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  11. 大庭景親

大庭景親

ジャパンナレッジで閲覧できる『大庭景親』の世界大百科事典・国史大辞典・日本大百科全書のサンプルページ

世界大百科事典

大庭景親
おおばかげちか
?-1180(治承4)

平安時代末期の武士。通称大庭三郎。景忠の子で,平治の乱の際捕らえられながらも助命されたことから平家に臣従した。1180年5月の源頼政挙兵時には京都にあって平家軍に属し,東下後の同年8月源頼朝が挙兵すると,平家方の総大将として石橋山でこれを破った。しかし10月再挙した頼朝が富士川で平家軍を破ると,もはやこれまでと降参し,梟首(きようしゆ)された。
→大庭氏
[外岡 慎一郎]

[索引語]
大庭三郎


国史大辞典

大庭景親
おおばかげちか
 - 一一八〇
平安時代後期の相模国の在地武士。大庭景義の弟。通称大庭三郎。大庭氏は源家譜代の家人で、保元の乱に際し兄景義とともに源義朝に従って戦ったが、平治の乱の後、罪を得て斬られんとしたところを平氏のために助けられ、深くその恩を感じ、平氏の被官となった。治承四年(一一八〇)五月、以仁王・源頼政の挙兵にあたり、景親は平氏に属してこれを討ち、ついで八月の初めその本領たる相模国に下着したが、それは伊豆国の流人源頼朝の動静を警戒した平氏の命令によるものと考えられる。間もなく頼朝が挙兵すると、景親は弟の俣野五郎景久とともに、河村義秀・渋谷重国・熊谷直実以下平家被官の輩をもって三千の軍勢を編成し、石橋山に頼朝軍と戦い、これを破って頼朝を椙山まで追求して窮地におとしいれたが、軍勢の中に飯田家義・梶原景時など頼朝に志を寄せる者などがあったため、ついに頼朝を取り逃した。ついで景親は数千騎を率いて三浦氏の衣笠城に進撃したが、三浦義澄らはすでに安房に逃れたあとであった。石橋山の戦のことを景親は直ちに京都に報告し、その結果平氏の大規模な頼朝追討軍が東下した。これに合流せんとした景親は、十月中旬、一千騎を率いて藍沢宿に至ったとき、安房で再挙し勢威を恢復して平氏の追討軍を邀え討たんと進出した頼朝が、二十万の大軍をしたがえてすでに足柄を越えたので、前途をさえぎられた景親は河村山に逃れたが、平氏軍が富士川に惨敗したのち、ついに進退に窮して相模国府において頼朝に降った。頼朝は景親を平広常に預け、十月二十六日、固瀬河辺においてこれを梟首に処した。→石橋山の戦(いしばしやまのたたかい)
(安田 元久)


日本大百科全書(ニッポニカ)

大庭景親
おおばかげちか
[?―1180]

平安後期の相模 (さがみ)国の有力武士。後三年の役に源義家 (よしいえ)に属して活躍した鎌倉権五郎景政(景正) (ごんのごろうかげまさ)の曽孫 (そうそん)。高座 (たかくら)郡の大庭郷(神奈川県藤沢市)を本拠に勢力を振るった。保元 (ほうげん)の乱には源義朝 (よしとも)に従ったが、平治 (へいじ)の乱後は平氏の被官となった。1180年(治承4)5月以仁王 (もちひとおう)、源頼政 (よりまさ)が挙兵すると、平氏に属してこれを討ち、ついで8月には石橋山の戦いで源頼朝 (よりとも)を敗走させた。しかし同年10月、再挙した頼朝軍のために、京から下ってきた平氏軍が富士川で敗れるに及んで、景親も降伏。治承 (じしょう)4年10月26日に梟首 (きょうしゅ)された。なお兄の景義 (かげよし)は頼朝に従い、鎌倉幕府において重んぜられた。

[山本博也]

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検索コンテンツ
1. 大庭景親
日本大百科全書
平安後期の相模さがみ国の有力武士。後三年の役に源義家よしいえに属して活躍した鎌倉権五郎景政(景正)ごんのごろうかげまさの曽孫そうそん。高座たかくら郡の大庭郷(神
2. 大庭景親
世界大百科事典
?-1180(治承4) 平安時代末期の武士。通称大庭三郎。景忠の子で,平治の乱の際捕らえられながらも助命されたことから平家に臣従した。1180年5月の源頼政挙兵
3. おおば‐かげちか【大庭景親】
日本国語大辞典
平安後期の武将。相模国(神奈川県)の人。平氏の支族。源頼朝を石橋山に破ったが、のち頼朝再挙の時捕えられ斬られた。治承四年(一一八〇)没。
4. おおばかげちか【大庭景親】
国史大辞典
?―一一八〇 平安時代後期の相模国の在地武士。大庭景義の弟。通称大庭三郎。大庭氏は源家譜代の家人で、保元の乱に際し兄景義とともに源義朝に従って戦ったが、平治の
5. おおば-かげちか【大庭景親】
日本人名大辞典
?−1180 平安時代後期の武将。大庭景忠(かげただ)の子。大庭景義の弟。保元(ほうげん)の乱に兄とともに源義朝に味方する。のち平氏に属し,治承(じしょう)4年
6. いいだ-いえよし【飯田家義】
日本人名大辞典
?−? 平安後期-鎌倉時代の武士。治承(じしょう)4年(1180)の石橋山の戦いでは平家方の大庭景親(おおば-かげちか)の軍にくわわる。源頼朝に内応,のち御家人
7. いしばし‐やま【石橋山】
日本国語大辞典
神奈川県小田原市南部にある山。治承四年(一一八〇)源頼朝が大庭景親、伊東祐親らとの戦いに敗れた古戦場。*平家物語〔13C前〕五・早馬「三百余騎、石橋山に立籠(ご
8. 石橋山の戦
世界大百科事典
1180年(治承4)8月,相模国石橋山(小田原市南西部)で平氏方の大庭景親らが源頼朝の軍を破った戦闘。この月17日伊豆の北条に挙兵した頼朝は,同国目代(もくだい
9. いしばしやまのたたかい【石橋山の戦】
国史大辞典
の目代山木兼隆を殺して平家追討の軍事行動を開始し、周辺の武士を招きつつ東進したが、相模の住人大庭景親が平家方の熊谷直実・渋谷重国らを率いて、頼朝を討とうとして、
10. 石橋山の戦い
日本大百科全書
1180年(治承4)8月、相模さがみ国石橋山(神奈川県小田原市南西部)で、平氏方の大庭景親おおばかげちからが源頼朝よりともの軍を破った戦闘。8月17日、伊豆北条
11. 伊東祐親
世界大百科事典
平氏家人として平重盛・維盛親子に仕え,源頼朝が三女との間に男児をもうけるとこの子を殺し,また頼朝挙兵の際には大庭景親とともに平氏方として戦い,頼朝軍を箱根山中に
12. えどしげなが【江戸重長】
国史大辞典
同国河越氏・畠山氏などの同族として重長もはじめは平氏の家人であり、治承四年(一一八〇)八月石橋山の戦には大庭景親の催しについて平軍に従って源頼朝を攻め、また三浦
13. おおば-かげよし【大庭景義】
日本人名大辞典
−1210 平安後期-鎌倉時代の武将。大庭景忠(かげただ)の長男。保元(ほうげん)の乱で弟の大庭景親とともに源義朝にしたがう。治承(じしょう)4年挙兵の源頼朝に
14. おおばじょうあと【大庭城跡】神奈川県:藤沢市/大庭村地図
日本歴史地名大系
扇谷上杉氏の築城で上杉定正が在城し、永正九年(一五一二)北条早雲に攻め落されたことなどを記す。大庭景親の居城云々はもちろん伝説にすぎず、遺構のうえからも発掘調査
15. おおばじんじゃ【大庭神社】神奈川県:藤沢市/稲荷村地図
日本歴史地名大系
配祀神は菅原道真・大庭景親。旧郷社。「風土記稿」には天神社とみえ、式内社大庭神社に比定される。別当寺は大庭村の成就院であった。安永六年(一七七七)神祇伯従二位資
16. おおばのみくりや【大庭御厨】
国史大辞典
り大庭氏を名乗った。十二世紀末治承・寿永の乱に際し、石橋山の戦で平氏に与同し源頼朝に敵対した大庭景親は、その男である。この御厨は国司免判によって成立したため、国
17. 御伽物語(仮名草子集) 612ページ
日本古典文学全集
『史記』項羽紀に出る。頼朝は治承四年(一一八〇)八月、伊豆で挙兵したが、相模の石橋山の合戦で平氏方の大庭景親らの軍に敗れ、臥木の洞に隠れ、梶原景時に見逃されて九
18. 梶原景時
日本大百科全書
母は横山党小野孝兼たかかねの女むすめ。1180年(治承4)8月、石橋山いしばしやまの戦いでは平氏方の大庭景親おおばかげちかの手に属して参戦したが、源頼朝よりとも
19. かじわらかげとき【梶原景時】画像
国史大辞典
?―一二〇〇 鎌倉時代前期の武将。相模国住人五郎景清の子。通称平三。源頼朝挙兵の時、大庭景親に属したが、石橋山にいき、頼朝の危急を救い、のち頼朝に従って、源義
20. かじわらし【梶原氏】画像
国史大辞典
ただし『尊卑分脈』は良茂流としている。景久の孫景清は武名高く、その子景時は、治承四年(一一八〇)石橋山の戦に大庭景親とともに源頼朝を攻めたが、かえって頼朝の危急
21. かじわらし【梶原氏】 : 梶原氏/(一)
国史大辞典
ただし『尊卑分脈』は良茂流としている。景久の孫景清は武名高く、その子景時は、治承四年(一一八〇)石橋山の戦に大庭景親とともに源頼朝を攻めたが、かえって頼朝の危急
22. かまくらとう【鎌倉党】画像
国史大辞典
治承四年(一一八〇)源頼朝の挙兵、石橋山の戦の時、大庭(懐島)景義(景能)・豊田景俊は頼朝に与同したが、大庭景親は、俣野景久や梶原・八木下・香川らの鎌倉党を頼朝
23. かわむら-よしひで【河村義秀】
日本人名大辞典
平安後期-鎌倉時代の武士。秀郷(ひでさと)流藤原氏の波多野氏の一族。源頼朝の挙兵の際は平氏側にたち,大庭景親(おおば-かげちか)らとともに捕らえられる。大庭景義
24. がんじやくじようあと【岩石城跡】福岡県:田川郡/添田町/添田村
日本歴史地名大系
頂にあった山城。保元二年(一一五七)に平清盛が大宰大弐となって下向した際に築城し、その家臣の大庭景親を居城させたというが、伝承の域を出ない。「歴代鎮西志」による
25. 義経記 150ページ
日本古典文学全集
その南に市川がある。江戸太郎重長は平良文の血を引く秩父氏から分れた一族で、武蔵国の有力な武士だが、大庭景親に従っ
26. 義経記 299ページ
日本古典文学全集
伊豆国田方郡江馬、今の静岡県田方郡伊豆長岡町付近にその館があったための通称。本来の江馬小四郎は、大庭景親の娘婿であったが、頼朝の挙兵後、誅戮され、その後義時がそ
27. 熊谷直実
日本大百科全書
押領おうりょう。以後、直実は直光からの自立を目ざしていく。1180年(治承4)石橋山の戦いには、大庭景親おおばかげちかに属して、源頼朝よりともを攻めたが、東国の
28. くまがいなおざね【熊谷直実】画像
国史大辞典
勤めたとき、傍輩の無礼に鬱憤の余り、平知盛に仕えた。治承四年(一一八〇)の石橋山の戦では、平氏方の大庭景親の軍中にあったが、その年のうちに源頼朝に従い、常陸の佐
29. 源平の合戦画像
日本大百科全書
山木兼隆やまきかねたかを討ち、緒戦に快勝したものの、続く石橋山いしばしやまの戦いでは平氏方の大庭景親おおばかげちか勢に惨敗した。しかし、かねて頼朝に内応していた
30. 広益俗説弁 205ページ
東洋文庫
源頼朝、土肥の杉山にてふし木にかくれられし時、もと父りのうちに観音の像をいれられしを、若首を大庭景親にわたされんに、此本尊を見ば、大将の所為に』あはずとそしらる
31. こうざぐん【高座郡】神奈川県
日本歴史地名大系
た海老名氏一族などが有名であり、ほかにも武蔵七党の横山党から出た矢部氏・田名氏などがあった。大庭景親・俣野景久など平氏に属して源頼朝の挙兵に反抗したもののほか、
32. 幸若舞 2 景清(かげきよ)・高館(たかだち)他 179ページ
東洋文庫
梶原平三景時をさす。景時は、『尊卑分脈』に よると、出自は桓武平氏、鎌倉権五郎景政四世の孫。はじめ大庭景親(景時の従兄)に従って石橋 山に源頼朝を破ったが、捜索
33. 幸若舞 3 敦盛・夜討曾我他 100ページ
東洋文庫
やがて平知盛に仕えた。治承四年(一一八〇)八月源頼朝の挙兵に際し、八月二十三日の相模石橋山合戦には平家方大庭景親に属して頼朝と戦ったが、のち頼朝側に加わり、その
34. 幸若舞 3 敦盛・夜討曾我他 236ページ
東洋文庫
本間右馬允義忠より起る。 ここでは義忠をさすか。天一宗本によって補入。大頭本「か』つし所に」。天二 「大庭」は大庭景親をさす。相模国高座郡大庭 郷(現、神奈川県
35. こまがたじんじゃ【駒形神社】神奈川県:鎌倉市/寺分村地図
日本歴史地名大系
り、本殿・拝殿には天保一四年(一八四三)の棟札がある。社伝によれば治承年中(一一七七―八一)大庭景親が領し、天候不順の時には代参に祈願させたというところから、農
36. ささきさだつな【佐々木定綱】
国史大辞典
々木荘を逃れて相模渋谷荘に居り、定綱は宇都宮に客居していた。治承四年(一一八〇)八月、秀義は大庭景親に招かれて源頼朝討伐のことを知り、たまたま渋谷荘にいた定綱を
37. ささきひでよし【佐々木秀義】
国史大辞典
相模の渋谷荘司重国にとどめられて、渋谷荘に二十年を送った。治承四年(一一八〇)八月、源頼朝挙兵に際し、平家家人大庭景親より平家方の密事を聞き、嫡子定綱をして頼朝
38. 渋谷氏画像
日本大百科全書
けにんであったが、1180年(治承4)の石橋山の戦いのときには、平氏の恩顧を受けていたので、大庭景親おおばかげちからとともに源頼朝みなもとのよりともを攻めた。し
39. しようむら【庄村】福岡県:田川郡/添田町
日本歴史地名大系
明治二〇年(一八八七)岩瀬村・新城村・真木村を合併。当地西方にある菅原神社(天満宮)は、岩石城を築いたと伝える大庭景親が、太宰府天満宮で神楽を奏した際に神託を得
40. 川柳 408ページ
日本古典文学全集
梅1)。梶原平三景時。治承四年(一一八〇)挙兵の頼朝は石橋山で敗走、榎の穴に隠れたが、景時は大庭景親を偽り助ける。木のうろ。山鳩が二羽飛び出て人の不在を示すと。
41. そえだじんじや【添田神社】福岡県:田川郡/添田町/添田町村
日本歴史地名大系
かつては天満宮と称され、添田町村・添田村の産土神であった。初め岩石山の頂上にあったが、保元三年(一一五八)大庭景親が岩石城を築いた時に新宮を西麓(現在地)に造営
42. そが-すけのぶ【曾我祐信】
日本人名大辞典
荘の領主。曾我祐成(すけなり)・時致(ときむね)兄弟の養父。治承(じしょう)4年(1180)大庭景親(おおば-かげちか)が源頼朝をやぶった石橋山の戦いでは平家方
43. 曾我物語 48ページ
日本古典文学全集
った武士。清涼殿の東北の隅、御溝水の落ちる所に詰所があったので、この名がある。頼朝挙兵の際は大庭景親の軍に加わり、頼朝目がけて矢を放った。その後捕えられたが、頼
44. 曾我物語 53ページ
日本古典文学全集
する。若い侍たち。「ばら」は、人を表す名詞について複数を表す接尾語。大庭景忠の子。懐島景義、大庭景親の弟。俣野は相模国高座郡内(横浜市戸塚区から藤沢市にまたがる
45. 曾我物語 134ページ
日本古典文学全集
遠江守護となるが、建久五年八月謀反の疑いにより誅殺。梶原景時。桓武平氏良文流鎌倉氏。石橋山合戦の時は大庭景親に従ったが山中に隠れた頼朝を見逃し、その後頼朝のもと
46. 曾我物語 145ページ
日本古典文学全集
『吾妻鏡』『源平盛衰記』、長門本『平家物語』にある。祐信は、石橋山合戦で大庭方におり、『源平盛衰記』では、大庭景親・俣野景久・梶原景時と共に頼朝を探索したことが
47. 太平記秘伝理尽鈔 2 344ページ
東洋文庫
大庭景近ナド也。平氏恩深遣シト也。本ハ源氏也。平氏重恩ヲアタヱ内様ニ仕シユヘニ頼朝ニ属セズ」。ことに大庭景親は、保元の乱の際には兄景能とともに源義朝に従ったが、
48. 太平記秘伝理尽鈔 3 49ページ
東洋文庫
挙げんなれば、一大事なるぞ。 往昔、頼朝、豆州(伊豆)にて隠謀して石橋山に旗を挙げ給ひし時、大場(大庭景親)・伊藤(伊東祐親)、助殿(頼朝)の御勢の着かざるさき
49. 太平記秘伝理尽鈔 3 121ページ
東洋文庫
安東十郎重佐と謂し者は、(北条)時政には母方に付て兄弟子也。(源)頼朝卿、平家を討し時は大場(大庭景親)に属したり。本領をも放されしを、時政父子権威を取て後、さ
50. 太平記秘伝理尽鈔 3 142ページ
東洋文庫
山に隠れた。平家方として探索に来た梶原景時は、「有情の慮を存じ、この山には人跡なしと称して」大庭景親を欺き、頼朝をのがした(『吾妻鏡』同年八月二四日条)。二五軍
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