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日本紀略

ジャパンナレッジで閲覧できる『日本紀略』の日本大百科全書・国史大辞典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

日本紀略
にほんきりゃく

神代から後一条 (ごいちじょう)天皇(在位1016~36)までの編年体の史書。34巻。著者不詳。成立は平安末期。『日本紀類』『編年紀略』ともいう。前半は六国史 (りっこくし)を抄録したもの。後半は、書法、体裁がまったく前半と異なり、公私の日記などを史料とし、編者の記述にかかるもの。前半の六国史を抄出した部分は、六国史と出入りがあって、国史の欠を補うところが少なくない。後半は、六国史にない部分であって、平安時代研究の重要史料。醍醐 (だいご)天皇(在位897~930)から後一条天皇までの部分を『九代略記』『九代実録』ともよぶ。古く、流布本は醍醐天皇以後のものであったが、『国史大系』所収のものは完本。

[林 幹彌]



国史大辞典

日本紀略
にほんきりゃく
神代から後一条天皇に至る編年体の歴史書。三十四巻。成立年代・編者ともに不詳。書名は、『本朝書籍目録』に「日本史記略」、『右文故事』に「日本紀類」などとみえ、『日本逸史』や『大日本史』に「日本紀略」とみえる。神武天皇から光孝天皇までは六国史からの抄出本、六国史のない宇多天皇から後一条天皇までは、『新国史』『外記日記』その他から抄出したものと考えられている。したがって六国史の校勘に役立つばかりでなく、欠失部分の多い『日本後紀』の原形をうかがう史料として、また六国史以後平安時代中期に至るまでの基本史料として高い価値が認められている。抄出にあたっては、任官や叙位記事を「任官」「授位」と略記するほか、年の上に干支を分注で記し、天皇の国風諡号(しごう)を漢風諡号に改めるなど、一定の編纂方針が見られる。六国史の抄出は概して原文に忠実でありかつ巧妙である。すなわち原文の文字をできるだけ残しながら、かつ原文の意味を損なわないように省略しており、また原文の不統一や誤りをあえてそのまま引用している箇所もある。『続日本紀』からの抄出部分にあたる宝亀元年(七七〇)八月条に、『続日本紀』にはない『藤原百川伝』を引用している箇所があるが、これは『日本紀略』の編者が、称徳天皇崩後の白壁王冊立の事情を詳しく伝えるために同伝を引用したものらしい。また『続日本紀』には、藤原種継暗殺事件に関連する早良親王については、廃太子のことを山陵に告げた記事があるだけであるが、『日本紀略』には捕えられた人人の供述、罪状を述べた宣命、早良親王の死に至るまでの経緯が収録されており、この相異は弘仁元年(八一〇)九月の桓武天皇陵への告文に述べられているように、『続日本紀』の記事が削除された結果であって、『日本紀略』は削除される前の『続日本紀』から抄出したものと考えられる。このように六国史にはみえない記事もあり貴重である。六国史以後については、まま出典を分注で記しており、それらによると『宇多天皇御記』『外記日記』『兼明記』『水心記』「或記」などを材料としたことが知られる。宇多・醍醐両朝については,年中行事の記し方に六国史と共通するところがあることなどから、『本朝書籍目録』によると仁和より延喜に至るという『新国史』から抄出した可能性も指摘されている。写本には諸本があるが、宮内庁書陵部所蔵の久邇宮家旧蔵本が、孝謙天皇紀を除く神代から後一条天皇までを備えており、最もまとまった善本といわれている。ただし神代は抄出本ではなく、『日本書紀』の本文そのままであり、後人が補ったものと思われる。刊本としては久邇宮家旧蔵本を底本とする『(新訂増補)国史大系』一〇・一一がある。
[参考文献]
坂本太郎『六国史』(吉川弘文館『日本歴史叢書』二七)、山中裕『平安時代の古記録と貴族文化』、柳宏吉「日本紀略の続日本紀抄録について」(坂本太郎博士古稀記念会編『続日本古代史論集』中所収)、同「日本書紀に見えない日本紀略の記述について」(『続日本紀研究』八ノ一―四)、平野博之「日本紀略の日本後紀薨卒記事の抄録について」(『下関市立大学論集』二四ノ三、二六ノ三、二七ノ一、三〇ノ二、三一ノ一・二合併号)
(柳 雄太郎)
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1. 日本紀略
日本大百科全書
神代から後一条ごいちじょう天皇(在位1016~36)までの編年体の史書。34巻。著者不詳。成立は平安末期。『日本紀類』『編年紀略』ともいう。前半は六国史りっこく
2. 日本紀略
世界大百科事典
神代から後一条天皇の1036年(長元9)にいたる編年体の通史。34巻。著者未詳。平安末期の成立。神武天皇から光孝天皇にかけては六国史の記事を簡略化し,宇多天皇以
3. にほんきりゃく【日本紀略】
日本国語大辞典
平安後期の歴史書。三四巻。編者・成立年時未詳。神代から後一条天皇の治世までを漢文・編年体で記す。神代は「日本書紀」をそのまま用い、神武天皇から光孝天皇の治世まで
4. にほんきりゃく【日本紀略】
国史大辞典
山中裕『平安時代の古記録と貴族文化』、柳宏吉「日本紀略の続日本紀抄録について」(坂本太郎博士古稀記念会編『続日本古代史論集』中所収)、同「日本書紀に見えない日本
5. 『日本紀略』
日本史年表
1753年〈宝暦3 癸酉〉 8・3 徳川家重、 『日本紀略』 『弘仁格式』 などを禁裏に献上(続史愚抄)。
6. 日本紀略(著作ID:50099)
新日本古典籍データベース
にほんきりゃく 編年略記 通史 
7. はいてい【裴頲】(Péi Tǐng)
世界人名大辞典
道真や紀長谷雄らと詩を応酬.道真との応酬詩は《菅原文草》に収録.〖文献〗 日本三代実録42.日本紀略前篇20.本朝文粋7.
8. あえくにじんじゃ【敢国神社】三重県:上野市/一之宮村
日本歴史地名大系
」とあり、「三代実録」に貞観九年(八六七)一〇月五日従五位上、同一五年九月二七日正五位下、「日本紀略」寛平三年(八九一)四月二八日条に「敢国津大社」として正五位
9. あおうま の 節会(せちえ)
日本国語大辞典
その行事は七日の節会の一要素だという認識が存するようである。(2)「白馬節会」の語形の初出は「日本紀略」天暦二年(九四八)で、折しも「青馬」から「白馬」への文字
10. 明石(源氏物語) 225ページ
日本古典文学全集
。以下「はべるなり」まで、都の天候。以下、須磨の天変。都の天候と対比していう。「氷」は雹。『日本紀略』の長和二年(一〇一三)三月二十九日条に「今日未刻、雷鳴、氷
11. あか‐ぼうそう[‥バウサウ]【赤疱瘡】
日本国語大辞典
〔名〕「あかもがさ(赤疱瘡)」に同じ。*日本紀略‐長徳四年〔998〕七月「今月。天下衆庶煩〓疱瘡
12. あかもがさ【赤斑瘡】
国史大辞典
」(『類聚符宣抄』)とある。平安時代、『日本紀略』長徳四年(九九八)条に「今年、天下夏より冬に至るまで疫瘡遍発し、六七月の間京師の男女死する者はなはだ多し
13. あがはしのえき【吾椅駅】高知県:長岡郡/本山町/寺家村
日本歴史地名大系
延暦一五年(七九六)南海道には後世北山越とよばれる新道が開かれた(「日本紀略」同年二月二五日条)。その新道に設けられた駅で丹治川駅(現大豊町)に次ぐ土佐に入って
14. あきし【安芸市】高知県
日本歴史地名大系
この官道は安芸市域も通ったことになるが、延暦一五年(七九六)官道は四国山地を横断する北山越に変わっている(日本紀略)。安芸平野は安芸郡内では最も大きな耕地が広が
15. あさかぐん【安積郡】福島県:陸奥国
日本歴史地名大系
豊別神・安達嶺禰宜大刀自神・安達嶺飯津売神に正五位上、小陽日温泉神には正五位下を授けている(日本紀略)。いずれも式外社である。「万葉集」に安太太良山の歌三首・安
16. あさざ‐こうし【朝座講師】
仏教語大辞典
朝の講座をつとめる講師。 ⇔夕座講師 日本紀略 後一〇・長保四・一〇・二三 「御八講。朝座講師律師院源、有朝撰、転権少僧都」
17. あしがらとうげ【足柄峠】静岡県:駿東郡/小山町/竹之下村
日本歴史地名大系
足柄路は閉鎖され箱根路が開設されたが、翌二二年五月八日箱根路は廃せられ、足柄路が再開される(日本紀略)。昌泰二年(八九九)には強盗を取締るために「相模国足柄坂」
18. あしがらやま【足柄山】神奈川県:南足柄市地図
日本歴史地名大系
延暦二一年(八〇二)富士山噴火によって足柄道は一時通行が不可能になり、箱根路が開かれたが、翌年復旧した(日本紀略)。その後、関東の治安が上野の強盗蜂起によって乱
19. あしやのえき【葦屋駅】兵庫県:芦屋市
日本歴史地名大系
一五疋に減じたとあるので、延喜(九〇一―九二三)頃までには駅数・駅馬数ともしだいに減ぜられたことが知れる。「日本紀略」天慶二年(九三九)一二月二六日条に、備前介
20. 飛鳥坐神社
日本大百科全書
座。当社は『延喜式えんぎしき』に「飛鳥坐神社四坐」とあるが、その祭神については諸説がある。『日本紀略』によると、淳和じゅんな天皇の天長てんちょう6年(829)神
21. あすかにいますじんじゃ【飛鳥坐神社】奈良県:高市郡/明日香村/飛鳥村
日本歴史地名大系
、この時に初めて「四社」とみえる。しかし四社が別個の神社か、四座一社なのかは明らかでない。「日本紀略」天長六年(八二九)三月一〇日条に「大和国高市郡賀美郷甘南備
22. あそじんじゃ【阿蘇神社】熊本県:阿蘇郡/一の宮町/宮地村
日本歴史地名大系
に始まり、以下延暦一五年の神霊池涸減(日本後紀)、弘仁一四年(八二三)健磐龍神に神階・封戸(日本紀略)、天長二年(八二五)神霊池涸渇(同書)、承和五年(八三八)
23. あそび‐お[‥を]【遊男】
日本国語大辞典
〔名〕「あそびびと(遊人)」に同じ。*日本紀略‐寛平三年〔891〕一一月二四日「於〓鴨明神
24. あたごじんじゃ【愛宕神社】京都市:右京区/上嵯峨村地図
日本歴史地名大系
山門訴詔〓改定訖」とあり、また「日本紀略」天元五年(九八二)六月二日条に「左近少将源惟章、右近将監同遠理、於
25. あだたらじんじゃ【安達太良神社】福島県:安達郡/本宮町/本宮村
日本歴史地名大系
霊二神(俗に宇奈明神)とを合祀し、安達太良明神と称し、安達郡の総鎮守として奉祭したという。「日本紀略」寛平九年(八九七)九月七日条によると陸奥国の「飯豊別神」「
26. あだたらやま【安達太良山】福島県:総論
日本歴史地名大系
連峰とその裾は二本松市・安達郡大玉村・郡山市・福島市・耶麻郡猪苗代町にまたがる。古代には「安達嶺」(日本紀略)・「安太多良の嶺」(万葉集)などとよばれていたよう
27. あだちぐん【安達郡】福島県
日本歴史地名大系
ている。これは安達太良山が神のすむ山、霊山として山麓住民の信仰を集めていたためと解される。「日本紀略」寛平二年(八九〇)閏九月一五日条および同九年九月七日条によ
28. あつたじんぐう【熱田神宮】愛知県:名古屋市/熱田区/宮宿
日本歴史地名大系
弘仁一三年(八二二)熱田の神に従四位下を授けられ、以後、累進して康保三年(九六六)までに正一位に昇っている(日本紀略)。「延喜式」神名帳には「熱田神社名神大」と
29. あてるい【阿弖流為】
日本架空伝承人名事典
悪路王伝説と鹿島信仰のつながりについては不明である。 悪路王伝説はさておき、『続日本紀』や『類聚国史』『日本紀略』などは、八〇二年(延暦二一)八月に坂上田村麻呂
30. あまたぐん【天田郡】京都府
日本歴史地名大系
主基の斎田が設けられる。天田郡内に主基が卜せられた文献上の初見は寛和元年(九八五)であるが(日本紀略)、寛弘八年(一〇一一)にも再び主基にあたっている(「御堂関
31. あまたけかなかやじんじゃ【天健金草神社】島根県:隠岐郡/都万村/都万村
日本歴史地名大系
「健金萱神」として正四位下、天慶三年(九四〇)九月四日には従三位にそれぞれ叙された(ともに「日本紀略」)。延喜六年(九〇六)当社の託宣があり、新羅の賊船が数艘北
32. あまみ【奄美】鹿児島県:総論
日本歴史地名大系
小右記」同年一〇月一日条)。これを受けて大宰府から南蛮の追捕が貴駕島に命じられているので(「日本紀略」同四年九月一四日条)、「奄美島」は必ずしも個別島名ではなく
33. あららごう【安良郷】大阪府:摂津国/西成郡
日本歴史地名大系
推定されている。「新撰姓氏録」(摂津国諸蕃)に荒荒公がおり「任那国豊貴王之後也」と称する。「日本紀略」延喜三年(九〇三)五月一九日条に、摂津国荒荒神に従五位下を
34. あわいじんじゃ【粟井神社】香川県:観音寺市/粟井村
日本歴史地名大系
神社は現在境内末社)。この杉尾神社を延喜六年(九〇六)二月七日に従五位下を授けられた苅田神(日本紀略)とみる考えもある。当地は古代苅田郡紀伊郷(和名抄)に属して
35. あわうし【阿波牛】
国史大辞典
阿波では古くから牧牛が行われていたようで、『日本紀略』に正暦二年(九九一)、時の摂政藤原道隆が阿波国牛五頭を召した記事がある。これが阿波牛の名が史上に現われる
36. あわじのくに【淡路国】兵庫県
日本歴史地名大系
小野好古の率いる官軍と筑前博多津で戦って惨敗し、翌月伊予国で捕らえられて殺され、乱は終息した(「日本紀略」同年五月一九日条、「本朝世紀」同年七月二七日条など)。
37. あわたやま【粟田山】京都市:東山区/粟田口村地図
日本歴史地名大系
こそ思へ (夫木抄)などの歌があり、粟田口の名とともに、都人に旅情を誘う地名であった由が知られる。「日本紀略」天暦三年(九四九)五月二二日条には「近曾粟田山路、
38. あわのくに【安房国】千葉県地図
日本歴史地名大系
このとき安房守藤原光業は印鑰を捨てて上洛し(日本紀略)、忠常の伴類、安房国を掠領すと報告している(応徳元年皇代紀)。安房守の後任には平正輔が任じられたが(日本紀
39. あんじょう‐へい[アンジャウ‥]【案上幣】
日本国語大辞典
〔名〕「あんじょうかんぺい(案上官幣)」に同じ。*日本紀略‐長元三年〔1030〕一二月一〇日「初奉〓月次祭案上幣於大原野社
40. 安和の変
日本大百科全書
わりして密告したという。朝廷内の騒動は、承平じょうへい・天慶てんぎょうの乱のようであったと『日本紀略』に伝え、師尹が主謀者と『歴代編年集成』にある。高明は出家し
41. あんなのへん【安和の変】
国史大辞典
の子孫を教戒せよとの官符が下された。一方、満仲らは密告を賞して位階を進められている。以上が『日本紀略』にみえる経過の概要で、一時は禁中の騒動は天慶の大乱のようで
42. あんらくりついん【安楽律院】滋賀県:大津市/北部地域/延暦寺/横川飯室谷
日本歴史地名大系
[現]大津市坂本本町 横川飯室谷に属し、飯室不動堂の北方、安楽谷とよばれる地に位置し、もと安楽院と称した。「日本紀略」天暦元年(九四七)三月二六日条に天台安楽院
43. いいとよわけじんじゃ【飯豊和気神社】福島県:郡山市/旧三穂田村地区/下守屋村
日本歴史地名大系
近世には妙見社とも称され、安積郡三社の一として安積郡・岩瀬郡・白河郡の人々の信仰を集めた。「日本紀略」寛平九年(八九七)九月七日条に「授陸奥国坐正六位上飯豊別神
44. いがかんべ【伊賀神戸】三重県:上野市/上神戸村・下神戸村・上林村
日本歴史地名大系
国司が伊賀神戸の御酒田一町を刈取って神戸預に訴えられ、さらに神民殺害に発展してのことであった(「日本紀略」「百錬抄」各同日条など)。事件の背後には神民の出作活動
45. いきぐん【壱岐郡】長崎県
日本歴史地名大系
寛平七年(八九五)壱岐島の官舎などが討賊のためにことごとく焼亡させられたことを大宰府が言上したというが(「日本紀略」同年九月二七日条)、この討賊は新羅の賊であり
46. いきのくに【壱岐国】長崎県
日本歴史地名大系
寛平七年新羅の賊によって「壱岐島官舎」などがことごとく焼亡したと大宰府が報告したとされるが(「日本紀略」同年九月二七日条)、これは編年の誤りで、同六年の対馬来寇
47. い‐ぎょ【移御】
日本国語大辞典
御新宮〓」*日本紀略‐寛平九年〔897〕七月二六日「皇后今夜出
48. いくたじんじゃ【生田神社】兵庫県:神戸市/中央区/生田宮村
日本歴史地名大系
祈るために奉幣されている(同書)。応和三年(九六三)七月一五日にも祈雨のため奉幣されている(日本紀略)。貞観一〇年七月八日大地震が播磨で起き、その後も小規模の地
49. いさわぐん【胆沢郡】岩手県
日本歴史地名大系
中心とした諸国から浪人四千人が胆沢城に配置されているが、そのなかに下野・上総も含まれているので(日本紀略)、白河・常口も含めて、これら移住者に関連する郷と考えら
50. いさわじょう【胆沢城】
国史大辞典
平安時代前期東北経営のために営まれた城。遺跡は岩手県水沢市佐倉河にある。『日本紀略』によれば、延暦二十一年(八〇二)正月条に従三位坂上大宿禰田村麻呂をつかわし
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