
然として諸(これ)を掌に覩(み)るが如く、善は以て法と為すべく、悪は以て戒と為すべくして、乱賊の徒をして懼るる所を知らしめ、まさに以て世教に裨益し、綱常を維持せんとす」(原漢文)とあるのは、この趣旨である。先の三大特筆の主張は天の理法を明らかにする意図から出たものであり、入念な史料調査は確実な史実をありのまま記述した信頼できる史書を作らなくてはならない、と考えたからである。儒教思想の立場からする人物の評価は、享保元年(一七一六)から同五年にかけて安積澹泊の執筆した論賛に具体的に示されている。同五年、論賛を付載した本紀と列伝が幕府に献上された(享保本『大日本史』、二百五十巻)。安積はその後も紀伝の校閲を進め、元文二年(一七三七)にその作業を終えると、以後修史事業は約半世紀にわたって停滞した。なお、宝永七年(一七一〇)から続編編纂の議が総裁(江戸)酒泉竹軒らによって提案され、享保元年綱条が正式にこれを命じたが、続編のことは計画倒れに終った。天明六年(一七八六)総裁(水戸)となった立原翠軒は、修史事業の再興に熱意を傾け、はじめ懸案の志(部門別の制度史)・表(各種の官職表など)の編纂を推進しようとした。しかし藩財政の実情と人材の乏しい彰考館の現状に鑑み、これを中止しても寛政十一年(一七九九)の光圀の百年忌までには紀伝の公刊を果たしたいと考え、そのための校訂作業を急ぐこととした。当時の館員には、長久保赤水・青山拙斎(延于(のぶゆき))・小宮山楓軒・高橋坦室・藤田幽谷らがいたが、立原は安積の元文検閲本でさえ校訂を要する個所が残っているとみたので、藩外の塙(はなわ)保己一・柴野栗山(在江戸)・藤貞幹(在京都)らに助力を求めた。特に塙は出典の調査や本文の出入異同の点検を行い、多くの誤謬を改めた。ところが寛政九年から立原と藤田の師弟間に編纂上の意見の対立が表面化した。その発端は藤田が『大日本史』なる書名は適切でないから『史稿』とすべきであると提議したことにあった。藤田は、また、立原の志・表廃止もやむなしとする意見にも反対した。享和三年(一八〇三)には藤田派の高橋が「天朝百王一姓」のわが国においては臣下が天皇の行為を論評するごときは許されないとして、その削除を要求した。同年立原が辞任し、立原派の数名の館員も他の部署に移ると、彰考館は藤田の主導するところとなり(この両派の対立を史館動揺と呼んでいる)、まず志・表の編纂続行が、ついで文化六年(一八〇九)論賛全文の削除が決定した。書名も一時『史稿』と変わったが、この方は朝廷の意向に基づき旧に復することとなった。この間、紀伝の校訂は順次進行したので文化三年からは出版に着手、同六年神武紀から天武紀までの本紀二十六巻の版本を幕府に献じ、翌七年には藩主に代わって藤田が執筆した上表文を添えてこれを朝廷にも送付した。その後出版を継続し、紀伝二百四十三巻全部が完了するのは嘉永二年(一八四九)、これをさらに訂正し、幕府と朝廷に改めて献じたのは同五年である(百冊)。志・表の編纂計画は光圀時代からあり、享保元年には正式に修志の下命があり、同十五年には五年間の期限つきでその完成を目指したこともあったが、果たさなかった。このように難航を重ねてきた志・表の編纂を軌道に乗せたのは豊田天功である。豊田は仏事志・氏族志・食貨志・兵志・刑法志をつぎつぎと脱稿、精力的に編纂にあたったが、元治元年(一八六四)没して完成をみなかった。明治二年(一八六九)彰考館が水戸徳川家に帰属すると館員は削減され、豊田の門人栗田寛(栗里)・菅(かん)政友・津田信存ら十名ほどになったが、栗田らは志・表の草稿を校訂する一方、不備な部門は新たに稿を起して出版に取りかかった。同二十五年栗田が文科大学教授となって上京、津田も同年没してからは、青山延寿・清水正健・栗田勤らが校訂と出版にあたり、同三十九年二月、本紀・列伝・志・表の四部と目録合計四百二巻(徳川家蔵版、二百三十一冊、和本)が完成、一切の業務を終了した。十志と五表の名称と巻数は次のとおりである。神祇志二十三巻、氏族志十三巻、職官志五巻、国郡志三十三巻、食貨志十六巻、礼楽志十六巻、兵志六巻、刑法志二巻、陰陽志六巻、仏事志六巻、臣連二造表二巻、公卿表七巻、国郡司表十二巻、蔵人検非違使表四巻、将軍僚属表三巻。完成までに二百五十年もの歳月を要したこの修史事業は、歴史の学問的研究の進歩に寄与するとともに、皇統の正閏と忠臣・叛臣などの名分を厳しく論じたので、近世から近代にかけての尊王思想の発達に強い感化を及ぼした。またこの修史事業の中から、特に十九世紀前半、水戸学と称される独自の学風が醸成され、これが幕末期に昂揚した尊王攘夷思想の指導理念となった点でも注目される。活字本には、明治四十四年―大正七年(一九一八)に吉川弘文館から刊行された十五冊本、昭和四年(一九二九)に義公生誕三百年記念会編で大日本雄弁会から刊行された十六冊本(別に大日本史後付・大日本史紀伝人名索引一冊を付す)があるほか、田中正義訳解『訓蒙大日本史』四冊(神武紀から天皇大友紀まで。明治七年刊)、山路愛山の『訳文大日本史』五冊(明治四十五年―大正元年刊)、大日本史普及会編『訳註大日本史』十二冊(昭和十年刊、同三十九年再刊)などがある。論賛(賛藪)は、松本三之介・小倉芳彦校注『近世史論集』(『日本思想大系』四八)に全文が収録されている。→彰考館(しょうこうかん),→水戸学(みとがく)藤田幽谷『修史始末』(『幽谷全集』)、栗田勤『水藩修史事略』、菊池謙二郎『水戸学論藪』、日本学協会編『大日本史の研究』、坂本太郎『日本の修史と史学』(『日本歴史新書』)、吉田一徳『大日本史紀伝志表撰者考』、名越時正『水戸学の研究』、『水戸市史』中、『茨城県史』近世編、鈴木暎一『水戸藩学問・教育史の研究』、徳川慶光「水戸学(前期)」(徳川公継宗七十年祝賀記念会編『近世日本の儒学』所収)、加藤繁「大日本史と支那史学」(史学会編『本邦史学史論叢』下所収)、市村其三郎「大日本史の特色について」(同所収)、尾藤正英「水戸学の特質」(『日本思想大系』五三所収)、同「歴史思想」(『中国文化叢書』一〇所収)
青海社