1. クリミア戦争
日本大百科全書
1853年から56年にかけて、ロシアと、トルコ・イギリス・フランス・サルデーニャの連合軍との間で行われた戦争。クリミア半島がその舞台となったところから、こうよば
2. クリミア戦争
世界大百科事典
中近東およびバルカン半島の支配権をめぐって,イギリス,フランス,サルデーニャ,オスマン・トルコの4ヵ国連合とロシアとのあいだで戦われた戦争(1853-56)。ク
3. クリミア‐せんそう[‥センサウ]【─戦争】
日本国語大辞典
一八五三~五六年、南下策をとるロシアと、オスマン‐トルコ、フランス、イギリス、プロイセン、サルデーニャ連合軍との戦争。主にクリミア半島で戦われ、ロシアの敗北に終
4. アイグン条約画像
日本大百科全書
ンチヤン省北部のアイグン(愛琿Айгун。現、愛輝あいき/アイホイ)で結んだ条約。ロシアはクリミア戦争を機とし、清領の黒竜江(アムール川)を航行し、沿岸に植民し
5. 青木周蔵自伝 223ページ
東洋文庫
承諾すること能はず。と主張せり。尚ほ「ベアルチー」氏は、千八百七十年間、露国が千八百五十六年の巴里条約〔クリミア戦争の講和条約〕の或る条款を廃棄したる結果に付き
6. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 258ページ
東洋文庫
望三『αQ 〔一完一-天六五〕 イギリス海軍軍人。少将。東イン ド艦隊司令長官。一八五四年クリミア戦争勃発に 際し、ロシア艦隊と交戦するため長崎へ来港、日 英和
7. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 265ページ
東洋文庫
ロシアの海軍提督。伯爵。嘉永六年(天 五三)軍艦四隻を率いて長崎に来航、国境劃定と修 交通商を要求、交渉中クリミア戦争勃発のため退 去、安政元年(一八茜)再来し
8. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 283ページ
東洋文庫
二号)によると、イギリス軍艦ウェンセスタ 一号がもたらしたヴィクトリア女皇の親諭が伝えたクリミア戦争の余波でイギリス側の軍艦の日本諸港入津の 要請が幕府を驚
9. アナーキズム 84ページ
文庫クセジュ
に飽き、彼はカフカース〔コーカサス〕駐屯の砲兵連隊に将校として入隊する。セヴァストーポリ〔クリミア戦争で、最大の攻防戦が展開されたところ〕の攻囲に尽力、のち退役
10. アバディーン(Aberdeen, George Hamilton Gordon, 4th Earl of)
世界人名大辞典
実現する前にロシアがオスマン帝国と戦争状態に入り[53],パーマストンら閣内の主戦派に引きずられる形でクリミア戦争に参戦[54].陸軍の準備不足から不首尾が続き
11. アブデュル・メジト
日本大百科全書
約束し、続いて軍事、行政、司法、教育など各分野の「近代化」諸改革を実施した。1853年以後、クリミア戦争を契機に財政は悪化し、列強の干渉を許して帝国は植民地化し
12. アブデュルメジト(Abdülmecid)
世界人名大辞典
や改革勅令[56]は彼の名のもとに発布された.彼の時代にオスマン帝国の近代化は加速したが,クリミア戦争では大きな犠牲を払った.ヨーロッパ諸国の経済進出が進み,初
13. 編物画像
日本大百科全書
ベラ針を用いていることからもわかるように、意義深い発明であった。一時影を潜めていた手編は、クリミア戦争(1853~1856)のおりに軍需用の帽子、靴下、手袋が婦
14. 編物画像
世界大百科事典
紀後半になってからである。19世紀に入ってからは,戦争が編物の興隆に影響を与えた。たとえばクリミア戦争で兵士のかぶった深い帽子は,厳寒から首や耳を守るための必需
15. アメリカ彦蔵自伝 1 271ページ
東洋文庫
海運の発展に力を尽くす。 アメリカ東部とカリフォルニア地方を海 上から結び、さらにクリミア戦争(一八 五三一五六)が起こるや、ヨーロッパに
16. アラスカ[州]
世界大百科事典
カを統治した。その後アメリカやイギリスの毛皮商人も進出し,ロシア・アメリカ会社の事業不振やクリミア戦争を契機に,アラスカのアメリカへの売却が検討される。67年ア
17. アルバート(Albert)
世界人名大辞典
企画し,大成功に導く[51].王配(Prince Consort)の称号を得る[57]が,クリミア戦争期などには外国人扱いされることもあった.
18. アレクサンドル(2世)画像
日本大百科全書
ロシアの皇帝(在位1855~1881)。ニコライ1世の長男として4月17日生まれ、クリミア戦争の最中に死んだ父帝の後を襲って即位した。元来は保守的な見解の持ち主
19. アレクサンドル[2世](Aleksandr Ⅱ)
世界大百科事典
1818-81 ロシアの皇帝。在位1855-81年。ニコライ1世の長男として生まれ,クリミア戦争の敗色が濃くなったさなかに病没した父帝のあとを襲って即位した。1
20. アレクサンドル2世(Aleksandr II Nikolaevich)
世界人名大辞典
〔1818.4.17~81.3.1〕 ロシアの皇帝[1855/81].ニコライ1世の長子.クリミア戦争[1853-56]を収拾し(パリ条約),国内諸改革,すなわ
21. アームストロング(William George Armstrong)
世界大百科事典
利用した蓄圧器の発明は,大型機械の操作に不可欠な水圧を利用する力の伝達方式の発展に貢献した。クリミア戦争の勃発後,機雷の設計を依頼され,大きな成功を収めた。この
22. アームストロング(William George Armstrong)
日本大百科全書
力アキュミュレーター)を発明、これはクレーン、リフトその他の機械の操作に広く応用された。 クリミア戦争(1853~1856)によって彼の注意は大砲に向けられ、1
23. アーリ・パシャ(Âli Paşa, Mehmed)
世界人名大辞典
レシト・パシャのもとで外交官として成長し,駐英大使,外相等を務める.大宰相となり[52],クリミア戦争後のパリ講和会議でオスマン帝国を代表[56].しかし,改革
24. イギリス【England】
国史大辞典
ス軍艦マリナー号が相模沖に来航し、江戸湾を測量、下田へ入港する事件があった。たまたま五三年クリミア戦争がおこり、翌年イギリスとフランスがこれに参戦して戦火が遠く
25. イグナーチエフ(Ignatev, Nikolai Pavlovich)
世界人名大辞典
帝政ロシアの外交官.参謀本部アカデミーを卒業[1851].近代ロシアの外交に大きな足跡を残した.クリミア戦争後パリ講和会議に出席して[56]外交官生活を始めた.
26. イタリア史画像
日本大百科全書
外交と世論を通じて独立を達成しようと考えた。そのため一連の諸改革を断行して国政を固める一方、クリミア戦争に派兵して英仏の好意を確保しようとした。1856年のパリ
27. いづき-いちろう【伊月一郎】
日本人名大辞典
嘉永(かえい)元年11月7日生まれ。海軍兵学寮にはいり,明治3年イギリス海軍留学生となる。クリミア戦争を実地にみて,海軍の戦法をまなんだ。19年海軍兵学校教頭。
28. インナー・キャビネット
日本大百科全書
法律上の正式の名称ではなく、事実上の存在である。その起源は、1853年イギリスのアバディーン内閣がクリミア戦争の予防措置を協議するため5人の閣僚を招集したことに
29. ウシュキュダル
日本大百科全書
小アジア半島の鉄道の起点ハイダルパシャ駅もある。古代都市クリソポリスChrysopolisに由来する。クリミア戦争の際にはイギリス軍の基地となり、ナイチンゲール
30. ウルズリー(Wolseley, Garnet Joseph, 1st Viscount)
世界人名大辞典
,母が総司令官ウェリントンに嘆願して将校に任官[1852].第2次ビルマ戦争[同-53],クリミア戦争[54-56],インド大反乱[57-59],アロー戦争[6
31. 改訂新版 英国史 146ページ
文庫クセジュ
担当していたアバディーン内閣は政策を急転換し、フランスと結んでロシアに対決することになった。クリミア戦争が開始された。一八五四年から一八五六年にかけてのこの戦い
32. 改訂新版 英国史 221ページ
文庫クセジュ
1848 フランス ―― 2月革命.マルクス共産党宣言. 1849 航海法廃止. 1854 クリミア戦争(~1856). 1856 対清朝戦争(アロー号事件)(
33. 疫病史画像
日本大百科全書
兵のおよそ3分の2を奪い、ナポレオン衰退の大きな原因となった。またナイチンゲールが活躍したクリミア戦争、さらに第一次世界大戦でも猛威を振るい、ロシア革命もしばら
34. えぞち【蝦夷地】画像
国史大辞典
全島併呑の意を示した。日露修好通商条約によって日露国境は択捉水道に設けられ、久春古丹の占拠はクリミア戦争によって撤退したが、ロシアは樺太の領有を主張して止まず、
35. 江戸参府紀行 341ページ
東洋文庫
元年〔一八五四〕安政 三年〔一八五六〕安政 四年〔一八五七〕安政 五年〔一八五八〕安政 六年〔一八五九〕・クリミア戦争始まる。・ペリー、再び来航し、日米和親条約
36. NGOと人道支援活動 14ページ
文庫クセジュ
受けられるのは野営地にいる戦闘員に限られ、その他の者は顧みられなかった。衛生組織は必要を大幅に下回っていた。クリミア戦争で戦死した兵士は一万三〇〇〇人だったが、
37. NGOと人道支援活動 16ページ
文庫クセジュ
これによって彼は、彼に着想を与えたひとりであるフローレンス・ナイチンゲールの行為を超えた。ナイチンゲールはクリミア戦争中、衛生任務の向上のために尽力したが、彼女
38. NGOと人道支援活動 19ページ
文庫クセジュ
あらためて確認した。十九世紀における報道機関の発展は、人びとを紛争現場に近づける原動力になった。クリミア戦争中のフローレンス・ナイチンゲールの活動の反響やソルフ
39. エルサレム画像
世界大百科事典
位な立場を得るが,これへのギリシア正教会の対抗,聖地管理権をめぐるフランス,ロシアの対立はクリミア戦争を招いた。また,イギリス領事の保護下で進出したアシュケナジ
40. エンゲルス
日本大百科全書
植物学、物理学に及び、外国語は「20か国語でどもる」といわれたほどであり、さらに兵学に関しては、クリミア戦争やプロイセン・フランス戦争(普仏戦争)などについての
41. エヴァンズ(Evans, Sir George de Lacy)
世界人名大辞典
義勇兵を率いて自由主義的な女王イサベル2世側に立ち参戦した[35-37].再び軍務に就き,クリミア戦争には中将として参戦してアルマ,インケルマンの戦いに殊勲をた
42. オスカル1世(Oskar I)
世界人名大辞典
スヴィ(シュレースヴィヒ)戦争ではデンマークを支援するとともに列強諸国との仲介に当たった.クリミア戦争では英仏と結託してロシアの拡張を抑え,スウェーデン-ノルウ
43. オズボーン(Osborn, Sherard)
世界人名大辞典
陸軍軍人を父に生まれる.海軍に入り[1837],東インド諸島に派遣される.アヘン戦争およびクリミア戦争に出征.後者では補給を攪乱することで勝利に貢献.また北極圏
44. オソン1世(オソナス1世)(Othon I (Othonas I))
世界人名大辞典
9].憲法制定議会開催に同意し,翌年憲法発布.外交では〈メガリ・イゼア(大理念)〉(大ギリシア主義)を追求.クリミア戦争[54-56]で領土拡大を目論み,英仏軍
45. オーストリア画像
日本大百科全書
により1849年鎮圧されたが、チェコのオーストリア・スラブ主義はスラブ諸民族に影響を与え、クリミア戦争における外交的失敗と孤立化のなかで、イタリアの運動は、18
46. 海峡問題
日本大百科全書
確認された。しかし慣例上トルコ皇帝が許可する外国の大公使館役務軽軍艦の航行は例外とされた。クリミア戦争後の56年のパリ条約で、前記の「海峡制度に関するロンドン条
47. 海峡問題
世界大百科事典
まず,1841年のロンドン海峡協定ではオスマン・トルコ以外の軍艦の平時における不航行が決定され,さらに,クリミア戦争(1853-56)で英仏海軍は海峡を通過して
48. 開国画像
日本大百科全書
中村 哲ペリー来航と日本の開国列強のアジア侵略を主導したのはイギリスであるが、19世紀中期にはクリミア戦争やインド、中国との戦争・民衆反乱鎮圧などに忙殺されてい
49. かいこく【開国】
国史大辞典
るものであった。イギリスは、対日通商条約を締結する企図をもちつつも、クリミア戦争発生のためその機会を失し、ついでクリミア戦争が終ると中国市場をいっそう強く掌握す
50. かいじょうほうの‐ようぎを‐かくていする‐せ…【海上法ノ要義ヲ確定スル宣言】
法律用語辞典
クリミア戦争後のパリ会議(一八五六年)において採択された戦時の海上捕獲に関する宣言文書。パリ宣言と略称。我が国は、一八八六(明一九)年に加入(明二〇・三・二四勅