1. 生類憐みの令
日本大百科全書
江戸幕府5代将軍徳川綱吉つなよしがその治世(1680~1709)中に下した動物愛護を主旨とする法令の総称。1682年(天和2)犬の虐殺者を死刑に処したのに始まり
2. 生類憐みの令
世界大百科事典
もふくめて,日本史上生類愛護の趣旨をふくむ政策は少なくないが,徳川綱吉政権の一連の政策が,とくに生類憐みの令とよばれる。この名称で総括したひとつの幕法は存在せず
3. しょうるいあわれみのれい【生類憐みの令】
国史大辞典
五月、諸国に立てた高札で、忠孝を奨励し、夫婦兄弟仲良く、召し使いなどを憐むよう命じている。生類憐みの令の発令はその線上に位置付けられよう。通説によると、綱吉は天
4. しょうるいあわれみ‐の‐れい[シャウルイあはれみ‥]【生類憐令】
日本国語大辞典
江戸幕府第五代将軍徳川綱吉によって貞享二年(一六八五)から宝永六年(一七〇九)まで行なわれた生類殺生禁止令。鳥獣を愛護し、その捕獲殺生を禁じたが綱吉が戌年であっ
5. 生類憐みの令
日本史年表
1687年〈貞享4 丁卯〉 1・28 幕府、 生類憐みの令 を発布(この後、宝永五年まで繰返し布令)(実紀)。 1709年〈宝永6 己丑〉 1・20 幕府、 生
6. 生類憐みの令(全文)
日本大百科全書
(一)覚馬の筋のへ(延べ)候儀、第一用方に不宜、其上不仁なる儀にて、御厩うまやに立候御馬共、先年より御停止ちょうじ被仰付候えとも、今以世上にてハ拵馬在之由候
7. いぬ‐くぼう[‥クバウ]【犬公方】
日本国語大辞典
(「公方」は、将軍の意)江戸幕府、第五代将軍徳川綱吉に世人がつけたあだ名。「生類憐みの令」を出し、極端に犬を愛護したところからいう。イヌクボー
8. いぬ‐ばん【犬番】
日本国語大辞典
〔名〕(1)江戸時代、元祿年間(一六八八~一七〇四)、「生類憐みの令」に基づいて設置された犬を保護する役目の人。*随筆・半日閑話〔1823頃〕二「友犬喰合候節は
9. いぬ‐ばんしょ【犬番所】
日本国語大辞典
〔名〕江戸時代、徳川五代将軍綱吉の時に、「生類憐みの令」に基づいて、犬の保護のために町中に設けられた番屋。*随筆・半日閑話〔1823頃〕二「町内に若主無き犬参り
10. いぬぶち【犬扶持】
国史大辞典
徳川綱吉は生類憐みの令を下し、野犬を保護するために江戸郊外の中野などに犬小屋を建てて、これを飼育したが、その費用として元禄九年(一六九六)五月布令して江戸の町
11. いぶせますじ【井伏
二】
国史大辞典
び重なる爆発に生きぬく住民の辛苦と役人の暴虐を、『佗助』(昭和二十一年、題名『波高島』)に生類憐みの令下の甲州富士川流域の流刑地波高島(はだかじま)の流人の諸相
12. うらわし【浦和市】埼玉県地図
日本歴史地名大系
に鷹場を分け与え、当市域周辺は紀伊徳川家の鷹場となった(徳川実紀)。五代将軍徳川綱吉により生類憐みの令が出されると鷹場はいったん廃止となるが、八代将軍徳川吉宗の
13. 江戸時代(年表)
日本大百科全書
出版取締令公布1686(貞享3)8月 朝鮮貿易制限。12月 琉球貿易制限1687(貞享4)1月 生類憐みの令出す(以後頻発)1688(元禄1)2月 美服禁令。1
14. おいとりがり【追鳥狩】
国史大辞典
幕府の鷹匠・鳥見などの放鷹に関する職制の整備に伴い年中行事と化していったが、五代将軍徳川綱吉の生類憐みの令が公布されるに及び鷹場・放鷹の職制ともに廃止されたため
15. おおみやし【大宮市】埼玉県地図
日本歴史地名大系
・与野領・桶川領・浦和領・大谷領であった(「会田落穂集」会田家文書)。しかし元禄六年一〇月生類憐みの令により鷹場は一時廃止された(南紀徳川史)。享保元年江戸一〇
16. おたかじょうやくしょ【御鷹匠役所】長野県:木曾郡/木祖村/藪原村
日本歴史地名大系
享保弐酉年迄弐拾五年中絶、享保三戌年より先規之通両宿江御奉行衆御越被成候」とあり、初めはいわゆる綱吉の「生類憐みの令」による中絶を除き、妻籠と須原宿に置かれてい
17. おたかべやまち【御鷹部屋町】埼玉県:川越市/川越城下地図
日本歴史地名大系
鷹部屋があり、鷹匠の鈴木三郎左衛門と鳥見の中田助作が居住。元禄年中(一六八八―一七〇四)に生類憐みの令により一時廃止されたが、鷹場の復活とともに再建され、世俗に
18. おのじむら【小野路村】東京都:町田市地図
日本歴史地名大系
余・大蔵村五五一石余など六ヵ村がみえる。元禄六年これまで加賀金沢藩前田家の鷹場であったが、生類憐みの令により免じられ、その請書(河井家文書)に一五三名の連判がみ
19. かぞし【加須市】埼玉県地図
日本歴史地名大系
中心とする地域に鷹場を与えられ、市域の騎西領村々も組込まれていた(貞享元年「久喜鷹場村数覚」伊達家文書)。生類憐みの令により鷹狩はいったん禁止となったが、享保元
20. きたよこかわむら【北横川村】千葉県:山武郡/大網白里町地図
日本歴史地名大系
勢子人足四人を出した(「山辺郡人足控」大原家文書)。保食神社が鎮座。犬の敷皮を用いた百姓が生類憐みの令にふれ打首となり、その首を晒したと伝える獄門橋が土地改良工
21. きよせし【清瀬市】東京都地図
日本歴史地名大系
ばれ、中里・野塩両村が出作していた(岩崎家文書など)。近世前期から尾張徳川家の鷹場となり、生類憐みの令で廃止されたが、享保元年(一七一六)に復活されたのち、再び
22. きんせい【近世】画像
国史大辞典
ず、将軍との個人的結付きによる側近政治の弊が生じ、多くの幕臣は将軍の恣意のもとに萎縮した。生類憐みの令も綱吉の強い儒教的理想主義に発する施策であったが、それが末
23. きんせい【近世】 : 近世/〔社会の変質への政治の対応〕
国史大辞典
ず、将軍との個人的結付きによる側近政治の弊が生じ、多くの幕臣は将軍の恣意のもとに萎縮した。生類憐みの令も綱吉の強い儒教的理想主義に発する施策であったが、それが末
24. 近世法
世界大百科事典
田畑永代売買禁止令,慶安御触書,江戸町中定(1655),相対済令,服忌令(ぶつきりよう),生類憐みの令,自分仕置令,出訴期間令(1698),棄捐(きえん)令,寛
25. くきし【久喜市】埼玉県地図
日本歴史地名大系
中心とする地域に鷹場を与えられ、江戸への往復の際など久喜を本拠にたびたび鷹狩を実施した。しかし、貞享四年の生類憐みの令により伊達氏の久喜鷹場は廃止された。利根川
26. 桂昌院
世界大百科事典
深く仏教に帰依し,僧亮賢,隆光等を信頼し,そこから生類憐みの令を極端に助長するなどの弊害が生じたといわれている。辻 達也 徳川綱吉 お玉の方 生類憐みの令
27. けいしょういん【桂昌院】
国史大辞典
それの多くは桂昌院の口入によるものであった。また直接間接にその影響の認められるものには朝廷儀式の尊崇、生類憐みの令などがあり、幕府財政の窮乏にも一役を買っている
28. 元禄時代
世界大百科事典
ことになり,綱吉初政の天和期と区別される。奢侈禁令や風俗矯正令は1688年以後にも頻発し,生類憐みの令とされるもののなかにも,そのような意味をもつものがある。質
29. げんろく‐じだい【元祿時代】
日本国語大辞典
商業の発展、町人の台頭がみられ、学問、文化に清新な気風がみなぎり、華美な元祿文化が開花した。一方、生類憐みの令が強行され、側用人柳沢吉保の重用、勘定奉行荻原重秀
30. こいしかわすいどうちよう【小石川水道町】東京都:文京区/旧小石川区地区地図
日本歴史地名大系
元禄(一六八八―一七〇四)以前には鷹匠方同心の組屋敷や放鷹に用いる鷹の鳥籠の用地であった。同所にはその後、生類憐みの令で江戸市中から集められた鳶・烏など(三宅島
31. こいしかわとみざかしんまち【小石川富坂新町】東京都:文京区/旧小石川区地区地図
日本歴史地名大系
架替えの際に石橋となった。破損した場合は、当町役人から南番所に申立てれば修復された。烏橋の名の起こりは、生類憐みの令が出されていた時代、当町の南東に江戸市中から
32. 子育ての書 1 27ページ
東洋文庫
みの令」を出したが、これとならんで捨子にかんする法度もくりかえし出していた。まず「生類憐みの令」と同年の一六八七年(貞享四年)に、「捨子これ有り候わば、早速届け
33. 護持院
世界大百科事典
明治の初め両寺合併し護国寺に統合されると,護持院は廃寺となった。隆光は綱吉の信任が厚く,〈生類憐みの令〉は彼の進言によるものといわれるが,真言密教の再興者として
34. 御当代記 将軍綱吉の時代
東洋文庫
犬公方綱吉が天下を支配した元禄期は,はたして太平謳歌の世だったのか。「生類憐みの令」の実態から,『忠臣蔵』で知られる浅野長矩の殿中刃傷事件まで,第一級の同時代史
35. さかしたまち【坂下町】埼玉県:川越市/川越城下地図
日本歴史地名大系
坂上町は喜多町横町の牢屋角から広済寺の南・西側を回る通りにあり、中・下級武士屋敷四、五軒があった。生類憐みの令が出された時代、犬小屋が置かれた(川越索麪)。
36. しながわく【品川区】東京都地図
日本歴史地名大系
第四は村々が鷹場に指定されたことである。将軍家の鷹場は寛永五年(一六二八)に設置され、五代将軍徳川綱吉の生類憐みの令で放鷹の制度も廃止されたが、徳川吉宗が将軍に
37. しもきよとむら【下清戸村】東京都:清瀬市地図
日本歴史地名大系
永四貫七一六文の年貢を上納した(前掲出作割付状)。近世前期に尾張徳川家の鷹場となる(前掲鷹場絵図)。生類憐みの令による鷹場廃止を経て、享保元年(一七一六)に再び
38. 狩猟画像
世界大百科事典
もに,銃砲を主とする狩猟用具の所持・使用も大きく制限された。将軍徳川綱吉の発したいわゆる〈生類憐みの令〉などはその一例である。 日本民族の狩猟法の一つの特徴は,
39. しょうとくき【正徳期】
国史大辞典
家継も八歳で夭折したので、二代の間は七年余にすぎない。前代の元禄・宝永期は綱吉の専制政治が行われ、生類憐みの令のごときが長年にわたって実施せられた反面においては
40. 正徳の治
世界大百科事典
わたる6代将軍徳川家宣,7代家継の治世の通称。家宣は幕府内外からの期待をうけて将軍となり,生類憐みの令の廃止を手始めに前代の弊政の改廃につとめ,側用人間部詮房(
41. 自分仕置令
世界大百科事典
また自分仕置令の本文には,公布当時,生類憐みの令に関する項目が加わっていたが,《公事方御定書》にはこの部分が削除されたものが収録された。林 由紀子 大名 遠島
42. すて‐ぎゅうば[‥ギウバ]【捨牛馬】
日本国語大辞典
〔名〕江戸時代、病死または使用に耐えなくなった牛馬を所定の場所以外へ遺棄すること。「生類憐みの令」以後、特に取締りがきびしくなった。*地方凡例録〔1794〕七「
43. 捨子
世界大百科事典
もたらさなくなる状況が,遺棄としての捨子を増加させる。近世都市はとくにその多発地となった。17世紀末,生類憐みの令のなかで,捨子禁令が大きな位置を占めるのは,こ
44. すやまどんおう【陶山鈍翁】
国史大辞典
その第一策が、対馬藩の生産に大弊害を与えていた野猪を退治する猪狩(ししかり)策であった。当時、幕令で生類憐みの令が施行されていただけに至難の策であったが、十年の
45. 昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談 15ページ
東洋文庫
初期には湯島聖堂の建設をはじめ文治主義に徹したが,晩年は側用人柳沢吉保に政権を委ね,風紀頽廃し,生類憐みの令を布き,また悪貨を濫発した。治世30年間は.いわゆる
46. せたがやく【世田谷区】東京都地図
日本歴史地名大系
また井伊直孝は寛永一四年に世田谷において拝領鷹場を下賜されている(寛政重修諸家譜)。しかし元禄期に生類憐みの令により事実上鷹狩は停止され、享保元年徳川吉宗によっ
47. 浅草寺
世界大百科事典
駒形,花川戸,千束の地500石を寺領として寄進した。しかし1685年(貞享2),時の別当が生類憐みの令を批判したことから,上野寛永寺の支配下に入れられ,強い規制
48. 先哲叢談 262ページ
東洋文庫
認めた『狼建録』の中で、尚斎は、 一切殺生を 禁じる仏氏を批判している(殺生食肉説)。こ れは生類憐みの令を念頭に置くかoまた『黙識 録』には、幕府の大名取つぶ
49. 鷹匠
世界大百科事典
1615)に幕府の職制として位置づけられ,1681年(天和1)には116名を数えた。その後生類憐みの令発布にともない漸次減少,96年(元禄9)10月廃職となった
50. たかじょうまち【鷹匠町】徳島県:徳島市/徳島城下
日本歴史地名大系
占めていた。町名に比して鷹匠が少ないという傾向は江戸時代を通じてのことであった。なお幕府の生類憐みの令に関連して、元禄六年(一六九三)九月には呼称が小川町に変え