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  11. 佐渡金山

佐渡金山

ジャパンナレッジで閲覧できる『佐渡金山』の日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)
佐渡金山
さどきんざん

新潟県佐渡島、佐渡市各地にある金銀山の総称。古く砂金採取が行われたころ(『今昔 (こんじゃく)物語集』)佐渡金山の中心は佐渡の南部三川 (みかわ)砂金山(旧、佐渡郡真野 (まの)町域)にあった。やがて16世紀なかば、博多 (はかた)の商人神谷寿禎 (かみやじゅてい)によって灰吹 (はいふき)精錬がもたらされると、鶴子 (つるし)銀山(旧、佐渡郡佐和田 (さわた)町域)が脚光を浴びることになった。そして、慶長 (けいちょう)期(1596~1615)には相川 (あいかわ)金銀山(旧、佐渡郡相川町域)の発見によって佐渡は日本最大級の金銀山となり、江戸幕府の財政に大きく貢献することとなった。それまで十数軒の村里であった羽田 (はねだ)村から相川町が独立したのは1600年(慶長5)のことであるが、1603年佐渡代官となった大久保長安 (ながやす)の時代に町並みは整備され、陣屋も相川に移された。元和 (げんな)期(1615~1624)には米の消費高年4万5000石、推定人口3万人余の鉱山町となり、銀運上額は年8000貫目を数え、単年度としては世界産額の20%を記録するに至った。しかし寛永 (かんえい)(1624~1644)の中期になりしだいに深敷 (ふかしき)(坑道が深くなる)となり経費がかさみ、加うるに銀価格の下落もあって経営不振となる鉱区が多かった。元禄 (げんろく)時代(1688~1704)奉行 (ぶぎょう)荻原重秀 (おぎわらしげひで)は海岸から大水貫 (みずぬき)を掘って費用節減と増産を図った。いまに残る南沢疎水は、鉱山の歴史が湧水 (ゆうすい)との闘いであったことを教える。地下水の汲上 (くみあ)げにあたるのが水替人足 (みずがえにんそく)であり、初めは村々に割り当てたが、1778年(安永7)以降、江戸・大坂などの無宿者を佐渡送りにして水替えに従事させた。

 幕府が滅んだのち佐渡鉱山は新政府の御料局の経営となるが、はかばかしい成果をあげることはなかった。やがて1885年(明治18)佐渡鉱山局長大島高任 (たかとう)による西洋技術の導入によって大発展したが、1896年には三菱 (みつびし)に払い下げられた。太平洋戦争中は銅の採掘を行ったが、1952年(昭和27)三菱は鉱山の大縮小に踏み切り、1976年には佐渡鉱山株式会社として独立。ささやかな経営を続けたのち、1989年(平成1)に閉山した。

[田中圭一]



相川鉱山(明治時代)[百科マルチメディア]
相川鉱山(明治時代)[百科マルチメディア]

新潟県佐渡(さど)郡相川(あいかわ)町(現在の佐渡市相川)。『日本名勝旧蹟産業写真集 国定小学校教科書準拠 天』(1912年〈明治45〉)国立国会図書館所蔵


佐渡金銀山遺跡[百科マルチメディア]
佐渡金銀山遺跡[百科マルチメディア]

写真は、水銀を使って低品位の鉱石から金を回収した搗鉱場(とうこうば)の跡。現在は基礎部分のみが残る。国指定史跡 新潟県佐渡市©Shogakukan


歌川広重『六十余州名所図会 佐渡 金やま』[百科マルチメディア]
歌川広重『六十余州名所図会 佐渡 金やま』[百科マルチメディア]

国立国会図書館所蔵


改訂新版 世界大百科事典
佐渡金山
さどきんざん

新潟県佐渡郡(佐渡国)相川町(現,佐渡市)を中心とした金銀山。天文年間(1532-55)鶴子(つるし)(現同市,旧佐和田町)で発見された銀山は,文禄(1592-96)から慶長(1596-1615)にかけて坑道掘りの技術の導入にともない,その中心が鶴子から相川に移った。1601年,代官となった田中清六は今までの山主(山先)による請山(1年間一山の請負)にかえて,間歩(まぶ)(坑区)ごとに短期間(文書には10日間としたものがある)を限って運上を入札させた。そのためおびただしい数の間歩が開発され,運上が競われたことも重なって,02年には運上銀の総額(物資の運上を含めて)は銀1万貫に達した。金にして16万両余の税額である。03年,田中清六失脚のあとをうけて,佐渡は大久保長安が支配する。長安は谷底から水貫(みずぬき)を掘って水没した捨て間歩の復活をはかり,復活した間歩を山師に稼がせて出た鉱石を荷分けした。ついで17年(元和3)佐渡奉行となった鎮目市左衛門は直山(じきやま)を増やし,2割安米を渡すなど鉱山と鉱山民を保護し,再び鉱山は活況におもむいた。大山師味方但馬が活躍したのはこの時期である。その後金銀山はしだいに衰えの速度を速め,寛文期(1661-73)には衰退の極に達した。91年(元禄4)奉行荻原重秀は海岸から鉱山に向けて大疎水(南沢疎水。900m余)を掘るなど10年ほどの間に総額15万両にも及ぶ大投資を行い,鉱山は一時活気をとり戻すが,享保改革にともなって大縮小を余儀なくされた。宝暦(1751-64)に至って奉行石谷清昌は鉱山仕法を全面的に改め,精錬所を奉行所内に取り込むなど鉱山の合理化に取り組み,安永(1772-81)には江戸,大坂などから無宿者を送り込んで佐州水替人足として使役することにした。しかし鉱況は不振を極め,文化(1804-18)に至って江戸に送られる灰吹銀はついに年100貫を割り込んでしまった。化政期(1804-30)になり幕政は転換の兆しをみせた。奉行金沢瀬兵衛,泉本正助は再び金銀山に投資をすすめ,また金銀山荒廃の原因になるとして無宿水替えの減少に努めたが,それも短期間で終わった。天保改革によって奉行久須美六郎左衛門は金沢,泉本の鉱山政策を厳しく批判し,再び無宿水替えの投入をすすめた。その後幕末まで鉱山は荒廃と沈滞をつづけることになった。

 明治政府は主要鉱山の官行を決め,佐渡鉱山も1869年(明治2)政府の直営するところとなった。その後つぎつぎと洋式技術が取り入れられ近代化が図られたが,とりわけ85年大島高任が佐渡鉱山局長に任ぜられると,事業は大拡張され,4ヵ年に総額18万円余を投入し大発展することになった。やがて96年三菱合資会社に173万円で払い下げられ,以後は三菱の経営で第2次大戦後に及んだ。1952年三菱は鉱山の大縮小に踏み切り,現在は別会社によって経営されるようになった。
[田中 圭一] 鉱脈は第三紀中新世の凝灰岩,ケツ岩の累層(相川層群)と輝石安山岩および流紋岩から成る火山岩中に胚胎する浅熱水性裂か充てん鉱床で,青盤,大立,鳥越など大小数十条の鉱脈群を形成している。鉱脈の大部分は含金銀石英脈であるが,一部には金銀銅脈も存在している。約400年前の発見以来,金80t弱,銀2000t余,銅5000t余を生産したとされているが,すでに鉱量を採掘しつくし,その後,銅製錬の際の溶剤として使用する含金銀ケイ酸鉱を,わずかずつ生産していたが,それも1989年に休止した。現在は旧坑道の一部を利用して観光施設を整備し,〈ゴールデン佐渡〉を経営している。
[山口 梅太郎]

[索引語]
田中清六 大久保長安 鎮目市左衛門 荻原重秀 石谷清昌 大島高任
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佐渡金山の関連キーワードで検索すると・・・
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検索コンテンツ
1. 佐渡金山画像
日本大百科全書
新潟県佐渡島、佐渡市各地にある金銀山の総称。古く砂金採取が行われたころ(『今昔こんじゃく物語集』)佐渡金山の中心は佐渡の南部三川みかわ砂金山(旧、佐渡郡真野まの
2. 佐渡金山
世界大百科事典
新潟県佐渡郡(佐渡国)相川町(現,佐渡市)を中心とした金銀山。天文年間(1532-55)鶴子(つるし)(現同市,旧佐和田町)で発見された銀山は,文禄(1592-
3. 佐渡金山
日本史年表
1601年〈慶長6 辛丑⑪〉 6・1 家康、 佐渡金山 を直轄(撮要佐渡年代記)。
4. 佐渡金山図会(著作ID:281516)
新日本古典籍データベース
さどかなやまずえ 鉱業 
5. 相川画像
日本大百科全書
よる自然美に恵まれ、佐渡金山史跡とともに、佐渡観光の中心をなす。両津港からバスで約1時間。 相川はもと日本海に面するわびしい小漁村であったが、1601年(慶長6
6. あいかわ[あひかは]【相川】
日本国語大辞典
新潟県佐渡島西部の地名。佐渡金山とともに盛衰。無名異焼(むみょういやき)の陶器は有名。〓[ア]
7. 相川鉱山
日本大百科全書
新潟県佐渡市さどし西部にある鉱山で、佐渡鉱山とよばれる。古来、佐渡金山さどのかなやまとよばれた。江戸時代、幕府が直轄したもっとも重要な金鉱。編集部
8. あいかわまち【相川町】新潟県:佐渡郡
日本歴史地名大系
へ分離した。相川測候所・県相川土木事務所・相川税務署など国・県の出先官庁が集中するとともに、佐渡金山や海岸景勝地の尖閣湾など観光資源に恵まれ、佐渡観光客の五五パ
9. あいづかいどう【会津街道】新潟県:総論
日本歴史地名大系
通行は新発田・村上両藩の参勤交代、塩野町代官所・水原代官所などからの年貢金継送り、および近世後期から始まった佐渡金山水替人足となる江戸無宿者の目籠送りで、実際に
10. 安土桃山時代
日本大百科全書
これはさらに諸産業の発達を促進したが、なかでも注目すべきは鉱山業の隆盛がみられたことである。石見いわみ銀山、佐渡金山をはじめとして、各地の鉱山では採掘技術の進歩
11. アルキメデスの螺旋画像
日本大百科全書
近世初めのスペイン、ポルトガルその他の鉱山で盛んに使われた。日本へも中国を介して1637年(寛永14)に佐渡金山に導入され、竜尾車、水上輪などとよばれ、その後農
12. 出雲崎[町]
世界大百科事典
。丘陵崖下の浜辺は約6kmにわたって家並みの続く日本の代表的街村である。北国街道の宿場町で,佐渡金山の金の陸揚げ港としても栄え,近世には代官所も置かれた。西端の
13. いずもざき【出雲崎】
国史大辞典
代官に支配させた。江戸・大坂へ廻漕する御城米の積出港として、また江戸へ輸送する佐渡産金の陸揚地および佐渡金山に働く水替人足の渡航地として特異な存在であった。中世
14. いずもざきまち【出雲崎町】新潟県:三島郡/出雲崎町
日本歴史地名大系
幕府は当地を中心とした地域を幕府領としたが、これは大久保長安が対岸の小木湊(現佐渡郡小木町)を佐渡金山の上納金銀の積出港としたことにかかわるものである。翌三年の
15. いわふねぐん【岩船郡】新潟県
日本歴史地名大系
後年貢米の積出しは幕府領の海老江港に移った。中世末期から知られた高根・鳴海金山(現朝日村)は佐渡金山より産出高が多く、運上金額も全金山の約三〇パーセントに達して
16. えちごかいどう【越後街道】福島県:総論
日本歴史地名大系
(田中文庫蔵)所収の寛文九年駄賃并木賃之定で明白である。越後街道は白河街道とともに、江戸から佐渡金山に通ずる道の一つであり、越後村上・新発田両藩の参勤交代路であ
17. えちごのくに【越後国】新潟県
日本歴史地名大系
馬宿駅を設けたことにより実質的発展をみる。越後国内を通過する主要道はすべて脇街道であったが、佐渡金山の御金荷通過路として重視され、ことに佐州三路と称された北国街
18. おぎ[をぎ]【小木】
日本国語大辞典
新潟県佐渡島の南西端にある港町。近世初期佐渡金山の金の輸送港として、また寛文年間(一六六一~七三)には日本海の西廻(まわり)海運の風待港として、明治初期頃まで栄
19. 小木(新潟県)画像
日本大百科全書
市となる。旧小木町は佐渡島の南西端に位置し、港町として知られる。国道350号が走る。近世初期佐渡金山の金の輸送港として栄え、また寛文かんぶん年間(1661~16
20. 柏崎(市)画像
日本大百科全書
、中世は越後上布じょうふ、青苧あおその集散地であり、縮ちぢみの行商で栄えた。近世は北国街道の佐渡金山の御用金輸送路にあたる宿場町として重きをなした。また桑名藩の
21. かつくみ【川汲】北海道:渡島支庁/南茅部町/尾札部村
日本歴史地名大系
による蝦夷地再直轄とともに鉱山開発が進められ、同三年川汲山銅鉱が試掘された(書付并伺書類)。佐渡金山から幕吏益田鷹之助が派遣され、益田一家は温泉場近傍の役宅に生
22. かなやままちむら【金山町村】長野県:東筑摩郡/四賀村
日本歴史地名大系
鋳て小笠原氏に献じ、秀政の子忠政は金山を公表して幕府に献じ、幕府領の金山が開かれた。元和二年、佐渡金山から徳山五兵衛の視察があり、井上新左衛門が代官として発掘を
23. 官業払下げ
世界大百科事典
紡績所など)の払下げがおこなわれ,工部省,内務省所管の工場が次々と払い下げられ,96年9月の佐渡金山・生野銀山(払受人,三菱)の払下げで終了した。〈概則〉の変更
24. かんぎょうはらいさげ【官業払下げ】画像
国史大辞典
元高級官僚その他が大部分を占めた。たとえば三井が三池炭鉱・新町紡績所・富岡製糸所など、三菱が佐渡金山・生野銀山・長崎造船所など、古河市兵衛が足尾銅山(もと日光県
25. 金(元素)画像
世界大百科事典
り,金銀の出目による収益を図ったといわれるが,金銀産出の激減がその背景にあった。 明治政府は佐渡金山などを官行とし,採鉱製錬の技術面でも西洋のそれを導入したが,
26. 金銀(きんぎん)は佐渡(さど)の蚯蚓(みみず)の糞(くそ)
故事俗信ことわざ大辞典
佐渡金山からとれる金銀が尊いといっても、たかが佐渡のミミズがひり出した糞に過ぎないではないか。金銀をむやみに尊ぶことをいやしんでいう。〔南総の俚俗〕
27. こいでむら【小出村】新潟県:東蒲原郡/上川村
日本歴史地名大系
引当てに明暦元年(一六五五)と万治三年(一六六〇)に借金をしている。元禄一一年(一六九八)には佐渡金山の御用炭の出炭を引当てに九両余の借金。同四年河沼郡出原村(
28. 鉱山
世界大百科事典
伊豆土肥(伊豆金山),甲斐黒川(黒川金山),陸中白根,出羽院内・阿仁(阿仁鉱山),佐渡相川(佐渡金山),能登宝達など,銀山では石見大森(石見銀山),但馬生野(生
29. さつまちょう【薩摩町】鹿児島県:薩摩郡
日本歴史地名大系
挟み幕末まで鹿児島藩営で採掘が行われた。最盛期は万治二年(一六五九)でその後産出量は減少していくが、一時は佐渡金山(現新潟県相川町)を上回る産金量があったという
30. 佐渡[市]
世界大百科事典
は洋式工法を導入して近代化を進めた。1896年三菱鉱業に払い下げられ,1952年規模を縮小し佐渡金山株式会社が稼働採掘していたが,89年3月閉山した。新潟地方法
31. 佐渡(市)画像
日本大百科全書
地がある。中世には遠流おんるの島として順徳じゅんとく上皇や日蓮にちれんが流され、江戸時代には佐渡金山が栄えて、それらにちなむ史跡も多い。国際保護鳥であるトキの佐
32. 佐渡相川の歴史[文献解題]新潟県
日本歴史地名大系
昭和四六年―(刊行中) 構成 既刊資料集の内容は、(一)金泉近世文書、(二)墓と石造物、(三)佐渡金山史料、(四)高千・外海府近世文書、(五)二見・相川近世文
33. 佐渡島画像
日本大百科全書
の中心をなしている。しかし、佐渡が全国的に有名になったのは、近世初期の1601年(慶長6)に佐渡金山が開発され、江戸幕府の金蔵かなぐらと称せられて直轄領となり、
34. 佐渡島
世界大百科事典
旧佐和田町),新穂の銀山時代を経て,17世紀初めころには相川で金銀が採掘されるようになった(佐渡金山)。金山は幕府の直営で,近世最大の金銀山となり,幕府の財源を
35. さどきんぎんざん【佐渡金銀山】
国史大辞典
同佐和田町)・滝沢(同新穂村)・西三川(同真野町)・大須(同)など十ヵ所以上にのぼる金・銀・鉛鉱山がある。佐渡金山はそれらの鉱山の総称であり、江戸時代には「佐渡
36. さどきんぎんざん【佐渡金銀山】新潟県:佐渡郡/相川町/相川町
日本歴史地名大系
ともに一七三万円で三菱合資会社に払下げられ、民営移管となった。現在三菱金属鉱業の子会社である佐渡金山株式会社佐渡鉱山の経営となり、月産金三・七キロ、銀六五キロを
37. 佐渡路
世界大百科事典
江戸と佐渡を結ぶ,江戸時代の主要脇街道の一つ。幕府は佐渡金山を重視し,ここを直轄地として佐渡奉行を置き開発を進めた。その産出量はとくに江戸初期に多く,幕府の重要
38. 佐渡国
世界大百科事典
1601年には代官として敦賀の豪商田中清六が来国し,03年には代官頭の大久保長安が佐渡を支配して佐渡金山の開発を行った。13年4月長安の死とともに佐渡は大久保氏
39. さどのくにてんりょうかんえんにねんいっき【佐渡国天領寛延二年一揆】
国史大辞典
要求しておこった百姓一揆。佐渡は元禄六年(一六九三)の荻原重秀奉行による一国検地と享保の改革による増税、さらに佐渡金山の合理化政策により幕初以来の不況に苦しんで
40. しなのまち【信濃町】長野県:上水内郡
日本歴史地名大系
た。他方、北国脇往還が通じて野尻・柏原・大古間三宿が設置されると、越後及び北陸諸大名の通行、佐渡金山からの金銀荷の輸送と江戸から佐渡への囚人の護送、越後からの塩
41. 島根のすさみ 佐渡奉行在勤日記 363ページ
東洋文庫
清吉著 昭和四年)  《鉱山に関するもの》○『佐渡金銀山史話』(麓三郎著 昭和三十一年)O『佐渡金山史』(田中圭一編 昭和四十六年)○『日本鉱山史の研究』(小葉
42. 島根のすさみ 佐渡奉行在勤日記 364ページ
東洋文庫
  年)○『佐渡金山の底辺』(磯部欣三著 昭和三十六年)○『無宿人-佐渡金山秘史1』(磯部欣三著 昭和  三十九年)○『火縄銃から黒船まで1江戸時代技術史一』(
43. しらかわかいどう【白河街道】福島県:総論
日本歴史地名大系
白河街道は会津の五街道の一つで、会津、越後新発田・同村上各藩主の参勤交代路であり、江戸幕府からみると佐渡金山への通路の一つでもある。商用の荷物は福良から中地(現
44. じゅう‐ついほう[ヂュウツイハウ]【重追放】
日本国語大辞典
江戸近在での治安が不完全になることがあった。そこで安永七年(一七七八)には、無宿人で再犯のおそれのあるものを佐渡金山に送ったり、寛政二年(一七九〇)、佃島人足寄
45. 水車画像
日本大百科全書
その反射炉への送風に水車を利用したり、砲身を削るための機械の動力源を水車に求めるようになった。『佐渡金山絵巻』のなかには、金鉱石の粉砕に水車を利用している描写が
46. 水車画像
世界大百科事典
作ることが困難な河川下流の干拓地や新田地帯で普及したにとどまる。総じて水車の利用は灌漑よりは他の用途で伸びた。佐渡金山で鉱床の湧水を排出するために,1618年(
47. そうとくまち【惣徳町】新潟県:佐渡郡/相川町/相川町
日本歴史地名大系
高任竪坑(現在は深さ六五〇メートル)が開削されている。現在は人家はなく、三菱金属鉱業の子会社佐渡金山株式会社佐渡鉱山の事務所が置かれる。
48. たいせいすいほう【泰西水法】
国史大辞典
農政全書』の輸入によって知られ、青木昆陽は『昆陽漫録』に引用し、玉衡車の流行を記す。竜尾車は佐渡金山の排水用として製作使用され水上輪と称した。また農業の灌漑用と
49. たきざわぎんざんあと【滝沢銀山跡】新潟県:佐渡郡/新穂村/大野村
日本歴史地名大系
大野銀山・青木金山・新穂銀山などとも称する。天正(一五七三―九二)頃に滝沢銀山の採掘があったといわれる(佐渡金山史)。「佐渡名勝志」には慶長―元和(一五九六―一
50. 手なし娘
日本大百科全書
1869年(明治2)の写本『高野山女人堂由来記』が知られている。娘を佐渡国の宿屋紀ノ国屋の娘の小杉おすぎ、夫を佐渡金山の代官の片岡氏の息子植松とし、2人がそれぞ
「佐渡金山」の情報だけではなく、「佐渡金山」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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関ヶ原古戦場跡(日本歴史地名大系)
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佐渡金山(日本大百科全書・世界大百科事典)
新潟県佐渡島、佐渡市各地にある金銀山の総称。古く砂金採取が行われたころ(『今昔 (こんじゃく)物語集』)佐渡金山の中心は佐渡の南部三川 (みかわ)砂金山(旧、佐渡郡真野 (まの)町域)にあった。やがて16世紀なかば、博多 (はかた)の商人
楯築遺跡(日本大百科全書・世界大百科事典・日本歴史地名大系)
岡山県倉敷市矢部の丘陵頂、旧楯築神社境内にある弥生(やよい)時代の大墳丘墓。主丘は円形で径43メートル、高さ4~5メートルで、北東と南西に突出部があり、円礫(えんれき)と石列が巡る。主丘頂平坦(へいたん)部に巨大な立石群があり、その中央に神体とされた
弥生土器(世界大百科事典)
弥生文化に用いられた軟質,赤焼きの土器。縄文土器に後続し,古墳時代の土師器(はじき)に先行する。1884年に東京本郷の弥生町向ヶ丘貝塚(弥生町遺跡)で採集された土器がもとになって,90年代から〈弥生式土器〉の名称が生まれた。最近では,細別するときに
大平山元遺跡(日本歴史地名大系)
[現]外ヶ浜町蟹田大平・蟹田山元蟹田(かにた)川左岸の標高二六−二八メートルを有する低位河岸段丘上に営まれた、旧石器時代終末から縄文時代草創期の遺跡群。遺跡は三地区に分かれ、それぞれ大平山元I・同II・同III遺跡と呼称されている。昭和五〇年
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