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  11. 松平慶永

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日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典

日本大百科全書(ニッポニカ)

松平慶永
まつだいらよしなが
[1828―1890]

幕末期の越前国 (えちぜんのくに)福井藩主、幕府の政事総裁。元服のときにつけた雅号春嶽 (しゅんがく)が通称となる。田安 (たやす)家徳川斉匡 (とくがわなりまさ)の八男で、1838年(天保9)11歳のとき、越前家を継ぎ、第16代藩主となった。以後20年間のうちに、中根雪江 (なかねせっこう)(靭負 (ゆきえ))、鈴木主税 (すずきちから)らを登用し、藩政の刷新に努め、西洋砲術や銃隊訓練など軍事力の強化、藩校明道館の設立と併設の洋書習学所、種痘 (しゅとう)の導入など洋学の採用も推進した。その間、1853年(嘉永6)ペリー来航に際して、海防の強化を説き、江戸湾など沿岸警備の具体策の実現を、幕府に対して積極的に働きかけた。1857年(安政4)、熊本藩士横井小楠 (よこいしょうなん)を登用し、開国通商の是認に傾くとともに、13代将軍徳川家定 (とくがわいえさだ)の継嗣 (けいし)に一橋慶喜 (ひとつばしよしのぶ)を推すなど、島津斉彬 (しまづなりあきら)(薩摩 (さつま)藩)、伊達宗城 (だてむねなり)(宇和島藩)、山内容堂 (やまうちようどう)(土佐藩)らとともに、幕府主流派と対立した。1858年、大老井伊直弼 (いいなおすけ)による日米修好通商条約調印と、紀伊家の徳川慶福 (とくがわよしとみ)(のち14代将軍家茂 (いえもち))の継嗣決定に強く抗議したため、7月、ともに動いた徳川斉昭 (とくがわなりあき)はじめ、先の大名たちとともに謹慎 (きんしん)処分を受け、退隠、藩主の地位を同族の茂昭 (もちあき)に譲った。

 1860年(万延1)井伊直弼の暗殺後、謹慎を解かれ、さらに2年後(文久2)政界に復帰、その7月には慶喜の将軍後見職就任に続いて、政事総裁職に任ぜられて、幕政の指導的地位にたった。復権後の彼の立場は、公武合体の推進にあったが、幕府の中枢にあるとともに、1864年(元治1)には一時京都守護職に就任、朝議参予 (さんよ)ともなって朝廷からも大きな信頼を受けた。1866年(慶応2)12月、慶喜が将軍職に就くが、慶永はその施政に大きな影響力をもち、一方、京都に集まった宗城、容堂、島津久光 (しまづひさみつ)(斉彬異母弟)の3名とともに、参予会議の「四侯」として、公武合体による国政改革に努めた。長州攻撃の収拾や、兵庫開港の容認とその「勅許」の獲得など、年来の懸案を将軍慶喜が処理したことについては、慶永の建言・助言が大きな役割を果たしていた。大政奉還・王政復古で、新政府の議定 (ぎじょう)職の一人に任命されたが、戊辰 (ぼしん)内乱から、慶喜への厳しい処分が進む政界の方向に反発、1869年(明治2)民部卿 (みんぶきょう)、続いて大蔵卿兼務を最後に、1870年7月、42歳でいっさいの公職を退いた。以後、自らの体験を歴史的に回顧した『逸事史補』など多くの著述をまとめた。明治23年6月、62歳で病没した。

[河内八郎]



世界大百科事典

松平慶永
まつだいらよしなが
1828-90(文政11-明治23)

幕末の福井藩主。号は春岳(嶽)。三卿の田安家に生まれ,1838年(天保9)将軍徳川家慶(いえよし)の命により相続。徳川斉昭(なりあき)の影響のもとに財政整理,西洋式兵制採用,銃砲・火薬製造,造船事業などに努力,種痘法をも積極的に採用し,藩政に治績をあげた。ペリー来航後,斉昭と親しく親戚でもあった老中阿部正弘に盛んに意見上申し,国政参加への意欲をみせた。将軍家定が凡庸多病のため,外圧に対処し国内体制を固めるには英明な将軍擁立を第一とする見解に立って,島津斉彬(なりあきら),山内豊信(とよしげ)(容堂),伊達宗城(むねなり)らと連絡し,橋本左内の補佐のもと一橋派運動に努力した(将軍継嗣問題)。しかし紀州慶福(家茂)を推す大老井伊直弼のため1858年(安政5)隠居謹慎の処分をうけ,左内も安政の大獄で刑死した。62年(文久2)将軍後見職一橋慶喜とともに政事総裁職(大老相当)として政界に復帰,横井小楠(しようなん)の助言をうけながら幕政改革,公武合体運動に従事した。しかし朝廷・外様雄藩勢力の上昇により幕府独力による政局指導が不可能となっていたため,しばしば苦境に陥り辞職,帰国を繰り返した。第2次長州征伐に際しては中止を主張,鳥羽・伏見の戦が起こると宗家徳川家存続のため必死に周旋,目的を達した。明治政権では議定(ぎじよう),内国事務総督,民部卿,大蔵卿を歴任したが実権はともなわず,大学別当兼侍読を最後に退官,麝香間(じやこうのま)祗候となり明治天皇の信任をうけた。
[山口 宗之]

[索引語]
福井藩 松平春岳(嶽) 将軍継嗣問題


国史大辞典

松平慶永
まつだいらよしなが
一八二八 - 九〇
幕末・維新期の越前国福井藩主。越前守・大蔵大輔。大廊下席。隠居後は春岳の号を通称に用いた。文政十一年(一八二八)九月二日、江戸城内田安邸に、三代斉匡の八男として生まれた。天保九年(一八三八)九月、将軍徳川家慶の命で、越前福井藩主松平斉善のあとを継ぎ、第十六代藩主となり、慶永と称した。近侍御用役に中根雪江らの人材を得たことと、誠実・謹直で明敏な資質から、名君として家臣の信望を集め、また中根をはじめ鈴木主税・村田氏寿・橋本左内らの賢臣と、熊本藩の儒者横井小楠らを登用、率先垂範して藩財政の立て直しに努力する一方、時勢を察し兵制刷新・種痘館設立・藩校明道館創設、さらには殖産興業策の振興などの諸策を積極的に推進した。他方早くより、徳川斉昭をはじめ薩摩藩主島津斉彬・土佐藩主山内豊信・宇和島藩主伊達宗城らの賢名大名らと親交を持った。ペリー来航時には、斉昭に心服、幕府指導力の強化と攘夷論を主張したが、安政四年(一八五七)ごろより積極開国論に転じ、一橋慶喜を将軍継嗣に推戴すべく、その中心となって活躍した。しかし政見を異にする井伊直弼の大老就任により、安政五年六月の斉昭らとの不時登城の罪を口実に、隠居謹慎の処罰を受け、家督を支藩糸魚川藩主松平直廉(茂昭)に譲り、文久二年(一八六二)まで政界を離れた。桜田門外の変で井伊直弼が斃れ、幕府の方針が公武合体策に転じ、西南雄藩が京都を舞台に活動を始め、幕府へ圧力がかけられるようになった。文久二年島津久光が勅使を擁して、幕府人事に介入せんとする情勢に対応するため、春岳の謹慎が解かれ、幕政参加を命ぜられ政界に復帰した。政事総裁職に任命され、将軍後見職に就任した一橋慶喜とともに幕政改革にあたった。春岳は従来の独裁制を幕府の私政であるとしてその改革を主張し、諸藩の意見を幕政に反映するよう強く求めたり、参勤交代制度の緩和策を断行したりしたが、幕権維持強化を意図する慶喜とは、必ずしも意見の一致をみなかった。過激攘夷策を強要する長州藩対策として、京都での諸侯会議開催を提案、文久三年春、慶喜らと上京したが、朝廷から攘夷期日の決定を迫られるや、慶喜および老中らの受諾論に反対し、政権奉還をも辞さない政令帰一論を主張し、自説が容れられないと、総裁職を辞して無断帰国し、長州藩の過激攘夷論に間接的に圧力をかけた。いわゆる八月十八日の政変で、長州藩の勢力が追放され、代わって薩摩藩が京都に勢力を振るうようになると、幕府は薩摩藩勢力を押えようとして、両者の対立が次第に激化し、やがて大政奉還・王政復古の大号令の発布と、政局は急激に変化していった。この慶応三年(一八六七)までの間、春岳は四回にわたり、朝幕両者より上京を命じられ国事周旋にあたった。諸侯会議による国是決定策を基本とする公武合体論を主張する点が、幕府・薩摩藩両者に調停者として尊重されたためで、政局の推移に大きな影響力を及ぼした。王政復古の大号令に伴う幕府への辞官納地問題を、何とか円満に処理し、慶喜の朝政参加実現の寸前に、鳥羽・伏見の戦が発生し、徳川家は朝敵とされ、春岳の公武合体の念願は絶たれた。明治新政府側にあって、慶喜に絶対服従をすすめるとともに、徳川家救解に尽力した。明治政府にあっては、内国事務総督、議定となり、明治二年(一八六九)民部卿・大蔵卿を兼ね、ついで八月大学別当兼侍読となり、大学における国学対儒学の主導権争い、行政官対教官の対立解消に努力したが、国漢洋三学の併立策は不調に終り、明治三年一切の官職を辞し、以後文筆生活に入り、『逸事史補』『幕儀参考』などの著述や、伊達宗城らとともに『徳川礼典録』の編纂などの文筆活動を行なった。明治二十三年六月二日東京小石川区関口台町の邸で死去。六十三歳。墓所は東京都品川区南品川五丁目の海晏寺。『松平春岳全集』全四巻がある。なお明治三十九年実子慶民が分家するにあたり、父春岳の遺功により子爵を授けられた。
[参考文献]
中根雪江『昨夢紀事』(『日本史籍協会叢書』)、同『再夢紀事』(同)、村田氏寿・佐々木千尋編『続再夢紀事』(同)、中根雪江『丁卯日記』(同)、同『戊辰日記』(同)、同『奉答紀事』(『新編日本史籍協会叢書』一)、福井市立郷土歴史博物館編『松平春岳公未公刊書簡集』(『福井市立郷土歴史博物館史料叢書』二―四)、徳山国三郎『松平春岳公』、川端太平『松平春岳』(『人物叢書』一三八)、中根雪江先生百年祭事業会編『中根雪江先生』
(河北 展生)
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1. 松平慶永画像
日本大百科全書
幕末期の越前国えちぜんのくに福井藩主、幕府の政事総裁。元服のときにつけた雅号春嶽しゅんがくが通称となる。田安たやす家徳川斉匡とくがわなりまさの八男で、1838年
2. 松平慶永
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1828-90(文政11-明治23) 幕末の福井藩主。号は春岳(嶽)。三卿の田安家に生まれ,1838年(天保9)将軍徳川家慶(いえよし)の命により相続。徳川斉昭
3. まつだいら‐よしなが【松平慶永】
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幕末の福井藩主。号は春嶽。ペリー来航後、海防・攘夷を主張。通商条約調印に反対し、将軍継嗣問題で一橋派の中心として活躍、井伊直弼により謹慎させられた。のち政治総裁
4. まつだいらよしなが【松平慶永】
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一八二八―九〇 幕末・維新期の越前国福井藩主。越前守・大蔵大輔。大廊下席。隠居後は春岳の号を通称に用いた。文政十一年(一八二八)九月二日、江戸城内田安邸に、三
5. まつだいら-よしなが【松平慶永】画像
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1828−1890 江戸時代後期の大名。文政11年9月2日生まれ。田安斉匡(なりまさ)の8男。松平斉善(なりさわ)の養子となり,天保(てんぽう)9年越前(えちぜ
6. 松平慶永[文献目録]
日本人物文献目録
簡』遠山操(編)『福井侯行実』有馬祐政, 鳥野幸次(編)『安政記事稿本』岩崎英重(編)『春嶽松平慶永公の生祠木立神社』加藤玄智『松平春嶽公』徳山国三郎『松平春嶽
7. 松平慶永[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
©小学館ライブラリー
8. あおまつばじけん【青松葉事件】
国史大辞典
。同年十二月、慶勝は朝命により畿内の警衛を命ぜられ、将軍徳川慶喜の大政奉還上奏後も、福井藩主松平慶永とともに慶喜の自発的な辞官納地の出願勧誘、小御所会議での「領
9. あさい-やおり【浅井八百里】
日本人名大辞典
藩士。藩校正義堂の句読(くとう)師から側向頭取となり,従兄の中根雪江(せっこう)とともに藩主松平慶永(よしなが)を補佐した。藩史「執法全鑑」28巻を編修。嘉永(
10. あすわやま【足羽山】福井県:福井市/福井城下
日本歴史地名大系
島村へ移った。公園内の遊楽寺松玄院跡に昭和二八年(一九五三)福井市郷土歴史博物館が創設され、松平慶永(春嶽)関係の文書や遺品を中心に七千点の資料を収蔵する。〔足
11. 阿部正弘画像
日本大百科全書
余儀なく締結する一方、水戸みと藩主徳川斉昭なりあきの幕政への登用、島津斉彬なりあきら(薩摩さつま)、松平慶永よしなが(越前えちぜん)、山内豊信やまうちとよしげ(
12. 阿部正弘
世界大百科事典
制の端緒を開き,54年(安政1)日米和親条約(神奈川条約)を締結した。正弘は幕府と徳川斉昭,松平慶永,島津斉彬ら有力諸侯との協調路線をとり,従来の幕政の姿勢を転
13. あべまさひろ【阿部正弘】
国史大辞典
斉彬の養女篤姫を将軍家定の夫人にいれている。また徳川一門から構成される大廊下席大名の有力者、福井藩主松平慶永とも緊密な接触を保った。しかし正弘が斉昭の意見をいれ
14. アメリカ彦蔵自伝 1 279ページ
東洋文庫
  二十五日)あるいは九月二十三日(十酬    月十四日)、将軍家茂が、政事総裁職の    松平慶永、後見職の徳川慶喜らをしたが    えて、浜庭(のちの浜離宮
15. アメリカ彦蔵自伝 1 281ページ
東洋文庫
大名の家族を江戸にとどめていたのである。 上記の政策は当時の 総 裁 公 でもあった越前の大名〔"松平慶永〕が提案したものだといわれ、一般にそう思われている。ま
16. あんせいのかいかく【安政の改革】
国史大辞典
憲らの多くの人材を登用し、その手腕を発揮させた。こうして阿部正弘は徳川斉昭をはじめ、福井藩主松平慶永・鹿児島藩主島津斉彬らの支援を得て、幕政の改革に着手したが、
17. あんせいのじしん【安政の地震】
国史大辞典
吐くものが現われるものであるが、この地震の際にも学者・処士などの横議のみならず、越前福井藩主松平慶永の建白書提出を見るに至っている。当時阿部正弘が老中の首座であ
18. 安政の大獄画像
日本大百科全書
伊直弼が握っていた。ここにペリー来航以来攘夷主義を主張していた徳川斉昭とくがわなりあき以下、松平慶永まつだいらよしなが(松平春嶽しゅんがく)、島津斉彬しまづなり
19. 安政の大獄
世界大百科事典
子で,一橋家を相続していた一橋慶喜(よしのぶ)であった。慶喜を推したのは,斉昭のほか福井藩主松平慶永,薩摩藩主島津斉彬,阿波藩主蜂須賀斉裕,宇和島藩主伊達宗城,
20. あんせいのたいごく【安政の大獄】
国史大辞典
ったので、早く継嗣を定めて将軍を補佐させ、幕府の基礎を強固にしようとする論があった。福井藩主松平慶永は当時英明の聞えが高い一橋慶喜(前水戸藩主徳川斉昭の七男)を
21. あんどうくぜせいけん【安藤・久世政権】 : 文久・慶応期
国史大辞典
他方では、井伊政権の強圧方針は継承せず、朝廷・雄藩には宥和的な姿勢をとった。徳川慶喜・徳川慶勝・松平慶永・山内豊信等々、一橋派の大名の処分を解いた。朝廷に対して
22. 安藤信正
世界大百科事典
立を緩和するための諸政策をとった。まず60年9月,安政の大獄で処罰された徳川慶勝,一橋慶喜,松平慶永,山内豊信の謹慎を解いた。ついで10月,孝明天皇の妹である和
23. 井伊直弼画像
日本大百科全書
牛耳ぎゅうじっていたのが直弼であり、攘夷じょうい主義をとった徳川斉昭なりあき(1800―1860)以下、松平慶永よしなが(春嶽。越前えちぜん藩主)、島津斉彬なり
24. 井伊直弼
世界大百科事典
修好通商条約に調印し,25日には慶福を将軍継嗣と定めた。また,これに反対した斉昭,徳川慶恕,松平慶永に謹慎を命じ,徳川慶篤と一橋慶喜を登城禁止とした。8月8日,
25. いいなおすけ【井伊直弼】
国史大辞典
唱えて紀州慶福(よしとみ)を推し、南紀派の重鎮として、一橋慶喜(よしのぶ)を推す一橋派の福井藩主松平慶永・鹿児島藩主島津斉彬らと対立した。翌五年二月堀田正睦が条
26. いいなおすけ【井伊直弼】
日本架空伝承人名事典
修好通商条約に調印し、二五日には慶福を将軍継嗣と定めた。また、これに反対した斉昭、徳川慶恕、松平慶永に謹慎を命じ、徳川慶篤と一橋慶喜を登城禁止とした。八月八日、
27. いのおかむら【飯岡村】千葉県:成田市地図
日本歴史地名大系
鈴木雅之らの国学者がいる。安政三年(一八五六)には歌集「苔清水」を領主田安慶頼と越前福井藩主松平慶永に献上した。なお荒海川は江戸時代に飯岡川とよばれ、「佐倉風土
28. うたはし【歌橋】
国史大辞典
して島津斉彬の女篤姫(天璋院)が送りこまれた(安政三年(一八五六))のは、慶喜を推す一橋派(松平慶永・伊達宗城ら)の策謀であり、彼女に家定夫人として大奥内の意見
29. うちやましちろうえもん【内山七郎右衛門】
国史大辞典
救荒の設備に尽力した。弟隆佐も要職にあって藩政に参与し、両内山の名は四方に聞えた。前福井藩主松平慶永は七郎右衛門を礼遇すること厚かった。維新後は士族授産に尽力し
30. うめざわまごたろう【梅沢孫太郎】
国史大辞典
幸い孫太郎は難を免れた。同年十二月慶喜が大坂に退く時、二条城引渡しのことを命ぜられて京都にとどまり、松平慶永と慶喜のために周旋した。翌明治元年(一八六八)三月大
31. うるしがふち【漆ヶ淵】福井県:福井市/旧足羽郡地区/下市村
日本歴史地名大系
下甚御機嫌能」とある。また嘉永五年(一八五二)八月三日、松平慶永が一日清遊した模様を著述した「羽江浮舟之記」(春嶽公記念文庫蔵)も残る。
32. 越前国画像
日本大百科全書
間部まなべ氏鯖江さばえの諸藩や天領、西尾領、旗本領が置かれた。幕末には間部詮勝あきかつが老中となり、松平慶永よしなが(春嶽しゅんがく)が幕政に参画し、大野藩は各
33. 越前国
世界大百科事典
頂点とする天保飢饉で死者数万という被害を被り,諸藩では天保末年から藩政改革に乗り出した。福井藩の松平慶永のほか,勝山藩では林毛川(もうせん)が産物改会所を設けて
34. えちぜんのくに【越前国】福井県
日本歴史地名大系
詮勝であった。福井藩主松平慶永が隠居謹慎を命ぜられ、同藩士橋本左内が処刑されたことから、境を接する福井・鯖江両藩の間には不穏の空気が漂ったといわれる。文久二年、
35. 大河内文書 明治日中文化人の交遊 184ページ
東洋文庫
ば漢学のわかるひともあります。輝声 わたしのような華族にも、はなしにくるもの がありますか?遵憲 松平慶永(もと福井藩主)、有馬道純(もと 越前丸岡藩主)、植村
36. 王政復古(日本)画像
日本大百科全書
孝明天皇が強く求めていた攘夷断行も、長州藩の対外敗北と文久三年(1863)八月十八日の政変でつぶれ、松平慶永まつだいらよしなが(松平春嶽しゅんがく)、山内豊信や
37. おうせいふっこのだいごうれい【王政復古の大号令】
国史大辞典
それが九日朝まで続いたが、朝議が終って摂政二条斉敬らが退出したあと、討幕・王政復古派公家や徳川慶勝・松平慶永・浅野茂勲らは残留し、そこに岩倉が僧頭に衣冠を着け、
38. おおいわ-しゅいち【大岩主一】
日本人名大辞典
京都の小石元瑞(こいし-げんずい),新宮凉庭(りょうてい)らに医学をまなぶ。のち越前(えちぜん)福井藩主松平慶永(よしなが)の侍医となった。文久2年8月8日死去
39. おおくぼ-いちおう【大久保一翁】画像
日本人名大辞典
老中阿部正弘に重用され,大老井伊直弼(なおすけ)にうとまれた。井伊没後,外国奉行,大目付などとなり,松平慶永(よしなが)らと大政奉還を説いた。維新後は東京府知事
40. 大久保忠寛画像
日本大百科全書
兼ねた。さらに、講武所こうぶしょ奉行と勘定奉行を一時務め、それを最後に退隠、一翁いちおうと称した。松平慶永よしながとも親しく、勝海舟かつかいしゅうの門下でもあり
41. 大久保利通
世界大百科事典
に転向した。62年(文久2),久光の公武合体・幕政改革の運動に参画,一橋慶喜を将軍後見職に,松平慶永を政事総裁職につけるのに成功し,その名を広く天下に知られるよ
42. 大原重徳画像
日本大百科全書
約の勅許に反対して八八卿きょうの列参奏上に参画。1862年(文久2)朝廷が徳川慶喜よしのぶ、松平慶永よしなが登用を内容とする島津久光ひさみつの公武合体の建言をい
43. おおはらしげとみ【大原重徳】
国史大辞典
、幕政を改革し、攘夷の方策を整うべしと勅旨を将軍に伝えた。これによって一橋慶喜の将軍後見職、松平慶永の政事総裁職就任が実現した。重徳は閏八月帰京し、同年十二月国
44. かいあんじ【海晏寺】
国史大辞典
してから、臨済宗から曹洞宗に改宗された。北条時頼の五輪塔や俳人加舎白雄(春秋庵)・岩倉具視・松平慶永(春岳)・寺島宗則などの墓がある。 (今枝 愛真)
45. 笠原白翁
日本大百科全書
校刊した『引痘新法全書』(牧春堂著、1846年)を読み、ジェンナー法に感服、1846年(弘化3)藩主松平慶永よしなが(春嶽しゅんがく)に清国より病痘取り寄せの急
46. かつかいしゅう【勝海舟】画像
国史大辞典
どを経て、文久二年(一八六二)閏八月、幕政大改革人事の一環として軍艦奉行並に昇進、政事総裁職松平慶永やそのブレーン横井小楠らの雄藩連合による国内統一方針と同じ路
47. かもじんじゃ【賀茂神社】福井県:丹生郡/清水町/大森村
日本歴史地名大系
畑・山内・笹谷、および末(現福井市)の八村に清水畑村の枝村平尾村を加えるか(清水町史)。また松平慶永(春嶽)筆の真雪草紙(福井市春嶽公記念文庫蔵)に次のようにあ
48. かわさき-むねたか【河崎致高】
日本人名大辞典
?−1869 幕末の篆刻(てんこく)家。越前(えちぜん)福井藩士。藩主松平慶永(よしなが)に重用されたが,讒言(ざんげん)にあって明治2年10月15日自害した。
49. かわち-かてい【川地柯亭】
日本人名大辞典
江戸で谷文晁(ぶんちょう)にまなぶ。晩年は中国の明(みん)・清(しん)時代の画家の画風をこのんだという。藩主松平慶永(よしなが)から特別の待遇をうけた。明治5年
50. かんりこうせんのほう【官吏公選の法】
国史大辞典
れた大村益次郎は、この法が因襲制となれば他日共和政治を唱える者も生じようと反対し、山内豊信・松平慶永・渡辺昇・中井弘蔵らも不可を唱えたため、官吏公選の法はこの一
「松平慶永」の情報だけではなく、「松平慶永」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
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三条実美(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
幕末・明治前期の公卿(くぎょう)、太政(だじょう)大臣、政治家。幼名福麿。天保(てんぽう)8年2月7日、三条実万(さねつむ)の第4子として生まれる。家格は五摂家(ごせっけ)に次ぐ九清華(きゅうせいが)の一家。1854年(安政1)従(じゅ)五位上に叙せ
江藤新平(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
幕末・維新期の政治家。佐賀の乱の首領。名は胤雄(たねお)、号は南白(なんぱく)。天保(てんぽう)5年2月9日、佐賀藩下級武士の家に生まれる。国学者枝吉神陽(えだよししんよう)に師事、しだいに尊攘(そんじょう)運動に参加し、1862年(文久2)脱藩して
松尾芭蕉(日本大百科全書・世界大百科事典)
江戸前期の俳人。日本近世文学の最盛期をなす元禄(げんろく)期(1688~1704)に活躍した井原西鶴(いはらさいかく)、近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)、芭蕉は、それぞれ小説、浄瑠璃(じょうるり)、俳諧(はいかい)の分野を代表する三大文豪として
光明皇后(世界大百科事典・国史大辞典・日本架空伝承人名事典)
奈良前期の聖武天皇の皇后。諱(いみな)は安宿(あすかべ),出家して光明子という。藤原不比等の第三女,母は橘三千代。幼にして聡慧,早くから声誉高かったが,716年(霊亀2)16歳で皇太子首(おびと)皇子の妃となり,翌々年阿倍皇女(孝謙天皇)を生む
大伴金村(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
五世紀末から六世紀前半へかけての大和朝廷の有力者。武烈・継体・安閑・宣化朝の大連。大伴談(かたり)の子。磐・咋・狭手彦の父。仁賢天皇の死後、権勢強大な平群氏を滅ぼし、武烈天皇を即位させた。武烈の死後、あとをつぐ皇族がないため、金村は群臣とはかって
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