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  11. 公事方御定書

公事方御定書

ジャパンナレッジで閲覧できる『公事方御定書』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

公事方御定書
くじかたおさだめがき
江戸幕府の司法法典。当初幕府では司法事件は先例および単行法令で裁判したが、八代将軍徳川吉宗の享保時代になると、先例も相当たまってきた。立法に興味を持っていた吉宗は、先例を主たる資料とし、新しい取極も含めた、主として庶民を対象とする法典の編纂を計画した。元文年間(一七三六―四一)に編纂は開始されたが、やがて老中松平左近将監乗邑を主任とし、寛保二年(一七四二)に完成した。吉宗はこの編纂には非常に熱心で、担当の御定書掛の奉行からの上申をしばしば自分の意見で改めている。上下二巻に分かれる。上巻は八十一通の法令を収めた法令集である。下巻は先例・取極などから成っている。いずれも条文の体裁に整理されているが、双方とも成立の年代が記載されており、成立年代が不明のものは「従前々之例」のように記載されているのであって、先例集的色彩が強い。内容は刑法に関する規定がもっとも多いが、民事法や訴訟法も含まれていて、単なる刑法典ではない。一定の理論で編纂されたものでないから、重要事項が網羅されているわけではない。刑罰については「中分」を規定するものとされており、情状によってそれより重科しまたは軽科するたてまえであった。下巻の終りには、「奉行中之外不〓〓〓他見〓者也」とあって、秘密法典であった。『御定書』下巻は、元来各奉行の伺につき老中より諮問のあった事件の、評定所での評議の基準として作られたものであるから、評定所で評議を行う三奉行(寺社・町・勘定奉行)には在職中交付されたが、それ以外の者の閲覧が禁止された。これは、江戸時代前半期の刑罰が苛酷であったのに対して、『御定書』では相当これを緩和したので、これを公布すると、そのことを知った庶民が犯罪を行いやすくなるのではないかと懸念したためと考える。なお、三奉行のほか、京都所司代および大坂城代にも在職中交付された。『御定書』下巻は寛保二年に制定された以後の加除改訂は本文を変更することによってなされ、延享二年(一七四五)以後はこれを別書に収めることになったが、現存の普通の『御定書』の写本には宝暦四年(一七五四)までの追加が収められていて、百三条より成り、『御定書百箇条』などと呼ばれた。右別書は『御定書ニ添候例書』と称し、元文四年より寛政八年(一七九六)までの判例を収める。『御定書』の制定以後は、『御定書』に規定のある事項は『御定書』によって裁判すべきものとされたが、『御定書』に規定のない事項については「例」すなわち先例によって裁判すべきものとされていた。時には『御定書』の規定に反する先例も生まれていることを注意すべきであり、判例を離れては『御定書』の史的研究はできないのである。『御定書』の条文の意味をはっきりさせるために、『御定書』編纂に関する資料を整備しておく必要が感ぜられたが、その編纂が完成したのは明和四年(一七六七)であって、『科条類典』と名づけられた。『科条類典』を基礎として、その各条に類例・裁許例・比罪例を加えたものが『徳川禁令考後聚』である。『公事方御定書』の原本は関東大震災で焼失した。近ごろ、原本の写本というものが紹介されているが、なお吟味を要するようである。『御定書』は三奉行のほかは他見を許さないとされたが、評定所で実際に裁判の審理にあたるものは留役らであり、かれらの中には職務上の必要からひそかに『御定書』を写して持っているものがあった。しかしこうした写本には誤りが少なくないので、勘定奉行所では天保十二年(一八四一)にその校正本を作った。これが『棠蔭秘鑑』と呼ばれるものであって、当時の写本としてはもっとも信頼できるものである。諸藩で作った刑法典では、福井藩の『御仕置条目』、盛岡藩の『文化律』、亀山藩の『議定書』は『公事方御定書』系統の刑法典として知られている。なお、松平定信の執政時代に『御定書』を改定したものという『寛政刑典』が伝わっているが、実施された形跡はない。『公事方御定書』の編纂は庶民を対象とする法制に対して幕府が大きな関心を持つようになったことを示すものというべく、それは庶民勢力の擡頭という時代の大きな動きを示すものである。石井良助校訂『徳川禁令考』別巻には天保十二年に作成された『棠蔭秘鑑』(すなわち『公事方御定書』の校正写本)十三部中の一部を底本にその翻刻を収めている。→科条類典(かじょうるいてん)
(石井 良助)


日本大百科全書(ニッポニカ)

公事方御定書
くじかたおさだめがき

江戸幕府が初めて編纂 (へんさん)した裁断判例集。「御定書百箇条」とも称せられる。上下2巻。上巻は81条、司法関係の触書 (ふれがき)や諸例規を集め、下巻がいわゆる百箇条で、実際には103条からなり、500項目余りに分かれ、判例や慣習に基づいて、判決の基準となるべき条例を編纂したもので、刑事関係が過半を占めている。編纂の発端は1720年(享保5)8代将軍徳川吉宗 (よしむね)が評定所 (ひょうじょうしょ)に対し、各種犯罪者に対する量刑の基準をあらかじめ設定しておき、個々の判決に際しては罪の軽重を勘考して加減するように命じたことにあるといわれる。このときは町奉行 (ぶぎょう)大岡忠相 (ただすけ)が担当し、24年「享保度法律類寄 (きょうほうどほうりつるいよせ)」という14類86条の法規集として呈出した。37年(元文2)に至り、改めて評定所に御定書編纂の命令が下り、勘定奉行杉岡能連 (よしつれ)が主任となり、翌年上下2巻の原型が成立した。この年能連が死去したので、寺社奉行牧野貞通 (さだみち)、町奉行石河政朝 (いしこまさとも)、勘定奉行水野忠伸 (ただのぶ)が担当し、条文ごとに将軍吉宗の意向を確かめつつ、42年(寛保2)に編纂を完了した。その後新判例や訂正を追加していったが、45年(延享2)に至ってこれをやめ、その後は原則として「例書」という形でまとめることとなった。また54年(宝暦4)から御定書編纂に関する諸記録文書類を各条文ごとに配列する編纂が開始せられ、1767年(明和4)に完成した。これを「科条類典」という。御定書は秘密文書とされ、奉行のほか他見を禁ずる旨老中松平乗邑 (のりさと)の申渡しがあるが、とくに下巻は写本がかなり広く流布している。

 御定書は判例や慣習の集成であって新法の制定ではないが、享保以前からの例を採用した項目は4分の1ほどで、他は享保期に発布または改訂をみたものである。ことに将軍吉宗の意向が反映しているとみられる箇所が多数あり、享保の改革において司法関係の制度上運用上の改善に当局者がいかに力を注いだかをしのばせるとともに、この時期の政治上の重要課題を法文の制定や改訂のなかに読み取ることができる。たとえば審理の促進(上42~47条)、追放の制限(上52条)、残酷な刑罰の緩和(上40条=縁坐 (えんざ)の制限、下83条=拷問の制限)、時効の制定(下18条)、誤(謝)証文 (あやまりじょうもん)強制徴取の禁止(下16条)などは司法制度の合理的または文治的改革である。また田畑永代売買の罰則緩和(下30条)や質地関係諸規則(上57条、下31・32条)、借金銀関係諸規則(下34~40条)などからは、金融や信用取引の繁雑化と農地関係の変動という時代の趨勢 (すうせい)がうかがえる。さらに百姓一揆 (いっき)の罰則の成文化、ことに1643年(寛永20)以来容認されていた領主・代官非法ある場合の逃散 (ちょうさん)も処罰の対象としたこと(下28条)は、激化する農民の抵抗に寛容性を失った当局の姿勢が示されている。御定書はこの後の裁判に大きく影響し、条文に拘泥する弊を生ぜしめていったという。

[辻 達也]



世界大百科事典

公事方御定書
くじかたおさだめがき

江戸時代,8代将軍徳川吉宗が裁判,行政の準拠として編纂させた幕府の内規集。上下2巻から成り,主として裁判に関する幕府の基本法であった。編纂は老中松平乗邑(のりさと)のもとに寺社・町・勘定の三奉行を委員としておこなわれ,法律に関心の深かった吉宗自身の意見も随所に反映されている。1742年(寛保2)に一応でき上がり,奥書が書かれたので,一般にこの年を成立の時期とする。しかし編集は続行され,実質的に完成したのは翌年であり,その後も〈追加〉が54年(宝暦4)まで書き加えられている。なお本文に追加されなかった重要判例は,〈御定書に添候例書〉という追加別冊におさめられ,本文と同様の効力を有した。《公事方御定書》上巻は裁判,警察,行刑などに関する重要な法令81通をおさめた法規集である。下巻は若干の民事的規定,民刑事訴訟法的規定と,多数の刑法的規定をおさめ,103条から成るので俗に御定書百箇条ともいう。そこでは犯罪の構成要件とこれに対する刑罰が条文の形で書かれ,かつ民事的訴訟法的規定も一応条文化されているので,これを法典とみることもできる。しかし大部分の条項は判例を抽象化,法規化したものにすぎず,下巻の主たる部分は,実質的には判例法であった。とはいえ後になると,《公事方御定書》下巻は幕府内外で法典として扱われる傾向を生じた。《公事方御定書》は公布されたものではなく,三奉行およびこれに準ずる大坂城代,所司代以外他見を許されない,部外秘の執務規則ないし内規集であった。これは〈民は由(よ)らしむべし,知らしむべからず〉という儒教的政治観から,政務について人民に知らせず,それによって幕府の威厳を保ち,かつ人民を畏怖せしめて犯罪を防止せんとしたためである。しかしその秘密性はやがて有名無実となり,写本が幕府外にも伝わって,諸藩の法制に大きな影響を与えた。《公事方御定書》を模範とした藩法典も,福井藩,松代藩,福山藩など数藩で編纂されている。
[林 由紀子]

[索引語]
松平乗邑 御定書百箇条
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検索コンテンツ
1. 『公事方御定書』
日本史年表
1・26 幕府、三奉行に刑罰基準の制定を命じる( 公事方御定書 の淵源)(享保撰要類集)。 1742年〈寛保2 壬戌〉 4・‐ 幕府、 『公事方御定書』 完成に
2. くじかた‐おさだめがき【公事方御定書】
日本国語大辞典
江戸幕府の法典。二巻。寛保二年(一七四二)成立。八代将軍徳川吉宗の命により、老中松平乗邑(のりむら)の下で、寺社・町・勘定三奉行が現行の法令、判例を整理して編集
3. 公事方御定書
日本大百科全書
江戸幕府が初めて編纂へんさんした裁断判例集。「御定書百箇条」とも称せられる。上下2巻。上巻は81条、司法関係の触書ふれがきや諸例規を集め、下巻がいわゆる百箇条で
4. 公事方御定書
世界大百科事典
る部分は,実質的には判例法であった。とはいえ後になると,《公事方御定書》下巻は幕府内外で法典として扱われる傾向を生じた。《公事方御定書》は公布されたものではなく
5. くじかたおさだめがき【公事方御定書】
国史大辞典
亀山藩の『議定書』は『公事方御定書』系統の刑法典として知られている。なお、松平定信の執政時代に『御定書』を改定したものという『寛政刑典』が伝わっているが、実施さ
6. 公事方御定書(くじかたおさだめがき)
古事類苑
法律部 洋巻 第2巻 113ページ
7. くじかた‐おさだめがき【公事方御定書】
法律用語辞典
江戸幕府の法典。八代将軍徳川吉宗の命により老中松平乗邑(のりさと)と三奉行を中心として、先例、取決め等を整理して編纂(へんさん)したもの。上・下二巻より成り、上
8. 公事方御定書(著作ID:162414)
新日本古典籍データベース
くじかたおさだめがき 法制 寛保二
9. あずけ【預】
国史大辞典
しておくものである。預中の者は預り人監督のもとで籠居・謹慎しているべきであり、逃走すれば『公事方御定書』の規定により吟味中の犯罪に科すべき刑より一等重く罰せられ
10. あやまりじょうもん【誤証文】
国史大辞典
おこたりぶみ・怠状・過状などともいう。主として私人間で行われたが、江戸幕府は元文五年(一七四〇)『公事方御定書』に規定して裁判手続上、役人が当事者に誤証文を強制
11. いしだき【石抱】
国史大辞典
江戸幕府の拷問方法の一つ。幕府では『公事方御定書』制定以後、拷問には笞打・石抱・海老責・釣責(つるしぜめ)の四種が認められたが、このうち前三者は牢問と称して牢
12. いれずみ
日本大百科全書
すべき旨を定めた。このいれずみの採用には、中国の明みん律の刺事しじの影響があると思われる。公事方御定書くじかたおさだめがきでは、いれずみは主として盗犯に用いるべ
13. 入墨/刺青画像
世界大百科事典
(しじ)の影響がある。同年に始められた敲(たたき)刑とともに,窃盗罪に対する刑罰として,《公事方御定書》以後,幕府法上最も用いられた刑種であった。庶民に適用され
14. いれずみけい【入墨刑】
国史大辞典
代えて採用したもので、同年に始められた敲(たたき)の刑とともに、窃盗犯に対する刑罰として『公事方御定書』制定以後幕府法上最も用いられた刑種であった。古代には黥(
15. いんきょ【隠居】
国史大辞典
大名・旗本を含む高級武士にも適用される刑罰であるから、主として庶民の犯罪について規定する『公事方御定書』はこれについて規定していない。もっとも幕府は刑罰としての
16. いんきょ【隠居】 : 隠居/(二)
国史大辞典
大名・旗本を含む高級武士にも適用される刑罰であるから、主として庶民の犯罪について規定する『公事方御定書』はこれについて規定していない。もっとも幕府は刑罰としての
17. 江戸時代(年表)
日本大百科全書
1740(元文5)摂津の村々連合し肥料商人を訴える(国訴の始まり)1742(寛保2)4月 公事方御定書を制定1744(延享1)神尾春央ら畿内東海の天領を巡察。年
18. えどじゅうりしほうついほう【江戸十里四方追放】
国史大辞典
この時、江戸十里四方より外に居住する者については、その地にも立ち入ることを禁止している。『公事方御定書』によれば、普通は田畑・家屋敷は闕所しないが、その犯罪が利
19. えどばくふ【江戸幕府】画像
国史大辞典
合もあった。はじめ法典も編纂されず、慣例先例で裁判が行われたが、享保の改革の時制定された『公事方御定書(くじかたおさだめがき)』がその後長く用いられ、さらにこれ
20. えどばらい【江戸払】
国史大辞典
江戸幕府の刑罰で、追放刑の一つ。『公事方御定書』によって制度が整ったが、品川・板橋・千住・四谷の大木戸内、および本所・深川の町奉行支配地を構い、そこへの立入り
21. えどまちじゅうさだめ【江戸町中定】
国史大辞典
『徳川禁令考』には、本法について「御定書制定後ハ此定ヲ用ヰス」と註しているから、この町中定は以後『公事方御定書』の制定に至るまで、町人の訴訟裁断の基準とされたこ
22. えびぜめ【海老責】画像
国史大辞典
江戸幕府の拷問方法の一つ。幕府では『公事方御定書』制定以後、牢問と狭義の拷問とを区別したが、海老責は牢問の一種である。天和期に火付盗賊改中山勘解由が始めたと伝
23. 縁坐
日本大百科全書
享保きょうほう9年(1724)の法令は、縁坐を主殺し、親殺し、および格別重い科の者の子に限っている。公事方御定書くじかたおさだめがきは元文げんぶん2年(1737
24. えんざ【縁坐】
国史大辞典
坐を主殺し・親殺しおよび格別重い重科の者の子に限ったが、寛保二年(一七四二)に制定された『公事方御定書』は元文二年(一七三七)の法令によって、さらにその範囲を主
25. 遠島
日本大百科全書
律令りつりょう時代の遠流おんるの後身のようにみえるが、遠流は辺地に放逐することで、遠島とは異なる。江戸幕府の公事方御定書くじかたおさだめがきの規定では、江戸から
26. 遠島
世界大百科事典
流罪(るざい)ともいい,その罪人を流人(るにん)という。離島に送り,島民と雑居して生活させる刑で,《公事方御定書》(1742)以後制度が整った。武士,僧侶神職,
27. えんとう【遠島】
国史大辞典
であり、死刑につぐ重刑であり、過失殺、博奕の主犯、女犯(にょぼん)の住持などに科された。『公事方御定書』制定以後制度が整ったが、幕府は全国に散在する奉行や代官の
28. おいおとし【追落】
国史大辞典
態様や、これにどのような刑が科せられたかは詳らかでない。追落の名は江戸時代にも用いられ、『公事方御定書』の盗人御仕置之事の中に「追落いたし候もの 死罪」と規定さ
29. 追いはぎ
日本大百科全書
語』28の「いかなる者ぞと問へば……ひはぎに候」にみるようにヒハギともいった。江戸幕府は『公事方御定書くじかたおさだめがき』で「追いはぎ」と「追落し」とを区別し
30. 大岡政談 1 375ページ
東洋文庫
)これは将軍自身の司法改革への関心の強さを示す行動であった。また寛保二年(一七四二)江戸幕府最初の成文法典『公事方御定書』の制定をみたのは、享保初期以来の改革の
31. おさだめがき‐がかり【御定書掛】
日本国語大辞典
〔名〕江戸幕府評定所内の職名。正式には公事方御定書掛。当時秘書とされていた御定書百箇条の保管に当たるもので、桐箱に入れられた御定書を老中から寄託された。寺社、町
32. おさだめがき‐ひゃっかじょう[‥ヒャクカデウ]【御定書百箇条】
日本国語大辞典
八代将軍吉宗が、寛保二年(一七四二)に編纂した「公事方(くじかた)御定書」の下巻のこと。「公事方御定書」の上巻が、重要な書付、触書、高札など八一種を原形のまま集
33. 御定書百箇条
日本大百科全書
公事方御定書
34. 御定書百箇条
世界大百科事典
公事方御定書(くじかたおさだめがき)
35. おさだめがきひゃっかじょう【御定書百箇条】
国史大辞典
公事方御定書(くじかたおさだめがき)
36. 御仕置裁許帳
世界大百科事典
例集が編集された。《御仕置裁許帳》はこの種のもののうち最大かつ比較的よく編成されており,《公事方御定書》制定(1742)以前の幕府刑政を見る重要な記録である。江
37. おしおきさいきょちょう【御仕置裁許帳】
国史大辞典
寺社奉行・勘定奉行所轄の事件も収録されている。江戸の奉行所に関する最初のまとまった刑事判例集であり、『公事方御定書』以前の幕府中央の刑政を見るのに重要である。対
38. 御仕置例類集
世界大百科事典
て類別したもので,いわば江戸幕府最高裁判所の刑事判例集といえる。構成はよく整い,主として《公事方御定書》(1742)の解釈をめぐる議論の程度も高く,当時の刑政,
39. おしおきれいるいしゅう【御仕置例類集】
国史大辞典
評議は多く『公事方御定書』の解釈をめぐって展開されたが、ときには二度、三度と評議は重ねられ、少数意見も付されていて、御定書の運用、幕府刑政の実情を窺うことができ
40. おしこめ【押籠】
国史大辞典
諸史料に散見する。これらは検非違使庁の例の後身といえよう。徳川幕府法では自由刑の一種として定立される。『公事方御定書』には「押込 他出不〓
41. 御尋ね者
日本大百科全書
触れ出して全国的に尋ね(捜査)を命じたため、俗間でこうよばれた。人相書の制度は以前からあったが、『公事方御定書くじかたおさだめがき』により整った。つまり、幕府に
42. 御触書集成
日本大百科全書
集成』『御触書天保集成』の総称である。8代将軍徳川吉宗は、1742年(寛保2)にいわゆる「公事方御定書」が完成した直後、それまで個別に出されていた幕府法令の編纂
43. 御触書集成
世界大百科事典
火事・犯罪の予防,犯罪者の捜査などに関するものが多い。将軍徳川吉宗は法令の整備につとめ,《公事方御定書》(1742)の制定後,評定所に命じて1615年(元和1)
44. おふれがきしゅうせい【御触書集成】
国史大辞典
八代将軍徳川吉宗は寛保二年(一七四二)三月に『公事方御定書』を制定した直後、評定所に元和元年(一六一五)以後の幕府法令の編集を命じた。『御触書集成』の編集は、『
45. かいえき【改易】
国史大辞典
身分の喪失、およびこれらと不可分な封禄授給関係の終了をさすこととなった。江戸幕府法では、『公事方御定書』下巻一〇三条に、「改易 大小渡し、宿え相帰し、夫より立退
46. かけおち【欠落】
国史大辞典
建家と家財は妻子に取得させた。欠落人に罪科がある場合には、農民・町人を問わず、その財産は没収された。『公事方御定書』下によれば、夫が家出してから十ヵ月を経たなら
47. かけかんばん【掛看板】
国史大辞典
先に評定所といったが、掛看板には評定所という言葉はみえず、評定所にあたるものを寄合場と呼んでいる。掛看板は『公事方御定書』上巻第二条に載せてあるが、これによると
48. 科条類典
日本大百科全書
公事方御定書くじかたおさだめがき」および「御定書ニ添候例書」の立法資料集で、上下2巻・付録1冊。「公事方御定書」は8代将軍徳川吉宗よしむねの積極的関与によって
49. 科条類典
世界大百科事典
公事方御定書》(1742)の立法史料集。《公事方御定書》編集のときの諸記録,文書類は評定所に数十冊存したが,年を経て散逸するおそれがあり,また評定所一座が老中
50. かじょうるいてん[クヮデウルイテン]【科条類典】
日本国語大辞典
江戸時代の法律記録集の一つ。幕府が明和四年(一七六七)に、公事方御定書編纂に関する諸記録、文書類を、各条ごとに分類整理したもの。三奉行(寺社・町・勘定奉行)が、
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歌舞伎の荒事劇の一つ。元来独立の狂言ではなく、江戸歌舞伎の狂言中に設定された類型的な一場の通称。危機的な場面に「しばらく、しばらく」と声をかけて主人公が登場することから『暫』と呼ばれた。初代市川団十郎の創始と伝えられ、内容を確認できる最古のものは
大塔宮曦鎧(新版 歌舞伎事典)
(1)人形浄瑠璃。時代物。五段。角書「太平記/綱目」。別名題《太平記曦鎧》。竹田出雲・松田和吉作。近松門左衛門添削。享保八(1723)年二月大坂・竹本座初演。《太平記》に題材を仰いだ作品で、北条氏討伐を図って挙兵した大塔宮が苦難の後に六波羅を攻略する
伊賀越道中双六(新版 歌舞伎事典・日本大百科全書)
(1)人形浄瑠璃。時代物。十段。近松半二・近松加作の作。天明三(1783)年四月大坂・竹本座初演。上杉家家老和田行家の子息志津馬が姉婿唐木政右衛門の助力を得て父の敵沢井股五郎を討つまでを描いた作品。安永五(1776)年一二月大坂・嵐座上演の奈河亀輔作
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