1. 松平慶永画像
日本大百科全書
幕末期の越前国えちぜんのくに福井藩主、幕府の政事総裁。元服のときにつけた雅号春嶽しゅんがくが通称となる。田安たやす家徳川斉匡とくがわなりまさの八男で、1838年
2. 松平慶永
世界大百科事典
1828-90(文政11-明治23) 幕末の福井藩主。号は春岳(嶽)。三卿の田安家に生まれ,1838年(天保9)将軍徳川家慶(いえよし)の命により相続。徳川斉昭
3. まつだいら‐よしなが【松平慶永】
日本国語大辞典
幕末の福井藩主。号は春嶽。ペリー来航後、海防・攘夷を主張。通商条約調印に反対し、将軍継嗣問題で一橋派の中心として活躍、井伊直弼により謹慎させられた。のち政治総裁
4. まつだいらよしなが【松平慶永】
国史大辞典
一八二八―九〇 幕末・維新期の越前国福井藩主。越前守・大蔵大輔。大廊下席。隠居後は春岳の号を通称に用いた。文政十一年(一八二八)九月二日、江戸城内田安邸に、三
5. まつだいら-よしなが【松平慶永】画像
日本人名大辞典
1828−1890 江戸時代後期の大名。文政11年9月2日生まれ。田安斉匡(なりまさ)の8男。松平斉善(なりさわ)の養子となり,天保(てんぽう)9年越前(えちぜ
6. 松平慶永[文献目録]
日本人物文献目録
簡』遠山操(編)『福井侯行実』有馬祐政, 鳥野幸次(編)『安政記事稿本』岩崎英重(編)『春嶽松平慶永公の生祠木立神社』加藤玄智『松平春嶽公』徳山国三郎『松平春嶽
7. 松平慶永[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
©小学館ライブラリー
8. あおまつばじけん【青松葉事件】
国史大辞典
。同年十二月、慶勝は朝命により畿内の警衛を命ぜられ、将軍徳川慶喜の大政奉還上奏後も、福井藩主松平慶永とともに慶喜の自発的な辞官納地の出願勧誘、小御所会議での「領
9. あさい-やおり【浅井八百里】
日本人名大辞典
藩士。藩校正義堂の句読(くとう)師から側向頭取となり,従兄の中根雪江(せっこう)とともに藩主松平慶永(よしなが)を補佐した。藩史「執法全鑑」28巻を編修。嘉永(
10. あすわやま【足羽山】福井県:福井市/福井城下
日本歴史地名大系
島村へ移った。公園内の遊楽寺松玄院跡に昭和二八年(一九五三)福井市郷土歴史博物館が創設され、松平慶永(春嶽)関係の文書や遺品を中心に七千点の資料を収蔵する。〔足
11. 阿部正弘画像
日本大百科全書
余儀なく締結する一方、水戸みと藩主徳川斉昭なりあきの幕政への登用、島津斉彬なりあきら(薩摩さつま)、松平慶永よしなが(越前えちぜん)、山内豊信やまうちとよしげ(
12. 阿部正弘
世界大百科事典
制の端緒を開き,54年(安政1)日米和親条約(神奈川条約)を締結した。正弘は幕府と徳川斉昭,松平慶永,島津斉彬ら有力諸侯との協調路線をとり,従来の幕政の姿勢を転
13. あべまさひろ【阿部正弘】
国史大辞典
斉彬の養女篤姫を将軍家定の夫人にいれている。また徳川一門から構成される大廊下席大名の有力者、福井藩主松平慶永とも緊密な接触を保った。しかし正弘が斉昭の意見をいれ
14. アメリカ彦蔵自伝 1 279ページ
東洋文庫
二十五日)あるいは九月二十三日(十酬 月十四日)、将軍家茂が、政事総裁職の 松平慶永、後見職の徳川慶喜らをしたが えて、浜庭(のちの浜離宮
15. アメリカ彦蔵自伝 1 281ページ
東洋文庫
大名の家族を江戸にとどめていたのである。 上記の政策は当時の 総 裁 公 でもあった越前の大名〔"松平慶永〕が提案したものだといわれ、一般にそう思われている。ま
16. あんせいのかいかく【安政の改革】
国史大辞典
憲らの多くの人材を登用し、その手腕を発揮させた。こうして阿部正弘は徳川斉昭をはじめ、福井藩主松平慶永・鹿児島藩主島津斉彬らの支援を得て、幕政の改革に着手したが、
17. あんせいのじしん【安政の地震】
国史大辞典
吐くものが現われるものであるが、この地震の際にも学者・処士などの横議のみならず、越前福井藩主松平慶永の建白書提出を見るに至っている。当時阿部正弘が老中の首座であ
18. 安政の大獄画像
日本大百科全書
伊直弼が握っていた。ここにペリー来航以来攘夷主義を主張していた徳川斉昭とくがわなりあき以下、松平慶永まつだいらよしなが(松平春嶽しゅんがく)、島津斉彬しまづなり
19. 安政の大獄
世界大百科事典
子で,一橋家を相続していた一橋慶喜(よしのぶ)であった。慶喜を推したのは,斉昭のほか福井藩主松平慶永,薩摩藩主島津斉彬,阿波藩主蜂須賀斉裕,宇和島藩主伊達宗城,
20. あんせいのたいごく【安政の大獄】
国史大辞典
ったので、早く継嗣を定めて将軍を補佐させ、幕府の基礎を強固にしようとする論があった。福井藩主松平慶永は当時英明の聞えが高い一橋慶喜(前水戸藩主徳川斉昭の七男)を
21. あんどうくぜせいけん【安藤・久世政権】 : 文久・慶応期
国史大辞典
他方では、井伊政権の強圧方針は継承せず、朝廷・雄藩には宥和的な姿勢をとった。徳川慶喜・徳川慶勝・松平慶永・山内豊信等々、一橋派の大名の処分を解いた。朝廷に対して
22. 安藤信正
世界大百科事典
立を緩和するための諸政策をとった。まず60年9月,安政の大獄で処罰された徳川慶勝,一橋慶喜,松平慶永,山内豊信の謹慎を解いた。ついで10月,孝明天皇の妹である和
23. 井伊直弼画像
日本大百科全書
牛耳ぎゅうじっていたのが直弼であり、攘夷じょうい主義をとった徳川斉昭なりあき(1800―1860)以下、松平慶永よしなが(春嶽。越前えちぜん藩主)、島津斉彬なり
24. 井伊直弼
世界大百科事典
修好通商条約に調印し,25日には慶福を将軍継嗣と定めた。また,これに反対した斉昭,徳川慶恕,松平慶永に謹慎を命じ,徳川慶篤と一橋慶喜を登城禁止とした。8月8日,
25. いいなおすけ【井伊直弼】
国史大辞典
唱えて紀州慶福(よしとみ)を推し、南紀派の重鎮として、一橋慶喜(よしのぶ)を推す一橋派の福井藩主松平慶永・鹿児島藩主島津斉彬らと対立した。翌五年二月堀田正睦が条
26. いいなおすけ【井伊直弼】
日本架空伝承人名事典
修好通商条約に調印し、二五日には慶福を将軍継嗣と定めた。また、これに反対した斉昭、徳川慶恕、松平慶永に謹慎を命じ、徳川慶篤と一橋慶喜を登城禁止とした。八月八日、
27. いのおかむら【飯岡村】千葉県:成田市地図
日本歴史地名大系
鈴木雅之らの国学者がいる。安政三年(一八五六)には歌集「苔清水」を領主田安慶頼と越前福井藩主松平慶永に献上した。なお荒海川は江戸時代に飯岡川とよばれ、「佐倉風土
28. うたはし【歌橋】
国史大辞典
して島津斉彬の女篤姫(天璋院)が送りこまれた(安政三年(一八五六))のは、慶喜を推す一橋派(松平慶永・伊達宗城ら)の策謀であり、彼女に家定夫人として大奥内の意見
29. うちやましちろうえもん【内山七郎右衛門】
国史大辞典
救荒の設備に尽力した。弟隆佐も要職にあって藩政に参与し、両内山の名は四方に聞えた。前福井藩主松平慶永は七郎右衛門を礼遇すること厚かった。維新後は士族授産に尽力し
30. うめざわまごたろう【梅沢孫太郎】
国史大辞典
幸い孫太郎は難を免れた。同年十二月慶喜が大坂に退く時、二条城引渡しのことを命ぜられて京都にとどまり、松平慶永と慶喜のために周旋した。翌明治元年(一八六八)三月大
31. うるしがふち【漆ヶ淵】福井県:福井市/旧足羽郡地区/下市村
日本歴史地名大系
下甚御機嫌能」とある。また嘉永五年(一八五二)八月三日、松平慶永が一日清遊した模様を著述した「羽江浮舟之記」(春嶽公記念文庫蔵)も残る。
32. 越前国画像
日本大百科全書
間部まなべ氏鯖江さばえの諸藩や天領、西尾領、旗本領が置かれた。幕末には間部詮勝あきかつが老中となり、松平慶永よしなが(春嶽しゅんがく)が幕政に参画し、大野藩は各
33. 越前国
世界大百科事典
頂点とする天保飢饉で死者数万という被害を被り,諸藩では天保末年から藩政改革に乗り出した。福井藩の松平慶永のほか,勝山藩では林毛川(もうせん)が産物改会所を設けて
34. えちぜんのくに【越前国】福井県
日本歴史地名大系
詮勝であった。福井藩主松平慶永が隠居謹慎を命ぜられ、同藩士橋本左内が処刑されたことから、境を接する福井・鯖江両藩の間には不穏の空気が漂ったといわれる。文久二年、
35. 大河内文書 明治日中文化人の交遊 184ページ
東洋文庫
ば漢学のわかるひともあります。輝声 わたしのような華族にも、はなしにくるもの がありますか?遵憲 松平慶永(もと福井藩主)、有馬道純(もと 越前丸岡藩主)、植村
36. 王政復古(日本)画像
日本大百科全書
孝明天皇が強く求めていた攘夷断行も、長州藩の対外敗北と文久三年(1863)八月十八日の政変でつぶれ、松平慶永まつだいらよしなが(松平春嶽しゅんがく)、山内豊信や
37. おうせいふっこのだいごうれい【王政復古の大号令】
国史大辞典
それが九日朝まで続いたが、朝議が終って摂政二条斉敬らが退出したあと、討幕・王政復古派公家や徳川慶勝・松平慶永・浅野茂勲らは残留し、そこに岩倉が僧頭に衣冠を着け、
38. おおいわ-しゅいち【大岩主一】
日本人名大辞典
京都の小石元瑞(こいし-げんずい),新宮凉庭(りょうてい)らに医学をまなぶ。のち越前(えちぜん)福井藩主松平慶永(よしなが)の侍医となった。文久2年8月8日死去
39. おおくぼ-いちおう【大久保一翁】画像
日本人名大辞典
老中阿部正弘に重用され,大老井伊直弼(なおすけ)にうとまれた。井伊没後,外国奉行,大目付などとなり,松平慶永(よしなが)らと大政奉還を説いた。維新後は東京府知事
40. 大久保忠寛画像
日本大百科全書
兼ねた。さらに、講武所こうぶしょ奉行と勘定奉行を一時務め、それを最後に退隠、一翁いちおうと称した。松平慶永よしながとも親しく、勝海舟かつかいしゅうの門下でもあり
41. 大久保利通
世界大百科事典
に転向した。62年(文久2),久光の公武合体・幕政改革の運動に参画,一橋慶喜を将軍後見職に,松平慶永を政事総裁職につけるのに成功し,その名を広く天下に知られるよ
42. 大原重徳画像
日本大百科全書
約の勅許に反対して八八卿きょうの列参奏上に参画。1862年(文久2)朝廷が徳川慶喜よしのぶ、松平慶永よしなが登用を内容とする島津久光ひさみつの公武合体の建言をい
43. おおはらしげとみ【大原重徳】
国史大辞典
、幕政を改革し、攘夷の方策を整うべしと勅旨を将軍に伝えた。これによって一橋慶喜の将軍後見職、松平慶永の政事総裁職就任が実現した。重徳は閏八月帰京し、同年十二月国
44. かいあんじ【海晏寺】
国史大辞典
してから、臨済宗から曹洞宗に改宗された。北条時頼の五輪塔や俳人加舎白雄(春秋庵)・岩倉具視・松平慶永(春岳)・寺島宗則などの墓がある。 (今枝 愛真)
45. 笠原白翁
日本大百科全書
校刊した『引痘新法全書』(牧春堂著、1846年)を読み、ジェンナー法に感服、1846年(弘化3)藩主松平慶永よしなが(春嶽しゅんがく)に清国より病痘取り寄せの急
46. かつかいしゅう【勝海舟】画像
国史大辞典
どを経て、文久二年(一八六二)閏八月、幕政大改革人事の一環として軍艦奉行並に昇進、政事総裁職松平慶永やそのブレーン横井小楠らの雄藩連合による国内統一方針と同じ路
47. かもじんじゃ【賀茂神社】福井県:丹生郡/清水町/大森村
日本歴史地名大系
畑・山内・笹谷、および末(現福井市)の八村に清水畑村の枝村平尾村を加えるか(清水町史)。また松平慶永(春嶽)筆の真雪草紙(福井市春嶽公記念文庫蔵)に次のようにあ
48. かわさき-むねたか【河崎致高】
日本人名大辞典
?−1869 幕末の篆刻(てんこく)家。越前(えちぜん)福井藩士。藩主松平慶永(よしなが)に重用されたが,讒言(ざんげん)にあって明治2年10月15日自害した。
49. かわち-かてい【川地柯亭】
日本人名大辞典
江戸で谷文晁(ぶんちょう)にまなぶ。晩年は中国の明(みん)・清(しん)時代の画家の画風をこのんだという。藩主松平慶永(よしなが)から特別の待遇をうけた。明治5年
50. かんりこうせんのほう【官吏公選の法】
国史大辞典
れた大村益次郎は、この法が因襲制となれば他日共和政治を唱える者も生じようと反対し、山内豊信・松平慶永・渡辺昇・中井弘蔵らも不可を唱えたため、官吏公選の法はこの一