[現]上京区京都御苑
広義には
平安京の内裏は天徳四年(九六〇)九月二三日夜の炎上(日本紀略)以後たびたび罹災、その都度大内裏内の官衙、京中の後院や公家邸宅が仮御所として利用されたが、罹災と再建を繰返すなかで、公家邸宅の仮御所が内裏に準ずるものとして里内裏とされた。
「今内裏」(栄花物語巻二)といわれ、里内裏の初めとされたのが、円融天皇の用いた
一方本来の内裏は造営中の安貞元年(一二二七)四月二二日に類焼し(百錬抄)、以後再建されず、辺り一帯は荒廃し内野とよばれるようになる(増鏡)。
こうして鎌倉中期に至り里内裏が内裏そのものとなった。当時の里内裏は閑院であったが(玉葉)、正元元年(一二五九)五月二二日の焼亡(百錬抄)以後再建されず、そのため鎌倉後半期は再び各所の内裏(
元弘元年(一三三一)九月二〇日、持明院統(のちの北朝)の光厳天皇が践祚・即位した、
この地は平安末期には藤原邦綱の邸宅(土御門東洞院邸)であった跡で(「山槐記」治承四年三月四日条)、のち後白河天皇皇女宣陽門院(勤子内親王)に伝領され、里内裏として使用されることもあった。
当時の所有者は勤子内親王の孫、陽徳門院子内親王(後深草皇女)であった。この頃紫宸殿と清涼殿は一つの建物を兼用され、小御所が発達していた(「門葉記」指図)。ただし政治的変動により、他所に遷御することもしばしばであるが、皇居としては当所以外には存在しない。
明徳三年(一三九二)閏一〇月五日に、南朝(後亀山天皇)より三種の神器が土御門殿に渡され(南山御出次第)南北両朝が統一されたことにより、最終的に当所に固定した。これが現在の京都御所のもとで、いまの京都御所の紫宸殿・清涼殿辺りが旧地であったと考えられる。
この土御門東洞院内裏は、規模も今よりは遥かに小さくて一町四方であり、応永八年(一四〇一)二月二九日の火災の時、内裏の内は無人のごとくであったという(迎陽記)。また嘉吉三年(一四四三)九月二三日、南朝の後裔尊秀王が侵入して放火、紫宸殿・清涼殿・常御所・小御所・泉殿・内侍所などが焼けた(看聞御記)。そのため後花園天皇は室町第で一年有余を過ごし、文明一一年(一四七九)一二月兵火を免れた土御門内裏に還幸している(御湯殿上日記)。しかしその後の戦国時代は荒廃にゆだねられた。当時の禁裏の有様は、古い時期の洛中洛外図屏風などに描かれる。
天文一二年(一五四三)二月一四日、織田信秀は後奈良天皇の要請によって内裏修理料四千貫を献上したが(多聞院日記)、これが機縁となって永禄一一年(一五六八)一一月将軍足利義昭を奉じて入京した信長は、村井貞勝・朝山日乗を奉行として内裏修造に着手、永禄一三年二月二日より作事が始められ、元亀二年(一五七一)一応の完成をみた(信長公記)。この時の規模は室町期のそれを踏襲している。
豊臣秀吉は天下統一のあと信長の前例に従って、内裏の修造を行っている。奉行は前田玄以。天正一七年(一五八九)正月一八日に修理計画が相談され、二ヵ月後から工事が始められた(御湯殿上日記)。同年九月にはほぼ完成したが、清涼殿のみは同一九年三月のことであった。「兼見卿記」天正一九年三月四日条によると、修造とはいいながらほとんど全殿舎の改築であったことが知られ、信長をしのごうとした秀吉の意図が感じられる。
慶長年間――慶長一六年(一六一一)、家康は秀吉建造の建物を取壊して新しく内裏を造営した。内外の築地は諸大名に築かせている。翌一七年一二月一一日に木作始式が行われ(義演准后日記)、翌年末一応の完成をみた(言緒卿記)。しかし元和六年(一六二〇)六月一八日の二代将軍秀忠の女和子の後水尾天皇への入内(泰重卿記)に備え、女院御所が小堀遠州らによって建てられ、それに伴い武家詰所も設けられて(寛政重修諸家譜)、禁中の動静は逐一報告されることになった。東方にあった以前の柳馬場をとりこみ、南門も造られて、規模は著しく増大した。
寛永年間――幕府は寛永一八年(一六四一)、慶長造営の内裏を取壊し、小堀遠州を総奉行として、本格的な内裏造営に着手した(続史愚抄)。同年正月二六日木作始が行われ、六月一〇日に立柱、翌年六月一八日、明正天皇は仮皇居より遷幸している(禁裏日次記)。内裏の敷地は東北隅は欠込まれたが、東と北へ拡大され、面積も一万四千二六五坪から二万二千二〇一坪に増大された。「愚子見記」によれば、「御入用
銀五千五拾三貫百八十一匁九分、 |
米九万千七百八十七石六斗七斤五合 |
承応年間――承応二年(一六五三)六月二三日、内裏は仙洞・新院・女院の三御所及びわずかの建物を残して炎上した(羽倉延重日記)。
再建工事は翌三年三月一二日、中井主水正正知を大工頭として木作始めが行われ(続史愚抄)、「徳川実紀」によれば、同四月一七日、五万石以上の大名に、一万石につき銀一貫の割で造営費の献上が命じられたという。しかし同年九月、後光明天皇が仮皇居で没したため工事は中止(羽倉延重日記)、同一一月一六日に再開された(続史愚抄)。「愚子見記」によれば、内裏御殿は約四千四〇〇坪、大工総数は延べ五六万五千余人、木挽数は一一万三千三三人に及び、また所要経費は銀約五千二〇〇貫、米約一五万五千石余であったという。この時紫宸殿東北に建てられた小御所の位置は現在まで踏襲されている。また主要殿舎の屋根に銅瓦が使用された(ただし内侍所のみは檜皮葺)。後西天皇は明暦元年(一六五五)一一月一〇日に還幸している(羽倉延重日記)。
寛文年間――承応年間の内裏は万治四年(一六六一)正月一五日、炎上した(京都日々記)。寛文二年(一六六二)四月八日に工事が始められている(徳川実紀)。木作始めは寛文二年五月二日、総奉行に小出越中守があたり、浅野内匠頭以下四人が御手伝いとして、一万石につき約二九三坪が割当てられ、それぞれ人夫一〇〇人ずつを出すことが命じられた(禁中御作事御家坪数御奉行わけ之覚)。また工事の諸経費は銀に換算して一万一一六貫余で(愚子見記)、承応年間に比して経費の節減が認められる。翌寛文三年正月二一日に皇太子識仁親王が行啓しており、その頃までに完成していたことが知られる。
延宝年間――寛文一三年五月八日夜、関白鷹司房輔邸からの失火により、本院御所(明正院)を除いて内裏・仙洞御所(後水尾院)・女院御所(東福門院)・新院御所(後西院)等が炎上した(羽倉延重日記)。
「徳川実紀」によれば、翌延宝二年(一六七四)二月一一日に松平伊予守綱政が造営助役、伏見奉行仙石因幡守久俊が御普請総奉行に命じられている。翌三年正月一九日に木作始めが行われ、本格的に工事に着手、一一月には上棟式が行われ、天皇は二七日に新造内裏に還御している。
工事に要した大工数は三七万五千七八人で、その飯米は合計五千六二六石一斗七升(一人につき一升五合あて)、また作料は五六二貫六一七匁(一人につき一匁五分あて)であったという(禁中御作事大工木挽数飯米作料銀高目録帳)。建築坪数が多少増加してはいるものの寛文期に比してかなりの減少といえよう。また北側にあった空地(寛永の仮皇居跡)が二分され、新たに東西道を作って北半分を東院御所、南半分を内裏の敷地としたことが留意される。
宝永年間――宝永五年(一七〇八)三月八日正午頃、油小路姉小路よりの出火で内裏は炎上(宝永五年災上記)、綱吉は早速造営にとりかかっている。五月一四日には伏見奉行建部内匠守を内裏普請奉行に、有馬玄蕃頭則維を助役に任命(徳川実紀)、九月二日木作始めが行われ、翌六年七月二六日上棟式、九月二六日に至り工事が完了した(続史愚抄)。この間東山天皇は譲位し、中御門新帝が一一月一六日、新造内裏に移御している。幕府から敷地が提供されて東と北へ拡幅され、烏丸通以東、丸太町通以北の数町の民家を鴨川東の二条
内裏は七千四三六坪、仙洞・女院は千七八七坪、新院・中宮は六千六〇二坪となり(徳川実紀)、総計で二万二千二〇一坪(それまでは一万四千二六五坪)となった。これは従来の敷地に対して五割強の拡大であった。また常御殿の場所が東へ移転され現在の位置に定まった。
寛政年間――天明八年(一七八八)正月晦日夜、洛東
この度の造営は従来のそれに比し画期的な意義を有している。それは総奉行松平定信が柴野栗山・裏松固禅を登用し、固禅長年の研究の成果である「大内裏図考証」に基づき、紫宸殿・清涼殿や飛香舎などが古制に戻して再建されたことである。またこの時近世以来の重要な出入口であった四足御門がなくなった。更に一千八〇〇坪が増加、宝永の内裏の南北が少し拡大されてほぼ今日の規模となった。ちなみに「寛政御造営最初記」所収の広橋大納言書状写によると、従来の内裏が当時狭くて不便さが痛感されていたことが知られる。
またこの度の造営は大工組が分担施行しているのが特徴で(寛政御造営記・鳳闕見聞図録)、現在の建築請負業者の前身、すなわち「組」の出現が留意される。
裏松固禅が著した「大内裏図考証」は、当時竹内式部事件に連座して長く閉門中であった固禅が夜中に実測を行い、三〇余年をかけて完成したというもの。
安政年間――嘉永七年(一八五四)四月六日、内裏よりの失火で一二ヵ所の御文庫を除いて全焼(東本願寺上檀間日記)、老中阿部正弘を総奉行として翌安政二年(一八五五)三月一八日に木作始めが行われ、同一一月二三日、天皇は移御している(公卿補任)。
寛政年間と同様、旧制によって再建され、建物の規模や配置も南側東西両端の欠込みが外へ張出された以外は寛政年間と変りはなかった。
工匠は一四〇万八千四五〇人、費用は金二七万六千二一三両三分、銀八千五二八貫一八五匁、米二万一千三〇九石九斗七升が使われたといい(安政御造営誌)、前回に比べて更に地方大工組の進出が注意される。
現在京都御所の広さは南北二四六間、東西は北端で一三〇間、南端で一三七間、東北部を鬼門除けとして隅を取っている。位置は南北朝以来の土御門東洞院内裏と同じ。
周囲を取巻く築垣には正面の建礼門以下、御台所内ともいわれた清所門、公家門の称のある宜秋門・皇后宮門・朔平門・建春門(日御門)の六門があり、その中に紫宸殿・清涼殿・宜陽殿・春興殿(内侍所)がある。紫宸殿以下は安政二年の再建になり、寛政年間のそれを踏襲して、平安朝の様式で復元されたが、後世的な要素も混入している。
このうち紫宸殿は正面九間、側面三間、床は
ほぼ古制を伝える以上の殿舎の背後(北方)に小御所・御学問所・常御殿あるいは八景間・迎春閣・御清所・御花御殿(東宮御殿)・長橋局(女官勾当内侍の居所)などが渡殿(渡廊)で結ばれている。小御所は中世以来諸儀式の行われたところで、諸大名の拝謁などもここで行われた。明治維新の際、ここでの会議(小御所会議)で大政奉還が決定されたことは有名。昭和二九年(一九五四)八月一六日、花火のため半焼、再建された。蔀戸を用いて一見寝殿造風であるが、内部は学問所・常御殿ともに近世の書院造様式をもつ。
これらの建物の東側に池が南北に連なり、孝明天皇好みの茶室聴雪・泉殿(地震御殿)などの庭間建物があり、更にその東、築垣に沿って御文庫が列立している。いわゆる東山御文庫である。
以上の殿舎の北、朔平門の南側にある一郭が皇后御殿で、常御殿・雨宮御殿・飛香舎がある。このうち飛香舎は拭板敷、化粧屋根裏で、現存する京都御所の建物のうち最もよく平安の古制をとどめている。
京都御所の東南、築垣に囲まれた一郭。西北部を大宮御所が占め、西南部に仙洞御所があった。東部に庭園が南北に連なる。
仙洞御所は後水尾天皇の将来の譲位に備え、幕府が寛永四年一一月、小堀遠州を作事奉行として造営に着手したが(小堀家譜)、勅許紫衣事件により天皇が同六年一一月八日、にわかに退位したため(資勝卿記)、間に合わず、完成は翌七年一二月のことであった。その間上皇は中宮御殿を仮御所とした。
この仙洞御所は以後、霊元・中御門・桜町・後桜町・光格の各上皇の御所とされたが、寛永一三年五月八日(羽倉延重日記)、延宝四年一二月二六日(基熙公記)、貞享元年(一六八四)四月五日(鴨脚正彦家文書)、宝永五年三月八日(宝永五年炎上記)、天明八年一月三〇日(伊藤家文書)に罹災し、嘉永七年四月六日(東本願寺上檀間日記)の焼失時、たまたま上皇が不在位であったため再建のことなく、苑池を残すのみ。
他方大宮御所は女院御所跡で女院御所は仙洞御所と同じ時、東福門院(後水尾皇后)の御所として遠州を作事奉行として造営された。以来新上東門院(霊元皇后)・承秋門院(東山皇后)・新崇賢門院(東山後宮)・新中和門院(中御門女御)・新清和院(光格皇后)が住したが、嘉永七年四月仙洞御所とともに焼失したあと、英照皇太后(孝明皇后)のために慶応三年(一八六七)に造営された。これが現在の大宮御所で、国賓の宿舎に用いられている。
現在、苑池は両御所の東に北の池・南の池が連なるが、もとはそれぞれ女院御所・仙洞御所の庭園であり、築垣で仕切られていたが、延享四年(一七四七)この築垣が取払われ、その際掘割によって南北の池が結ばれた。またこの折、北に水田(御田)がつくられ、御田社が祀られた。
天正造営の内裏は慶長造営の際大幅に取壊されて、紫宸殿は
慶長造営の建物は寛永造内裏の時一部取壊され、紫宸殿は
なお
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