はやがて師輔・道長の一流に限られ、その盛世が道長・頼通の時代である。この天皇と摂
との協力政治を「魚水合体」の政とよぶ。次にこの外戚関係の喪われたところに院政が生まれる。院政においては院の近臣の進出によって天皇と摂
とが阻隔される。ここに政治が破綻し保元の乱が胚胎する。この乱によって武士が政治上に勢力を築く。これ以後を武者の世とし、本書はこの武者の世をえがくことを第一の問題としている旨をここで明記する。乱勃発までの経緯およびそれ以後の記述は、それ以前に比して詳細・具体的で迫力が加わってくる。事件当局者・責任者、および目撃者などの記録や見聞、世人の噂の類をも極力あつめて記述の正確を期しており、宮中・政界の機密、遠隔の地の報告・伝聞にも広く注意をくばり、したがって他書に求められぬ秘事や伝えも多くなり、史料としても重要さを増してくる。著者が名を匿していることもこれに関連するかと思われる。保元の乱後、武士の力は直ちに王法と摂
とを圧する。平清盛の専権、源義仲の粗暴、そして帝王の入水など、未曾有の事態が相つぎ、武士は王法の反逆者と観られる。しかし、源頼朝の力によって天下の秩序が回復されると、武士は見直され、かえって朝家の守りと観られるようになる。ことにこの思想的転機となったのは平氏滅亡の際の三種神器の一たる宝剣の喪失問題であった。武士は今や宝剣に代わる朝家の守りであり、したがって剣は不要な時代が到来したのであるとされる。したがって、朝廷は武士を憎むことなくかえってこれにわが国の政治の中にその席を与うべきであるとした。これを文武兼行という。魚水合体・文武兼行は偶然的なものでなく、実は皇室・藤原氏・源氏の守護神たる天照大神・天児屋根命・八幡大菩薩の約諾による予定計画にもとづくものとされる。しかして、建保六年(一二一八)には、九条家を外戚とする懐成親王(仲恭天皇)の立太子、九条道家の左大臣就任、また翌承久元年(一二一九)には、関東に道家の子三寅(頼経)の将軍継承者としての下向の実現を見た。慈円には、これは、九条家をめぐっての、魚水合体・文武兼行の政と思われた。そして同時に現在における王法のあるべき姿の復帰の兆であった。この明るい見通しの生まれた時点で本文の叙述を終えている。第七巻付録は日本史の総論であり、歴史の全体を一つの「道理」が貫いているという史観を詳細に展開する。この思想は本文の叙述の中で史実の解釈法として終始用いているが、ここであらためて、日本の歴史を七段階に分け、道理が純粋に行われている時代から、全く喪われる時代に至ったとしている。しかし道理は本来、下降だけでなく、上昇の方向もあり、悪を排除したものではなく、僻事をも含んだものであることを力説している。この道理の語は随所に繰り返しあらわれてくるが、常に異なった複雑な説明がなされる。かくて、歴史は道理や神意などに定められた、あらがいがたい運命的なものとされるが、他方なお、人間の器量や心術・行為の善悪によっても左右し得る余地を認めている。したがって道理を悟ってこれに従うことが大切とされ、これを説くことが本書の使命の一つである。すなわち当時の朝廷の対武家政策に警告するための時務策の意味ももっていた。特に当時幼少であった懐成親王や三寅の将来の参考に備えるの期待も含めていたと考えられる。仮名で書き、平易な日常語を用いているのもそのためでもあったとも想定される。がそれは日本人は当然日本字・俗語を以て書くべきだとの平生の主張の実現でもある。しかし今日からは耳遠い詞もあり、またよい古写本多からず、仮名も本来、片仮名・平仮名いずれであったか不明で、かたがた本文の校訂はなお不充分である。本書の成立年代は、古来、問題とされ、諸説相つぎ、批判と論争が繰り返されてきている。この問題は本書の性格、その著作目的などと深く関連しており、特に承久の乱の前後のいずれにおくかに問題の焦点がある。早く江戸時代に伴信友がその著『比古婆衣』にこれを論じて承久の乱直後の貞応年間(一二二二―二四)ごろとしている。大正年代に入って、津田左右吉は本書の内容にもとづいて承久の乱後説をとなえた。が大正十年(一九二一)に、三浦周行が新たに発見した慈円の書状によって、本書の著者が慈円であることを確認したに伴って、本書の成立の年次を承久二年として承久の乱前説を新たに提唱、「皇帝年代記」には追記あることを指摘した。津田はさらにこれを批判して、乱前成立ならば当然想定さるべき時務策がみられない点を強調して再び乱後説を主張した。これに対して村岡典嗣は記事内容は承久元年までであることを論証しつつ執筆は承久二年説をとって三浦説を支持した。ついで赤松俊秀は慈円自筆願文によって承久二年説をとって乱前説を主張。友田吉之助は貞応元年説によって乱後の作とした。が塩見薫は慈円の行実と本書の本文との検討によって赤松説に賛成し、石田一良は承久元年説をとった。本文は乱前・乱後説に対立しているが「皇帝年代記」の追記については諸説大体一致している。『(新訂増補)国史大系』一九、『日本古典文学大系』八六、『岩波文庫』『大日本文庫』、いてふ本などに収められている。鎌倉時代初頭の歴史書。7巻。慈円著。《愚管抄》は内容からみて3部に分けることができる。第1部は〈皇帝年代記〉と題される部分で,巻一,二がそれに当たり,神武から後堀河までの歴代天皇の摘要と,治世の主要な事項を列挙する形をとっている。それに対して,第2部は神武天皇以来の日本国の歴史を叙述し,道理の推移を読み取ろうとした部分で,巻三~六がそれに当たる。さらに第3部は道理を基準とした歴史の総論で,巻七がそれに当たる。以上のように《愚管抄》は複雑な構成を持ち,かたかなまじりの特異な文章で書かれている。現在までの研究によると,慈円はまず第2部を書き,第3部から第1部へと進み,一応の完成をみたのが1221年(承久3),承久の乱の直前であったが,乱後になって第1部の末尾に2度の加筆をして,現在の形にしたと考えられる。また,別に比叡山の歴史を記した巻があったと思われるが現存しない。
《愚管抄》の歴史書としての特色は,まず第1に,歴史の推移の中に道理の顕現を見ようとしたところにある。慈円は歴史の流れを凝視し,独自の時代区分を試みている。第2に,慈円が生きた時代,つまり貴族社会が大きく変わり,武家の政権が成立した時代の歴史がよくとらえられていることがあげられる。第2部の叙述の5分の3は,慈円の同時代史にあてられているが,摂関家に生まれ,天台座主(ざす)となり,和歌や祈禱によって後鳥羽院にも近く,親幕派を代表する公家であった同母兄九条兼実を通じて鎌倉の動静にもくわしかった慈円は,鎌倉時代初頭の錯綜した歴史を身近に,しかも多面的にとらえうる希有(けう)の人物であった。そして第3に,九条家を中心に公家政権と武家政権との調和を実現させようと望み,そのために討幕の動きを牽制しようとした慈円の立場が,その歴史観の根底にあり,歴史の叙述や解釈の中に,当時の公家の政治思想をさまざまに読み取ることができる点があげられる。
」*愚管抄〔1220〕三・冷泉「昔は徳有る人のうせたるには、挙哀といひて集まれる人、声をあげて哀傷するこ ...
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