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  11. 京都御所
日本歴史地名大系・国史大辞典

日本歴史地名大系
京都御所
きようとごしよ

[現]上京区京都御苑

広義には大宮おおみや御所(なかに仙洞御所がある)をも含み、狭義には京都御所のみをいう。里内裏であった土御門東洞院つちみかどひがしのとういん邸が、鎌倉最末期以来皇居とされていたものの後身で、仙洞御所と大宮御所は江戸初期に設けられた。今日の広さは江戸末期に定まったものであるが、本来の内裏よりは広く、同じく大内裏よりは狭い。

〔前史〕

平安京の内裏は天徳四年(九六〇)九月二三日夜の炎上(日本紀略)以後たびたび罹災、その都度大内裏内の官衙、京中の後院や公家邸宅が仮御所として利用されたが、罹災と再建を繰返すなかで、公家邸宅の仮御所が内裏に準ずるものとして里内裏とされた。

「今内裏」(栄花物語巻二)といわれ、里内裏の初めとされたのが、円融天皇の用いた堀河ほりかわ(藤原兼通邸)である。

一方本来の内裏は造営中の安貞元年(一二二七)四月二二日に類焼し(百錬抄)、以後再建されず、辺り一帯は荒廃し内野とよばれるようになる(増鏡)

こうして鎌倉中期に至り里内裏が内裏そのものとなった。当時の里内裏は閑院であったが(玉葉)、正元元年(一二五九)五月二二日の焼亡(百錬抄)以後再建されず、そのため鎌倉後半期は再び各所の内裏(冷泉富小路殿れいぜいとみのこうじどの五条大宮殿ごじようおおみやどの二条殿にじようどの大炊御門殿おおいのみかどどのなど)が用いられており(ただしこの時期でも天皇の即位は大内裏内太政官庁で行われた)、特定の建物に固定するのは鎌倉最末期である。

〔土御門東洞院殿への固定〕

元弘元年(一三三一)九月二〇日、持明院統(のちの北朝)の光厳天皇が践祚・即位した、正親町おおぎまち南、土御門北、東洞院東、高倉たかくら西(玉葉・山槐記)の土御門東洞院殿が以後皇居とされる(続史愚抄)

この地は平安末期には藤原邦綱の邸宅(土御門東洞院邸)であった跡で(「山槐記」治承四年三月四日条)、のち後白河天皇皇女宣陽門院(勤子内親王)に伝領され、里内裏として使用されることもあった。

当時の所有者は勤子内親王の孫、陽徳門院〓子内親王(後深草皇女)であった。この頃紫宸殿と清涼殿は一つの建物を兼用され、小御所が発達していた(「門葉記」指図)。ただし政治的変動により、他所に遷御することもしばしばであるが、皇居としては当所以外には存在しない。

明徳三年(一三九二)閏一〇月五日に、南朝(後亀山天皇)より三種の神器が土御門殿に渡され(南山御出次第)南北両朝が統一されたことにより、最終的に当所に固定した。これが現在の京都御所のもとで、いまの京都御所の紫宸殿・清涼殿辺りが旧地であったと考えられる。

この土御門東洞院内裏は、規模も今よりは遥かに小さくて一町四方であり、応永八年(一四〇一)二月二九日の火災の時、内裏の内は無人のごとくであったという(迎陽記)。また嘉吉三年(一四四三)九月二三日、南朝の後裔尊秀王が侵入して放火、紫宸殿・清涼殿・常御所・小御所・泉殿・内侍所などが焼けた(看聞御記)。そのため後花園天皇は室町第で一年有余を過ごし、文明一一年(一四七九)一二月兵火を免れた土御門内裏に還幸している(御湯殿上日記)。しかしその後の戦国時代は荒廃にゆだねられた。当時の禁裏の有様は、古い時期の洛中洛外図屏風などに描かれる。

〔織田氏の造営〕

天文一二年(一五四三)二月一四日、織田信秀は後奈良天皇の要請によって内裏修理料四千貫を献上したが(多聞院日記)、これが機縁となって永禄一一年(一五六八)一一月将軍足利義昭を奉じて入京した信長は、村井貞勝・朝山日乗を奉行として内裏修造に着手、永禄一三年二月二日より作事が始められ、元亀二年(一五七一)一応の完成をみた(信長公記)。この時の規模は室町期のそれを踏襲している。

〔豊臣秀吉の造営〕

豊臣秀吉は天下統一のあと信長の前例に従って、内裏の修造を行っている。奉行は前田玄以。天正一七年(一五八九)正月一八日に修理計画が相談され、二ヵ月後から工事が始められた(御湯殿上日記)。同年九月にはほぼ完成したが、清涼殿のみは同一九年三月のことであった。「兼見卿記」天正一九年三月四日条によると、修造とはいいながらほとんど全殿舎の改築であったことが知られ、信長をしのごうとした秀吉の意図が感じられる。

聚楽第じゆらくだいを中心に市街の周囲に御土居おどいを巡らし、寺町通を造るなど、京都の都市改造の一環として行われたもので、禁裏の周辺に公家を集住させている。これ以前にも室町殿の周囲に武家屋敷が、禁裏御所を中心に公家屋敷が集まる傾向はあったが、それを意図的に行ったもので、この方針は次の江戸幕府の公家統制策に受継がれる。

〔徳川氏の造営〕

慶長年間――慶長一六年(一六一一)、家康は秀吉建造の建物を取壊して新しく内裏を造営した。内外の築地は諸大名に築かせている。翌一七年一二月一一日に木作始式が行われ(義演准后日記)、翌年末一応の完成をみた(言緒卿記)。しかし元和六年(一六二〇)六月一八日の二代将軍秀忠の女和子の後水尾天皇への入内(泰重卿記)に備え、女院御所が小堀遠州らによって建てられ、それに伴い武家詰所も設けられて(寛政重修諸家譜)、禁中の動静は逐一報告されることになった。東方にあった以前の柳馬場をとりこみ、南門も造られて、規模は著しく増大した。

寛永年間――幕府は寛永一八年(一六四一)、慶長造営の内裏を取壊し、小堀遠州を総奉行として、本格的な内裏造営に着手した(続史愚抄)。同年正月二六日木作始が行われ、六月一〇日に立柱、翌年六月一八日、明正天皇は仮皇居より遷幸している(禁裏日次記)。内裏の敷地は東北隅は欠込まれたが、東と北へ拡大され、面積も一万四千二六五坪から二万二千二〇一坪に増大された。「愚子見記」によれば、「御入用

銀五千五拾三貫百八十一匁九分、
米九万千七百八十七石六斗七斤五合
、大工数合、六拾八万八千六百八十八人」が経費と人員であった。

承応年間――承応二年(一六五三)六月二三日、内裏は仙洞・新院・女院の三御所及びわずかの建物を残して炎上した(羽倉延重日記)

再建工事は翌三年三月一二日、中井主水正正知を大工頭として木作始めが行われ(続史愚抄)、「徳川実紀」によれば、同四月一七日、五万石以上の大名に、一万石につき銀一貫の割で造営費の献上が命じられたという。しかし同年九月、後光明天皇が仮皇居で没したため工事は中止(羽倉延重日記)、同一一月一六日に再開された(続史愚抄)。「愚子見記」によれば、内裏御殿は約四千四〇〇坪、大工総数は延べ五六万五千余人、木挽数は一一万三千三三人に及び、また所要経費は銀約五千二〇〇貫、米約一五万五千石余であったという。この時紫宸殿東北に建てられた小御所の位置は現在まで踏襲されている。また主要殿舎の屋根に銅瓦が使用された(ただし内侍所のみは檜皮葺)。後西天皇は明暦元年(一六五五)一一月一〇日に還幸している(羽倉延重日記)

寛文年間――承応年間の内裏は万治四年(一六六一)正月一五日、炎上した(京都日々記)。寛文二年(一六六二)四月八日に工事が始められている(徳川実紀)。木作始めは寛文二年五月二日、総奉行に小出越中守があたり、浅野内匠頭以下四人が御手伝いとして、一万石につき約二九三坪が割当てられ、それぞれ人夫一〇〇人ずつを出すことが命じられた(禁中御作事御家坪数御奉行わけ之覚)。また工事の諸経費は銀に換算して一万一一六貫余で(愚子見記)、承応年間に比して経費の節減が認められる。翌寛文三年正月二一日に皇太子識仁親王が行啓しており、その頃までに完成していたことが知られる。

延宝年間――寛文一三年五月八日夜、関白鷹司房輔邸からの失火により、本院御所(明正院)を除いて内裏・仙洞御所(後水尾院)・女院御所(東福門院)・新院御所(後西院)等が炎上した(羽倉延重日記)

「徳川実紀」によれば、翌延宝二年(一六七四)二月一一日に松平伊予守綱政が造営助役、伏見奉行仙石因幡守久俊が御普請総奉行に命じられている。翌三年正月一九日に木作始めが行われ、本格的に工事に着手、一一月には上棟式が行われ、天皇は二七日に新造内裏に還御している。

工事に要した大工数は三七万五千七八人で、その飯米は合計五千六二六石一斗七升(一人につき一升五合あて)、また作料は五六二貫六一七匁(一人につき一匁五分あて)であったという(禁中御作事大工木挽数飯米作料銀高目録帳)。建築坪数が多少増加してはいるものの寛文期に比してかなりの減少といえよう。また北側にあった空地(寛永の仮皇居跡)が二分され、新たに東西道を作って北半分を東院御所、南半分を内裏の敷地としたことが留意される。

宝永年間――宝永五年(一七〇八)三月八日正午頃、油小路姉小路よりの出火で内裏は炎上(宝永五年災上記)、綱吉は早速造営にとりかかっている。五月一四日には伏見奉行建部内匠守を内裏普請奉行に、有馬玄蕃頭則維を助役に任命(徳川実紀)、九月二日木作始めが行われ、翌六年七月二六日上棟式、九月二六日に至り工事が完了した(続史愚抄)。この間東山天皇は譲位し、中御門新帝が一一月一六日、新造内裏に移御している。幕府から敷地が提供されて東と北へ拡幅され、烏丸通以東、丸太町通以北の数町の民家を鴨川東の二条川東かわひがし(現左京区)に移転せしめ、その跡地を御所の敷地に繰入れている。西南隅にあたる部分である。

内裏は七千四三六坪、仙洞・女院は千七八七坪、新院・中宮は六千六〇二坪となり(徳川実紀)、総計で二万二千二〇一坪(それまでは一万四千二六五坪)となった。これは従来の敷地に対して五割強の拡大であった。また常御殿の場所が東へ移転され現在の位置に定まった。

寛政年間――天明八年(一七八八)正月晦日夜、洛東団栗どんぐりの辻(現東山区)より失火し洛中を焼きつくした、いわゆる天明大火で内裏は灰燼に帰した。御所庭内東寄りに建てられていた御蔵だけが焼失を免れた(天明炎上記)。「徳川実紀」によれば、三月二二日、老中松平定信を総奉行として禁裏御所などの修築が計画され、九月一一日には勘定奉行柳生主膳正久近に禁中構造のこと、また松平豊後守斉宣、細川越中守治年に造営助役が命じられ、寛政元年(一七八九)より着手、翌二年八月二六日に至って上棟式、天皇は同年一一月二二日に新内裏に還御している。

この度の造営は従来のそれに比し画期的な意義を有している。それは総奉行松平定信が柴野栗山・裏松固禅を登用し、固禅長年の研究の成果である「大内裏図考証」に基づき、紫宸殿・清涼殿や飛香舎などが古制に戻して再建されたことである。またこの時近世以来の重要な出入口であった四足御門がなくなった。更に一千八〇〇坪が増加、宝永の内裏の南北が少し拡大されてほぼ今日の規模となった。ちなみに「寛政御造営最初記」所収の広橋大納言書状写によると、従来の内裏が当時狭くて不便さが痛感されていたことが知られる。

またこの度の造営は大工組が分担施行しているのが特徴で(寛政御造営記・鳳闕見聞図録)、現在の建築請負業者の前身、すなわち「組」の出現が留意される。

裏松固禅が著した「大内裏図考証」は、当時竹内式部事件に連座して長く閉門中であった固禅が夜中に実測を行い、三〇余年をかけて完成したというもの。

安政年間――嘉永七年(一八五四)四月六日、内裏よりの失火で一二ヵ所の御文庫を除いて全焼(東本願寺上檀間日記)、老中阿部正弘を総奉行として翌安政二年(一八五五)三月一八日に木作始めが行われ、同一一月二三日、天皇は移御している(公卿補任)

寛政年間と同様、旧制によって再建され、建物の規模や配置も南側東西両端の欠込みが外へ張出された以外は寛政年間と変りはなかった。

工匠は一四〇万八千四五〇人、費用は金二七万六千二一三両三分、銀八千五二八貫一八五匁、米二万一千三〇九石九斗七升が使われたといい(安政御造営誌)、前回に比べて更に地方大工組の進出が注意される。

〔京都御所の現状〕

現在京都御所の広さは南北二四六間、東西は北端で一三〇間、南端で一三七間、東北部を鬼門除けとして隅を取っている。位置は南北朝以来の土御門東洞院内裏と同じ。

周囲を取巻く築垣には正面の建礼門以下、御台所内ともいわれた清所門、公家門の称のある宜秋門・皇后宮門・朔平門・建春門(日御門)の六門があり、その中に紫宸殿・清涼殿・宜陽殿・春興殿(内侍所)がある。紫宸殿以下は安政二年の再建になり、寛政年間のそれを踏襲して、平安朝の様式で復元されたが、後世的な要素も混入している。

このうち紫宸殿は正面九間、側面三間、床はぬぐい板敷、板を張らない化粧屋根裏の古制を保つ。中国の賢臣三二人を描く賢聖障子は寛政年間のものが焼け残ったのを用いている。絵師は住吉広行、伝記を記す色紙は書博士岡保考の書。母屋に置かれた高御座と御帳台は大正四年(一九一五)一一月、大正天皇の即位の時に用いたもの。清涼殿は天皇の日常の居所であるが、近世には用いられず、常御殿を用いた。

ほぼ古制を伝える以上の殿舎の背後(北方)に小御所・御学問所・常御殿あるいは八景間・迎春閣・御清所・御花御殿(東宮御殿)・長橋局(女官勾当内侍の居所)などが渡殿(渡廊)で結ばれている。小御所は中世以来諸儀式の行われたところで、諸大名の拝謁などもここで行われた。明治維新の際、ここでの会議(小御所会議)で大政奉還が決定されたことは有名。昭和二九年(一九五四)八月一六日、花火のため半焼、再建された。蔀戸を用いて一見寝殿造風であるが、内部は学問所・常御殿ともに近世の書院造様式をもつ。

これらの建物の東側に池が南北に連なり、孝明天皇好みの茶室聴雪・泉殿(地震御殿)などの庭間建物があり、更にその東、築垣に沿って御文庫が列立している。いわゆる東山御文庫である。

以上の殿舎の北、朔平門の南側にある一郭が皇后御殿で、常御殿・雨宮御殿・飛香舎がある。このうち飛香舎は拭板敷、化粧屋根裏で、現存する京都御所の建物のうち最もよく平安の古制をとどめている。

〔仙洞御所・大宮御所〕

京都御所の東南、築垣に囲まれた一郭。西北部を大宮御所が占め、西南部に仙洞御所があった。東部に庭園が南北に連なる。

仙洞御所は後水尾天皇の将来の譲位に備え、幕府が寛永四年一一月、小堀遠州を作事奉行として造営に着手したが(小堀家譜)、勅許紫衣事件により天皇が同六年一一月八日、にわかに退位したため(資勝卿記)、間に合わず、完成は翌七年一二月のことであった。その間上皇は中宮御殿を仮御所とした。

この仙洞御所は以後、霊元・中御門・桜町・後桜町・光格の各上皇の御所とされたが、寛永一三年五月八日(羽倉延重日記)、延宝四年一二月二六日(基熙公記)、貞享元年(一六八四)四月五日(鴨脚正彦家文書)、宝永五年三月八日(宝永五年炎上記)、天明八年一月三〇日(伊藤家文書)に罹災し、嘉永七年四月六日(東本願寺上檀間日記)の焼失時、たまたま上皇が不在位であったため再建のことなく、苑池を残すのみ。

他方大宮御所は女院御所跡で女院御所は仙洞御所と同じ時、東福門院(後水尾皇后)の御所として遠州を作事奉行として造営された。以来新上東門院(霊元皇后)・承秋門院(東山皇后)・新崇賢門院(東山後宮)・新中和門院(中御門女御)・新清和院(光格皇后)が住したが、嘉永七年四月仙洞御所とともに焼失したあと、英照皇太后(孝明皇后)のために慶応三年(一八六七)に造営された。これが現在の大宮御所で、国賓の宿舎に用いられている。

現在、苑池は両御所の東に北の池・南の池が連なるが、もとはそれぞれ女院御所・仙洞御所の庭園であり、築垣で仕切られていたが、延享四年(一七四七)この築垣が取払われ、その際掘割によって南北の池が結ばれた。またこの折、北に水田(御田)がつくられ、御田社が祀られた。

〔他所へ移建された御所の建物〕

天正造営の内裏は慶長造営の際大幅に取壊されて、紫宸殿は泉涌せんにゆう(現東山区)の海会堂(続史愚抄)、清涼殿は金地院崇伝の働きかけで南禅なんぜん(現左京区)の大方丈とされた(清涼殿拝領由緒書)

慶長造営の建物は寛永造内裏の時一部取壊され、紫宸殿は仁和にんな(現右京区)の金堂に、清涼殿の古材は同寺御影堂と近江正明しようみよう(現滋賀県蒲生郡日野町)へ下賜された。また東福門院のために建てられた女御殿の宸殿は大覚だいかく(現右京区)の宸殿へ移された(紫宸殿との説もあり不詳)。寛永一八年には内裏古材を大和氷室ひむろ(現奈良市)や、長講ちようこう(現下京区)に下賜された(続史愚抄)。また「鹿苑日録」寛永一七年七月二五日条にも、相国しようこく寺に古御殿を下賜してほしいとの旨がみえる。

なお修学院離宮しゆがくいんりきゆう(現左京区)の中茶屋の宸殿は、延宝五年に造営された東福門院の女院御所における奥御対面所が、女院の没後、形見分けとして移建されたもの。



国史大辞典
京都御所
きょうとごしょ
京都市上京区にあり、明治天皇の東京奠都(明治二年(一八六九))まで皇居であったところ。京都皇宮ともいう。元弘元年(一三三一)九月、北朝の光厳天皇が土御門東洞院殿に入って践祚した時に始まり、後小松天皇が明徳三年(一三九二)南朝の後亀山天皇から神器を受け、両朝が統一されるという段階を経て、明治初年まで五百三十余年の長期にわたり皇居として続いた。これを土御門東洞院内裏または土御門内裏とよぶ。はじめは土御門大路北、東洞院大路東の一町四方の土地の北半という狭い敷地であり、一つの建物を紫宸殿と清涼殿に兼用したりして、建物の数も少なかった。応永八年(一四〇一)にこの内裏は焼け、翌年再興されたが、この時敷地を南に拡げ、土御門大路に面することになった。嘉吉三年(一四四三)放火によって焼かれ、その復興は順調にいかず、康正二年(一四五六)にようやく落成した。応仁の乱で荒廃したので、文明十一年(一四七九)―十二年に修理を行なった。応永度や康正度の造営の内裏の図などが遺存し、殿舎の規模も知ることができる。近世に入ると、織田信長は元亀元年(一五七〇)から翌二年にかけて内裏の修理を行い、豊臣秀吉は天正十七年(一五八九)―十九年に内裏の改築を行なった。江戸幕府は慶長十六年(一六一一)―十九年に内裏を造営し、元和六年(一六二〇)徳川和子(東福門院)の入内に備えて、その前年に大きな拡張工事を行なった。ついで寛永十八年(一六四一)―十九年に内裏の造営を行なった。この時の殿舎は承応二年(一六五三)に焼失した。さらに同三年―明暦元年(一六五五)の再興と寛文元年(一六六一)の焼失、同二―三年の再興と延宝元年(一六七三)の焼失、同三年の再興と宝永五年(一七〇八)の焼失、同五―六年の再興と天明八年(一七八八)の焼失という経過をたどった。天明八年、幕府は老中松平定信に命じて内裏造営にあたらせたが、定信は裏松光世の考証に従い、承明門・紫宸殿・清涼殿などの一郭を平安時代の形式に復原して再興することにした。その工事は寛政元年(一七八九)―二年に行われた。その後、安政元年(一八五四)にこの殿舎は焼け、幕府は翌二年に再興したが、寛政度造営の規模を踏襲したものであった。以上近世の各時期の内裏の規模を示す図面などの資料は数多くのこっている。内裏の敷地は慶長度造営のとき東方に拡げ、その後数回の拡張を経て、現在では築地の位置で測って、南辺は二五四メートル、西辺は四五三メートルに達し、中世の土御門東洞院内裏の数倍の面積を占めている。現在の京都御所の南面の建礼門を入ると承明門があり、承明門の左右から回廊が延びて南庭をかこみ、その東回廊に日華門、西回廊に月華門を開く。南庭の奥正面に主建築である紫宸殿があり、殿前の東に左近の桜、西に右近の橘を植えてある。紫宸殿の東に軒廊・陣の座・宜陽殿があり、宜陽殿の東方に春興殿(大正の造営)がある。紫宸殿の西北に清涼殿があり、その西方に諸大夫の間がある。紫宸殿の東北に小御所(昭和二十九年(一九五四)焼失、同三十三年復興)、その北に御学問所があり、廊下で連絡されている。さらに北に御三間・御常御殿があり、その西北に参内殿・奏者所・長橋の局がある。御常御殿から北へ廊下伝いに迎春・御涼所・聴雪に達する。このあたり東方が御内庭で、遣水が南に流れ、小御所の前の広い池に注ぐあたりを御池庭とよぶ。御所内の北部には、皇后御殿・飛香舎・若宮御殿姫宮御殿・玄輝門などがある。そのほか御所内各部で東京奠都後に撤去された建物も多い。また昭和二十年に戦中疎開のため多数の殿舎や廊下が取り払われたが、のちその一部は復興造営された。御所の東面築地には建春門、西面築地には宜秋門・清所門・皇后門、北面には朔平門がある。御所の東南には別に築地をめぐらした仙洞御所および大宮御所の一郭がある。江戸時代では御所の付近には有栖川宮などの宮家、近衛家・一条家・九条家そのほかの公家の邸宅などが多数並んでいたが、明治以後広大な御苑に改められ、面目を一新した。御苑のまわりの諸門の位置も江戸時代と違っているものが多い。その南面中央のは堺町御門、東面中央のは清和院御門で、西面中央の蛤御門はことに名高い。なお「京都皇宮」の称は、明治二十三年十一月二十七日、世伝御料を定めた勅書(二十八日付官報所載宮内省告示)に登載された名称に発し、翌年一月六日宮内省主殿寮京都出張所より京都府に宛てて、京都御所を京都皇宮と改称する旨通牒している。昭和二十三年七月一日「宮城」の称を廃止した際、京都皇宮については正式名称を定めないこととしたが、実際には「京都御所」が公称として通用している。→宮城(きゅうじょう),→里内裏(さとだいり),→内裏(だいり)
[参考文献]
藤岡通夫『京都御所』
(福山 敏男)
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17. 葵祭
世界大百科事典
へ行列を整え参向した。その行装は華麗を極め,京中は観衆で雑踏した。現行の祭儀は勅使以下,早朝京都御所に集まり,御所から下賀茂神社に向かう。同社にて祭典,東遊(あ ...
18. 葵祭(あおいまつり) 【12か月のきまりごと歳時記】
生活便利帳
束帯の勅使や十二単の斎王代、牛車や輿など王朝絵巻の世界を再現した優雅な行列(約500名)が、京都御所から下鴨神社を通り、上賀茂神社への約8キロメートルにおよぶ道 ...
19. 青木周蔵自伝 260ページ
東洋文庫
の前日 天顔に咫尺し〔天皇に拝謁し〕、明日鳳輦に陪して帰京すべき筈なるも、此の機会を以て詳に京都御所の内部を拝観し、且保津急流の下航〔保津川下り〕は従来其の壮快 ...
20. あきづきのしょう【秋月庄】徳島県:阿波郡
日本歴史地名大系
隣接する朽田庄ともども高階家が当地に関与していたものであろう。応永二〇年(一四一三)に書写された長講堂領目録(京都御所東山御文庫記録)に法金剛院領として「阿波国 ...
21. あぐいごう【英比郷】愛知県:知多郡/阿久比町
日本歴史地名大系
二二町が国衙領・熱田社領・榎山寺領に分割されている。これは応永一九年(一四一二)の熱田太神宮祠官供僧等申状(京都御所東山御文庫記録)によれば、建武年中(一三三四 ...
22. あさひほんしょう【上日本庄】石川県:鹿島郡/鹿島町/浅井村
日本歴史地名大系
)によれば、年貢米が三〇石、同二〇年称光天皇の践祚にあたり室町幕府に遣わされた長講堂領目録(京都御所東山御文庫記録)に守護畠山満慶の代官請負となっている。 ...
23. あざいのしょう【浅井庄】滋賀県:東浅井郡
日本歴史地名大系
役等」の停止を認められた奈良大安寺の所領のなかに「南北浅井東西庄庄」とみえるが(「官宣旨案」京都御所東山御文庫記録)、以後の記録から推して東西両庄からなっていた ...
24. あまわかむら【天若村】京都府:船井郡/日吉町
日本歴史地名大系
る水天宮の碑は筏屋オキサの碑とよばれ、かつては筏を係留する場所にあった。安政二年(一八五五)京都御所改築の際、桑田郡から多くの材木が筏に組まれて流され、井戸村( ...
25. アメリカ彦蔵自伝 2 45ページ
東洋文庫
下関事件の調査のため派遣された将軍の使節をとらえ、これに侮辱を与えた。またミカドの命令にも従わず、京都御所に攻撃をかけた。こういう事実を耳にした上は各位において ...
26. あわぐん【阿波郡】徳島県
日本歴史地名大系
その役儀は検地・検見の御用、他国米方・流木方の御用のほか、宗門改・金山奉行・狩御用・一揆出役・江戸湾警備・京都御所警衛など多様であった(「市場町史」など)。享保 ...
27. あわづのしょう・あわづべつぽ【粟津庄・粟津別保】滋賀県:大津市/中部地域/粟津
日本歴史地名大系
別保・膳所中庄が成立していた。〔粟津橋本五箇庄〕大治元年(一一二六)五月二三日の蔵人所牒案(京都御所東山文庫記録)に内膳司領として「粟津橋下五ケ庄」とみえる。応 ...
28. あわづはしもとのみくりや【粟津橋本御厨】滋賀県:大津市/中部地域/粟津
日本歴史地名大系
朝廷の内膳司に醤鮒魚類・日次神今食・新嘗会等供神物・日次供御鯉などを納め(大治元年五月二三日「蔵人所牒」京都御所東山文庫記録)、内侍所に神供を貢進していた(正和 ...
29. アーネスト・サトウ伝 61ページ
東洋文庫
湾口の浅瀬のために大型船を近づけない大坂城に居を構え、そこからさらに三十マイルほど北に天皇の京都御所が位置しているという地理的条件の中で、 ...
30. アーネスト・サトウ伝 74ページ
東洋文庫
尊ぶ会津藩の出身であって一年間サトウに付き従い、この航海にも同行していたのである。当時会津は京都御所の警護を任ずる栄誉が与えられていた。サトウにとっては会津藩出 ...
31. アーネスト・サトウ伝 92ページ
東洋文庫
された条約港をめぐる難題〔兵庫開港〕にようやく結論がもたらされた。 京都御所直近で暴漢に襲われる 一八六八年一月四日京都御所から次のような勅令が出された。  「 ...
32. アーネスト・サトウ伝 100ページ
東洋文庫
このことは日本が真剣に外国人を守り抜く意志がある旨を表していたといえる。 今度は何事も無く、行列は京都御所の御門を通過し、かつて決してイギリス人が入ることのなか ...
33. アーネスト・サトウ伝 183ページ
東洋文庫
安芸(同前)、土佐(同前)の各藩兵が出動し、京都守護職(会津藩)と京都所司代(桑名藩)の兵力を押さえ、京都御所の宮門を警護する中(数日後長州軍も入京)で、御所内 ...
34. 池坊専好
世界大百科事典
-1659)は,先師専好の花道を継ぎ,理論面よりも実作上で名人と称賛された。とくに天皇や門跡,公家が参加して京都御所の紫宸殿や仙洞御所で催された花興行(花会)で ...
35. 石神
世界大百科事典
石神とは,奇石や怪石を神体とし,安産・良縁などに霊験があるとされた民間信仰の神。出雲路の夜叉神は,京都御所の北東にある幸神社(さちのかみのやしろ)のことらしく, ...
36. いしがみ【石神】[狂言曲名]
能・狂言事典
石神とは、奇石や怪石を神体とし、安産・良縁などに霊験があるとされた民間信仰の神。出雲路の夜叉神は、京都御所の北東にある幸神社(さちのかみのやしろ)のことらしく、 ...
37. いしだ-ゆうてい【石田悠汀】
日本人名大辞典
石田友汀の次男。石田友徳の養子となり,狩野(かのう)派の画家として仏画にすぐれた。安政2年,焼失した京都御所再興のおり,その襖(ふすま)絵をかいた。安政6年8月 ...
38. いしやくしむら【石薬師村】三重県:鈴鹿市/旧鈴鹿郡地区
日本歴史地名大系
元来石薬師宿は元和中まで高富村と申す小村にて、薬師堂の前に村居仕り罷り在り候。百三拾弐年已前、元和弐辰年、京都御所司板倉伊賀守様御見分にて御伝馬宿に仰付けなされ ...
39. 椅子画像
日本大百科全書
ある。現存するものでもっとも古いものは正倉院の赤漆槻胡床(あかうるしつきのこしょう)である。京都御所紫宸殿(ししんでん)御張台(みちょうだい)の御倚子も同じ形式 ...
40. いずもじみちじろう【出雲路通次郎】
国史大辞典
大正四年(一九一五)・昭和三年の即位大礼諸儀および器具・被服に関する故実取調べを、宮内省から依嘱されたほか、京都御所東山御文庫取調べ、衣紋講習・調査、三勅祭の考 ...
41. いちかわ-とよじ【市川豊次】
日本人名大辞典
幕末の武士。天保(てんぽう)12年生まれ。播磨(はりま)(兵庫県)姫路藩士。剣術にすぐれ,文久2年京都御所を警備,尊攘(そんじょう)派とまじわる。翌年千種(ちぐ ...
42. いちはし-ながよし【市橋長義】
日本人名大辞典
西洋砲術とオランダ語をまなぶ。文久2年仁正寺の地(藩)名を西大路(にしおおじ)とあらためた。禁門の変では京都御所を守護。明治15年1月17日死去。62歳。初名は ...
43. いなきのしょう【稲木庄】愛知県:丹羽郡
日本歴史地名大系
ているのは安良郷のみである。また同二〇年長講堂領・法金剛院領・熱田社領・播磨国衙別納目録写(京都御所東山御文庫記録)には「稲木庄十七ケ郷内安良郷寺家当知行、十六 ...
44. いのいえのしょう【井家庄】石川県:河北郡
日本歴史地名大系
南北朝期には近世の笠野郷(現津幡町)に相当する地域も庄域に含まれており(建武三年八月三〇日「足利尊氏奏状」京都御所東山御文庫記録)、近世の井上庄が中世の庄域をそ ...
45. いのうえ-りゅうぞう【井上隆蔵】
日本人名大辞典
天保(てんぽう)10年生まれ。石見(いわみ)(島根県)津和野藩士。大国隆正(たかまさ)に国学をまなぶ。慶応3年京都御所を守護。明治政府の修史局につとめ,のち旧藩 ...
46. いばさだたけ【伊庭貞剛】
国史大辞典
近江国蒲生郡武佐村西宿(滋賀県近江八幡市)に、伊庭貞隆の長男に生まる。明治元年(一八六八)、京都御所禁衛隊に入り、一時帰郷後、翌年再上洛し京都御留守刑法少監察と ...
47. いまで‐がわ[‥がは]【今出川】
日本国語大辞典
川内裏のあたりむさと流れて」〔二〕京都市内を東西に通じる通りの名。左京区銀閣寺町から、上京区京都御所の北側を通り、北区等持院西町まで。中世の北小路にほぼ相当する ...
48. 今治[市]
世界大百科事典
)の発祥といわれる菊間瓦の産地で,松山藩時代に窯元を27株に制限して質の低下を防いだ。皇居,京都御所,松山城にも使用され,伝統産業として今日も盛んに生産される。 ...
49. いもざわむら【芋沢村】宮城県:宮城郡/宮城町
日本歴史地名大系
蔵山正法寺・浄土真宗本願寺派徳源寺が現存。芋沢には田植踊が伝わる。役人田植踊ともいわれ、もと京都御所で行われていたものを、永正年間(一五〇四―二一)に伊達尚宗が ...
50. いわみのくに【石見国】島根県
日本歴史地名大系
江戸中野(現東京都中野区)犬小屋工事手伝い、同一一年の勅使馳走役勤仕、宝永五年(一七〇八)の京都御所(現京都市上京区)紫宸殿南御門造営の公役などを勤めることがで ...
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大坂の陣(国史大辞典・世界大百科事典・日本国語大辞典)
関ヶ原の戦の戦勝により、政治の主導権を獲得し、かつ戦勝者として大名の支配を可能にした徳川氏にとっては、中央政権を樹立し、その支配権を正当化し確立することが今後の課題となった。そのため戦後一門・譜代大名の創出とその要衝配置、ならびに豊臣秀吉恩顧の大名をはじめとする外様大名
関ヶ原古戦場跡(日本歴史地名大系)
慶長五年(一六〇〇)九月一五日に行われた徳川家康の率いる東軍と石田三成の率いる西軍との合戦場跡。決戦は東西約四キロ、南北約二キロ、標高一三〇メートルの関ヶ原台地で展開され、この戦いに勝利したことで家康は事実上天下の支配者となり、慶長八年の征夷大将軍補任によって名目上からも全国統一の権威をもった
桶狭間古戦場伝説地(日本歴史地名大系)
[現]豊明市栄町 南舘名鉄本線中京競馬場前駅(名古屋市緑区)南方二〇〇メートルの、国道一号を横断した所にある。国指定史跡。この辺りは知多半島に続く丘陵地で谷間が多く、豊明市内には大狭間・小廻間の地名が多い。狭間(廻間)というのは「はさまった間」を意味するといわれ、国史跡指定地は谷あいにある。
小豆坂古戦場(日本歴史地名大系)
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新沢権現堂古戦場(日本歴史地名大系)
[現]大内町新沢 新沢の八幡神社の背後に館跡があり、権現堂ノ館・荒沢之城・新沢館・小助川館などとよばれ、元亀―天正(一五七〇―九二)の頃に矢島大井氏の一族小助川治部少輔が居館を構えていたという(「小助川氏系図」由利郡中世史考)。館の広さは東西一〇〇間、南北三〇間であったが
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釜石製鉄所(日本歴史地名大系)
[現]釜石市鈴子町西に食込む釜石湾奥の西岸に位置する。明治七年(一八七四)二月、工部省工部卿伊藤博文の「陸中国閉伊郡に熔鉱炉を設置」の発議に基づき、同年五月工部省鉱山寮釜石支庁が置かれ、橋野・大橋・栗林、佐比内(現遠野市)の鉱山が官営に移管、翌八年一月工場建設に着手した
旧中村家住宅(日本歴史地名大系)
[現]檜山郡江差町字中歌町近江出身の商人大橋宇兵衛によって幕末から明治二〇年代にかけて建てられた店舗・蔵・住宅。九艘川(くそうがわ)町の南西端に位置した。大正四年(一九一五)に中村米吉に譲渡された。現在海岸線に沿って走る道路(国道二二八号)から海岸に向かい
旧イギリス領事館(日本歴史地名大系)
[現]函館市元町明治四五年(一九一二)当時の会所(かいしよ)町に建設された領事館で、設計はイギリス政府上海工事局、施工は真砂(まさご)町の大村合名会社建築部。煉瓦造二階建瓦葺で、建坪は一階が一五三・二七坪、二階は一三三・三三坪であった
時の鐘跡(日本歴史地名大系)
[現]中央区日本橋室町四丁目本石(ほんごく)町三丁目に江戸市中で最初に設置された時の鐘。天正一八年(一五九〇)の徳川氏関東入部後は江戸城内の鐘楼堂が明六つ暮六つ時に時の鐘をつき、町方の便宜にもなっていたが、二代将軍徳川秀忠のとき鐘鳴が御座の間に大きく響くため
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