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ジャパンナレッジで閲覧できる『明石郡』の辞書・事典・叢書別サンプルページ

日本歴史地名大系・国史大辞典

日本歴史地名大系
明石郡
あかしぐん

播磨国の郡名。古代から存在し、昭和二六年(一九五一)消滅した。「和名抄」東急本国郡部の読みは「安加志」で「延喜式」の諸所にみえる振仮名もアカシである。古代から近代まで播磨国の南東部に位置し、郡域は東に摂津国八部やたべ郡、南は海、西は賀古かこ郡、北は美嚢みなぎ郡に囲まれていた。現在の行政区画で示すと明石市と神戸市西区・垂水区の全域を占める。東部から北部にかけて山地が続き、南部から西部へは平野が広がっている。南東部の現垂水区では東端の摂津との国境は六甲ろつこう山系の西端鉢伏はちぶせ山が海岸にまで延びて、おのずから防塞を形成している観がある。塩屋谷しおやたに川・福田ふくだ川・山田やまだ川・朝霧あさぎり川などの小河川が海に注ぎ、郡の中央部に位置する現西区東部では、東から川・櫨谷はせたに川・明石川の三河川が流下して明石市域に入る付近で合流している。郡の西部では瀬戸川を主とする小河川があるが、水量に乏しく溜池が多い。

〔古代〕

「日本書紀」の神功皇后摂政元年二月条に〓坂王・忍熊王らが天皇のためと偽り、山陵を「赤石」に作るとあり、允恭天皇一四年九月一二日条には赤石の海底に真珠があり、その珠を祀ればことごとく獣を得るとみえる。歴史的に確実な記載としては、同書推古天皇一一年七月六日条に征新羅将軍当麻皇子に「従う妻舎人姫王、赤石あかしに薨ず。よりて赤石の檜笠ひがさ岡の上に葬る」とあり、大化二年(六四六)正月一日条、いわゆる大化改新詔において畿内国の範囲を定めた際、「西は赤石のくし淵よりこのかた」とあるのはよく知られている。同書清寧天皇二年一一月条に「赤石郡の縮見しじみ屯倉の首、忍海部造細目が新室にして、市辺押磐皇子の子億計・弘計を見でつ」とあり、この赤石郡は顕宗天皇の即位前紀にもみえるが、ともに郡の呼称は「日本書紀」編纂時の知識による潤色であろう。しかし前述の推古天皇一一年紀の赤石の檜笠岡が賀古郡内に比定され、縮見屯倉の所在地の志染しじみ(現三木市)が美嚢郡であること、後述する海直の存在や明石国造の伝承などを合せ考えると、律令制以前にアカシとよばれた地域(明石国)明石郡はもとより賀古郡・美嚢郡にまで広がっていたことが想定できる。県下最大の前方後円墳である垂水区五色塚ごしきづか古墳が五世紀初めに造営されているのも、こうした背景を基盤としたものにほかならない。「播磨国風土記」にも赤石郡がみえるが、当郡の条文を欠いている。

明確に明石郡が知られるのは、「続日本紀」神亀三年(七二六)一〇月一〇日条に、聖武天皇が播磨国印南野いなみのに行幸あって、その行宮の側近の「明石賀古二郡百姓」年七〇歳以上に穀を賜う記事である。同じく神護景雲三年(七六九)六月七日条には播磨国明石郡人外従八位下海直溝長ら一九人に大和赤石連を賜うとあり、さらに延暦九年(七九〇)一二月一九日条によると、効績顕著のため播磨国明石郡大領外正八位上葛江我孫馬養に外正六位上が授けられており、郡内に海直ならびに葛江我孫なる氏族が存在した。前者は垂水郷に鎮座する式内かい神社を氏神とする氏族であろうが、また「先代旧事本紀」に、応神朝に定められ八代足尼の後裔と伝える明石国造の末裔である可能性がある。後者は後述する葛江ふじえ郷に居拠した氏族であろう。「三代実録」元慶八年(八八四)二月二三日条にも葛江我孫良津に従五位下が授けられたことがみえる。平城宮跡出土木簡に「(明)郡葛江里」と記すものがある。朋は明の誤字であろう。

明石海峡に臨む明石郡が海上ならびに陸上における要衝の地点を占めることは論をまたない。「万葉集」巻七には「明石のみと」が詠まれ、「赤石郡の林の潮」(「播磨国風土記」賀古郡鴨波里条)があり、「続日本後紀」承和一二年(八四五)八月七日条に、淡路国石屋いわや(現淡路町・東浦町)と播磨国明石浜に初めて船ならびに渡子を置き、もって往還に備うとある。いずれも船泊りの施設をさしていよう。陸路の山陽道は摂津国須磨すま駅から鉢伏山を北に大きく迂回して明石駅に至り、明石から賀古駅へは海岸に沿って直進していた。明石駅には駅馬三〇疋が設置されており(「延喜式」兵部省)、近くには駒手こまでの御井とよぶ井戸があった(「釈日本紀」所収「播磨国風土記」逸文)。さらに「赤石郡のかしわでの御井」なるものも存在した(「播磨国風土記」賀古郡条)。「和名抄」高山寺本は葛江・明石・住吉すみよし邑美おうみ・垂水の五郷を記す。東急本では神戸かんべ郷が加わり、中世郡内に神出かんで郷が成立している。養老令の基準では下郡(「令義解」戸令定郡条)。「延喜式」神名帳によると、宇留うる物部もののべ・海(タルミ、アマ)(名神大)弥賀多々みかたたはやし赤羽あかは伊和都比売いわつひめの七社(大三座・小六座)があった。なお郡内の古代庄園としては天平一九年(七四七)に大和法隆寺の庄倉一所があり(「法隆寺伽藍縁起并流記資財帳」法隆寺蔵)、また奈良東大寺領垂水庄が平安時代末からみえる。

〔中世〕

文治元年(一一八五)一二月六日、宇佐使和気相家は神宝等を明石駅家(現西区)に放置したまま武士に追帰された(「百錬抄」同月一三日条)。正和五年(一三一六)悪党乱入に悩まされてきた平野ひらの(現同上)からの要請に応えて、六月二四日には伊予前司に後伏見上皇院宣が、七月一三日には守護代糟屋弥次郎に六波羅御教書が出されている。山陽道が郡内を貫通し軍事上の要衝でもあった。元弘三年(一三三三)二月大塔宮護良親王令旨により決起した太山たいさん(現同上)衆徒は、赤松円心の指揮下に兵庫から京都まで転戦、建武三年(一三三六)九月五日赤松勢は下端しもはた(現垂水区)の南朝軍との攻防を皮切りに押部おしべ(現西区)、志染と戦線が拡大し、二〇日には丹生たんじよう(現北区)に攻め込んだ。暦応二年(一三三九)九月二七日、丹生山での南朝軍の活動を阻止するため、足利尊氏は要害の地平野庄を確保した。嘉吉元年(一四四一)八月二四・二六の両日、赤松満祐追討のため播磨に入った細川持常を総大将とする大手軍と赤松勢との間に、人丸ひとまる塚・蟹坂かにがさか(現明石市)で合戦があった。

播磨灘に臨む海岸線には多くの泊・津・浦がある。治承四年(一一八〇)三月安芸厳島に詣でた高倉上皇は往復ともに山田やまだ(現垂水区)を利用している。古代より著名な魚住うおずみ(現明石市)は建久七年(一一九六)六月三日東大寺重源の申請にまかせて修築用材の調達が命じられ、建長八年(一二五六)四月七日多聞たもん(現垂水区)住侶が明石泊での勧進を認められている(経俊卿記)。元応元年(一三一九)春、鎌倉幕府は悪党取締のため明石などを警固させた(峯相記)。建武三年五月二四日東上する足利尊氏の船団が大蔵谷おおくらだに(現明石市)の澳に集結している。貞治三年(一三六四)には焼失した福祥ふくしよう(現神戸市須磨区)再興のため、松江まつえ(現明石市)で如法経の勧進があった。文安二年(一四四五)二月晦日には淡路の三沢義円が明石津の合戦で討死した(同五年八月吉日「三沢親経田地寄進状案」妙勝寺文書)。同年二月三原塩を積んだ垂水の船が兵庫北関に入津したのをはじめ、同年中に松江船籍の船が五一隻、営嶋(現明石市)船籍船七隻、はやし(現同上)船籍船四隻、船上ふなげ(現同上)船籍船一隻が、同じく兵庫北関に入津している。関の存在も知られ、承久三年(一二二一)閏一〇月一〇日出京した土御門上皇は「須磨あかしのせき」を通過して土佐へ向かい(六代勝事記)、嘉吉元年八月二一日、赤松追討軍により塩屋しおや(現垂水区)が焼払われた。

郡内には九条家領平野庄のほか住吉保・押部保・櫨谷保・玉造たまつくり保・伊川いかわ(以上西区)、山田庄・垂水庄・京都新熊野社領下端庄(現垂水区)などが成立した。郡域北部の六甲山地をうがつ小河川の谷奥には大谷たいこく寺・太山寺・如意によい寺・性海しようかい寺・近江きんこう(現西区)など、天台・真言の古刹があり、鎌倉時代初期太山寺神人は九州まで商品輸送に活躍していた。応永一〇年(一四〇三)二月二一日の矢野庄学衆方年貢散用状(教王護国寺文書)に「明石ニ御所被立時、人夫催促ノ時」とみえ、この頃には守護館の建設が始まっていた。天文年間(一五三二―五五)には枝吉しきつ(現西区)に拠った国人明石氏が活躍した。六甲山地を中心に城館が築かれ、伊川城には赤松範行配下の貞観、端谷はしたに城は赤松義村の支配下にあり、福中ふくなか(以上現同上)には赤松氏の一族間嶋(真嶋)氏が拠ったと伝えるが、天正六年(一五七八)に始まる三木合戦では端谷城が別所方、他の城は羽柴秀吉のもと別所氏包囲網を形成した。国人明石氏も秀吉にくみしたという。海岸近くに築かれた魚住城は毛利氏が兵糧を陸揚げする拠点とされ、同八年一月八日秀吉軍によって落城した。

〔近世〕

天正八年の三木合戦ののち羽柴秀吉の支配下に入る。同年羽柴秀吉、同一一年には羽柴長秀(秀長)が姫路城主となり播磨を支配した。秀吉の同八年の検地では一一七ヵ村・四万八千三八七石余とされる(播州古跡便覧・峯相記微考)。秀吉は当郡において同一〇年脇坂安治に三〇石(同年三月二一日「羽柴秀吉判物」脇坂家文書)、余田源太郎に一二〇石(同日「羽柴秀吉判物」郡文書)、同一一年加藤嘉明に三〇〇石(同年八月一日「羽柴秀吉知行方目録」近江水口加藤文書)、同一二年船越景直に七二〇石(同年七月一四日「羽柴秀吉判物」記録御用所本古文書)などを宛行っている。同一三年八月秀吉は中国出兵後に国替を断行し、枝吉城には摂津高槻城主の高山重友右近を転封させた。のち右近は明石川河口近くに船上城(現明石市)を築いて移った。このときの領知高は六万とも一二万ともいわれている。同一五年右近はキリスト教禁止令により追放され、以後は秀吉の蔵入地となる。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦後に池田輝政が播磨五二万石に封ぜられ、同城には八男利政・家老池田由之を配した。同六年輝政は播磨一円の高の二割打出しをはかり、明石郡は一一七ヵ村・五万一千八九二石余(播州古跡便覧・峯相記微考)で三千五〇〇石余が増加した。元和三年(一六一七)小笠原忠真が一〇万石で明石に封ぜられ、うち明石郡は五万石・一〇八村であった(播州明石記録)。忠真は将軍徳川秀忠の命で同五年に明石城の築城に着手、城下の町割も進められた。

正保郷帳では一一七村・四万八千三八七石余。明石藩による印南野台地の開発は、明暦元年(一六五五)松陰まつかげ新田(現明石市)、万治三年(一六六〇)鳥羽とば新田(現同上)、寛文九年(一六六九)北古きたこ新田(現西区)、延宝八年(一六八〇)に神出新田(現同上)など一七世紀後半に集中した。元禄郷帳では一四九村・五万二千四〇一石余で、郡内の印南野台地の新田は二〇村・二千七五七石余(兵庫県史)。「明石記」によると郡内一四〇村のうち一六村は新田。郡内は明石藩八組のうち東浦部組・西浦部組・中里組・押部組・野々上組・新田組の六組に分れる。特産品としては農村では糯米・粳米・酒酢(西灘地区)、綿花。漁村では鯛・鱸・蛸・鰯・イカナゴ。ほかに蓼穂・楊梅実・明石縮など(明石記)。印南野台地は水に乏しく灌漑用水が不足しているため、随所に溜池が掘られ疏水が掘削された。明暦三年明石藩野々上組大庄屋を中心に西戸田にしとだ(現西区)に取水口を設け、明石川から水を引いてこれを野々のの(現明石市)にためる工事を申請し、藩の援助を受けて翌年林崎はやしざき掘割が完成した。寛文一一年には伊川谷いかわだに掘割が完成(明石名勝古事談)。貞享二年(一六八五)には明石郡三十三所巡礼が始まった(同書)。宝暦一一年(一七六一)には漁場をめぐりはやし(現明石市)と加古郡東二見ひがしふたみ(現同上)との間に紛争が始まっている。天保郷帳では一四七村・五万七千一六石余。明石藩は財政難の打開のために天保九年(一八三八)に木綿専売制を実施した(兵庫県史)。幕末には海防の必要から嘉永六年(一八五三)大蔵谷に砲台がもうけられ、安政期(一八五四―六〇)には三砲台を備えた。さらに文久二年(一八六二)から明石―垂水間で九砲台を増設し一二砲台を備えた(明石名勝古事談)。旧高旧領取調帳では一四七村・五万七千六一八石余、うち社寺領四六六石余を除き明石藩領。

〔近代〕

明治四年(一八七一)七月の廃藩置県で明石県が誕生したが、一一月には廃止されて姫路県のち飾磨しかま県に属する。同五年大区・小区制により当郡は第一大区第一―第九小区に所属。同九年兵庫県に所属。同一一年郡区町村編制法制定時の町数一六・村数一〇六、戸数一万二千八一六・人口五万八千一三一(地方沿革略譜)。郡役所は明石に置かれた。同二二年の町村制施行によって明石町・林崎村・大久保おおくぼ村・魚住村・伊川谷村・玉津たまつ村・櫨谷村・平野村・押部谷おしべだに村・神出村・岩岡いわおか村・垂水村の一町一一村となる。大正八年(一九一九)に明石町が市制を布き、同九年の第一回国勢調査時では明石市(三万三千九九人)を除くと一一村・五万六千二七一人であった。昭和三年に垂水村、同一三年に大久保村が町制施行。同一六年垂水町が神戸市と合併し須磨区に編入。同一七年に林崎村が明石市に合併。同二二年伊川谷・玉津・櫨谷・平野・押部谷・神出・岩岡の七ヵ村が神戸市と合併して垂水区に編入。同二六年に大久保町と魚住村が明石市と合併して明石郡は消滅した。



国史大辞典
明石郡
あかしぐん
播磨国(兵庫県)南東部にあった郡。現在の明石市および神戸市の一部にあたる地域。明治の郡区編制では加古・美嚢・八部の三郡に接し、南は明石海峡に面していた。郡東部は六甲山系に連なり、西部は印南野台地をなし、中部を明石川が南流し小平野が開けている。大化前代の明石国は、のちの明石・賀古・印南・美嚢の諸郡に及んだ。明石国造は八代足尼の後と伝えられ、後世大和赤石連の姓を賜わった。垂水付近に大歳山(縄文遺跡)・銅鐸出土地・兵庫県下最大の五色塚古墳(前方後円墳、史跡)・海神社(式内・官幣社)があり、明石国造の本拠とされる。大化二年(六四六)赤石櫛淵は畿内の西境に定まり、垂水・伊川谷・林崎・玉津・平野には条里制の遺構が見られる。山陽道が通り、『播磨国風土記』逸文、『大鏡』には明石駅家がみえ、『延喜式』では駅馬三十疋と規定している。大窪高岡窯址群からは鴟尾が出土し、太寺・魚住に初期仏教廃寺址がある。神亀三年(七二六)聖武天皇は邑美(おうみ)頓宮に行幸し、山部赤人らが随行した。『万葉集』には柿本人麻呂らが明石の歌を残している。承和十二年(八四五)明石と淡路石屋(淡路町)との間に船と渡子とが置かれ、魚住泊も古代の要港であった。『和名類聚抄』(高山寺本)には葛江(ふじえ)・明石・住吉・邑美・垂水の五郷を載せている。また荘園としては垂水荘(東大寺領)・下端荘(新熊野社領)・伊河上荘(広義門院領)・平野荘(洞院家領)・玉造保(伏見宮家領)・明石津(長講堂領)・魚住荘(住吉社領)などが知られている。安土桃山時代には枝吉城(明石氏)・船上城(高山右近)があったが、元和三年(一六一七)小笠原忠真(十万石)が入部し、明石城と明石町とを造った。江戸時代には新田開発が進み、村数百四十六ヵ村、五万六千九百八十五石余。明治四年(一八七一)の廃藩置県で明石県となり、のち兵庫県に編入(一町十一ヵ村)、同二十一年には山陽鉄道(現国鉄山陽本線)、大正六年(一九一七)には兵庫電鉄、同十二年には神姫電車(合併して現山陽電鉄)、昭和十三年(一九三八)には三木電鉄(現神戸電鉄)が郡の南北に開通した。谷米・赤坂煙草・明石鯛が著名で、醸酒は西灘と称する。日華事変中には一時航空機工業が興った。神戸・明石両市に合併し、昭和二十六年消滅した。→明石(あかし),→神戸(こうべ)
[参考文献]
『采邑私記』、長野恒巨著・大井毎高編『明石記』、『明石名勝記』、平野庸脩『播磨鑑』、村上石田『播磨名所巡覧図会』、『兵庫県史料』四八、『兵庫県市町村合併史』、『神戸市史』三、黒田義隆編『明石市史』、鎌谷木三次『播磨上代寺院阯の研究』、谷岡武雄・山田安彦「東播平野(加古川・明石川流域)の条坊(里)について」(『地理学評論』二七ノ七・八)、落合長雄・落合重信「明石郡条里再考」(『兵庫史学』三八・三九)、石田善人「荘園史の研究―特に兵庫県下の荘園を中心に―」(同二二・二四・二六・二七)
(黒田 義隆)
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検索コンテンツ
1. あかしぐん【明石郡】
国史大辞典
古川・明石川流域)の条坊(里)について」(『地理学評論』二七ノ七・八)、落合長雄・落合重信「明石郡条里再考」(『兵庫史学』三八・三九)、石田善人「荘園史の研究―
2. あかしぐん【明石郡】兵庫県:播磨国
日本歴史地名大系
七六九)六月七日条には播磨国明石郡人外従八位下海直溝長ら一九人に大和赤石連を賜うとあり、さらに延暦九年(七九〇)一二月一九日条によると、効績顕著のため播磨国明石
3. 明石郡(あかしごおり)
古事類苑
地部 洋巻 第2巻 524ページ
4. あおした【青舌】[方言]
日本方言大辞典
摂津※039重訂本草綱目啓蒙(小野蘭山)1847 紀伊(縞牛の舌)※030水族志(畔田伴存)1827 兵庫県明石郡(黒牛の舌)015日本産魚類方言集(兵庫県水産
5. あお‐した[あを‥]【青舌】
日本国語大辞典
白きものをあをした 摂州」《あおした》紀伊(縞牛の舌)†030 兵庫県明石郡015
6. 明石記[文献解題]兵庫県
日本歴史地名大系
大井家 写本 東京大学史料編纂所ほか 解説 享保年間に成立したとみられる明石藩領内の地誌。明石郡に関する部分は「金波斜陽」、美嚢郡に関する部分は「玉彩光分」
7. あかしし【明石市】兵庫県
日本歴史地名大系
引継がれて一大生産地に成長する。〔古代〕明石郡南西部と印南郡南東部の一部からなり、海岸沿いに東西に細長い地域を占めている。そのため「和名抄」所載の明石郡葛江・明
8. 明石志[文献解題]兵庫県
日本歴史地名大系
一冊 仲彦三郎編 明輝社明治四四年刊 解説 「西摂大観」郡部のうち明石郡・美嚢郡の部分を抜刷して出版。
9. 明石市史資料[文献解題]兵庫県
日本歴史地名大系
一二冊 黒田義隆編 明石市教育委員会昭和五五年―平成三年刊 構成 第一集(播磨国明石郡松蔭新田村検地帳並に田畑名寄帳)、第二集上・下巻(明石藩朝鮮国信使接伴記
10. あかしじょうあと【明石城跡】兵庫県:明石市/明石城下
日本歴史地名大系
を分知し、「寛文朱印留」によると明石郡一一四村・四万八千三八七石余、美嚢郡六七村・一万六千六一二石余の計六万五千石。本多氏以降六万石で推移し、天保一三年明石郡
11. あかしのくに【明石国】
国史大辞典
明石郡(あかしぐん)
12. 明石藩
日本大百科全書
播磨はりま国(兵庫県)明石郡に置かれた藩。天文てんぶん期(1532~1555)には明石川西の台地に国人こくじん明石長行ながゆきの枝吉城が知られ、天正てんしょう期
13. 明石藩
世界大百科事典
播磨国明石郡明石を城地とした譜代中藩。1585年(天正13)キリシタン大名高山右近友祥(ともなが)6万石が高槻から入封したが,87年追放された。当時の城地は明石
14. 明石藩采邑私記(采邑私記)[文献解題]兵庫県
日本歴史地名大系
明石藩主越前松平家時代に同藩士太田小左衛門によって撰述された藩領地誌。「地志播磨鑑」のうち明石郡と美嚢郡の部は本書によって記述されたといわれる。
15. 明石町之図(明石城下図)[文献解題]兵庫県
日本歴史地名大系
不詳 解説 明治四四年に神戸を中心とする摂津西部地方の地誌として刊行された「西摂大観」中の、明石郡の部分に収録された絵図。享保年間頃の成立と考えられる。中堀以
16. あかしもととも【明石元知】
国史大辞典
天正八年(一五八〇)孝高を通じて豊臣秀吉に属したといわれる。同九年秋阿波に作戦。同十年九月二十五日秀吉から播磨明石郡内で千石を加増。同十一年二月から三月にかけて
17. あこ【吾子】[方言]
日本方言大辞典
範学校)1933 島根県725島根県方言辞典(広戸惇・矢富熊一郎)1963《あこち》 兵庫県明石郡061民族と歴史(雑誌)1919~1923(2)小さい子供。
18. あ‐ご【吾子】
日本国語大辞典
島根県725 岡山県真庭郡747 《あこさん》和歌山県690 島根県725 《あこち》兵庫県明石郡061 (2)小さい子供。《あこ》土佐†025 (3)人形。《
19. あたあつい【―暑・―熱】[方言]
日本方言大辞典
〔形容詞〕非常に暑い。ひどく熱い。 兵庫県明石郡665伊川谷方言集(森俊秀)1951 和歌山県西部690和歌山県方言(和歌山県女子師範学校)1933《あたつい》
20. あたしんどい[方言]
日本方言大辞典
〔形容詞〕非常に苦しい。ばからしい。 兵庫県明石郡「あたしんどいこんな道よりないんかいな」665伊川谷方言集(森俊秀)1951 淡路島「あたしんどい、こんな事が
21. あためんどい【―面倒】[方言]
日本方言大辞典
〔形容詞〕非常にうるさい。また、顔形がひどく醜い。 兵庫県明石郡665伊川谷方言集(森俊秀)1951 神戸市670神戸方言集(鹿谷典史)1939雑俳化粧紙「あた
22. あっぺ
日本国語大辞典
埼玉県川越245 新潟県347 石川県金沢市404 江沼郡422 福井県431 長野県下水内郡470 兵庫県明石郡061 加古郡664 《あっぽ》福島県安積郡0
23. あっぺ[方言]
日本方言大辞典
福田太郎)1902 長野県下水内郡470下水内郡方言調査書(下水内郡校長会)1902 兵庫県明石郡061民族と歴史(雑誌)1919~1923 加古郡664播麿加
24. あて
日本国語大辞典
京都府620 629 633 大阪府大阪市(中流以下の女子の語)638 中河内郡643 兵庫県明石郡665 神戸市670 淡路島(女性語)671 和歌山県690
25. あまりべごう【余戸郷】兵庫県:播磨国/加古郡
日本歴史地名大系
」とある。これから察するに住吉郷の東側で、明石郡邑美郷との間、現在の播磨町と明石市の境界付近に小規模で存在したものか。
26. あわじのくに【淡路国】兵庫県
日本歴史地名大系
同一二年七月秀吉は三原郡委文庄(現三原町)を本貫とする国人船越景直に、淡路の本知六〇〇石の替地として播磨明石郡で七二〇石を与えた(同一一年八月一日・同一二年七月
27. あわてがみ【慌神】[方言]
日本方言大辞典
慌て者。 兵庫県明石郡061民族と歴史(雑誌)1919~1923 徳島県809阿波の言葉(橋本亀一)1930811阿波言葉の辞典(金沢治)1960《あわてがき【
28. あわて‐がみ【慌神】
日本国語大辞典
〔名〕慌て者。《あわてがみ》兵庫県明石郡061 徳島県809 811 《あわてがき〔慌餓鬼〕》兵庫県加古郡664 《あわてさく〔慌作〕》徳島県811 《あわてこ
29. あわわごう【淡葉郷】兵庫県:播磨国/加古郡
日本歴史地名大系
和名抄」の住吉郷を「鴨波里」に当てている。前掲風土記では「鴨波里」は長田里の直前に載せられ、明石郡の林の潮(現明石市の海岸部)に近いとされることから、住吉郷に相
30. あん‐こ【鮟鱇】
日本国語大辞典
(2)日雇い労働者。《あんこ》茨城県188 稲敷郡193 千葉県001 271 286 兵庫県明石郡665 広島県054 771 (3)請負でなく、時間制で働く
31. あん‐こう[‥カウ]【鮟鱇】画像
日本国語大辞典
待っているところから)土方。日雇い労働者。また、とび職。《あんこう》千葉県040 夷隅郡062 兵庫県明石郡665 《あんこにんそく〔─人足〕》新潟県上越市38
32. あんこー【鮟鱇】[方言]
日本方言大辞典
千葉県040現地採録、または報告によるもの 夷隅郡062風俗画報(雑誌)1892~1916 兵庫県明石郡665伊川谷方言集(森俊秀)1951《あんこ》 茨城県1
33. あんばい【塩梅】[方言]
日本方言大辞典
」637方言と大阪(猪飼九兵衛)1948 泉北郡646和泉郷荘村方言(南要)1935 兵庫県明石郡665伊川谷方言集(森俊秀)1951 神戸市670神戸方言集(
34. あん‐ばい【塩梅・安排・按排】
日本国語大辞典
ていねいに。《あんばい》三重県名賀郡057 京都市621 大阪府大阪市637 泉北郡646 兵庫県明石郡665 神戸市670 奈良県南大和683 和歌山県和歌山
35. い【堰】[方言]
日本方言大辞典
集(私立石川県教育会)1901 三重県586三重県方言資料(鈴鹿郡誠化高小ほか)=稿 兵庫県明石郡665伊川谷方言集(森俊秀)1951 和歌山県日高郡698南紀
36. い[ゐ]【堰】
日本国語大辞典
岐阜県498 502 三重県伊勢001 香川県829 《ゆう》石川県能美郡404 三重県586 兵庫県明石郡665 和歌山県日高郡698 高知県香美郡038 (
37. いおろいしんむら【五百蔵新村】兵庫県:神戸市/西区
日本歴史地名大系
[現]西区神出町五百蔵 明石郡北端の印南野台地北東端に位置する。南端は雄岡山麓、南西は神出東村、北から東は美嚢郡広野新開(現三木市)。享保六年(一七二一)に同郡
38. いかさ-そうへい【伊笠宗平】
日本人名大辞典
?−? 江戸時代後期の陶工。寛政年間(1789-1801)に播磨(はりま)(兵庫県)明石郡山田村で粟田焼風の器をつくる。舞子ケ浜で販売したので舞子焼とよばれた。
39. いけがみむら【池上村】兵庫県:神戸市/西区
日本歴史地名大系
立会山)がある。小祠は地蔵森三・山伏森・大歳宮。五輪山の五輪塔は三浦法眼の墓という。観音堂は明石郡三十三所巡礼第二三番札所。産土神は総社(現惣社)。明治一〇年(
40. いけしたむら【池下村】兵庫県:神戸市/西区
日本歴史地名大系
[現]西区神出町紫合 明石郡の北西端に位置し、東は神出田井村、西は加古郡野谷新村(現稲美町)。明石藩の開墾策によって貞享元年(一六八四)に開発された(采邑私記)
41. いけたにむら【池谷村】兵庫県:神戸市/西区
日本歴史地名大系
小祠は梵天森・大歳森、八幡宮(現春日神社)がある。天台宗万願寺(現存)は天承年間(一一三一―三二)願西が開基。明石郡三十三所巡礼第二〇番札所(明石記)。櫨谷川南
42. いけだむら【池田村】兵庫県:神戸市/西区
日本歴史地名大系
[現]西区神出町池田 明石郡北西端に位置し、北は池下村、西は加古郡野谷新村(現稲美町)。明石藩の開墾策によって元禄三年(一六九〇)から開発された(明石名勝古事談
43. い‐じょう[‥ジャウ]【以上・已上】
日本国語大辞典
手本まいらせ候。以上」*柏木文書‐(年未詳)〔室町〕二月二一日・羽柴秀吉折紙「以上。急度申遣候。明石郡〓之池堤普請等、及
44. いちばんちょう【一番町】兵庫県:明石市/明石城下
日本歴史地名大系
実相院・円珠院・戒光院の三坊をもつ天台宗善楽寺、浄土宗無量光寺(以上現存)があった(明石名勝古事談)。実相院は明石郡三十三所巡礼第一番札所(明石記)。善楽寺は永
45. いなつめじんじゃ【稲爪神社】兵庫県:明石市/大蔵谷村
日本歴史地名大系
益躬は当地に三島大明神を勧請し、稲妻大明神として崇め祀ったという。当社を「延喜式」神名帳に載る明石郡伊和都比売神社に比定する説がある。式内社と同名の神社は現在見
46. いなみぐん【印南郡】兵庫県:播磨国
日本歴史地名大系
以上に穀を賜うとあるが、印南郡の名が見当らない。印南郡には至らなかったのであろう。邑美頓宮は明石郡邑美郷の地にあったと思われる。郡名としての初見は定かでない。「
47. いんじむら【印路村】兵庫県:神戸市/西区
日本歴史地名大系
郷蔵・池六・用水井三・小藪一三・自分山一五・自分山松林・御松山・御立山、川除堤七・橋三など。明石郡三十三所巡礼第一三番札所の観音堂と薬師堂、太神宮・大歳・若宮・
48. うえのまる【上の丸】兵庫県:明石市/明石城下
日本歴史地名大系
一部は明石城築城当初から配置されていたと考えられている。なお上の丸の町々は明治初年の大区・小区制では、明石郡第一大区第五小区に一部の名がみられるが、のちに他の家
49. うおずみ【魚住】兵庫県:明石市
日本歴史地名大系
白波」(「万葉集」巻六)とみえる名寸隅は魚住をさすという。平安期成立の「住吉大社神代記」には明石郡魚次浜一処の四至として「東限大久保尻限、南限海棹及際、西限歌見
50. うかうか[方言]
日本方言大辞典
新潟県佐渡352佐渡方言辞典(広田貞吉)1974(2)気持ちの浮きたつさま。うきうき。 兵庫県明石郡665伊川谷方言集(森俊秀)1951十問最秘抄「花がよきと心
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