平安初期の歌人。六歌仙,三十六歌仙の一人。平城天皇の皇子阿保親王の五男。母は桓武天皇の皇女伊登内親王。826年,阿保親王の上表によってその子仲平・行平・業平らに在原の姓が下された。業平は五男の在原であったので在五(ざいご)と呼ばれ,権中将となったため在五中将とも呼ばれた。841年(承和8),17歳で右近衛将監となり,蔵人,左兵衛佐,右馬頭を経て,877年(元慶1),53歳で従四位上右近衛権中将となった。翌年相模権守を兼ね,のち美濃権守を兼ねたが,879年に蔵人頭を兼任,その翌年56歳で没した。紀名虎の子有常の女を妻とし,名虎の女が生んだ文徳天皇の皇子惟喬親王と親しかった。業平が生きた時代は藤原氏繁栄の基礎が築かれた時代で,良房の活動によって紀氏などの有力氏族が退けられていった。《三代実録》は業平の伝を〈体貌閑麗,放縦不拘にして,略,才学無く,善く倭歌を作る〉と記しているが,美男で放縦な業平が,官人として必要な漢詩文の学識を持たず,和歌にうつつを抜かしていたことを伝えている。業平の歌は,《古今集》の30首,《後撰集》の11首,数種の《業平集》などに収められているものを合わせて約50首が残されているが,豊かな心情の表現と発想の奇抜さに特色がある。紀貫之は〈業平はその心あまりてことばたらず。しぼめる花のいろなくて,にほひのこれるがごとし〉(《古今集》序)と評したが,ことばの響き合いの中に余情をあらわすことにすぐれた業平は,いわゆる六歌仙時代の中心として,和歌復興の先駆となった。
《古今集》は,業平の歌についてはとくに長い詞書をつけているが,それはつぎのようなことを伝えている。(1)惟喬親王に従って桜狩りに行ったこと。皇位継承の望みを絶たれた惟喬親王が失意の中に出家して小野にこもると,深い雪の中を訪ねて〈忘れては夢かとぞ思ふおもひきや雪ふみわけて君を見んとは〉(巻十八)とよんで悲しみにくれたこと。(2)五条后の宮の西の対に住む女性に恋し,その思い出を〈月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身一つはもとの身にして〉(巻十五)とよんだこと。(3)東国に下って,三河国の八橋で〈唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ〉,武蔵国の隅田川の辺で〈名にし負はばいざ言問はむ都鳥我が思ふ人は有りやなしやと〉(巻九)という歌をよんだこと。(4)伊勢に下り,ひそかに斎宮に通じたこと。そのほかに,布引滝に遊んだこと,紀有常の女のもとに通ったこと,母が長岡に住んでいたこと。阿波介として任国に下る紀利貞を送るため,また藤原基経の四十の賀のために歌をよんだこと。業平の家にいた女に藤原敏行が通ってきたことなどである。《古今集》の編者が長文の詞書を何によって記したかについては諸説があるが,近年の研究では,東下りや高貴な女性との密通事件も事実ではないとされ,業平の事跡の物語化は,《古今集》にも顕著に見られると考えられるようになった。他方,《古今集》と同じころ,900年前後に成立したとみられる《伊勢物語》には業平の歌を核にした数々の物語が収められているが,《古今集》と《伊勢物語》によって,業平は漂泊の旅にも出た無用者的な〈すき者〉,失意の皇子と慰め合う名門出の貴公子として描き出されることになった。そして,そこに浮かび上がる業平は,平安時代中期以降の貴族文化の一面を体現する人物であり,和歌の復興,物語文学の成立を支える精神を具体化した人物であったと考えられる。
平安時代中期以降,《伊勢物語》は全編が業平の行状の物語であると考えられるようになったが,業平に関する説話の多くは,《古今集》の歌をもとにして作られた。先にあげた(1)に関する説話は,《今昔物語集》や《発心集》に見え,藤原氏の権勢に批判的な立場をとる《大鏡》では,歴史のたいせつなひとこまとして語られている。(2)は清和天皇のもとに入内する前の二条后(高子)との密通の話として,他の恋愛譚を合わせて発展し,《古事談》《宝物集》《無名抄》などでは,業平が二条后を盗み出したが后の兄弟たちに奪い返されるという話になり,忍んで通うために剃髪したとか,事が発覚したため懲罰として髪を切られ,髪が伸びるまで東国に下ったというような話も生まれた。また(2)と(3)が結びつけられて,都にいられなくなった業平が東国に下る話が有名になり,単に東下りといえば,業平の東国への旅をさすほどになった。さらに,業平が奥州八十島で小野小町のどくろに会う話も種種の説話集に見え,一条兼良の《伊勢物語愚見抄》は,業平を馬頭観音,小町を如意輪観音の化身とする説をあげている。《伊勢物語》は,歌の心を涵養するために繰り返し読むべき古典とされ,《源氏物語》よりも重んぜられていたため,《雲林院》《井筒》《小塩》《杜若(かきつばた)》をはじめ,《伊勢物語》に取材する謡曲が数多く作られ,業平は能の舞台にも登場することになった。それらはいずれも王朝の美の極致を夢幻的な雰囲気の中にあらわそうとしたもので,気品の高い曲として重んぜられている。こうした業平に対して,狂言の《業平餅》は,色好みの業平を街道の餅屋に登場させ,醜い餅屋の娘とのかけひきの中に,室町時代の好色で貧乏な貴族をあざ笑う筋になっている。王朝のみやびを体現する業平は,歌舞伎では,恋愛譚の脚色も行われたが,もっぱら舞踊の主人公として登場し,数々の踊りが作られた。それらを総称して業平躍(おどり)という。また《伊勢物語》が広く読まれたため,業平の説話は,絵画や工芸の題材にとりあげられることが多く,浮世絵では見立絵の画題としてさかんに用いられた。業平は小町と好一対をなす美男であるが,小町のような落魄の物語はなく,誕生地や墓所についての伝説も少ない。王朝憧憬と結びついた業平は,小町や和泉式部,西行などのように,庶民の間に広く伝えられる伝説の主人公とはならなかったことが知られる。
→伊勢物語
惟喬親王に従って桜狩りに行ったこと。皇位継承の望みを絶たれた惟喬親王が失意の中に出家して小野にこもると、深い雪の中を訪ねて「忘れては夢かとぞ思ふおもひきや雪ふみわけて君を見んとは」(巻十八)とよんで悲しみにくれたこと。
五条后の宮の西の対に住む女性に恋し、その思い出を「月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身一つはもとの身にして」(巻十五)とよんだこと。
東国に下って、三河国の八橋で「唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ」、武蔵国の隅田川の辺で「名にし負はばいざ言問はむ都鳥我が思ふ人は有りやなしやと」(巻九)という歌をよんだこと。
伊勢に下り、ひそかに斎宮に通じたこと。そのほかに、布引滝に遊んだこと、紀有常の女のもとに通ったこと、母が長岡に住んでいたこと。阿波介として任国に下る紀利貞を送るため、また、藤原基経の四十の賀のために歌をよんだこと。業平の家にいた女に藤原敏行が通ってきたことなどである。『古今集』の編者が長文の詞書を何によって記したかについては諸説があるが、近年の研究では、東下りや高貴な女性との密通事件も事実ではないとされ、業平の事跡の物語化は、『古今集』にも顕著に見られると考えられるようになった。他方、『古今集』と同じころ、九〇〇年前後に成立したとみられる『伊勢物語』には業平の歌を核にした数々の物語が収められているが、『古今集』と『伊勢物語』によって、業平は漂泊の旅にも出た無用者的な「すき者」、失意の皇子と慰め合う名門出の貴公子として描き出されることになった。そして、そこに浮かび上がる業平は、平安時代中期以降の貴族文化の一面を体現する人物であり、和歌の復興、物語文学の成立を支える精神を具体化した人物であったと考えられる。
に関する説話は、『今昔物語集』や『発心集』に見え、藤原氏の権勢に批判的な立場をとる『大鏡』では、歴史のたいせつなひとこまとして語られている。
は清和天皇のもとに入内する前の二条后(高子)との密通の話として、他の恋愛譚を合わせて発展し、『古事談』『宝物集』『無名抄』などでは、業平が二条后を盗み出したが后の兄弟たちに奪い返されるという話になり、忍んで通うために剃髪したとか、事が発覚したため懲罰として髪を切られ、髪が伸びるまで東国に下ったというような話も生まれた。また
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が結びつけられて、都にいられなくなった業平が東国に下る話が有名になり、単に東下りといえば、業平の東国への旅をさすほどになった。さらに、業平が奥州八十島で小野小町のどくろに会う話も種々の説話集に見え、一条兼良の『伊勢物語愚見抄』は、業平を馬頭観音、小町を如意輪観音の化身とする説をあげている。『伊勢物語』は、歌の心を涵養するために繰り返し読むべき古典とされ、『源氏物語』よりも重んぜられていたため、『雲林院』『井筒』『小塩』『
伊勢物語といふは、両部を伊勢の二字におさめたり。されば胎金を男女の道に作りなすなり。伊は胎女なり。勢は胎男なり。
とおもみのかゝる芥川
来ぬる旅をしぞ思う」と詠んだという。この形式は江戸期の「折句」の元祖に当たる。「ぼろっ買い」は女と見るや誰彼の区別なく渡り歩く男をいう。
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