義梵、おくれて青柳種信らが書きとどめている。また仙
自筆の文書によると発見者は喜平と秀治の二人であるという。福岡藩によって金印の取調べを命じられた亀井南冥は、『後漢書』光武帝本紀の中元二年(五七)春正月条や同書の東夷伝に、この年に東夷の倭奴国王が使を遣わして奉献したのに対し、光武帝が印綬を与えた、という記事に注目し、金印は奴国の使者がたずさえ帰ったそれであると論じた(『金印弁』)。南冥の説は、これ以後金印に対する基本的な解釈となったけれども、その後、金印の出土地と出土状況、発見者、金印の真偽、金印の性質、印文の読み方などについて、さまざまの疑問が提出され、論争は最近まで続いている。真偽説については早くも天保七年(一八三六)、松浦道輔が、金印の印文や彫り方が、漢代の公印のそれと異なる点をあげて偽物説をとなえ(『漢委奴国王金印偽作弁』)、村瀬之煕(栲亭)もこの金印につけられた蛇鈕は漢の印制にはないとして疑問を出した(『
苑日渉』)。明治三十一年(一八九八)になり、三宅米吉がこれを論駁したので、偽物説は一応影をひそめたが、印制についてはまだ疑義が残った。第二次世界大戦後の昭和二十六年(一九五一)、田沢金吾は印文の彫刻技術と出土状況に疑問があるとして偽物説を提出したが、これは各方面から否定された。また印制のうち蛇鈕に関する疑問は、一九五五―五七年に行われた調査で、中国の雲南省晋寧県石寨山に存在する一世紀ごろの古墳から蛇鈕をつけた金印(印文は「
王之印」)が発見されたから、これも一応解決した。次に印文については、三宅米吉が、委は倭の通字、奴は「那(な)の津」「儺(な)の津」などの那・儺と同音で、奴国は現在の博多付近にあった国であると主張した。このほか委奴国をイト国(伊都国・怡土国)にあてる説なども提出され、両者の是非をめぐって内藤虎次郎・白鳥庫吉・稲葉岩吉・喜田貞吉・大森志郎らの間に論争があった。第二次世界大戦後、栗原朋信は印文を制度史および政治史の面より研究した結果、この金印は偽物ではないが、漢の公印ではなく、奴国が漢印を模して作らせた私印であろうと推測したが、のちに公印でもありうると自説を発展させた。また出土の状況も榧本杜人・森貞次郎らの調査・研究によって、次第に明らかになった。昭和二十九年国宝に指定。福岡市美術館所蔵。《後漢書》にみえる光武帝が建武中元2年(57),倭奴国王に贈ったとされる金印。1784年(天明4)2月23日,博多湾志賀島で百姓甚兵衛が水田の溝を修理していたところ,二人持ちの大石が現れ,これを掘り起こすと金印が出てきたと伝えられる。当時福岡藩の藩校甘棠(かんとう)館の祭酒(校長)であった亀井南冥はこれを鑑定し,実物であることを主張,《金印弁》を著している。その後,金印は黒田家所蔵となったが,1978年福岡市に寄贈された。
印は鋳造で,鈕(ちゆう)は蛇がとぐろを巻いたところを写した,いわゆる〈蛇鈕〉である。蛇身は刻線で彫り,頭をうしろに曲げ,尾は巻いて右側方に垂れる。頭部に二つの目を刻み,身体全体に魚子(ななこ)状に鱗(うろこ)を刻む。総高は2.236cm,印台の高さは平均0.887cm,印面はほぼ正方形で,四辺の平均は後漢尺の1寸にあたる2.347cm,重さは108.729gである。印面には漢隷で〈漢/委奴/国王〉の3行5文字が両面よりやげん彫に彫られ,文字の先端はきわめて鋭利で力強い。
類似の例で注意されるのは,雲南省石寨山古墓で出土した〈滇(てん)王之印〉である。辺長2.4cmの金印で,蛇鈕をもつ。《史記》の〈西南夷伝〉にある元封2年(前109)武帝が滇国王に与えたものと考えられる。漢代では,北方異民族には駝鈕,南方異民族には蛇鈕の印を与えるのが通例であった。
→印章
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