[現]豊明市栄町 南舘
名鉄本線中京競馬場前(ちゆうきようけいばじようまえ)駅(名古屋市緑区)南方二〇〇メートルの、国道一号を横断した所にある。国指定史跡。この辺りは知多半島に続く丘陵地で谷間が多く、豊明市内には大狭間・小廻間の地名が多い。狭間(廻間)というのは「はさまった間」を意味するといわれ、国史跡指定地は谷あいにある。合戦場は現在の豊明市・大府市・緑区にかかわっていたが、今川義元戦死の地については、二村(ふたむら)山の西の田楽(でんがく)ヶ窪(くぼ)・国史跡指定地・桶狭間の三説があげられる。
今川義元の墓・七石表(義元とその家臣の塚合わせて七つ)・桶狭(おけはざま)弔古碑、鷺が織田軍勢を熱田神宮から先導し羽を休めた場所と伝える鷺之森(さぎのもり)などが点在する。道を隔てて西側に真言宗の高徳(こうとく)院がある。明治二七年(一八九四)高野山から当地へ移建され、境内には合戦の死者を弔う徳本行者念仏碑などがある。永禄三年(一五六〇)五月一八日、今川義元は四万の軍を率いて沓掛(くつかけ)に到着し、翌一九日、大高(おおだか)城(現名古屋市)へ向かおうとして、田楽ヶ窪で休息していたところ、織田軍勢約三千が二手に分れ太子(たいし)ヶ根(ね)(大将ヶ根)より攻撃した。風雨を利用した奇襲で戦は数時間、義元は敗死した。
南舘(みなみやかた)の西は現在武侍(たけじ)(武路)といい、武士の行交った所と伝える。「寛文覚書」の大脇(おおわき)村の項に「今川義元墓所 長百間程構 当村石塚山之内ニ于今有之」と記す。石塚(いしづか)の地名は古戦場伝説地から約七〇〇メートル南に残っている。石塚山は古戦場跡から南に続き、天野信景の「尾張古城志補遺」に「大脇村石塚山塁跡、長(ママ)サ百間、広(ママ)サ五十余間 今川義元営之」とある。石塚山は激戦地で、戦死者の名を記すのに山石を積み標石としたという。その跡は現在残っていない。
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