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大日本史

ジャパンナレッジで閲覧できる『大日本史』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

大日本史
だいにほんし
水戸藩主徳川家が編纂し、明治維新以後は同家が事業を継続して完成した漢文の歴史書。神武天皇から後小松天皇に至る時代を対象として中国の正史の体裁である紀伝体に従って叙述。本紀七十三巻、列伝百七十巻、志百二十六巻、表二十八巻、合計三百九十七巻(別に目録として五巻)から成る。第二代藩主徳川光圀は、まだ世子時代の明暦三年(一六五七)、江戸神田の別邸(のち駒込、現在の文京区本郷の東京大学農学部構内)に史局を設けて修史事業を開始し、寛文十二年(一六七二)にはこれを小石川の本邸(現在の文京区後楽園付近)に移して彰考館と命名した。ここに全国各地から多くの学者を集めたが、中でも安積(あさか)澹泊・佐々(さっさ)十竹(宗淳)・栗山潜鋒・三宅観瀾らは名高い。元禄の後半期には館員は五十人を越えた。編纂が本格化するのは史局を小石川に移してからで、天和三年(一六八三)までには神武天皇から後醍醐天皇までの時代を扱った「新撰紀伝」百四巻が完成した。しかし光圀はこれに不満で、改訂を命ずるとともに紀伝(本紀と列伝の総称)の範囲を広げて後小松天皇までとすることとした。紀伝の改訂は、延宝四年(一六七六)から始まった全国的な史料調査や、『保元物語』『平治物語』『源平盛衰記』『太平記』などの古典について異本を収集して校訂し、『参考保元物語』以下のいわゆる参考本を編む作業と並行して進められた。古文書・記録などの史料調査は、元禄六年(一六九三)までの間に主なものだけでも十三回行われ、京都・奈良を中心に高野山や吉野・熊野、さらには九州・北陸・東北にまで及んだ。しかし紀伝の改訂は思うように進捗せず、同十年になって神武から後小松までの本紀である「百王本紀」が一応完成した程度で、列伝は未完であった。同十一年、光圀は彰考館員の多くを江戸から水戸城内に移し(以後江戸と水戸双方に彰考館が置かれることとなった)、列伝の執筆を督励したので、同十二年までには皇妃・皇子・皇女の各伝ができ、列伝の草稿もほぼ整ったが、光圀(元禄十三年没)生前には紀伝全体の完成をみるに至らなかった。その後正徳五年(一七一五)四月に従来「本朝(之)史記」「倭史」などと呼ばれていた書名が「大日本史」と決まり(「大日本史」と「皇朝新史」との二つの候補のうち前者が採用された)、同年十一月、大井松隣の代作になる第三代藩主綱条の叙文が作られ、その十二月六日の光圀の忌日には、本紀七十三巻・列伝百七十巻、計二百四十三巻の清書本が光圀の廟に供えられた(正徳本『大日本史』)。編纂に際しては諸種の史料を比較対照して史実を究明し、文書については真偽の鑑定を行い、本文の間には出典の史料を逐一注記した。紀伝の構成では、神功皇后を本紀に立てず后妃伝に入れたこと、大友皇子の即位を認めて「天皇大友紀」を本紀に列したこと、南朝の天皇を正統として本紀に立てたことに特色があり、これらは世に三大特筆として知られている。光圀の修史の目的の一つは、この点を明確にするところにあったが、また光圀には林家の『本朝通鑑』に対抗し、独自の体裁と内容をもつ史書を編纂しようとする意図があった。古代の官撰史書である六国史や『本朝通鑑』がいずれも編年体であるのに、はじめて紀伝体を採用したのもその対抗心の表われとみられる。列伝は、后妃列伝十二巻、皇子列伝十四巻、皇女列伝六巻、列伝七十三巻、将軍列伝八巻、将軍家族列伝四巻、将軍家臣列伝二十二巻、文学列伝五巻、歌人列伝四巻、孝子列伝一巻、義烈列伝一巻、列女列伝一巻、隠逸列伝一巻、方技列伝一巻、叛臣列伝四巻、逆臣列伝一巻、諸蕃列伝十二巻から成る。列伝の構成は、基本的には中国の正史の例にならっているが、本紀と后妃・皇子・朝臣の列伝に対応するかたちで、将軍とその家族・家臣の列伝を立てた。これは、わが国の武家政治のあり方を考慮したからであり、文学列伝や歌人列伝を立てたのもわが国の歴史の実情をふまえた措置である。これら紀伝の編纂にあたっては、儒教の歴史観に基づいて、歴史上の人物に正閏是非の判断を下すところに主眼がおかれていた。すなわち、光圀はじめ編纂を担当した儒学者たちは、人間社会の動きは天の理法に支配されているのであるから、客観的な事実をありのままに記述すればそこにおのずから歴史を貫く天の理法が人々の前に示され、これが道徳上の教訓ないし政治上の鑑戒になる、と考えていたのである。叙文に「史は事を記す所以なり、事に拠りて直書すれば勧懲自ら見(あら)はる、上世より今に迄(いた)る、風俗の醇澆、政理の隆替、〓〓然として諸(これ)を掌に覩(み)るが如く、善は以て法と為すべく、悪は以て戒と為すべくして、乱賊の徒をして懼るる所を知らしめ、まさに以て世教に裨益し、綱常を維持せんとす」(原漢文)とあるのは、この趣旨である。先の三大特筆の主張は天の理法を明らかにする意図から出たものであり、入念な史料調査は確実な史実をありのまま記述した信頼できる史書を作らなくてはならない、と考えたからである。儒教思想の立場からする人物の評価は、享保元年(一七一六)から同五年にかけて安積澹泊の執筆した論賛に具体的に示されている。同五年、論賛を付載した本紀と列伝が幕府に献上された(享保本『大日本史』、二百五十巻)。安積はその後も紀伝の校閲を進め、元文二年(一七三七)にその作業を終えると、以後修史事業は約半世紀にわたって停滞した。なお、宝永七年(一七一〇)から続編編纂の議が総裁(江戸)酒泉竹軒らによって提案され、享保元年綱条が正式にこれを命じたが、続編のことは計画倒れに終った。天明六年(一七八六)総裁(水戸)となった立原翠軒は、修史事業の再興に熱意を傾け、はじめ懸案の志(部門別の制度史)・表(各種の官職表など)の編纂を推進しようとした。しかし藩財政の実情と人材の乏しい彰考館の現状に鑑み、これを中止しても寛政十一年(一七九九)の光圀の百年忌までには紀伝の公刊を果たしたいと考え、そのための校訂作業を急ぐこととした。当時の館員には、長久保赤水・青山拙斎(延于(のぶゆき))・小宮山楓軒・高橋坦室・藤田幽谷らがいたが、立原は安積の元文検閲本でさえ校訂を要する個所が残っているとみたので、藩外の塙(はなわ)保己一・柴野栗山(在江戸)・藤貞幹(在京都)らに助力を求めた。特に塙は出典の調査や本文の出入異同の点検を行い、多くの誤謬を改めた。ところが寛政九年から立原と藤田の師弟間に編纂上の意見の対立が表面化した。その発端は藤田が『大日本史』なる書名は適切でないから『史稿』とすべきであると提議したことにあった。藤田は、また、立原の志・表廃止もやむなしとする意見にも反対した。享和三年(一八〇三)には藤田派の高橋が「天朝百王一姓」のわが国においては臣下が天皇の行為を論評するごときは許されないとして、その削除を要求した。同年立原が辞任し、立原派の数名の館員も他の部署に移ると、彰考館は藤田の主導するところとなり(この両派の対立を史館動揺と呼んでいる)、まず志・表の編纂続行が、ついで文化六年(一八〇九)論賛全文の削除が決定した。書名も一時『史稿』と変わったが、この方は朝廷の意向に基づき旧に復することとなった。この間、紀伝の校訂は順次進行したので文化三年からは出版に着手、同六年神武紀から天武紀までの本紀二十六巻の版本を幕府に献じ、翌七年には藩主に代わって藤田が執筆した上表文を添えてこれを朝廷にも送付した。その後出版を継続し、紀伝二百四十三巻全部が完了するのは嘉永二年(一八四九)、これをさらに訂正し、幕府と朝廷に改めて献じたのは同五年である(百冊)。志・表の編纂計画は光圀時代からあり、享保元年には正式に修志の下命があり、同十五年には五年間の期限つきでその完成を目指したこともあったが、果たさなかった。このように難航を重ねてきた志・表の編纂を軌道に乗せたのは豊田天功である。豊田は仏事志・氏族志・食貨志・兵志・刑法志をつぎつぎと脱稿、精力的に編纂にあたったが、元治元年(一八六四)没して完成をみなかった。明治二年(一八六九)彰考館が水戸徳川家に帰属すると館員は削減され、豊田の門人栗田寛(栗里)・菅(かん)政友・津田信存ら十名ほどになったが、栗田らは志・表の草稿を校訂する一方、不備な部門は新たに稿を起して出版に取りかかった。同二十五年栗田が文科大学教授となって上京、津田も同年没してからは、青山延寿・清水正健・栗田勤らが校訂と出版にあたり、同三十九年二月、本紀・列伝・志・表の四部と目録合計四百二巻(徳川家蔵版、二百三十一冊、和本)が完成、一切の業務を終了した。十志と五表の名称と巻数は次のとおりである。神祇志二十三巻、氏族志十三巻、職官志五巻、国郡志三十三巻、食貨志十六巻、礼楽志十六巻、兵志六巻、刑法志二巻、陰陽志六巻、仏事志六巻、臣連二造表二巻、公卿表七巻、国郡司表十二巻、蔵人検非違使表四巻、将軍僚属表三巻。完成までに二百五十年もの歳月を要したこの修史事業は、歴史の学問的研究の進歩に寄与するとともに、皇統の正閏と忠臣・叛臣などの名分を厳しく論じたので、近世から近代にかけての尊王思想の発達に強い感化を及ぼした。またこの修史事業の中から、特に十九世紀前半、水戸学と称される独自の学風が醸成され、これが幕末期に昂揚した尊王攘夷思想の指導理念となった点でも注目される。活字本には、明治四十四年―大正七年(一九一八)に吉川弘文館から刊行された十五冊本、昭和四年(一九二九)に義公生誕三百年記念会編で大日本雄弁会から刊行された十六冊本(別に大日本史後付・大日本史紀伝人名索引一冊を付す)があるほか、田中正義訳解『訓蒙大日本史』四冊(神武紀から天皇大友紀まで。明治七年刊)、山路愛山の『訳文大日本史』五冊(明治四十五年―大正元年刊)、大日本史普及会編『訳註大日本史』十二冊(昭和十年刊、同三十九年再刊)などがある。論賛(賛藪)は、松本三之介・小倉芳彦校注『近世史論集』(『日本思想大系』四八)に全文が収録されている。→彰考館(しょうこうかん),→水戸学(みとがく)
[参考文献]
藤田幽谷『修史始末』(『幽谷全集』)、栗田勤『水藩修史事略』、菊池謙二郎『水戸学論藪』、日本学協会編『大日本史の研究』、坂本太郎『日本の修史と史学』(『日本歴史新書』)、吉田一徳『大日本史紀伝志表撰者考』、名越時正『水戸学の研究』、『水戸市史』中、『茨城県史』近世編、鈴木暎一『水戸藩学問・教育史の研究』、徳川慶光「水戸学(前期)」(徳川公継宗七十年祝賀記念会編『近世日本の儒学』所収)、加藤繁「大日本史と支那史学」(史学会編『本邦史学史論叢』下所収)、市村其三郎「大日本史の特色について」(同所収)、尾藤正英「水戸学の特質」(『日本思想大系』五三所収)、同「歴史思想」(『中国文化叢書』一〇所収)
(鈴木 暎一)


日本大百科全書(ニッポニカ)

大日本史
だいにほんし

水戸第2代藩主徳川光圀 (みつくに)(義公)が、全国から多くの歴史家を招いて編纂 (へんさん)した大部の日本史書。漢文体。全397巻、目録5巻。幕府の『本朝通鑑 (ほんちょうつがん)』と並んで江戸時代の二大史書とされる。光圀が修史の志をたてたのは1645年(正保2)18歳のときといわれ、翌年から学者を京都方面に派遣して古書の収集を始めた。57年(明暦3)2月振袖 (ふりそで)大火の直後、江戸の水戸藩駒込 (こまごめ)屋敷に史局を開き、修史事業を始めた。これが『大日本史』編纂の始めである。ときに光圀は30歳、まだ世子の時代で、当然、初代藩主父頼房 (よりふさ)の許しを得てのことであったろう。

 その史局が初めて彰考 (しょうこう)館と命名されたのは1672年(寛文12)で、光圀45歳、父の跡を継いで藩主となってから11年目にあたる。これ以後、数名から10名程度だった史館員は倍増し、のちに多いときは60名にも達しているから、史局が小石川 (こいしかわ)の本邸内に移されて命名されて以後、修史事業は本格的になったと考えられる。佐々宗淳 (さっさそうじゅん)、栗山潜鋒 (せんぽう)、三宅観瀾 (みやけかんらん)、安積澹泊 (あさかたんぱく)ら当時有数の学者を動員している。彰考館は光圀が引退後の1698年(元禄11)その大部分が水戸城内に移転され、以後、水戸、江戸の両地に置かれたが、第9代藩主斉昭 (なりあき)(烈公)時代に江戸は廃止された。

 中国の史記に倣って紀伝体の体裁をとった『大日本史』は、本紀 (ほんぎ)73巻、列伝170巻、志 (し)126巻、表 (ひょう)28巻に、神武 (じんむ)天皇から南北朝の終期に至る歴史を記述している。光圀在世中は本紀と列伝が脱稿した程度で、志・表をあわせて397巻、目録5巻が完成したのは1906年(明治39)水戸徳川家の手によるものであった。『大日本史』の特色は史料を尊重し、京都、奈良、吉野、紀州方面をはじめ、中国、九州、北陸の一部、東北地方などに館員を派遣し史料収集にあたらせたことである。また本文では「六国史 (りっこくし)」以外の史料については出典を明記している。内容では三大特筆といわれるもののうち、思想的に影響のあったのは、従来の常識を破って南朝を正統としたことである。この編纂事業を中心におこり、後世大成された学風を水戸学という。光圀と斉昭には「和文大日本史」の計画もあった。

[瀬谷義彦]



世界大百科事典

大日本史
だいにほんし

水戸藩で編纂し,明治維新後も水戸徳川家で事業を継続して,1906年に完成した漢文の日本史。神武天皇から南北朝時代の終末すなわち後小松天皇の治世(1382-1412)までを,中国の正史の体裁である紀伝体により,本紀73巻,列伝170巻,志126巻,表28巻の4部397巻(別に目録5巻)で記述している。この事業に着手したのは2代藩主徳川光圀で,1657年(明暦3)に江戸駒込の藩邸に史局を設け,72年(寛文12)にこれを小石川の上屋敷に移して彰考館と命名し,ここに佐々宗淳,栗山潜鋒,三宅観瀾,安積(あさか)澹泊ら多くの学者を集めて,編纂に従事させるとともに,佐々らを京都,奈良など各地に派遣して,古文書・記録など史料の採訪に努めた(なお光圀隠居後は水戸でも編纂が進められ,のち1829年(文政12)には彰考館は水戸に一本化された)。光圀時代の編纂は本紀と列伝,すなわち伝記的な叙述の部門を中心とし,儒教道徳の見地から人物の評価を定めるところに,その主眼が置かれていた。光圀の自伝(梅里先生碑文)に,〈皇統を正閏し,人臣を是非し,輯(あつ)めて一家の言を成す〉とあるのは,その趣旨で,〈一家の言〉すなわち光圀の独自の主張を,歴史叙述の上に表現しようとしたのである。神功皇后を皇妃列伝に入れ,大友皇子の即位を認めて大友天皇(弘文天皇)を本紀に立て,また南朝を正統として本紀に列した,いわゆる三大特筆はその主張を代表するものであった。人物に対する道徳的評価は,安積澹泊の執筆した論賛に明示されている。光圀の没後,1715年(正徳5)に本紀と列伝が脱稿され,20年(享保5)には幕府に献上された。

 この後,86年(天明6)ごろから事業が再興され,まず塙保己一らの助力を求めて,本紀・列伝を校訂し,1806年(文化3)から印刷に着手して,49年(嘉永2)に出版を完了した。この間に1809年(文化6)には論賛を削除し,翌年から朝廷へも献納されるようになった。制度史に相当する志・表の部の編纂は難航したが,幕末期の豊田天功と明治時代の栗田寛とが中心となって編纂を進め,10志(神祇,氏族,職官,国郡,食貨,礼楽,兵,刑法,陰陽,仏事)と5表(臣連二造,公卿,国郡司,蔵人検非違使,将軍僚属)として完成した。この長年月にわたる編纂事業は,歴史の学問的研究の発展に貢献するとともに,19世紀前半には水戸学とよばれる新しい学風を生み,思想界ならびに現実の政治上に大きな影響を及ぼした点で注目される。
[尾藤 正英]

[索引語]
徳川光圀 彰考館 水戸学
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日本史年表
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古事類苑
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7. 【大日本史】だいにほんし
新選漢和辞典Web版
《国》書名。三百九十七巻。神武天皇から後小松天皇までの歴史で、徳川光圀(みつくに)らの編著。
8. 大日本史(著作ID:43210)
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だいにほんし 徳川 光圀(とくがわ みつくに) 編 通史 文化三‐嘉永五刊
9. 『大日本史料』
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10. だいにほんしへんさんきろく【大日本史編纂記録】
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11. 大日本史料
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12. 大日本史料
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19. 大日本史/神祇志抄(著作ID:241101)
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21. 大日本史月晦杞憂(著作ID:358145)
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22. 大日本史賛藪(著作ID:43254)
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23. 大日本史跋(著作ID:4385880)
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24. 大日本史名称訓(著作ID:358167)
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25. 大日本史蒙求(著作ID:1067045)
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27. 大日本史類標(著作ID:358189)
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28. 進大日本史表(著作ID:358134)
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29. 『大日本史料』[図版]画像
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国史大辞典
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31. 『大日本史料』内容一覧2[図版]画像
国史大辞典
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32. 『大日本史料』内容一覧3[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
33. 『大日本史料』内容一覧4[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
34. 安積澹泊與大日本史編修 (見出し語:安積澹泊)
古事類苑
文學部 洋巻 第2巻 876ページ
35. 塙保己一校大日本史 (見出し語:塙保己一)
古事類苑
文學部 洋巻 第3巻 469ページ
36. しゅしゅんすい【朱舜水】(Zhū Shùnshuǐ)
世界人名大辞典
撰述したほか,光圀の求めで《学宮図説》を作り,彰考館をはじめとする水戸藩学の興隆にも貢献する.光圀の命による《大日本史》の編纂を中心とした前期水戸学の形成に対し
37. 会沢正志斎
世界大百科事典
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38. あいざわせいしさい【会沢正志斎】
国史大辞典
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39. あいざわ-せいしさい【会沢正志斎】
日本人名大辞典
1782−1863 江戸時代後期の儒者。天明2年5月25日生まれ。常陸(ひたち)水戸藩士。藤田幽谷にまなび,「大日本史」編修に従事。徳川斉昭(なりあき)を藩主に
40. あおうまのせちえ【白馬節会】
国史大辞典
初見とし(『類聚国史』)、持統朝のころには恒例化されていた(『大日本史』)。青馬御覧は仁明天皇承和元年(八三四)の記事を初見とし(『大日本史』)、弘仁二年(八一
41. あおねごう【青根郷】滋賀県:近江国/犬上郡
日本歴史地名大系
「和名抄」は諸本とも訓を欠く。郷名は古代文献に所見がない。郷域は「大日本史」国郡志・「大日本地名辞書」は青根浦ほか青根の地名を多く残す現彦根市の八坂、「日本地理
42. あおの-しゅくげん【青野叔元】
日本人名大辞典
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43. あおみごう【碧海郷】愛知県:三河国/碧海郡
日本歴史地名大系
「和名抄」東急本に「阿乎美」と訓ずる。郷域は諸説紛紛である。「大日本史」国郡志は西尾市西南部の旧巨海村とするが、地域的に無理であろう。「日本地理志料」は「季瓊日
44. あおみごう【青海郷】新潟県:越後国/蒲原郡
日本歴史地名大系
「和名抄」高山寺本は「阿乎美」、東急本は「安乎美」と訓を付す。「延喜式」神名帳に「青海神社二座」を載せる。「大日本史国郡志」は「今青海荘賀茂町有〓青海社
45. 青山拙斎
日本大百科全書
通称は量助(量介)、号は拙斎また雲竜。家学を受け、立原翠軒たちはらすいけんに学ぶ。1823年(文政6)『大日本史』編集事業の責任者彰考館総裁となる。1840年(
46. あおやま‐のぶみつ【青山延光】
日本国語大辞典
承けて、詩文・史学に長じ、彰考館の編修、藩校弘道館の教授頭取となり、徳川斉昭の信任が厚く、「大日本史」の校刊と藩政に携わる。著「国史記事本末」「野史纂略(さんり
47. あおやまのぶみつ【青山延光】
国史大辞典
同十四年家督を継ぎ(百五十石)小性頭で教授頭取を兼ねた。弘化三年(一八四六)再び彰考館に入り『大日本史』の校訂作業に尽力、嘉永二年(一八四九)の紀伝上木に際して
48. あおやま-のぶみつ【青山延光】
日本人名大辞典
青山延于(のぶゆき)の長男。常陸(ひたち)水戸藩につかえ,天保(てんぽう)14年藩校弘道館教授頭取となる。「大日本史」の校訂につくした。明治2年大学中博士。明治
49. あおやま‐のぶゆき【青山延于】
日本国語大辞典
父延彝は朱舜水の祠を掌っていた。立原翠軒(すいけん)に師事し、彰考館総裁、藩校弘道館の教授頭取となって「大日本史」の編纂(へんさん)に従う。著「皇朝史略」「文苑
50. あおやまのぶゆき【青山延于】画像
国史大辞典
編修となった。文政六年(一八二三)小納戸役上座格で江戸彰考館総裁に任ぜられ、館員を督励して『大日本史』の校訂と上木の作業を促進した。同九年からは藩主徳川斉修の命
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青砥稿花紅彩画(国史大辞典・世界大百科事典)
歌舞伎の世話狂言。二代目河竹新七(黙阿弥)作、五幕。文久二年(一八六二)三月、江戸市村座で十三代目市村羽左衛門(のちの五代目尾上菊五郎)らにより初演。「弁天小僧」「白浪五人男」などの通称で知られる。日本駄右衛門・弁天小僧菊之助・赤星十三郎・忠信利平
(国史大辞典・世界大百科事典)
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