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  11. 生類憐みの令

生類憐みの令

ジャパンナレッジで閲覧できる『生類憐みの令』の日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

生類憐みの令
しょうるいあわれみのれい

江戸幕府5代将軍徳川綱吉 (つなよし)がその治世(1680~1709)中に下した動物愛護を主旨とする法令の総称。1682年(天和2)犬の虐殺者を死刑に処したのに始まり、85年(貞享2)馬の愛護令を発して以来、法令が頻発された。綱吉の意図は社会に仁愛の精神を養うことにあったが(1694年〈元禄7〉10月10日訓令)、将軍の強大な権威に迎合する諸役人によって著しく増幅され、また綱吉生母桂昌院 (けいしょういん)が帰依 (きえ)した僧隆光 (りゅうこう)が、戌 (いぬ)年生まれの綱吉に男子が育たないのに関して犬の愛護を勧めてから、いっそう極端に走り、人民を悩ます虐政へと発展した。愛護の対象は犬馬牛に限らず、その他の鳥獣にも及んだ。鶏をとった猫を殺した者、うたた寝中体に駆け上がった鼠 (ねずみ)を傷つけた者などが入牢させられ、釣り舟の禁止、蛇使いなど生き物の芸を見せ物にすること、さらには生鳥や亀 (かめ)の飼育が禁ぜられ、金魚は藤沢遊行寺 (ゆぎょうじ)(清浄光寺 (しょうじょうこうじ))の池に放たしめられた。1695年(元禄8)には江戸郊外の中野に16万坪の土地を囲って野犬を収容し、その数は最高時4万2000頭に達し、費用も年間3万6000両、これは江戸や関東の村々の負担となった。1709年(宝永6)綱吉死去に際し、この令のみは死後も遵守せよと遺言したが、6代将軍家宣 (いえのぶ)はこれを廃止した。

[辻 達也]



日本大百科全書(ニッポニカ)

生類憐みの令(全文)
しょうるいあわれみのれい

  (一)覚
馬の筋のへ(延べ)候儀、第一用方に不宜、其上不仁なる儀にて、御厩 (うまや)に立候御馬共、先年より御停止 (ちょうじ)被仰付候えとも、今以世上にてハ拵馬在之由候、向後堅御制禁被仰出者也、
 貞享二年丑九月十八日

  (二)覚 御台所張紙写
鳥類貝類海老、向後於御台所つかひ申間敷 (もうすまじき)旨被仰渡候、乍然公家衆御馳走其外御振舞之節は可為各別事 (かくべつたるべきこと)以上、
 貞享二年丑十一月七日

  (三)覚
惣て人宿又ハ牛馬宿其外にも生類煩 (わずらい)重く候えハ、未死内 (いまだしなざるうち)に捨候様粗 (あらあら)相聞候、右之不届 (ふとどき)之族有之は、急度 (きっと)可被仰付候、密々左様成儀有之候ハヽ、訴人に出へし、同類たりといふとも、其科 (とが)をゆるし、御褒美 (ほうび)可被下者也、
 (貞享四年)卯正月日

  (四)口上之覚
今度書付出候上ハ、身体かろ(軽)きものハ、はこくみ(育み)かね(兼ね)可申候間、町人ハ町奉行、地方 (じかた)ハ御代官、道中筋ハ*高木伊勢守、給所は地頭え訴可申者也、
 (貞享四年)卯正月日
     *高木守勝。大目付、道中奉行兼任

  (五)覚
 一 捨子有之候ハヽ、早速不及届 (とどけるにおよばず)、其所之者いたハリ置、直ニ養候か、又ハ望之者有之候ハヽ、可遣 (つかわすべく)候、急度不及付届候事、
 一 鳥類畜類人の疵付 (きずつけ)候様成ハ、唯今迄之通可相届候、其外友くひ(共食い)又ハおのれと痛煩候計にてハ不及届候、随分致養育、主有之候ハヽ、返可申事、
 一 無主犬頃日は食物給させ不申候様に相聞候、畢竟食物給させ候えハ、其人之犬之様に罷成、以後迄六ヶ敷 (むつかしき)事と存、いたハり不申と相聞、不届候、向後左様無之様可相心得 (あいこころうべき)事、
 一 飼置候犬死候えハ、支配方え届候様相聞候、於無別条は、向後ヶ様之届無用事、
 一 犬計に不限、惣て生類人々慈悲の心を本といたし、あハれミ候儀肝要事、
    以上
 (貞享四年)卯四月日
  (『御当家令条』巻33)



国史大辞典

生類憐みの令
しょうるいあわれみのれい
江戸幕府五代将軍徳川綱吉の時代に発せられた生類憐みに関する幕法の総称。将軍就任当初より綱吉は儒学や仏教の教えによる人心教化を意図し、天和二年(一六八二)五月、諸国に立てた高札で、忠孝を奨励し、夫婦兄弟仲良く、召し使いなどを憐むよう命じている。生類憐みの令の発令はその線上に位置付けられよう。通説によると、綱吉は天和三年に世子徳松を失ったあと嗣子に恵まれず、母桂昌院の尊崇する僧隆光から、人に子がないのは前世で殺生をした報いであり、子を得たいと思うなら殺生を慎み、生類憐みを心がけ、特に綱吉が戌年生まれであるところから、犬を大切にするよう進言されたことが発令の動機となったといわれるが、必ずしも根拠のある説ではない。すでに天和二年の三月と十二月に幕府御鷹役人が削減されており、ここに綱吉の生類憐みの意志を読みとることもできる。生類憐みの令の最初とされているのは、貞享二年(一六八五)七月、将軍の御成の道筋に犬・猫が出ていても構わないというもので、続いて馬の筋のべの禁止、幕府御台所での鳥類・貝類・海老の使用禁止が令せられた。貞享四年以降、人宿・牛馬宿などで重病の生類を遺棄することを禁じ、また江戸町中のすべての飼犬の数・毛色などを帳簿に記すよう命じるなど、生類憐みに関する法令がつぎつぎに発せられ、違反者に対する取締りも強化されていった。対象となった生類は、牛・馬・犬・猫・猿・鶏・亀・蛇・鼠やあらゆる魚介類・鳥類に及んだが、特に牛・馬・犬・鳥類に対する保護が著しかった。牛馬については、馬の筋を延ばしたり、尾先を焼いたりする風習をとどめ、捨牛馬を禁じ、また重い荷物を負わせてはならないとした。犬に関しては、大八車や牛車が犬をひき殺さないように注意せよと命じ、犬の喧嘩は水をかけて引き分けよとも令した。増えた野犬を収容するため、江戸近郊の喜多見・四谷・中野などに犬小屋が設けられたが、その建設は大名御手伝をもって行われ、また諸方より資材が調達された。中野の犬小屋の総面積は二十九万坪余に及び、元禄八年(一六九五)に第一期工事が完了するとただちに十万頭が運びこまれたといわれる。ほかに村で犬を預かる制度があり、江戸西郊上野毛村では十六匹預かって飼育し、一年一匹につき金二分ずつの養育金をうけとっていた。幕府はこれらの費用を出すために、江戸の町人から小間(こま)一間につき金三分ずつを出させ、関東の諸国へ犬扶持をかけたりした。鳥類をめぐっては、鷹狩・狩猟の抑制に関連して、民間の鉄砲所持・使用に制限が加えられた。捕獲された鳥類はしばしば伊豆七島などに放たれた。幕府の鷹狩は元禄六年にまったく廃止され、鷹匠・鳥見などの鷹関係の役人は犬小屋役人に転じた。なお生類憐みの対象が人(捨子・行旅病人・囚人など)に及んだ点も看過することはできない。生類憐みの令の施行範囲は主として江戸および幕領であったが、次第に諸藩に影響を及ぼしたとみられ、この時期、藩法の中に幕法をうけての生類憐みの条項が含まれていることが多い。この法に違反した者は死罪・遠島など厳罰に処せられる場合も少なくなく、『折たく柴の記』によると、「法を奉ずる人々」が「務めて苛察を以て相尚」び、一禽一獣のため処罰された者の家族で「流離散亡」した者は数十万人に及んだといわれる。そのため民衆の怨嗟の声は次第に大きくなっていき、宝永六年(一七〇九)正月綱吉が死去すると、法の永続を命じるその遺言にもかかわらず、六代将軍家宣はただちにこの法を廃した。生類憐みの令は、従来、綱吉個人の性格に起因する将軍専制体制下の悪法と評価されてきたが、近年、綱吉政権期の生類がもった歴史的、社会的意味を問い、その政策的意図を、生類憐みの志を軸として全人民を幕府の庇護・管理下に置こうとするものととらえる新見解が出されている。
[参考文献]
塚本学『生類をめぐる政治』(『平凡社選書』八〇)、林基『享保と寛政』(『国民の歴史』一六)、大舘右喜「生類憐愍政策の展開」(『所沢市史研究』三)、塚本学「犬をめぐる政治―一七世紀を中心に―(『月刊百科』二〇五)、同「生類憐み政策と西鶴本」(信州大学人文学部『人文科学論集』一四)、同「幕藩関係からみた生類憐み政策」(『徳川林政史研究所研究紀要』昭和五十四年度)
(松尾 美恵子)


世界大百科事典

生類憐みの令
しょうるいあわれみのれい

7~8世紀に牛馬屠殺祈雨風習の禁令,百姓私畜のイノシシの放養令,殺生禁令等があり,鎌倉幕府の殺生禁令をもふくめて,日本史上生類愛護の趣旨をふくむ政策は少なくないが,徳川綱吉政権の一連の政策が,とくに生類憐みの令とよばれる。この名称で総括したひとつの幕法は存在せず,その趣旨の法や措置をよぶため,始期についても諸説がある。1685年(貞享2)7月将軍家御成先で犬猫をつなぐに及ばずとし,9月馬のすじをのばすことを禁じ,11月将軍家台所での魚貝類使用をやめる等の措置を早い例とし,87年正月捨子,捨病人,捨牛馬をきびしく禁じて以来,格別に強化されたとするのが通説に近い。綱吉将軍就任の1680年(延宝8)からこの時期までの施策に対して,生類憐み政策の強化は,綱吉ないし生母桂昌院,寵僧隆光らの個人的嗜好による退廃政治とする見解が古くからあり,無主犬のいたわり令,犬毛付帳の作成等を経て,95年(元禄8)江戸中野犬小屋の設置にいたる犬愛護令の異常さと,これへの反感の記録とが,この印象を強めた。

 だが犬愛護令よりも早く,諸国私領にきびしい処罰条項とともに公示されたのは捨馬禁令であり,放れ馬詮議の必要などをふくめて,農山村に大きな影響を及ぼした。馬荷を過重にすることの禁令も繰り返された。犬愛護令はある程度諸大名領にも及んだが,とくに,大名家の猛犬飼育,野犬の横行が目立った江戸での問題であった。また,捕犬・食犬行為が目についた歌舞伎者への前代からの弾圧策の発展という面ももっていた。毬製造に犬の皮使用を禁じたのは1694年,生犬を餌にすることが多かった鷹の飼育を幕府が廃したのが1693年と,ややおそいことも注意をひく。

 鷹制度は,綱吉将軍就任直後から縮減されてきたが,諸大名にもすでに同様の動きがあり,むしろ幕府鷹制度廃止のおそさが目につく。天皇家を頂点とする贈答儀礼体系の一環として,将軍家鷹狩獲物の天皇への献上,諸大名への鷹および獲物の下賜,大名家から将軍家への鷹貢進等があって,廃止しにくかったわけで,それだけにこの時点での政策の一段の強化をみることができる。放鷹のための野鳥保護,したがって農民の害鳥獣対策規制が,そこで後退したことは善政と意識されたが,反面で野鳥獣を憐みの対象とすることで,在村鉄砲の統制が強化された。在村鉄砲統制は,前代に夜盗横行対策として,とくに関東地方で強化されていったものを,1687-88年以降全国に及ぼしたもので,諸大名領への規制のきびしさにおいてキリシタン対策とあいならび,猟師以外の農民の鉄砲所持を原則として禁止し,鳥獣害に対する鉄砲利用をおさえたが,その全国への適用は生類憐みの趣旨をかかげてのことであった。綱吉以後の鷹狩再興,鉄砲規制緩和までを視野に入れると,人間・自然関係は幕政によって激動をかさねたわけである。職業としての猟師は禁止されなかったが,野獣肉利用を彼らに限ったことは,その身分を変化させたにちがいなく,服忌令(ぶつきりよう)での穢観念の公認等ともあわせて,一連の政策が被差別身分制の強化に果たした役割も注意されてよい。

 憐れむべき生類は,愛玩用魚鳥や猿引きの猿等にも及んだが,ひとも対象のなかであり,捨子・捨病人禁制の強化は,江戸では妊婦登録を求めるまでにもなった。道中旅行者の病気への保護令も強化された。酒造対策も,飲酒抑制の意図をもつものであり,生類憐み政策が,人民を温順ならしめて,これを庇護下におこうとする基調をもったのと通じあう。生類憐みの令の範囲を明確に指示することは困難であり,むしろこれを当時の幕政全般と深く関連しつつ展開した政策であることの解明が有意味である。江戸幕府史上はじめての全国規模での在村鉄砲統制の際,幕府およびこれへの届けを要する諸藩の鉄砲隊が,野獣害に対するたてまえであったように,将軍家〈御慈悲〉により,全人民を庇護と支配のもとにおこうとするこの期の幕権のあり方から,生類憐みの令は合理的に説明できる部分が多い。外様の国大名をふくめて,諸大名を臣僚化する動きの進展後にふさわしい政策であった。だが,1709年(宝永6)正月,綱吉の死の直後に,生類憐みの志をなお表面にはかかげながら,その実質的な廃棄を命ずる措置があいついでとられた。犬愛護令に対する江戸住民の反感が故意の犬殺傷を生み,そのきびしい処罰をもたらす状況は,綱吉政権の専制主義に対する譜代幕臣層を主とした反感にとって,好材料であり,徳川政権を徳川譜代家臣団の政権と意識した勢力は,生類憐みの令を綱吉の個人的恣意として葬りさることで幕政の進展方向を修正していったのである。ただ,捨子・捨牛馬禁令は,以後も長く幕法として生き,在村鉄砲統制は大きく改変されながら,後代を規制した面が小さくなかった。
[塚本 学]

[索引語]
徳川綱吉 ウマ(馬) 捨子 捨病人 捨牛馬 江戸中野犬小屋 犬愛護令 捨馬禁令 鷹制度 鷹狩 在村鉄砲統制
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7. いぬ‐くぼう[‥クバウ]【犬公方】
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(「公方」は、将軍の意)江戸幕府、第五代将軍徳川綱吉に世人がつけたあだ名。「生類憐みの令」を出し、極端に犬を愛護したところからいう。イヌクボー
8. いぬ‐ばん【犬番】
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〔名〕(1)江戸時代、元祿年間(一六八八~一七〇四)、「生類憐みの令」に基づいて設置された犬を保護する役目の人。*随筆・半日閑話〔1823頃〕二「友犬喰合候節は
9. いぬ‐ばんしょ【犬番所】
日本国語大辞典
〔名〕江戸時代、徳川五代将軍綱吉の時に、「生類憐みの令」に基づいて、犬の保護のために町中に設けられた番屋。*随筆・半日閑話〔1823頃〕二「町内に若主無き犬参り
10. いぬぶち【犬扶持】
国史大辞典
徳川綱吉は生類憐みの令を下し、野犬を保護するために江戸郊外の中野などに犬小屋を建てて、これを飼育したが、その費用として元禄九年(一六九六)五月布令して江戸の町
11. いぶせますじ【井伏〓二】
国史大辞典
び重なる爆発に生きぬく住民の辛苦と役人の暴虐を、『佗助』(昭和二十一年、題名『波高島』)に生類憐みの令下の甲州富士川流域の流刑地波高島(はだかじま)の流人の諸相
12. うらわし【浦和市】埼玉県地図
日本歴史地名大系
に鷹場を分け与え、当市域周辺は紀伊徳川家の鷹場となった(徳川実紀)。五代将軍徳川綱吉により生類憐みの令が出されると鷹場はいったん廃止となるが、八代将軍徳川吉宗の
13. 江戸時代(年表)
日本大百科全書
出版取締令公布1686(貞享3)8月 朝鮮貿易制限。12月 琉球貿易制限1687(貞享4)1月 生類憐みの令出す(以後頻発)1688(元禄1)2月 美服禁令。1
14. おいとりがり【追鳥狩】
国史大辞典
幕府の鷹匠・鳥見などの放鷹に関する職制の整備に伴い年中行事と化していったが、五代将軍徳川綱吉の生類憐みの令が公布されるに及び鷹場・放鷹の職制ともに廃止されたため
15. おおみやし【大宮市】埼玉県地図
日本歴史地名大系
・与野領・桶川領・浦和領・大谷領であった(「会田落穂集」会田家文書)。しかし元禄六年一〇月生類憐みの令により鷹場は一時廃止された(南紀徳川史)。享保元年江戸一〇
16. おたかじょうやくしょ【御鷹匠役所】長野県:木曾郡/木祖村/藪原村
日本歴史地名大系
享保弐酉年迄弐拾五年中絶、享保三戌年より先規之通両宿江御奉行衆御越被成候」とあり、初めはいわゆる綱吉の「生類憐みの令」による中絶を除き、妻籠と須原宿に置かれてい
17. おたかべやまち【御鷹部屋町】埼玉県:川越市/川越城下地図
日本歴史地名大系
鷹部屋があり、鷹匠の鈴木三郎左衛門と鳥見の中田助作が居住。元禄年中(一六八八―一七〇四)に生類憐みの令により一時廃止されたが、鷹場の復活とともに再建され、世俗に
18. おのじむら【小野路村】東京都:町田市地図
日本歴史地名大系
余・大蔵村五五一石余など六ヵ村がみえる。元禄六年これまで加賀金沢藩前田家の鷹場であったが、生類憐みの令により免じられ、その請書(河井家文書)に一五三名の連判がみ
19. かぞし【加須市】埼玉県地図
日本歴史地名大系
中心とする地域に鷹場を与えられ、市域の騎西領村々も組込まれていた(貞享元年「久喜鷹場村数覚」伊達家文書)。生類憐みの令により鷹狩はいったん禁止となったが、享保元
20. きたよこかわむら【北横川村】千葉県:山武郡/大網白里町地図
日本歴史地名大系
勢子人足四人を出した(「山辺郡人足控」大原家文書)。保食神社が鎮座。犬の敷皮を用いた百姓が生類憐みの令にふれ打首となり、その首を晒したと伝える獄門橋が土地改良工
21. きよせし【清瀬市】東京都地図
日本歴史地名大系
ばれ、中里・野塩両村が出作していた(岩崎家文書など)。近世前期から尾張徳川家の鷹場となり、生類憐みの令で廃止されたが、享保元年(一七一六)に復活されたのち、再び
22. きんせい【近世】画像
国史大辞典
ず、将軍との個人的結付きによる側近政治の弊が生じ、多くの幕臣は将軍の恣意のもとに萎縮した。生類憐みの令も綱吉の強い儒教的理想主義に発する施策であったが、それが末
23. きんせい【近世】 : 近世/〔社会の変質への政治の対応〕
国史大辞典
ず、将軍との個人的結付きによる側近政治の弊が生じ、多くの幕臣は将軍の恣意のもとに萎縮した。生類憐みの令も綱吉の強い儒教的理想主義に発する施策であったが、それが末
24. 近世法
世界大百科事典
田畑永代売買禁止令,慶安御触書,江戸町中定(1655),相対済令,服忌令(ぶつきりよう),生類憐みの令,自分仕置令,出訴期間令(1698),棄捐(きえん)令,寛
25. くきし【久喜市】埼玉県地図
日本歴史地名大系
中心とする地域に鷹場を与えられ、江戸への往復の際など久喜を本拠にたびたび鷹狩を実施した。しかし、貞享四年の生類憐みの令により伊達氏の久喜鷹場は廃止された。利根川
26. 桂昌院
世界大百科事典
深く仏教に帰依し,僧亮賢,隆光等を信頼し,そこから生類憐みの令を極端に助長するなどの弊害が生じたといわれている。辻 達也 徳川綱吉 お玉の方 生類憐みの令
27. けいしょういん【桂昌院】
国史大辞典
それの多くは桂昌院の口入によるものであった。また直接間接にその影響の認められるものには朝廷儀式の尊崇、生類憐みの令などがあり、幕府財政の窮乏にも一役を買っている
28. 元禄時代
世界大百科事典
ことになり,綱吉初政の天和期と区別される。奢侈禁令や風俗矯正令は1688年以後にも頻発し,生類憐みの令とされるもののなかにも,そのような意味をもつものがある。質
29. げんろく‐じだい【元祿時代】
日本国語大辞典
商業の発展、町人の台頭がみられ、学問、文化に清新な気風がみなぎり、華美な元祿文化が開花した。一方、生類憐みの令が強行され、側用人柳沢吉保の重用、勘定奉行荻原重秀
30. こいしかわすいどうちよう【小石川水道町】東京都:文京区/旧小石川区地区地図
日本歴史地名大系
元禄(一六八八―一七〇四)以前には鷹匠方同心の組屋敷や放鷹に用いる鷹の鳥籠の用地であった。同所にはその後、生類憐みの令で江戸市中から集められた鳶・烏など(三宅島
31. こいしかわとみざかしんまち【小石川富坂新町】東京都:文京区/旧小石川区地区地図
日本歴史地名大系
架替えの際に石橋となった。破損した場合は、当町役人から南番所に申立てれば修復された。烏橋の名の起こりは、生類憐みの令が出されていた時代、当町の南東に江戸市中から
32. 子育ての書 1 27ページ
東洋文庫
みの令」を出したが、これとならんで捨子にかんする法度もくりかえし出していた。まず「生類憐みの令」と同年の一六八七年(貞享四年)に、「捨子これ有り候わば、早速届け
33. 護持院
世界大百科事典
明治の初め両寺合併し護国寺に統合されると,護持院は廃寺となった。隆光は綱吉の信任が厚く,〈生類憐みの令〉は彼の進言によるものといわれるが,真言密教の再興者として
34. 御当代記 将軍綱吉の時代
東洋文庫
犬公方綱吉が天下を支配した元禄期は,はたして太平謳歌の世だったのか。「生類憐みの令」の実態から,『忠臣蔵』で知られる浅野長矩の殿中刃傷事件まで,第一級の同時代史
35. さかしたまち【坂下町】埼玉県:川越市/川越城下地図
日本歴史地名大系
坂上町は喜多町横町の牢屋角から広済寺の南・西側を回る通りにあり、中・下級武士屋敷四、五軒があった。生類憐みの令が出された時代、犬小屋が置かれた(川越索麪)。
36. しながわく【品川区】東京都地図
日本歴史地名大系
第四は村々が鷹場に指定されたことである。将軍家の鷹場は寛永五年(一六二八)に設置され、五代将軍徳川綱吉の生類憐みの令で放鷹の制度も廃止されたが、徳川吉宗が将軍に
37. しもきよとむら【下清戸村】東京都:清瀬市地図
日本歴史地名大系
永四貫七一六文の年貢を上納した(前掲出作割付状)。近世前期に尾張徳川家の鷹場となる(前掲鷹場絵図)。生類憐みの令による鷹場廃止を経て、享保元年(一七一六)に再び
38. 狩猟画像
世界大百科事典
もに,銃砲を主とする狩猟用具の所持・使用も大きく制限された。将軍徳川綱吉の発したいわゆる〈生類憐みの令〉などはその一例である。 日本民族の狩猟法の一つの特徴は,
39. しょうとくき【正徳期】
国史大辞典
家継も八歳で夭折したので、二代の間は七年余にすぎない。前代の元禄・宝永期は綱吉の専制政治が行われ、生類憐みの令のごときが長年にわたって実施せられた反面においては
40. 正徳の治
世界大百科事典
わたる6代将軍徳川家宣,7代家継の治世の通称。家宣は幕府内外からの期待をうけて将軍となり,生類憐みの令の廃止を手始めに前代の弊政の改廃につとめ,側用人間部詮房(
41. 自分仕置令
世界大百科事典
また自分仕置令の本文には,公布当時,生類憐みの令に関する項目が加わっていたが,《公事方御定書》にはこの部分が削除されたものが収録された。林 由紀子 大名 遠島 
42. すて‐ぎゅうば[‥ギウバ]【捨牛馬】
日本国語大辞典
〔名〕江戸時代、病死または使用に耐えなくなった牛馬を所定の場所以外へ遺棄すること。「生類憐みの令」以後、特に取締りがきびしくなった。*地方凡例録〔1794〕七「
43. 捨子
世界大百科事典
もたらさなくなる状況が,遺棄としての捨子を増加させる。近世都市はとくにその多発地となった。17世紀末,生類憐みの令のなかで,捨子禁令が大きな位置を占めるのは,こ
44. すやまどんおう【陶山鈍翁】
国史大辞典
その第一策が、対馬藩の生産に大弊害を与えていた野猪を退治する猪狩(ししかり)策であった。当時、幕令で生類憐みの令が施行されていただけに至難の策であったが、十年の
45. 昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談 15ページ
東洋文庫
初期には湯島聖堂の建設をはじめ文治主義に徹したが,晩年は側用人柳沢吉保に政権を委ね,風紀頽廃し,生類憐みの令を布き,また悪貨を濫発した。治世30年間は.いわゆる
46. せたがやく【世田谷区】東京都地図
日本歴史地名大系
また井伊直孝は寛永一四年に世田谷において拝領鷹場を下賜されている(寛政重修諸家譜)。しかし元禄期に生類憐みの令により事実上鷹狩は停止され、享保元年徳川吉宗によっ
47. 浅草寺
世界大百科事典
駒形,花川戸,千束の地500石を寺領として寄進した。しかし1685年(貞享2),時の別当が生類憐みの令を批判したことから,上野寛永寺の支配下に入れられ,強い規制
48. 先哲叢談 262ページ
東洋文庫
認めた『狼建録』の中で、尚斎は、 一切殺生を 禁じる仏氏を批判している(殺生食肉説)。こ れは生類憐みの令を念頭に置くかoまた『黙識 録』には、幕府の大名取つぶ
49. 鷹匠
世界大百科事典
1615)に幕府の職制として位置づけられ,1681年(天和1)には116名を数えた。その後生類憐みの令発布にともない漸次減少,96年(元禄9)10月廃職となった
50. たかじょうまち【鷹匠町】徳島県:徳島市/徳島城下
日本歴史地名大系
占めていた。町名に比して鷹匠が少ないという傾向は江戸時代を通じてのことであった。なお幕府の生類憐みの令に関連して、元禄六年(一六九三)九月には呼称が小川町に変え
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扶桑略記(日本大百科全書・世界大百科事典)
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愚管抄(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
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先代旧事本紀(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
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青砥稿花紅彩画(国史大辞典・世界大百科事典)
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(国史大辞典・世界大百科事典)
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大塔宮曦鎧(新版 歌舞伎事典)
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伊賀越道中双六(新版 歌舞伎事典・日本大百科全書)
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