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  11. 徳川実紀

徳川実紀

ジャパンナレッジで閲覧できる『徳川実紀』の日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

徳川実紀
とくがわじっき

初代家康 (いえやす)以来10代家治 (いえはる)に至る徳川将軍の実録。本編には編年体で歴代将軍の政治的業績を収録し、付録にはその嘉言 (かげん)・善行を集め記す。本名は『御実紀』で、『徳川実紀』は俗称。「東照宮(家康)御実紀」のほかは歴代ごとに諡 (おくりな)を冠して、「台徳院殿 (たいとくいんでん)(2代秀忠 (ひでただ))御実紀」などと題をつけた。大学頭 (だいがくのかみ)林衡 (たいら)(述斎)総裁のもと、成島司直 (なるしまもとなお)が執筆、1809年(文化6)に稿をおこして1843年(天保14)に正本、1849年(嘉永2)に副本が完成。本編447冊、付録68冊、ほか成書例・総目録・引用書目1巻を加えて総計516冊。日本では『文徳 (もんとく)実録』『三代実録』を、中国では唐の『順宗実録』や明 (みん)朝・清 (しん)朝の実録を模範とした。達意の仮名交じり文で記述は正確だが、将軍の事績を褒めすぎたのが欠点。その続編が『続徳川実紀』で11代家斉 (いえなり)から15代慶喜 (よしのぶ)に及ぶ。ただし家斉・家慶 (いえよし)2代だけが整備、他の3代は史料を配列、綱文をつけたにすぎない。編修の体は正編に同じ。編修は1870年(明治3)まで続行された。黒板勝美監修『新訂増補 国史大系』(正38~47、続48~52)に所収。

[宮崎道生]2016年4月18日

世界大百科事典

徳川実紀
とくがわじっき

江戸時代の史書。江戸幕府編纂。516冊(本編447冊,付録68冊,成書例・総目録・引用書目1冊)。大学頭林述斎を総裁とし,成島司直(もとなお)を主任格に20名余の編纂員で撰述し,1809年(文化6)起稿,43年(天保14)に完成。正本献上につづいて副本が作成され,49年(嘉永2)に完成。副本には出典を注記し,林韑(あきら)(復斎),成島良譲(筑山,稼堂)らが従事した。徳川家康から10代家治までの将軍の実紀で,一代ごとに将軍の言行,逸事などを叙述した付録を付してある。各代の将軍の巻は《東照宮御実紀》《台徳院殿御実紀》のように廟号で表題とし,総称して当時は《御実紀》と称した。《徳川実紀》《徳川家実紀》の名称は明治以後に付されたものである。編纂の方針は,巻頭の御実紀成書例に細叙されているが,幕府はもちろん,各藩との動静も記され,近世史研究の重要史料の一つである。家斉以後も編纂を続行したが成書に至らず,史料のみまとめられた(《続徳川実紀》)。正編,続編ともに《新訂増補国史大系》に収められている。
[山本 武夫]

[索引語]
林述斎 成島司直 林韑(あきら) 林復斎 御実紀 徳川家実紀 続徳川実紀


国史大辞典

徳川実紀
とくがわじっき
初代徳川家康より第十代家治までの江戸幕府将軍の事歴を中心に叙述した史書。第十一代家斉から第十五代慶喜までは『続徳川実紀』と通称されている。江戸幕府撰。巻数は「御本編四百四十七冊、御附録六十八冊、成書例・総目録・引用書二冊、通計五百十七冊」(総目録末尾に記され、献上本の冊数)で、通し巻数はない。献上本に題された本書の総称は『御実紀』で、この総称は編集方針評議の段階で定められた。『徳川実紀』という呼称は明治以後のものである。各編の内訳は、
家康 『東照宮御実紀』十巻附録二十五巻
秀忠 『台徳院殿御実紀』六十巻附録五巻
家光 『大猷院殿御実紀』八十巻附録六巻
家綱 『厳有院殿御実紀』六十巻附録二巻
綱吉 『常憲院殿御実紀』五十九巻附録三巻
家宣 『文昭院殿御実紀』十五巻附録二巻
家継 『有章院殿御実紀』十五巻附録一巻
吉宗 『有徳院殿御実紀』六十二巻附録二十巻
家重 『惇信院殿御実紀』三十一巻附録一巻
家治 『浚明院殿御実紀』五十五巻附録三巻
のごとく将軍一代ごとに編を分け、天文十一年(一五四二)から天明六年(一七八六)までの編年体を採っている。将軍の動静を中心に幕府の施策、施設、行事、人事、行政など広く記述してあり、その拠るところを幕府の日記・諸記録、編纂物に求め、主観をはさまず史料を忠実に記載する方法を採っている。ただ、明暦以前の直接記録の多くが焼失しているので、二次的史料に頼ることになり、「成書例」に「よりて西城日記を(マヽ)よび世につたふる残編断帙をさぐり、家牒野史をもてこれを補ひ、彼是を校正し虚実を審定して」と編纂者の苦心を述べている。徳川氏の立場からの叙述、編纂時における対照の困難による年紀の混乱もみられるが、すべての史料は流麗な平仮名交り文で統一し、原文をあまり崩さないで元の形を存しようとする意図と成島司直(もとなお)の簡潔な要約は要を得て、近世研究の基幹書の一つである。『続徳川実紀』は本編に続いて編集作業が進められたが、結局未完成で進献に至らなかった。その内訳は、
家斉 『文恭院殿御実紀』七十二巻附録五巻
家慶 『慎徳院殿御実紀』(天保八年(一八三七)四月―嘉永六年(一八五三)九月)
家定 『温恭院殿御実紀』(嘉永六年七月―安政五年(一八五八)八月)
家茂 『昭徳院殿御実紀』(安政五年八月―慶応二年(一八六六)九月)
慶喜 『慶喜公御実紀』(慶応二年八月―明治元年(一八六八)閏四月)
で、編集方針は前書と同様であったらしく、『文恭院殿御実紀』の体裁・構成は前代までのものと全く同じでほとんど完成されているが、他は稿本のままで、史料集の観がある。本書の編集は寛政十一年(一七九九)に林大学頭(述斎)が具体的に建議し、享和元年(一八〇一)に決定した。述斎が総括し、奥儒者成島司直が編集主任格でもっぱら執筆した。編纂所(御実紀調所)は司直邸に設けられ、編集方針の評議には述斎も関与した。書名は「御実紀と仕候方可然」となり、体例は「和漢実録(『三代実録』『文徳実録』『明実録』『清実録』の類を意味する)之書法本つき、尤平仮名文認立、御嘉言御善行等年月を係かたき類ハ附録仕可申」とし、下書ができ次第、述斎へ渡すことなどが決まった。編集御用出役として御徒(おかち)から石原多助・岸本寛蔵・桜井庄五郎・荻野八百吉が参加し、のちには黒沢新八郎・中村伝之助・小川留三郎・小林鉄之助が増員された。文化六年(一八〇九)二月に起稿し天保十四年十二月に完成し献上した。つづいて嘉永二年十一月に副本作成が終り、安政四年四月には日光東照宮奉納献上本の浄書が行われた。この副本には各条に出典注記の施されているのが特色である。これと併行して文恭院以下の編集が進められたが、天保十四年に司直は突如隠居慎を命じられたので、この時点で調所は昌平坂学問所に移され、編集作業は明治維新前後まで続行した。天保十四年の献上本は紅葉山(もみじやま)文庫に入り、現在内閣文庫に架蔵されているが、『有徳院殿御実紀』巻一―二〇、厳有院―有章院・惇信院・浚明院の各附録を欠き、四百八十五冊が現存し、総目録記載の冊数や『元治増補御書籍目録』記載の「歴朝御実紀五百十六冊」と対照すると、明治以後に散逸したことが知られる。東照宮本は現存し五百十六冊で、安政四年十二月に献納され、明治初年には修史局に貸出されたこともあった。司直添削の稿本二百九十一冊は静嘉堂(せいかどう)文庫にあり、伝写本はいくつかの公共施設に蔵されている。刊本は『徳川氏御実紀附録』(和装。『我自刊我書』のうち。十七冊。明治十六・十七年)。内藤耻叟校訂標記『徳川実紀』(冊数未詳。明治二十九年―?)。『徳川実紀』(『続国史大系』九―一五。七冊。明治三十五―三十七年。経済雑誌社)。『続徳川実紀』(五冊。明治三十八―四十年。経済雑誌社)。『徳川実紀』『続徳川実紀』(『(新訂増補)国史大系』三八―五二。十五冊。昭和四年(一九二九)―十一年。吉川弘文館)。続国史大系本と新訂増補国史大系本の『徳川実紀』の底本は嘉永二年作成の副本で、貴族院図書室に置かれていたが、大正十二年(一九二三)の関東大震災に焼失した。徳川実紀研究会編『徳川実紀索引』人名篇二冊・幕末篇一冊がある。
[参考文献]
福井保『江戸幕府編纂物』、丸山二郎「徳川公爵家本徳川実紀について」(『日本の古典籍と古代史』所収)、山本武夫「「御実紀調所」再考」(『国学院雑誌』八〇ノ一一)
(山本 武夫)
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1. 徳川実紀
日本大百科全書
本編には編年体で歴代将軍の政治的業績を収録し、付録にはその嘉言かげん・善行を集め記す。本名は『御実紀』で、『徳川実紀』は俗称。「東照宮(家康)御実紀」のほかは歴
2. 徳川実紀
世界大百科事典
みまとめられた(《続徳川実紀》)。正編,続編ともに《新訂増補国史大系》に収められている。山本 武夫 林述斎 成島司直 林韑(あきら) 林復斎 御実紀 徳川家実紀
3. とくがわじっき[トクがはジッキ]【徳川実紀】
日本国語大辞典
時に実録の読物的な記述も混入する。嘉言徳行を付録とする。江戸時代史研究の基本書。第一一代家斉以降は「続徳川実紀」に記述されている。原題は「御実紀」。トク
4. とくがわじっき【徳川実紀】画像
国史大辞典
明治十六・十七年)。内藤耻叟校訂標記『徳川実紀』(冊数未詳。明治二十九年―?)。『徳川実紀』(『続国史大系』九―一五。七冊。明治三十五―三十七年。経済雑誌社)。
5. 『徳川実紀』
日本史年表
1809年〈文化6 己巳〉 2・‐ 『徳川実紀』 の編纂を開始(同書)。 1843年〈天保14 癸卯⑨〉 12・22 幕府、 『徳川実紀』 完成により関係者を
6. 徳川実紀(著作ID:1010533)
新日本古典籍データベース
とくがわじっき 御実紀 成島東岳(なるしまとうがく) 等 編 通史 正編文化六‐嘉永二
7. あいばしりむら【鮎走村】岐阜県:郡上郡/高鷲村
日本歴史地名大系
上納したことがみえる。正保三年(一六四六)遠藤慶利が将軍に拝謁した時に熊皮三枚を献上しており(徳川実紀)、当地域は熊皮の御用を命じられたと思われる。宝暦六年(一
8. あおやぎむら【青柳村】埼玉県:草加市地図
日本歴史地名大系
。宝暦一一年一月奈須良種は自領民の訴訟を代官所下吏を雇って処分した咎により出仕を止められた(徳川実紀)。化政期の家数一一三(風土記稿)。天保九年(一八三八)の幕
9. あかいわがし【赤岩河岸】群馬県:邑楽郡/千代田町/赤岩村
日本歴史地名大系
元和二年(一六一六)には坂東一六渡津の一つに数えられており、河岸場も古くから栄えたと思われる(徳川実紀)。しかし元禄三年(一六九〇)の幕府廻米津出河岸之道法并運
10. あさくさ‐おくらぶぎょう[‥おくらブギャウ]【浅草御蔵奉行】
日本国語大辞典
収納する浅草御蔵を支配し、収支の実務を指揮、監督するもの。持ち高、役料二百俵、焼火間詰とする。浅草蔵奉行。*徳川実紀‐寛永一九年〔1642〕八月一八日「大番柴田
11. あさくさばし【浅草橋】東京都:中央区/旧日本橋区地区/馬喰町四丁目地図
日本歴史地名大系
橋詰に浅草御門(浅草橋御門・浅草見附・浅草口)が造営され、越前福井藩松平氏が普請を負担した(徳川実紀)。西側には番所が設けられて番士二名・足軽五名が配され、棒五
12. あざぶほんむらちよう【麻布本村町】東京都:港区/旧麻布区地区地図
日本歴史地名大系
移された。貞享元年(一六八四)御薬園は小石川御殿(現同上)に移され廃園となる(芥川家文書、「徳川実紀」「東京市史稿」「文京区史」)。北方の御花畑に元禄一一年将軍
13. あすまむら【遊馬村】埼玉県:草加市地図
日本歴史地名大系
徳川家継の生母月光院の父勝田元哲著邑が没すると、一部が著邑の菩提寺江戸浅草唯念寺領となった(徳川実紀)。唯念寺領は一二〇石余(改革組合取調書)。寛政七年(一七九
14. あたけ‐まる【安宅丸】画像
日本国語大辞典
余りにも巨大なため、実用に適さず、維持費に窮した幕府によって天和二年(一六八二)解体された。大安宅丸。*徳川実紀‐大猷院殿御実紀・寛永一二年〔1635〕六月二日
15. あたけまる【安宅丸】画像
国史大辞典
回想され、多くの記録が書かれたが、そのほとんどが諸元や艤装に関して著しい誇張や誤伝があり、『徳川実紀』さえもそうしたものを採録しているほどで、前記建造史料のほか
16. あぶらがふち【油ヶ淵】愛知県:碧南市
日本歴史地名大系
に、長さ一二町・幅二〇間・深さ八間の新掘割が築かれ、二年後、矢作川の本流は西南の海に注いだ(徳川実紀)。矢作川上流から流下する土砂は南の入海を埋め、鷲塚は半島に
17. あべかわ【安倍川】静岡県:静岡市
日本歴史地名大系
薩摩土手の名称は薩摩藩(鹿児島藩)の御手伝普請による築堤にちなむといわれるが、確証はない。「徳川実紀」慶長一七年(一六一二)八月一日条に「阿部川暴漲して堤防大に
18. あべかわちょう【安倍川町】静岡県:静岡市/駿府城下
日本歴史地名大系
新通六丁目・七丁目の間を南に入る小路の町(町方絵図)。阿部川町とも書く遊女町(駿国雑志)。「徳川実紀」慶長一三年(一六〇八)八月二五日条に「駿府阿部川町を娼街と
19. あべ-まさひろ【阿部正弘】
日本人名大辞典
調して対処。日米和親条約を締結し,海軍伝習所・洋学所などを設立した。安政4年6月17日(「続徳川実紀」では27日)死去。39歳。字(あざな)は叔道。号は裕軒。
20. あまがさきじょうか【尼崎城下】兵庫県:尼崎市
日本歴史地名大系
〔拡大と整備〕元和三年(一六一七)一〇月一四日幕府より戸田氏鉄へ尼崎に新城築造の下命があった(徳川実紀)。城地予定地には尼崎城、大覚寺・本興寺、近くに戦国時代の
21. あみ‐ぶぎょう[‥ブギャウ]【網奉行】
日本国語大辞典
。鷹狩りのときの網をつかさどった。天和二年(一六八二)には廃止され、小普請組に加えられた。*徳川実紀‐大猷院殿御実紀・寛永一五年〔1638〕一二月二日「大手門の
22. あみぶぎょう【網奉行】
国史大辞典
江戸時代初期にみられた幕府の職制で、鳥猟のことを掌ったもののようである。『徳川実紀』には、慶安三年(一六五〇)十二月二十六日、珍しい斑毛の鴨を捕獲した功に対し
23. あらいしゅく【新居宿】静岡県:浜名郡/新居町
日本歴史地名大系
備えていた(元禄一五年検地帳)。寛永三年(一六二六)・同一一年の将軍徳川家光の上洛に際しても利用されたが(徳川実紀)、以後使われることはなく、元禄一一年に取壊さ
24. あらい‐ぶぎょう[あらゐブギャウ]【新居奉行・荒井奉行】
日本国語大辞典
元和五年(一六一九)に設置、元祿一五年(一七〇二)廃止。遠江国(静岡県)新居関所の守衛のことをつかさどる。*徳川実紀‐元祿九年〔1696〕二月一四日「使番成瀬滝
25. あわのくにほうじょうはんりょうしょうとくがんねんいっき【安房国北条藩領正徳元年一揆】
国史大辞典
をなし、封境をこえ、府に出強訴するはいとひが事なれば、厳科に処すべしといへど寛宥せられ」(『徳川実紀』七)無罪とされた。裁許の席上、奉行をして「己等にっくいやつ
26. あんざい‐しゅう【安西衆】
日本国語大辞典
二代将軍秀忠の時、元和二年(一六一六)一二月設けられ、三代家光の時にも存続した。談伴(だんばん)。*徳川実紀‐台徳院殿附録〔1616〕三「そのはじめ織田、豊臣両
27. あんじはんじんやあと【安志藩陣屋跡】兵庫県:宍粟郡/安富町/安志村
日本歴史地名大系
教頭に招いている(中井竹山「子華孝状」「稲垣浅之丞純孝記録」大阪大学附属図書館懐徳堂文庫蔵、「徳川実紀」)。天明七年(一七八七)林田藩百姓一揆鎮圧のために出兵(
28. あんじゅじんやあと【安住陣屋跡】千葉県:君津市/旧望陀郡地区/市場村地図
日本歴史地名大系
石余、市原郡一三村・高二千五〇石余。宝永四年(一七〇七)新田二万石を加えて計一五万石となり(徳川実紀)、上総国内では望陀郡一〇三村・高一万八千八二〇石余、市原郡
29. い‐いん[‥ヰン]【医員】
日本国語大辞典
〔名〕医療にたずさわる役目の者。病院、医院または診療所に勤務する医師。*徳川実紀‐寛永一八年〔1641〕五月七日「大僧正天海、日光へまかるによて、医員田村安栖長
30. いけごむら【池子村】神奈川県:逗子市地図
日本歴史地名大系
畑二五町四反余、屋敷一町九反余とある。寛永一五年(一六三八)に鎌倉英勝寺領三〇〇石が池子村で与えられ(徳川実紀)、同一九年寺領四二〇石中四一三石余が池子村であっ
31. いしがみむら【石神村】埼玉県:川口市地図
日本歴史地名大系
中興開山は尊雄という(風土記稿)。享保一三年四月将軍徳川吉宗が日光社参の往路同院で休息をとっている(徳川実紀)。ほかに女郎堂があり、幕末川越付近の女郎が当地で行
32. いし‐ぶぎょう[‥ブギャウ]【石奉行】
日本国語大辞典
つかさどる奉行。元祿二年(一六八九)材木奉行を兼ね、材木石奉行と称し、若年寄の支配下となった。*徳川実紀‐寛永一七年〔1640〕五月二一日「今度本城構造不日に成
33. いずもちよう【出雲町】東京都:中央区/旧京橋区地区地図
日本歴史地名大系
西は内山町。町名は慶長八年(一六〇三)の市街整備の折に役夫を出した国名をとって付けられたという(徳川実紀)。承応江戸絵図に「いつも丁」とみえる。本来は新橋北詰ま
34. いせ の 国奉行(くにぶぎょう)
日本国語大辞典
「いせまちぶぎょう(伊勢町奉行)」に同じ。*徳川実紀‐万治元年〔1658〕閏一二月五日「伊勢国奉行石川大隅守正次にいとま下され、美濃国奉行岡田将監善政に内宮造営
35. いそむら【磯村】滋賀県:坂田郡/米原町
日本歴史地名大系
が用いられた。南の磯山は井伊家が佐和山城(現彦根市)を廃した後の築城候補地の一つであった(「徳川実紀」慶長八年二月条)。「源平盛衰記」巻三〇には「平方・朝妻・筑
36. いたじきむら【板敷村】宮崎県:日南市
日本歴史地名大系
(越後高田藩主)の家臣で幕府によって飫肥藩預に処せられた渡辺九十郎が、十数年幽閉されていた(徳川実紀・日向地誌)。廃寺となった年代は不詳(日向地誌)。天徳院は長
37. いたばししゆく【板橋宿】東京都:板橋区/下板橋村地図
日本歴史地名大系
古町は寂れていったという。享保三年幕府は江戸一〇里四方の旅籠屋一軒に二人の飯盛女を置くことを許可したが(「徳川実紀」など)、明和期(一七六四―七二)には江戸四宿
38. いたみかつなが【伊丹勝長】
国史大辞典
母は興津内記某の女。慶安三年(一六五〇)七月父康勝が老衰のため退役したので、同年勝長は勘定奉行に任ぜられた。『徳川実紀』には同時に佐渡奉行の任も襲ったとあるが、
39. いちじゅくまち【市宿町】埼玉県:岩槻市/岩槻城下地図
日本歴史地名大系
中の徳川家康を出迎え、その縁で後日、城主高力氏の口添で地子免許の朱印状をもらったものという(徳川実紀・岩槻宿古事新来之覚書)。宝永六年(一七〇九)の岩槻各町宗門
40. いっ‐て【一手】
日本国語大辞典
「両方の獅子はしり駒にあたれば、先手より獅子をとる。後手其次に獅子をとらず、一手へて取也」*徳川実紀‐有徳院附録〔1751〕一九「飛車、角より歩兵にいたるまで、
41. 稲葉正休
日本大百科全書
江戸城中において大老堀田正俊を刺殺。正休が正俊を刺殺した理由は明らかでない。正休が錯乱したという説もあるが、『徳川実紀』〔貞享じょうきょう元年8月28日の項〕は
42. いなみぐん【印南郡】兵庫県:播磨国
日本歴史地名大系
佐倉藩領分は貞享三年(一六八六)小田原藩領となる。これら一二村は延享三年(一七四六)三卿の一橋領となり(「徳川実紀」によると同年九月一五日一〇万石を与えられてい
43. いなりがわ【稲荷川】栃木県:日光市
日本歴史地名大系
(堂社建立記)。また目付小屋も跡形もなく流失、在番中の目付田中三左衛門尉ら主従も水死した(「徳川実紀」同月一五日条)。「晃嶺秘鑑」はこの時の洪水は七滝付近にあっ
44. いみ‐な【諱・謚・諡】
日本国語大辞典
の御諱(イミナ)の字をくだされて、高氏と名のられける高の字を改めて、尊の字にぞなされける」*徳川実紀‐有徳院附録〔1751〕五「先代よりして、御名の事を御諱と称
45. いるまぐん【入間郡】埼玉県
日本歴史地名大系
た。同一二年堀田正盛が三万五千石で川越へ入封したが、同一五年信州松代(現長野市)に移った(「徳川実紀」「寛政重修諸家譜」など)。同一六年松平(大河内)信綱が忍藩
46. いわつきじょうか【岩槻城下】埼玉県:岩槻市地図
日本歴史地名大系
忠社参から用いられたわけではなく、このときは越ヶ谷道を通って当地に入り、幸手宿へ抜けている(徳川実紀)。同八年の秀忠社参は御成道を通っており、三代家光の時代に入
47. いわみぎんざんあと【石見銀山跡】島根県:大田市/佐摩村
日本歴史地名大系
あったと推定されている。なかでも大間歩であった釜屋間歩は毎年三千六〇〇貫の銀を産したという(徳川実紀)。慶長五年徳川家康は大久保長安と彦坂元正を石見に派遣、石見
48. いわみのくに【石見国】島根県
日本歴史地名大系
理由に所領四二万石を収公され、子息加藤明友に石見国安濃郡で一万石を給された(「徳川加除封録」「徳川実紀」など)。同年六月家老菅平左衛門が大森に出向し、銀山奉行杉
49. いん[ヰン]【院】
日本国語大辞典
」(2)中世以降、将軍など身分のある者の戒名に付ける語。近代以後は庶民にも普及した。*徳川実紀‐慶長一〇年〔1605〕四月「台徳院殿御諱は秀忠」(3)多く国家の
50. いんじ‐うち[インヂ‥]【印地打】画像
日本国語大辞典
近世には行事化し、端午の節句に子供が二手に分かれて行なう石合戦、太刀打ちの遊びをいう。印地。むかいつぶて。*徳川実紀‐東照宮附録〔1616〕一「五月五日児童の戯
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神武天皇から堀河天皇までの漢文編年体の歴史書。平安末期の成立で、著者は阿闍梨皇円(?―1169)。仏教関係に重点が置かれている。堀河天皇の1094年(嘉保1)で終わっているので、この後に成立したことは確かである。13世紀後半に成立したと考えられている『本朝書籍目録』によれば30巻
薩藩旧記雑録(日本歴史地名大系・国史大辞典)
前編四八巻・後編一〇二巻・追録一八二巻・付録三〇巻 別称 旧記雑録(原名) 伊地知季安・伊地知季通編 分類 記録 写本 国会図書館・国立公文書館・九州大学・東京大学史料編纂所・鹿児島県立図書館など 解説 幕末鹿児島藩の史学者・記録奉行であった父季安の志を継ぎ
愚管抄(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
鎌倉時代初期に成った日本の通史。慈円(慈鎮)作。七巻。『本朝書籍目録』に六巻とあるのはあるいは第一・二巻を合わせた表現か。また『愚管抄』第二巻記述中に、山門のことを記した「一帖」があるとみえるのは、別に現存する、延暦寺勧学講の記録断簡にあたると思われる
神皇正統記(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
南北朝時代に書かれた歴史書。北畠親房著。片仮名まじりの文で書かれ、当初の巻数は未詳であるが、流布本の多くは六巻。親房は、暦応元年(延元三、一三三八)九月、南朝の頽勢を挽回するために、義良親王・次子顕信とともに海路伊勢から東国に
幕府衰亡論(東洋文庫)
明治前期に輩出した旧幕臣出身のジャーナリスト中,奇才をうたわれた福地桜痴。尊王の美名をもって明治新政府を賛美する史書の氾濫した当時,猛然とその誤りを主張した傑作。『幕末政治家』(501)の姉妹編。1967年02月刊表紙(扉)第一章 幕府衰亡の因由
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男色大鑑(日本古典文学全集)
色はふたつの物あらそい 神々が空に輝いていた御代の初め、天の浮橋の川原に住んでいた鶺鴒という鳥に教えられて、国常立尊は衆道に基づいて日の千麿の尊をお愛しなさった。すべての虫までも、男色の体位をとっているので、日本を蜻蛉国ともいうのである。
好色敗毒散(日本古典文学全集)
第一 長崎船 あなたはご存じだろう、備前焼の水瓶は、大きいが値段が安い。名物の茶入れは、小さいけれどもその価格は千両もすることである。この理法からすると天竺・震旦は国土が広大であるといっても、小国のわが日本には、はるかに劣っているのも、道理なのだなあ
かなめいし(仮名草子集)(日本古典文学全集)
春が過ぎ夏も来て、その夏もしだいに半ばになると、藤や山吹の散った後、続いて咲く垣根の卯の花、大和撫子。庭もさながら錦を敷いたかと思える中、千葉・万葉・梨月・名月などというさつきも、とりどりにほころび始める。山ほととぎすは声の限り盛んに鳴き
おくのほそ道(日本大百科全書・世界大百科事典)
芭蕉(ばしょう)の俳諧(はいかい)紀行。1689年(元禄2・芭蕉46歳)の3月27日、門人河合曽良(かわいそら)を伴って江戸を旅立ち、奥羽、北陸の各地を巡遊、8月21日ごろ大垣に入り、さらに伊勢(いせ)参宮へと出発するまでの、約150日間にわたる旅を
世間胸算用(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
浮世草子。五巻五冊。井原西鶴作。元禄五年(一六九二)正月刊。各巻四章、合計二十編の短編を集めた町人物。題名の下に「大晦日(おおつごもり)は一日千金」と副題し、また、「元日より胸算用油断なく、一日千金の大晦日をしるべし」(序文)と記すように、当時の経済
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