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鎌倉大草紙

ジャパンナレッジで閲覧できる『鎌倉大草紙』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

鎌倉大草紙
かまくらおおぞうし
鎌倉御所足利氏を中心として関東の動静を記した史書。著者は東常縁に有縁の者との説もあるが、不詳。戦国時代ころの成立か。現行本は三巻。序文に「尊氏末流之遺書而関東大家之旧記」とあり、また下巻文中には『太平記』の欠を補うとの意あり、『太平後記』とも呼ばる。上巻は康暦元年(一三七九)足利氏満の幕府に対する反抗、上杉憲春の諫死事件に起筆し、小山氏の挙兵、伊達政宗の叛、上杉禅秀の乱、小栗満重の叛、甲斐武田氏のことなど関東諸将の鎌倉府に対する叛乱を記し、中巻は永享十二年(一四四〇)の結城合戦の状況と攻撃諸将の分捕注文を掲げ、下巻は足利成氏の関東下向による上杉氏との確執、上杉憲実の隠遁から関東の大乱に及び、東常縁・渋川義鏡の下向、ついで太田道灌の下総経営、文明十一年(一四七九)の臼井城攻略に終る。その間に足利学校・伊豆国清寺・千葉介・伊豆国などの来歴を記することあり、また下巻には常縁と斎藤妙椿との和歌贈答や武将の和歌なども収めている。本書はその記事にときに年次の誤りがあり、前後の齟齬・重複もあって、各巻記述の様式も異なるがごとくであるが、おおむね諸家の記録にもとづいて記したものらしく、根本史料に乏しい当時の関東の歴史を研究するには、重要な参考史料ということができる。本書はまず『群書類従』合戦部に収録されたが、当時は現在の上下両巻のみで巻を分かたず収められている。その後明治になって吉田意庵旧蔵の上中下三巻本が見出され、これが『(改定)史籍集覧』の第五冊に収録された。以来刊行の『群書類従』には中巻も補遺として収められ、『(新校)群書類従』『日本歴史文庫』などいずれも三巻本を収めている。またこの『鎌倉大草紙脱漏』は『我自刊我書』にも収む。ただし菅政友の考証によれば、この脱漏の中巻は『持氏記』と称するもので、その記事体裁からも本書とは全く別種の書であるという。おそらく本書は早くその中巻が失われ、後日『持氏記』なるものを以て欠を補ったのであろう。
[参考文献]
『群書解題』一三、菅政友「鎌倉大草紙」(『菅政友全集』所収)、黒川真頼「鎌倉大草紙考」(『黒川真頼全集』四所収)
(臼井 信義)


日本大百科全書(ニッポニカ)

鎌倉大草紙
かまくらおおぞうし

室町時代の合戦記。『太平後記』ともいわれる。全3巻。著者は東常縁 (とうつねより)の流れをくむ歌人とする説もあるが未詳。成立年代も不詳であるが、戦国期から近世初頭とされている。1379年(天授5・康暦1)より1479年(文明11)までの100年間の関東の政治動向を各年ごとに記したものである。関東における南朝の活動、鎌倉公方 (くぼう)の動き、上杉・千葉・結城 (ゆうき)氏らの対立・抗争、鎌倉府内の対立から起こった上杉禅秀 (ぜんしゅう)の乱、将軍と鎌倉公方の確執から始まった永享 (えいきょう)の乱、さらには結城合戦などの内乱が扱われており、15世紀における東国の政治情勢を知るうえで重要なものである。『改定史籍集覧』、『群書類従』合戦部所収。

[伊藤喜良]



世界大百科事典

鎌倉大草紙
かまくらおおぞうし

室町時代の戦記。3巻。異称《太平後記》。1379年(天授5・康暦1)の上杉憲春諫死(かんし)から1479年(文明11)の太田道灌臼井城攻略までの,約100年間にわたる関東の動静を記すが,応永末年から1439年(永享11)までの記事を欠いている。作者,成立年代ともに不詳であるが,歌人東常縁の系統をひく者の作とする説もあり,歌学・文学史研究の好史料でもある。《改訂史籍集覧》《群書類従》所収。
[外岡 慎一郎]

[索引語]
太平後記
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1. 鎌倉大草紙
日本大百科全書
室町時代の合戦記。『太平後記』ともいわれる。全3巻。著者は東常縁とうつねよりの流れをくむ歌人とする説もあるが未詳。成立年代も不詳であるが、戦国期から近世初頭とさ
2. 鎌倉大草紙
世界大百科事典
室町時代の戦記。3巻。異称《太平後記》。1379年(天授5・康暦1)の上杉憲春諫死(かんし)から1479年(文明11)の太田道灌臼井城攻略までの,約100年間に
3. かまくらおおぞうし【鎌倉大草紙】
国史大辞典
を以て欠を補ったのであろう。 [参考文献]『群書解題』一三、菅政友「鎌倉大草紙」(『菅政友全集』所収)、黒川真頼「鎌倉大草紙考」(『黒川真頼全集』四所収) (臼
4. 鎌倉大草紙(著作ID:138636)
新日本古典籍データベース
かまくらおおぞうし 鎌倉大双帋 太平後記 戦記 
5. 増補鎌倉大草紙(著作ID:350221)
新日本古典籍データベース
ぞうほかまくらおおぞうし 戦記 
6. あさくさ【浅草】東京都:台東区/旧浅草区地区地図
日本歴史地名大系
)には上杉氏に取立てられて在城していた下総市川城から逃れた千葉自胤は石浜城に入っている(「鎌倉大草紙」では実胤と誤る)。長禄三年(一四五九)には成氏と対立する堀
7. あさばごう【浅羽郷】埼玉県:坂戸市
日本歴史地名大系
奈川県横浜市金沢区)で出家した足利持氏に従い、同月七日長尾忠政らの攻撃を受けて自害した(「鎌倉大草紙」など)。応永四年(一三九七)五月三日の足利氏満挙状写(報恩
8. あしかががっこう【足利学校】
国史大辞典
たため、古記を失い、室町時代における学校の所在地さえ明らかでない。学校の創建については、『鎌倉大草紙』に古く小野篁が創設したものとあり、江戸時代にこの説が広く行
9. 足利学校
日本史年表
定める(榊原家所蔵文書)。 1467年〈応仁元(3・5) 丁亥〉 この年 長尾景人,下野 足利学校 を移建(鎌倉大草紙)。 1560年〈永禄3 庚申〉 6・7
10. あしかががっこうあと【足利学校跡】栃木県:足利市/足利町/足利五ヶ村
日本歴史地名大系
の東南に隣接する学問所兼図書館跡で、国指定史跡。現在、跡地内に足利学校遺跡図書館がある。「鎌倉大草紙」によると承和六年(八三九)小野篁の創立、上杉憲実の再建、応
11. 足利満貞(稲村御所)
日本史年表
鎌倉公方足利満兼,弟 満貞(稲村御所) ・ 満直(篠川御所) を陸奥に派遣し,南奥州支配の要とする(鎌倉大草紙)。 1439年〈永享11 己未①〉 2・10 没
12. 足利満直(篠川御所)
日本史年表
鎌倉公方足利満兼,弟 満貞(稲村御所) ・ 満直(篠川御所) を陸奥に派遣し,南奥州支配の要とする(鎌倉大草紙)。 1440年〈永享12 庚申〉 6・10 没。
13. あしがらとうげ【足柄峠】静岡県:駿東郡/小山町/竹之下村
日本歴史地名大系
とは珍しくなるが、文明八年(一四七六)六月、太田道灌は今川家の相続争いを収めるために越え(鎌倉大草紙)、聖護院門跡道興も富士山に登った後、足柄山を越え「足柄のや
14. あだちぐん【足立郡】埼玉県:武蔵国
日本歴史地名大系
展開するが(享徳の乱)、康正二年(一四五六)には成氏の重臣簗田持助が足立郡に打入って大半を制圧したという(鎌倉大草紙)。一方、室町幕府は関東管領山内上杉房顕を支
15. あだちぐん【足立郡】東京都:武蔵国
日本歴史地名大系
は成氏方の簗田持助が、下総関宿(現千葉県関宿町)から出撃して足立郡の大半を占拠したという(鎌倉大草紙)。同年の上野羽続原の戦闘では、上杉軍に敗退した成氏軍が足立
16. あまがすむら【甘粕村】埼玉県:児玉郡/美里町地図
日本歴史地名大系
河公方足利成氏方の長尾景春を攻めるため、扇谷・山内上杉勢が「甘粕原」などに陣を布いている(鎌倉大草紙)。年未詳の五月一三日の北条氏邦判物(写、「吉田系図」吉田久
17. あらかわ【荒川】東京都:総論地図
日本歴史地名大系
同年七月四日、荒河を渡河して村岡河原(現熊谷市)まで軍勢を進めたが、上杉性順・長尾景仲らに敗れた(鎌倉大草紙)。長尾景春討伐のため武相の軍勢を率いた太田道灌は、
18. いえのこ‐ろうどう[いへのこラウドウ]【家子郎等・家子郎党(ダウ)】
日本国語大辞典
、我が身はとどまり、子共家子郎等(イヱノコラウドウ)さしつかはす」(2)家臣たちの総称。*鎌倉大草紙〔16C中か〕「小山下野守七里灘にて馳むかひ防戦ひけるが、小
19. いかつこ【五十子】埼玉県:本庄市
日本歴史地名大系
陣頭指揮をとった。これを五十子陣とよぶ。房顕の五十子下向は長禄三年(一四五九)頃と推定され、「鎌倉大草紙」に「房顕ハ武州五十子といふ所に陣取、成氏衆と対陣して、
20. いずさんじんじゃ【伊豆山神社】静岡県:熱海市/伊豆山村
日本歴史地名大系
明寺旧蔵)。同二三年一〇月の上杉禅秀の乱に際し、伊豆山衆徒は禅秀方として蜂起したが敗れた(鎌倉大草紙)。享徳三年(一四五四)成立の「殿中以下年中行事」によると毎
21. いそべむら【磯部村】神奈川県:相模原市地図
日本歴史地名大系
。文明八年(一四七六)上杉氏に反旗をひるがえした長尾景春が「相州磯辺の城」に拠ったことが「鎌倉大草紙」にみえる。天文一九年(一五五〇)四月一日の税制改革により「
22. いたばし【板橋】東京都:板橋区
日本歴史地名大系
練馬城・石神井城(現練馬区)から出陣した豊島平右衛門尉とともに「板橋・赤塚以下百五十人」が討死している(鎌倉大草紙)。この時、板橋は豊島氏の拠点の石神井・練馬両
23. いなむら【稲村】福島県:須賀川市
日本歴史地名大系
応永六年(一三九九)春関東公方足利満兼は陸奥・出羽両国の押えとして当地に弟満貞(稲村御所)を配置した(鎌倉大草紙)。同年七月、満兼は陸奥・出羽巡行のため鎌倉を出
24. いぬかけうえすぎし【犬懸上杉氏】 : 上杉氏/(三)
国史大辞典
犬懸(いぬかけ)上杉氏と称する。憲藤が祖。憲藤は暦応元年(一三三八)信濃で戦死し、朝房・朝宗が残されたが(『鎌倉大草紙』)、のちに両人とも上総守護となった。特に
25. いるまがわのじんあと【入間川陣跡】埼玉県:狭山市地図
日本歴史地名大系
永享一二年(一四四〇)の結城合戦では関東管領方の長尾景仲が入間川に陣取りして軍勢の到着を待っている(鎌倉大草紙)。
26. いわつきし【岩槻市】埼玉県地図
日本歴史地名大系
が対峙、持朝は古河公方に対する押えとして家臣太田氏に長禄元年(一四五七)岩付城を築かせた(鎌倉大草紙)。以後太田氏が居城し、資家―資頼―資時―資正―氏資(資房)
27. いわつきじょうあと【岩槻城跡】埼玉県:岩槻市/岩槻城下地図
日本歴史地名大系
として、長禄元年(一四五七)に扇谷上杉持朝家臣太田道真(資清)によって築城されたとされる(鎌倉大草紙)。しかし永享一二年(一四四〇)七月結城合戦勃発に伴う武蔵村
28. うえさま【上様】
国史大辞典
明徳記』)、次第に将軍の尊称となったようであるが、将軍嗣子(『御産所日記』)、関東公方(『鎌倉大草紙』)、小弓御所(『快元僧都記』)などにも用いられ、戦記の類で
29. うえすぎし【上杉氏】画像
国史大辞典
犬懸(いぬかけ)上杉氏と称する。憲藤が祖。憲藤は暦応元年(一三三八)信濃で戦死し、朝房・朝宗が残されたが(『鎌倉大草紙』)、のちに両人とも上総守護となった。特に
30. 上杉房顕
日本史年表
8) 丙戌②〉 2・12 上杉房顕 ,錦の御旗を奉じ武蔵五十子陣に足利成氏と対陣中に没す(鎌倉大草紙)。
31. 上杉政真
日本史年表
1473年〈文明5 癸巳〉 11・24 上杉政真 ,足利成氏と武蔵五十子で戦い敗死(鎌倉大草紙)。
32. 雨月物語 308ページ
日本古典文学全集
。上杉憲忠。関東管領は幕府任命。史実では総州下河辺城(現茨城県古河市内)に逃れた。以上、『鎌倉大草紙』『後太平記』等に基づいて記している。ここでは関東地方。混乱
33. うすいじょうあと【臼井城跡】千葉県:佐倉市/臼井台町地図
日本歴史地名大系
方足利方の千葉孝胤が太田道灌との境根原(現松戸市)の合戦で敗退し、臼井城に籠城したという(鎌倉大草紙)。同一二年頃と推定される一一月二八日の太田道灌書状写(松平
34. うすいとうげ【碓氷峠】群馬県:碓氷郡/松井田町
日本歴史地名大系
」小笠原文書)、永享一二年(一四四〇)の結城合戦でも信州勢を防ぐ要衝として臼井峠がみえる(鎌倉大草紙)。永禄四年(一五六一)三月の長尾景虎(上杉謙信)小田原北条
35. うらわし【浦和市】埼玉県地図
日本歴史地名大系
長禄元年には関東管領上杉房顕を支援するため蕨城にゆかりのある渋川義鏡が関東に派遣されるなど(鎌倉大草紙)、市域周辺では様様な動きがみられた。またこの頃太田道灌の
36. えいきょうき【永享記】
国史大辞典
『北条記』(一名『小田原記』、同)、『相州兵乱記』(一名『関東兵乱記』、『群書類従』合戦部)、『鎌倉大草紙』(同)などの類書と関係が深く、これらの類書は、その内
37. えいげんじ【永源寺】山梨県:中巨摩郡/玉穂町/下河東村
日本歴史地名大系
としている。「寺記」には「開基加藤三郎兵衛照政法名儀ハ加藤荒梵見居士」とある。加藤梵玄は「鎌倉大草紙」によれば加藤景廉の末孫で、無双の大力。応永二四年(一四一七
38. えがらじんじゃ【荏柄神社】
国史大辞典
鎌倉公方が正月二十三日と二十五日に参詣、千句の催し、二月二十三日より二十五日までは参籠する例であった。『鎌倉大草紙』によれば、康正元年(一四五五)今川範忠が鎌倉
39. えがらてんじんしゃ【荏柄天神社】神奈川県:鎌倉市/二階堂村地図
日本歴史地名大系
成氏追討のため今川範忠が鎌倉に乱入した際、当社神体が掠奪されたが、その後神体は自ら荏柄へ帰ったという(鎌倉大草紙)。「鎌倉大日記」はこの神体を天神自筆の画像と伝
40. えげ‐でら[ヱゲ‥]【会下寺】
日本国語大辞典
〔名〕会下僧のいる寺。*鎌倉大草紙〔16C中か〕「憲実入道を雲洞菴高岩長棟菴主と称し、長門国深川大寧寺と申会下寺にうつしをき」*咄本・鹿の巻筆〔1686〕四・六
41. えごたむら【江古田村】東京都:中野区地図
日本歴史地名大系
武蔵国の豪族豊島氏がこれに同調した。太田道灌らは豊島泰明の居城平塚城(現北区)を攻めた。「鎌倉大草紙」には「太田道灌、上杉刑部少輔、千葉自胤已下、江古田原、沼袋
42. 江戸近郊道しるべ 58ページ
東洋文庫
所沢(埼玉県所沢市)へ も行べしといふ五重考、豊嶋権頭は、『東鑑』に見ゆ、豊島は秩父の畠山より出、『鎌倉大草紙』に、豊島勘解由左 衛門、太田左衛門大夫持資(道灌
43. えのしま【江の島】神奈川県:藤沢市/片瀬村地図
日本歴史地名大系
上杉山内家の家宰長尾景仲は鎌倉の関東公方足利成氏(永寿王丸)を襲い、成氏は江の島に逃れた(鎌倉大草紙)。永正元年(一五〇四)北条早雲は山内顕定を攻略するため江の
44. えばらむら【江原村】埼玉県:深谷市地図
日本歴史地名大系
ると、建武二年(一三三五)一一月足利尊氏追討のための新田義貞軍に荏原下総守が従っており、「鎌倉大草紙」では応永二三年(一四一六)の上杉禅秀の乱で荏原氏が禅秀方に
45. えまのしょう【江馬庄】静岡県:田方郡/伊豆長岡町
日本歴史地名大系
命じている(同年一二月五日「上杉能憲書下写」武州文書)。のちに守護畠山国清が庄内に吉祥寺を創建した(鎌倉大草紙)ことから考えて、寺岡氏が観応の擾乱で直義党であっ
46. おうぎがやつむら【扇ヶ谷村】神奈川県:鎌倉市地図
日本歴史地名大系
「太平記」には元弘三年(一三三三)新田義貞の鎌倉攻めに際し、天狗堂と扇ヶ谷で合戦が行われたらしいと伝え、「鎌倉大草紙」には応永二三年(一四一六)上杉禅秀の乱緒戦
47. おおくぬぎむら【大椚村】山梨県:北都留郡/上野原町
日本歴史地名大系
ったとする説もある。また同絵図では古宿北東方の鶴川村境に古戦場と記された地があり、同所を「鎌倉大草紙」にみえる文明一〇年(一四七八)三月の太田道灌による鶴川攻め
48. 太田資長・太田道灌
日本史年表
太田道灌,長尾景春を武蔵鉢形城で破る(鎌倉大草紙)。 1479年〈文明11 己亥⑨〉 1・18 太田道灌の兵,下総 白井城 の千葉孝胤を攻囲(鎌倉大草紙)。 1
49. おおどりじょうあと【青鳥城跡】埼玉県:東松山市/石橋村地図
日本歴史地名大系
永享一二年(一四四〇)の結城合戦に出陣する前関東管領上杉憲実は、「野本・唐子に逗留」したという(鎌倉大草紙)。当地は野本・唐子の間にあるから当城に逗留した可能性
50. おおもりやま【大森山】静岡県:裾野市/深良村
日本歴史地名大系
の上杉禅秀の乱に際し、鎌倉公方足利持氏が大森頼春の兄弟にあたる箱根別当証実の庇護を受け(「鎌倉大草紙」など)、「当国駿河大森」(「満済准后日記」同年一〇月一八日
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