文後期・晩期)があり、貝塚ではこのほか縄文中期・後期の西光寺貝塚もある。大森貝塚北方に位置する大井
31. 指紋画像
世界大百科事典
その一人は1874年から13年間東京築地病院の外科医であったフォールズHenry Fauldsである。彼は大森貝塚から出た土器に残されていた指紋の跡に興味をもち
32. 小シーボルト蝦夷見聞記 129ページ
東洋文庫
避ける意味からも、上記の書物については時に典拠の明 示を省略した。*1 具体的には、東京都大田区の大森貝塚と埼玉県比企郡吉見町の吉見百穴を指す。二つの遺跡
33. 小シーボルト蝦夷見聞記 130ページ
東洋文庫
見解を誤りとするほかはないが、黎明期の日本考古学史Lにおいては画 期的な意義を有した。なお大森貝塚については、現在発掘地点は不明であるが、石器時代のも ので
34. 小シーボルト蝦夷見聞記 244ページ
東洋文庫
後にウィーン民族学博物館に保管された大コレクションの中にも考古学関係のものが含まれている。内容はやはり「大森貝塚からの目の粗い土器の欠片、ナイフ、石斧、スクレー
35. 小シーボルト蝦夷見聞記 253ページ
東洋文庫
一八七七年(明治一〇)ないし一八七八年(明治一一)初頭にこの仕事にとりかかったと推測されてはいた。モースの大森貝塚「発見」は一八七七年(明治一〇)六月であった。
36. 小シーボルト蝦夷見聞記 260ページ
東洋文庫
v・シーボルトの名も著作も知らなかったようである。また、日本史跡研究会(一。ミ"ゴ田㎝)は、大森貝塚の項で、ただモース発掘「の後ほとんど調査は行われておらず」と
37. 小シーボルト蝦夷見聞記 265ページ
東洋文庫
St5hnen, 2 Bde., Wtirzburg-Leipzig.玉利勲一〇㏄ω『発掘への執念一大森貝塚から高松塚まで』。新潮社、東京。∈Φ凶轟碧5負ぢω駄
38. 小シーボルト蝦夷見聞記 281ページ
東洋文庫
本書の冒頭や二四頁でも述べられているが、より具体的には、ハインリッヒとモースが関わった、東京の大森貝塚と埼玉県の吉見百穴の発掘などに起因している。父・大シーボル
39. 小シーボルト蝦夷見聞記 282ページ
東洋文庫
一般的な考古学の対象や方法を論じた日本最初の考古学概説書で、日本語による個人出版であった。これに対し後者は、大森貝塚や吉見百穴のほか、群馬県や埼玉県などで調査・
40. 小シーボルト蝦夷見聞記 289ページ
東洋文庫
北海道の名付け親でもある松浦武四郎と親交があった。大森貝塚の人々をプレ・アイヌと考えたモースは、論敵でもあったハインリッヒに対しては、微妙な距離を置いていた。大
41. 小シーボルト蝦夷見聞記 295ページ
東洋文庫
新刊」『アメリカン・ナチュラリスト』第一 四巻、一八八○年九月、六五六~六六五頁(モース『大森貝塚』近藤義郎・佐原真編訳、岩波
42. 小シーボルト蝦夷見聞記 296ページ
東洋文庫
化 明治中期のアイヌの村から』(北横保男 訳、六興出版、一九八五年)。(21) モース『大森貝塚』解説(近藤義郎・佐原真編訳、岩波文庫、一九八三年)。(22
43. 小シーボルト蝦夷見聞記 297ページ
東洋文庫
はじ めヨーロッパを回った。一八七五 明治 八 二三 ナゥマンなどと共に、大森貝塚や東京近辺の貝塚・古墳の調査研究を始
44. 新石器時代画像
日本大百科全書
若い時分にこれらの貝塚の発掘調査に従事した生物学者のモースは、外人教師として東京大学に赴任し、東京都の大森貝塚を目ざとく発見した(1877)。モースがこの貝塚を
45. ジュウェット
日本人名大辞典
明治9年(1876)日本政府の招きで来日。東京開成学校,その後身の東京大学で化学をおしえる。モースが発掘した大森貝塚の出土品の化学分析を担当。13年に帰国し,オ
46. じょうもんしきどき【縄文式土器】
国史大辞典
現在の東京都品川区大井六丁目二十七番地所在の貝塚(東海道本線大森駅近傍の線路際にあったため、モースは大森貝塚とした)を発掘調査し、同十二年に東京大学法理文学部英
47. 縄文土器
世界大百科事典
縄文時代に行われた土器の総称。その名はE.S.モースが1877年に発掘した大森貝塚発見の縄目文様をもつ土器をcord marked potteryと説明したこと
48. じょうもん‐どき【縄文土器】
日本国語大辞典
はじめ縄蓆文(じょうせきもん)土器とも称されたが、昭和初期にこの名称に統一された。明治一〇年(一八七七)、大森貝塚を発掘したE=S=モースが、その土器をCord
49. つぼい‐しょうごろう【坪井正五郎】
日本国語大辞典
人類学者。江戸生まれ。モースの大森貝塚発掘に触発されて考古学、人類学を学び、人類学会を創設。のち会長となり、わが国の人類学の発展に寄与した。そのコロボックル説は
50. 東京(都)画像
日本大百科全書
土器が出土している。また海進もみられ貝塚などが形成された。1877年(明治10)モースによる大森貝塚の発見は有名である。この時代の文化を縄文文化とよぶ。紀元前3