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吾妻鏡

ジャパンナレッジで閲覧できる『吾妻鏡』の日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

吾妻鏡
あづまかがみ

鎌倉幕府が編纂 (へんさん)した幕府自身の歴史書。東鑑とも書く。巻数未詳(現存部分は、欠巻1巻を含め52巻)。将軍ごとの編年体の形をとり、1180年(治承4)以仁王 (もちひとおう)、源頼政 (よりまさ)の挙兵から、1266年(文永3)前将軍宗尊 (むねたか)親王の京都送還までを扱う。中間10年分が見当たらない。散逸したものか、もともと編纂されずに未完成の書物であったかは未詳。現存部分だけでも、六国史 (りっこくし)中もっとも多い『日本三代実録』をしのぐ分量である。13世紀末か14世紀初頭に編纂されたと考えられる。その日のできごとを鎌倉で記録するという、日記体の文体であるが、各種の史料を使って編纂したもので、当時の日用文体の集大成ともいえる。中世の変則的な漢文体を吾妻鏡風文体とよぶゆえんはここにある。記事の内容は、幕府や御家人 (ごけにん)の動静が中心で、朝廷、貴族、寺社の記事は、幕府と関係しない限りみられない。また御家人関係の事柄でも、京都や西国で起こった場合、欠けていることが多い。このことは、編纂時に史料が得られなかったためと考えられる。したがって、他の書物などによる知識を補いながら、幕府の歴史を考える必要がある。編纂の時期が、すでに北条氏得宗 (とくそう)家の専制期に入っているため、北条氏をはばかる記述もあることに注意が必要である。しかし、鎌倉幕府の通史として研究に不可欠の文献である。原文は『新訂増補 国史大系』に収められているほか、何通りかの刊本があり、書下し文には『全訳吾妻鏡』(人物往来社)がある。

[益田 宗]



世界大百科事典

吾妻鏡
あづまかがみ

東鑑とも書く。鎌倉幕府が編纂した幕府の歴史書。巻数未詳。後世52巻と訛伝。編年体で,各将軍ごとにまとめられる。13世紀末~14世紀初頭の編纂。ただし完成したかどうか不明。1180年(治承4)以仁王・源頼政の挙兵に起筆し,1266年(文永3)6代将軍宗尊親王送還までを扱う。日記体をとるが,種々の史料を収集して,後に編纂した書物である。その編纂の仕方は,収集した史料を年月日順に貼り継ぎ,これに編纂者が筆を加えるという,伝統的な編修方法によっているため(これを抄録,切貼り細工と呼ぶ),同時代のいろいろな文体が収録される結果となり,このため鎌倉時代前後の和風変体漢文を指して,吾妻鏡体と呼ぶ。記事は,戦乱以外は将軍の居所(多くは鎌倉)を中心にし,他所でのできごとは,伝令によって聞くという形をとる。幕府に関係を及ぼさない事柄は,たとえ朝廷の重事であっても記載されず,また幕府や幕府の御家人に関係する事柄であっても,京都や西日本の場合は,《吾妻鏡》に見あたらないことが多い。おそらく史料収集にある限界があったからであろう。また編纂時期が北条氏得宗家の専制期に入っているため,北条氏を意識して筆を曲げた部分もある。中間に10年分の欠落があるが,この部分が編纂されていたかどうか不明。江戸時代には,この部分に幕府要人の死去があたるため,種々憶測する好事家もでたが,実証性に乏しい。《吾妻鏡》は後世散逸したらしく,戦国武将は治国の資にしようとして,不足の年代を諸方から補おうと努力している。とくに徳川家康は,長年月をかけて《吾妻鏡》の収集にあたり,ついに目録を含む51冊を1605年(慶長10)出版して普及に努めた。この目録では巻四十五が存在したことになっているが,現存しない。また目録では全52巻となっているが,欠落年代を無視して順次巻数をつけているから,編纂者自身の目録ではあるまい。《国史大系》所収。近時,読下し文に書き改めた《全訳吾妻鏡》が出版された。
[益田 宗]

[索引語]
東鑑 吾妻鏡


国史大辞典

吾妻鏡
あずまかがみ
鎌倉幕府の創始期から中期までの事蹟を、幕府自身で編纂した歴史書。『東鑑』とも書く。

〔編成〕

治承四年(一一八〇)源頼政挙兵に始まって、文永三年(一二六六)六代将軍だった宗尊親王の帰京で終る編年体。完成した書物か未完のままか不明だが、中間十二ヵ年分が見あたらない。応永十一年(一四〇四)書写の『吾妻鏡目録』では、全体を五十二巻としている。しかし、この目録には記載されていない一巻三ヵ年分(嘉禄元年―安貞元年)が別に現存しているから、五十二巻というのも、本来の巻数を示すものではない。各巻は、将軍ごとに纏められた将軍の実録・実紀の形をとるのを原則とする。和田英松・八代国治の研究によれば、さらに前半部、源氏将軍時代三代と、後半部、藤原氏将軍および宗尊親王将軍時代の三代とに分けて成立したという。この見解は、本書のいろいろの問題に関係してくるものであるから、二部に分かつ蓋然性があるかどうか、今一度あらためて検討しなおす必要がある。

〔成立〕

二部に分ける説では、前半部は文永年間(一二六四―七五)、この後、蒙古来襲があったり、その戦後の処理のためなどで、編纂が一時中断され、後半部が正応―嘉元年間(一二八八―一三〇六)に編纂されたとする。前後二部に分ける蓋然性がないとすれば、十四世紀初頭の成立とみることができる。

〔体裁と文体〕

記事は、将軍のいる鎌倉でその日その日の出来事を書記するという、日記体をとってはいるが、実際は、編纂者が種々の材料を駆使して後に編纂したものである。その文体は、吾妻鏡体と呼ばれている当時の代表的日用文体で、漢文体が著しく崩れた和風漢文体である。

〔編纂の材料〕

編纂に用いられた材料のうち、今日残っていてそれと指摘されている書物には、京都の公家の日記として九条兼実の『玉葉』や藤原定家の『明月記』、鎌倉に下り将軍に近侍した公卿飛鳥井教定の日記、延暦寺の記録である『天台座主記』や、『平家物語』『源平盛衰記』『金槐和歌集』『六代勝事記』『海道記』などの文学作品がある。また伝来の古文書を幕府に提供したであろうと推定されている寺社に、高野山・東大寺・鶴岡・箱根・三嶋・走湯山などがある。このほか、御家人の家伝の古文書や由来書があり、幕府の政所・問注所等の記録文書など、散逸した書物や文書を含めると、その材料は厖大なものであったと思われている。

〔材料の掲載〕

吾妻鏡』は、鎌倉を中心点として書くものであるから、源平の合戦の場合や、将軍が上洛したり他所へ下向した場合を除いては、体例として、材料をそのまま掲げずに、すべてこれを鎌倉で見聞記録したことにして掲げる。したがって編纂の材料は、鎌倉以外の出来事であれば、実際の日より少しずらせた日に、「(某)参着云」とか、「(某)使者申云」という形式で載せられている。

〔採訪の内容〕

編纂の材料を求めてどのような方法で採訪がなされたか、今日具体的なことはわかっていない。全国的な調査をしたものでないことは事実である。また一つの所でも、徹底して材料を求めたのでもない。たとえば『明月記』などは、六十年の長歳月の日記の記事から、わずか十数年分を披見したとしか思われない。これは、記主定家と将軍源実朝との歌道の師弟関係・交友関係から、この時期に限って採訪したことに起因するようである。幕府や将軍家と特別な関係がない公卿や寺社などからは、材料を採訪することはなかったようである。このことは本書の編纂者が、幕府の事蹟以外のものまで含めた歴史を編纂する意図をはじめからもたなかったことによると思われる。

〔史料としての限界〕

(一)記事が幕府関係に限られているから、朝廷や非御家人間で起った事柄は、幕府との関係がない限り記録されていない。幕府・御家人関係でも京都・西国に惹起した事柄の記事がほとんどないことも注意されてよい。(二)書物としての体例・体裁を整えるための作為や制約がある。(三)編纂の不手際で掲載すべき年月を誤った箇所がある。(四)偽文書や史料的価値の低い記事を採録している。(五)編纂時の幕府の政情を反映した表記上の改竄がある。(六)政治的な大事件に曲筆隠蔽の跡がある、等々。幕府の創始期の政治・法制・合戦・行事・風俗などの記事のなかには、史料的に確たる材料があって書かれたものではなく、編纂時における知識によって、溯及させて書いている場合もある。したがって、原材料の批判に先立って、原材料と編纂者の文章(地の文)とを峻別することが必要である。しかし、これら本書の短所は、短所なりに価値をもつものであって、必ずしも本書の価値を低めるものではない。一世紀に近い年月を扱った大編纂物である本書は、鎌倉幕府の研究にはもとより、武家社会の解明に欠くことのできない書物である。

〔伝本とテキスト〕

伝本について注意しなければならないことは、近世以前に完本に近い形で揃って伝わった写本は皆無であったという事情である。二十余年にわたって不足分を求めた吉川本の功労者右田弘詮の跋文、島津本・毛利本・北条本などの足入れや補写の実態が、不足の巻冊を揃えようとする人々の努力を示している。しかも、本書には、これらの諸本以前に、何人かによって省略された本が作られ、さらにこれを一部簡略にした本が成立するという、伝来系統も辿ることができる。したがって、人々の努力は、こういった性格の本が巻冊によって入り交じるという結果をもたらしてしまった。徳川家康も本書を愛読し、伝本の蒐集に努めた人である。その所持本と新たに黒田長政から贈られた北条氏直旧蔵本とを合わせ、今日いうところの北条本五十一冊を作り古活字版にして出版させた。江戸時代の版本のもとである。明治以降も、『続国史大系』はこの北条本を底本にとっているし、『(新訂増補)国史大系』でも同様である。明治の末年に吉川本が紹介され、ついで島津本も紹介された。これらは『(新訂増補)国史大系』の校定に用いられているから、今日、この版を使うことによって、本書をほぼ原本文に近い形で読むことができる。ただし、底本の北条本が、いわゆる再省略本を多く含んでいるため、この本に加えられた補筆や改訂が本文化し、またこれを訝る校定者が本文に意改を加えたため、細部については問題が残る。『吾妻鏡』の体裁や編成、暦日干支などについては、この点を充分注意する必要がある。吉川本は、国書刊行会から出版されている。ほかに『日本古典全集』や『岩波文庫』(竜粛訳注、未完)のものもある。

〔研究〕

別掲八代国治の研究が綜合的なものである。和田英松の研究は、成立、編纂者、編纂の材料や史料としての本書の批判にも及んでおり、八代の研究に扱われているものも少なくないが、独自の指摘に、今日傾聴すべきものもある。
[参考文献]
八代国治『吾妻鏡の研究』、和田英松「吾妻鏡古写本考」(『国史説苑』所収)、益田宗「吾妻鏡の本文批判のための覚書き」(『東京大学史料編纂所報』六)、同「吾妻鏡の伝来について」(「中世の窓」同人編『論集中世の窓』所収)、石田祐一「吾妻鏡頼朝記について」(同)
(益田 宗)
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日本史年表
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7. 吾妻鏡(あづまかがみ)
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8. 吾妻鏡(著作ID:10719)
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10. 吾妻鏡(あずまかがみ)
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吾妻鏡
11. 吾妻鏡抜書(著作ID:1927759)
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12. 吾妻鏡要目集成(著作ID:83385)
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13. 吾妻鏡要目抄(著作ID:588794)
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14. 吾妻鏡類標(著作ID:607283)
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15. あずまかがみたい【吾妻鏡体】
国史大辞典
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16. 男達吾妻鏡(著作ID:297870)
新日本古典籍データベース
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17. あいこうぐん【愛甲郡】神奈川県
日本歴史地名大系
、この相模森が、のちの毛利庄に比定される。「延喜式」神名帳には小野神社(現厚木市)が載る。「吾妻鏡」養和元年(一一八一)正月一八日条に「相模国毛利庄住人僧印景云
18. あいこうむら【愛甲村】神奈川県:厚木市地図
日本歴史地名大系
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19. あいさくて‐ぶぎょう[あゐサクてブギャウ]【藍作手奉行】
日本国語大辞典
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20. あいさくてぶぎょう【藍作手奉行】
国史大辞典
藍の作付・栽培を管掌する役職。『吾妻鏡』暦仁元年(一二三八)五月十一日条に、坂上左兵衛尉明胤がその亡父明定より相続した遺領のなかに、石見国長田保・播磨国巨智荘
21. あいざわはら【藍沢原】静岡県:駿東郡
日本歴史地名大系
沢に作る。富士と足柄の間にあるを以て間沢と云」とある。藍沢は愛沢・合沢・遇沢などとも書く。「吾妻鏡」の文治元年(一一八五)二月一六日条に「今日、武衛歴覧山沢之間
22. あい‐そく【愛息】
日本国語大辞典
〔名〕愛する子息。かわいいむすこ。ふつう、他人のむすこについていう。*吾妻鏡‐治承四年〔1180〕一一月二六日「彼老母 武衛御乳母也 聞
23. 英多保
世界大百科事典
英多郡英多郷が荘園化したものらしい。〈あがたのほ〉とよむこともある。平安後期には六勝寺の一つ尊勝寺の寺領で,《吾妻鏡》文治3年(1187)8月8日条によれば,年
24. あいたほ【英多保】岡山県:英田郡/作東町
日本歴史地名大系
史料上で楢原郷(現美作町)と一括されることや、河北がみえるので、現作東町西部の吉野川右岸一帯に推定される。「吾妻鏡」文治三年(一一八七)八月八日条に尊勝寺(跡地
25. あいだぐん【英田郡】岡山県
日本歴史地名大系
神社(現京都市東山区)に寄進され、室町中頃には幕府御料所になっている。林野保(現美作町)は「吾妻鏡」文治三年(一一八七)条に尊勝寺領とあり、室町期には京都北野社
26. あいちぐん【愛知郡】愛知県
日本歴史地名大系
承久の乱が起きると、山田庄の実力者山田重忠はじめ尾張源氏の大部分が京都方に属して幕府の軍に敗れ(吾妻鏡、承久記)、その後、那古野庄も所領争いを生じて荘園はしだい
27. あい‐の‐おんつかい[あひのおんつかひ]【合御使】
日本国語大辞典
〔名〕御使のうち、正使に対して副使をいう。*吾妻鏡‐文治三年〔1187〕八月三〇日「有〓疑貽
28. あいのやま【間山】三重県:伊勢市
日本歴史地名大系
いる。「太神宮諸雑事記」の治暦四年(一〇六八)九月の条に「宇治岡之東、字陽田片岸」とあり、「吾妻鏡」の治承五年(一一八一)一月五日条に「江四郎経
29. あいひろ‐の‐うまば[あひひろ‥]【相広馬場】
日本国語大辞典
(あずち)と馬を走らせる疏(さくり)との間の広い馬場ともいう(武家名目抄{19C中か})。*吾妻鏡‐寿永元年〔1182〕六月七日「積〓此杖数
30. あいみぐん【会見郡】鳥取県:伯耆国
日本歴史地名大系
賞する綸旨(相見家文書)を与えられた。一方紀氏本流は、紀成盛の子とされる「海大成国」が捕らえられたという「吾妻鏡」建久元年(一一九〇)六月二七日条の記事を最後に
31. あい‐もよお・す[あひもよほす]【相催】
日本国語大辞典
〔他サ四〕(「あい」は接頭語)せきたてて集める。*吾妻鏡‐貞応二年〔1223〕一〇月四日「駿河守相〓催人々
32. あい‐やけ[あひ‥]【相舅・相親家】
日本国語大辞典
あいおや。しゅうと同士。また、配偶者を介して義理の兄弟になる者同士の関係。あいむこ。あいよめ。*吾妻鏡‐仁治元年〔1240〕四月二五日「被
33. あおうむら【粟生村】茨城県:鹿島郡/鹿島町
日本歴史地名大系
西は谷津田を境に木滝村。鎌倉初期、常陸大掾氏一族の鹿島三郎政幹は神宮惣追捕使職に任ぜられ(「吾妻鏡」治承五年三月一二日条)、当地に居住したといわれ、文永三年(一
34. あお‐おんな[あををんな]【青女】
日本国語大辞典
〔名〕(1)年が若く、世なれない女。また、宮仕えをしない普通の女。*吾妻鏡‐治承四年〔1180〕一一月一〇日「以〓武蔵国丸子荘
35. あおきし【青木氏】画像
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家と、新里恒房の子真直から始まる家とがあるが、入間郡青木の地を領して家名としたのであろう。『吾妻鏡』建久元年(一一九〇)十一月七日条、源頼朝上京中の随兵として記
36. あおきし【青木氏】 : 青木氏/(一)
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37. あお・ぐ[あふぐ]【扇・煽】
日本国語大辞典
座了、此間寒風頻扇、殿上燈消了」*吾妻鏡‐嘉祿三年〔1227〕五月一日「自
38. あお‐ぐろ[あを‥]【青黒】
日本国語大辞典
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39. あおさぎ‐かすげ[あをさぎ‥]【青鷺糟毛】
日本国語大辞典
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40. あおさぎ の 羽(は)
日本国語大辞典
矢羽(やばね)の一種。青鷺の羽で、狩猟用の鏑矢(かぶらや)に用い、箙(えびら)のうわざしにする。*吾妻鏡‐建久元年〔1190〕九月一八日「以
41. あおしまのしょう【青島庄】山梨県:西八代郡
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本貫地とみられる浅利郷(現豊富村)内の領有、鎌倉初期における甲斐源氏浅利氏の奥州合戦などでの活躍(「吾妻鏡」文治五年七月一九日条など)、戦国期の比内地方の豪族浅
42. 青砥藤綱
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時代に評定衆ひょうじょうしゅうとして活躍したことが『弘長記こうちょうき』に記されているが、『吾妻鏡あづまかがみ』『関東評定衆伝』には藤綱の名はみえない。数十か所
43. 青砥藤綱
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知行した。その質素廉直な評定衆としての政治姿勢について数々の逸話を残すが(《弘長記》《太平記》),《吾妻鏡》等の幕府関係の記録にまったくあらわれず,その実在につ
44. あおとふじつな【青砥藤綱】
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続松(たいまつ)を五十文で買い求め、これを探し得た話など(『太平記』)の逸話が名高いが、『関東評定衆伝』『吾妻鏡』をはじめ鎌倉幕府関係の記録には青砥左衛門尉藤綱
45. あおとふじつな【青砥藤綱】
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知行した。その質素廉直な評定衆としての政治姿勢について数々の逸話を残すが(『弘長記』『太平記』)、『吾妻鏡』等の幕府関係の記録にまったくあらわれず、その実在につ
46. あおはかしゅく【青墓宿】岐阜県:大垣市/旧多藝郡・不破郡地区/青墓村
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保元の乱後斬られた源為義の子、乙若・亀若・鶴若・天王丸の母は青墓宿の長者の女であった(「保元物語」、「吾妻鏡」建久元年一〇月二九日条)。平治の乱に敗れた源義朝は
47. あおはかのしゅく【青墓宿】
国史大辞典
古代末期から中世にかけての東山道の宿駅。青波賀(『吾妻鏡』)・遭墓(『尊卑分脈』)とも書く。現在の岐阜県大垣市青墓で、不破関の東約一〇キロにあたる。『吾妻鏡』建
48. あお‐ぶち[あを‥]【青駁】
日本国語大辞典
〔名〕馬の毛色の名。白の地に黒の斑(ぶち)のあるもの。*吾妻鏡‐建久二年〔1191〕八月一八日「一疋 青駮 武田五郎進」
49. あおみごう【青海郷】新潟県:越後国/蒲原郡
日本歴史地名大系
沼垂町(現新潟市)の南に鐙・近江新田・近江山・近江沢の地名が残り、ともに青海に近いので郷名の遺称地かとする。「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月一二日条所載の関東
50. あおもりし【青森市】青森県
日本歴史地名大系
の一つをなしている。平泉(現岩手県西磐井郡平泉町)の藤原氏の影響が外ヶ浜にまで及んだとする「吾妻鏡」文治五年(一一八九)九月一七日条の記事や、同書建久元年(一一
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野白内証鑑一之巻目録自分の行状の弁解をした野郎の話秘密の色遊びはばれたが、始めより末に至って情勢が好転した野郎の大臣。その相手は羽ぶりのよい撞木町の女郎。悪性をささやいてすすめる耳塚の駕籠屋。客に肌を見せない白人の話 外面は菩薩のようだが内情は
豊後国風土記(日本古典文学全集)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。

豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
魯迅 その文学と革命(東洋文庫)
中国近代文学の父であり,偉大な思想家でもある魯迅は,知識人としての苦悩のなかで,中国の「寂寞」を見つめ,自らをも傷つける「革命」を志向する。著者会心の魯迅伝。1965年07月刊
論語徴(東洋文庫)
秦・漢以前の古文辞に対する確固たる自信から孔子の言論を読みとく,論語の注釈のなかでもっとも論争的な注釈書。卓抜した孔子論を展開するとともに,徂徠自身の思想も開陳する。第1巻は,学而,為政,八佾,里仁,公冶長,雍也,述而,泰伯。1994年03月刊
近世和歌集(日本古典文学全集)
年内立春 去年と今年の二本の緒で縒り合わせて掛けて同じ年が一本にまとまらないように、こんがらがってなかなか理解できない春はやって来た。やや趣向倒れの感がある。長嘯子としては機知を働かせたのだろうが。鶯 軒端の梅が咲いていて、一晩中鶯の到来を
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