明治九年(一八七六)に札幌学校が改称して成立した札幌農学校は日本初の高等農業専門学校。現北海道大学の前身にあたり、明治五年に東京芝増上寺本坊内に開設された開拓使仮学校を嚆矢とする。
明治五年一月開拓次官の黒田清隆は、北海道に農業・工業などの学校を設置する前提として、東京に仮学校を設けることを正院に打診している。同年三月開拓使仮学校規則が設けられ、設置の目的が開拓技術者の養成であることを明示し、四月一五日に開校した。仮学校は同六年三月にいったん閉鎖され、改めて開拓使仮学校則例を定め、生徒数を大幅に減らして同年四月に再開する。開拓使仮学校則例では、二年後に専門科を設置することとされており、明治七年一一月仮学校校長調所広丈の名前で、その開設願が黒田開拓長官宛に提出され、農業専門科の設置が決定した。仮学校は翌八年に札幌移転が決定、同年七月札幌学校と改称し、八月には職員・生徒が札幌に移り、九月に開業式を行っている。敷地は現在の中央区北一条・北二条の各西一―二丁目で、各一丁目の東側半丁は官宅に充てられたため、東西一丁半・南北二丁の規模であった。この間、専門科の教科科目・教師・経費などの検討が行われ、マサチューセッツ農科大学の現職学長であったウィリアム・スミス・クラークを一年契約で教頭として迎えることとなり、クラークの推薦でW・ホイーラーとD・P・ペンハローが教師として雇入れられた。農業専門科の入学試験は札幌学校・東京英語学校・東京開成学校の生徒を対象に行われ、合格者のうち二四人が入学。同九年八月に札幌学校で専門科の開校式が行われ、九月に札幌農学校と改称した。
札幌農学校教頭のクラークは教育体制の整備、附属農園を含む学校の管理・運営に力を注ぎ、英語・植物学の講義も行った。併せて聖書による徳育教育を実践したことから、第一期生にキリスト教が受容され、クラーク離日後の明治一〇年九月、すでに受洗していた伊藤一隆を除く佐藤昌介・内田瀞・大島正健ら一五人の一期生全員が受洗した。二期生も一期生の熱心な伝道によって内村鑑三・太田(新渡戸)稲造・宮部金吾ら七人が受洗している(佐久間信恭は来札以前に受洗)。第一回卒業式は明治一三年七月行われ、一三人が卒業して農学士となり、規定により開拓御用掛に採用された。同一四年には一〇人が卒業し、開拓御用掛となっている。同一五年に開拓使が廃止されると、農学校は同年三月に農商務省の管轄に移り、同一六年には同省の北海道事業管理局の所轄となる。この間北講堂・寄宿舎・書庫・化学講堂・観象台、演武場(のちの札幌時計台)などの施設が建設され、植物園の造成、モデルバーン(模範家畜房)の建設なども進められた。明治一九年一月北海道庁が設置されると、札幌農学校はその管轄となった。第一回卒業生でアメリカ留学から帰国した佐藤昌介は北海道開拓への農学校の必要性を強調し、工学科の設置、農民となる者への簡易教育を施す機関の設置、本科に農政学・殖民学などの科目を新設することなどを進言、教則などが変更されている。明治二八年文部省の所管となり、規模はいったん縮小されたが、同三〇年に土木工学科、同三二年には森林科が開設された。同三六年、現在の北海道大学構内にあたる札幌区北八条以北の広大な地域に校舎その他を新設して移転。同四〇年東北帝国大学の新設とともに同大学の農科大学となり、大正七年(一九一八)に独立して北海道帝国大学となった(以上「札幌市史」「北大の一二五年」など)。旧札幌農学校の昆虫及養蚕学教室(明治三四年建造)、同じく図書館読書室・図書館倉庫(同三五年建造)は国登録有形文化財。
第二次世界大戦後の昭和二二年(一九四七)北海道大学と改称し、大学制度改革により同二四年から新制大学となった。このときにそれまでの農・医・工・理・法文の各学部のほかに、教育学部と水産学部が加えられ、また低温科学研究所・応用電気研究所・触媒研究所および附属図書館が置かれた。旧制大学時代の予科・農林専門部・医学専門部・函館水産専門学校もいったん包括されたが、その後それぞれ廃止された。文系では同二五年文学部、同二八年法学部と経済学部がそれぞれ独立。自然系では昭和二七年獣医学部、同四〇年薬学部、同四二年歯学部が設置された。その後、各学部に基礎を置いた大学院研究科が開設され、同五二年には大学院のみの環境科学研究科を開設するなど、学部学科や研究施設の充実が図られている。平成七年(一九九五)には教養部を廃止、高等教育機能開発総合センターを設置して学部一貫教育を開始している(「北大の一二五年」など)。
北海道大学構内にある農場。明治九年札幌農学校開設とともに開拓使の官園(札幌官園)を同校に移管し、
博物館の前身は明治一五年に完成の開拓使の札幌博物場。しかし完成時には開拓使は廃止されていたことから、農商務省の所管を経て同一七年に札幌農学校の所管となった。同時に博物場属地(現在の北二条―北四条の各西八―一〇丁目の地にあたる)も移管され、のちに宮部金吾の設計により植物園となった。博物場の設計はボストンの建築家と思われるベートマンとされるが、詳細は不明である。しかし実際の建築に際しては、開拓使の建築技師が相当手を加えていると推測される。博物館の本館(明治一五年建造)などの建物群は国指定重要文化財。また植物園庁舎(同三四年建造の旧札幌農学校動植物学教室の一部を移築)は国登録有形文化財。
明治四二年古河財閥からの寄付金で建てた元林学教室で、国登録有形文化財。札幌農学校では明治三〇年代に帝国大学設置運動を展開し、同三九年東北帝国大学の農科大学とする方針が決まった。しかし大蔵省の予算削減で実現が危ぶまれた。当時の内務大臣原敬は、足尾鉱毒事件で世論の非難を浴びていた古河財閥に、非難を免れるために公共的な寄付をするように勧め、古河財閥は福岡・仙台・札幌の帝国大学施設の建設に献金を申出て、東北帝国大学農科大学の設置が明治四〇年に実現した。農科大学では寄付金により予科および実科教室、林学・畜産学教室を建造、このうち明治四二年に完成した林学教室が現在の北海道大学古河記念講堂である。
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北海道大学の前身。開拓使顧問ケプロンらの建策により北海道開拓の指導者養成を目的として、1872年(明治5)東京・芝(しば)増上寺(ぞうじょうじ)に開拓使仮学校として開設された。1875年札幌に移転し札幌学校と称し、翌1876年札幌農学校と改称。アメリカのマサチューセッツ農科大学学長クラークを教頭として招き、日本最初の高等農業教育機関としての基礎が置かれた。本科修業年限4年、全学定員50名、官費生を原則とし、卒業後5年間開拓使に勤務する義務を有した。このほか、予科も併設した。カリキュラムは、農学をはじめ自然科学全般、人文・社会科学、兵学教育にわたり、学理と実習との調和を重視し、農学教育のみならず、近代的な人格教育を目ざしたものであった。クラークの感化により、内村鑑三(うちむらかんぞう)、新渡戸稲造(にとべいなぞう)らの人材を輩出。クラークの残した“Boys, be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.”(青年よ、人間の本分をなすべく大望を抱け)のことばは有名である。1907年(明治40)東北帝国大学農科大学、1918年(大正7)北海道帝国大学、1949年(昭和24)北海道大学となる。札幌市を象徴する建物として知られる札幌時計台は、1878年(1881年改築)に落成した札幌農学校演武場を移転したものである。
2018年9月19日
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