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  11. 梅松論

梅松論

ジャパンナレッジで閲覧できる『梅松論』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
梅松論
ばいしょうろん
歴史物語、軍記物語。二巻二冊。作者未詳。貞和五年(正平四、一三四九)成立が通説(菅(かん)政友)であるが、一方、上限を正平七年(一三五二)とし下限を嘉慶年間(一三八七―八九)とする説もある。後者の説は、『梅松論』を典拠としている『源威集』の推定成立年代を念頭に置き、それ以前とする説である。作者については、細川和氏・玄恵などの説は、現在、否定されている。細川氏の一族を作者に推定する説もある。本文には、大きく分けて流布本系と古本系とがあり異同が多い。『大鏡』などの歴史物語の書き出しの部分の構想に似せて、菅原道真正忌に北野毘沙門堂に参籠した群集が、老僧から当代(足利将軍)が運を開いた経緯を語り聴くという形式になっている。この時、松の風、梅の匂、いと神さびた雰囲気であったと記して、書名の由来とする。古本系では、語り手、聞き手、この問答を書き写す人のやりとりが詳しくあって、この部分がない流布本とは趣を異にしている。語り手は、承久の乱から語り始め、正中・元弘の変、南北朝の動乱を叙べ、新田義貞の金崎(かねがさき)城が陥るまでを扱い、最後には、夢窓疎石の足利尊氏賞讃の辞などがある。全般的にみて、軍記物語の本文のように諸本間に異同が多いことが特徴である。古本系の本文は、『国語国文』三三ノ八・九(昭和三十九年(一九六四)八月・九月)によって、はじめて翻刻紹介されたもので(京都大学文学部博物館所蔵)、この系統に属するものには、天理図書館所蔵写本、彰考館文庫所蔵の寛正七年(文正元、一四六六)写本(下巻のみ)がある。『群書類従』合戦部(流布本)、『梅松論・源威集』(『(新撰)日本古典文庫』、寛正本と流布本)所収。
[参考文献]
小川信「『梅松論』諸本の研究」(岩橋小弥太博士頌寿記念会編『日本史籍論集』下所収)、井上良信「太平記と梅松論」(『史学研究』四八)、釜田喜三郎「梅松論と太平記との関係」(『心の花』八〇〇)、同「寛正本梅松論発掘の跡」(『神戸商船大学紀要』文科論集一九・二〇)
(益田 宗)


日本大百科全書
梅松論
ばいしょうろん

南北朝時代の歴史書。2巻。著者は足利(あしかが)氏にかかわりの深い武将、あるいは室町幕府関係者とされ、成立は1352年(正平7・文和1)以後、1387~88年(元中4~5・嘉慶1~2)以前と推定されている。本書は、南北朝の動乱の起こりから足利尊氏(たかうじ)・直義(ただよし)兄弟が幕府を樹立するまでの経過を述べながら、初期室町政権の正当性や諸将の勲功を事実に基づいて顕揚しようとしたものであり、南朝側の視点にたつ『太平記(たいへいき)』とは対照的な見方をしている。本書の政道論には、〔1〕有徳者為君主義=撫民(ぶみん)仁政主義と、〔2〕神孫為君主義=血統主義が二つながら認められるが、究極的には〔2〕は天の思想に依拠する〔1〕に掣肘(せいちゅう)されるものであった。したがって本書は、歴史的世界に生起した諸現象、とりわけ政権を担当した為政者に対して、まず〔1〕によって、ついでその埒内(らちない)で〔2〕を踏まえて評価を下したのである。この段階で、超越的神意ないし理法が歴史の行方をあらかじめ決定しているとみる『愚管抄(ぐかんしょう)』『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』的な歴史観は、ほぼ克服されたといえよう。
[石毛 忠]



改訂新版・世界大百科事典
梅松論
ばいしょうろん

足利政権成立の過程を記した軍記物語。2巻。1352年(正平7・文和1)をさほど下らないころの成立と推定される。京都北野天満宮に参籠した人々が老僧から物語を聞くという,《大鏡》に始まる〈鏡もの〉の形式をとる。書名は北野天神ゆかりの飛梅老松に由来することが,巻末に記される。作者未詳だが,足利氏旗下の諸将(細川氏,少弐氏など)と関係ある者,あるいは夢窓疎石ゆかりの者などが想定されている。内容は持明院・大覚寺両統の分裂・対立までを前史として略述したのち,主題である建武政権の成立と崩壊,足利政権樹立の過程を,足利政権を正当化する意図のもとに叙述する。年代的には《太平記》の前半部分と重なるが,足利尊氏・直義,楠木正成らをはじめ,動乱期の人物群像を《太平記》とは異なった視点でとらえている。文体は簡潔,史料としての信憑性は高く,南北朝期政治史および変革期における武士の歴史意識研究に好個の書。
[加地 宏江]

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1. 梅松論
日本大百科全書
南北朝時代の歴史書。2巻。著者は足利(あしかが)氏にかかわりの深い武将、あるいは室町幕府関係者とされ、成立は1352年(正平7・文和1)以後、1387~88年( ...
2. 梅松論
世界大百科事典
足利政権成立の過程を記した軍記物語。2巻。1352年(正平7・文和1)をさほど下らないころの成立と推定される。京都北野天満宮に参籠した人々が老僧から物語を聞くと ...
3. ばいしょうろん【梅松論】
日本国語大辞典
室町前期の史書。二巻。著者不明。貞和五年(一三四九)頃の成立。承久の乱以後の北条執権の時代から南北朝の動乱を経て足利氏が天下を制圧するまでの歴史を扱う。「大鏡」 ...
4. ばいしょうろん【梅松論】
国史大辞典
史籍論集』下所収)、井上良信「太平記と梅松論」(『史学研究』四八)、釜田喜三郎「梅松論と太平記との関係」(『心の花』八〇〇)、同「寛正本梅松論発掘の跡」(『神戸 ...
5. あいざわはら【藍沢原】静岡県:駿東郡
日本歴史地名大系
一一日足利尊氏軍と尊良親王・脇屋義助軍が戦った竹之下合戦の最初の激戦は当地で繰広げられた。「梅松論」には「藍沢原におひて爰をかきりと戦しに、敵数百人討取間」とみ ...
6. あいざわやしき【相沢屋敷】東京都:多摩市/関戸村地図
日本歴史地名大系
での合戦で戦死した幕府方の将で、金地院本系「太平記」では道忍、他の「太平記」諸本では道堪、「梅松論」では道潭と記されている。この墓のことは「江戸名所図会」により ...
7. あか‐いと【赤糸】
日本国語大辞典
カイト)のこぼれ梅など品(ひん)一層も二層もよし」(2)「あかいとおどし(赤糸威)」の略。*梅松論〔1349頃〕下「赤糸の鎧の、菱の板より切捨てたるに」*太平記 ...
8. あかがわ‐かたじろ[あかがは‥]【赤革肩白】
日本国語大辞典
〔名〕鎧の威毛(おどしげ)の一種。肩や胸に当たる部分だけ白糸、他の部分を赤色の革で威したもの。*梅松論〔1349頃〕下「少弐が宗徒の家人饗庭の弾正左衛門尉、赤皮 ...
9. あかさか【赤坂】福岡県:福岡市/中央区
日本歴史地名大系
わず赤坂から鳥飼に向かい、赤坂では菊池武房の攻撃によりモンゴル軍は後退していた(同絵詞)。「梅松論」建武三年(一三三六)三月条に、九州に下った足利尊氏一行が香椎 ...
10. あかまがせき【赤間関】山口県:下関市
日本歴史地名大系
「日本後紀」(大同元年五月一四日条)にみえる「蕃客」に備えて設けられた駅館のあった地とする説もある。「梅松論」に「日数へぬれば建武三年二月二十日、長門国赤間の関 ...
11. あかまつ-のりむら【赤松則村】
日本人名大辞典
通称は次郎。法名は円心。【格言など】およそ合戦には旗をもって本(もと)とす。官軍は錦の御旗を先だつ(「梅松論」) ...
12. あきづきじょうあと【秋月城跡】徳島県:板野郡/土成町/秋月村
日本歴史地名大系
戦国期には秋月氏が居城したという。建武三年二月、足利尊氏は九州に敗走する際、細川一族に四国経略を命じ(梅松論)、和氏と弟の頼春・師氏および従兄弟の顕氏らはただち ...
13. 足利尊氏
世界大百科事典
されて気をとり直したという(《太平記》巻十六)。小心と狭量をうかがわせる挿話である。反対に《梅松論》が伝える夢窓疎石の尊氏評は,一に心が強く,二に慈悲心があり, ...
14. あしかがたかうじ【足利尊氏】
日本架空伝承人名事典
されて気をとり直したという(『太平記』巻十六)。小心と狭量をうかがわせる挿話である。反対に『梅松論』が伝える夢窓疎石の尊氏評は、一に心が強く、二に慈悲心があり、 ...
15. 足利高氏・足利尊氏
日本史年表
1336年〈【北朝】建武3・【南朝】延元元(2・29) 丙子〉 1・11 足利尊氏 入京(梅松論)。 1336年〈【北朝】建武3・【南朝】延元元(2・29)  ...
16. あしかがただよし【足利直義】
国史大辞典
主張した点、および義貞軍に包囲された時点で尊氏が政務を直義に委譲したといわれる点(いずれも『梅松論』)が注目される。翌年九州から東上した尊氏・直義は持明院統の光 ...
17. 足利直義
日本史年表
,武蔵国に進み足利直義を破る.翌23日,直義,護良親王を殺して鎌倉を脱出( 中先代の乱 )(梅松論)。 1335年〈建武2 乙亥⑩〉 12・13 官軍,伊豆国府 ...
18. あしがらやま【足柄山】静岡県:駿東郡/小山町
日本歴史地名大系
は「山を下りて野山に打上り小坂の本にて懸あはせ戦」い、退いた敵を三〇余里追って大勝利を収め(梅松論)、その後も尊氏軍は連戦連勝して南北朝期の趨勢を決定づけること ...
19. あしや・あしやのつ【葦屋・葦屋津】福岡県:遠賀郡/芦屋町
日本歴史地名大系
海行一日で「筑前の国あしやの津」に着き、翌三月一日に当地を立って宗像大宮司の宿所に入ったという(梅松論)。室町期には葦屋商人が活発な商業活動を行っていたことが知 ...
20. あぼごう・あぼしやかた【安保郷・安保氏館】埼玉県:児玉郡/神川町/元安保村地図
日本歴史地名大系
で討死し(「太平記」巻一〇)、建武二年(一三三五)足利尊氏は道潭跡を安保光泰に継がせている(梅松論)。同三年一二月一一日、足利直義は「安保郷内屋敷在家」などの地 ...
21. あわじのくに【淡路国】兵庫県
日本歴史地名大系
)。同年二月尊氏は九州に敗走するに際して細川和氏・頼春・師氏の兄弟はじめ一族を四国に派遣し(梅松論)、細川一族の四国掌握が緒につくが、うち師氏がいち早く淡路守護 ...
22. あわのくに【阿波国】徳島県
日本歴史地名大系
建武三年(一三三六)二月、九州へと落ちる尊氏の命を受けて細川一族の和氏・頼春・師氏・顕氏らが四国に入った(梅松論)。細川氏は室町幕府開設後阿波国の守護職を与えら ...
23. あんこく‐じ【安国寺】
日本国語大辞典
利生(りしょう)塔と称した。現在、安国寺は五九か国に、利生塔は二九か所に所在が確認されている。*梅松論〔1349頃〕下「三条殿は六十六ケ国に国ごとに寺を一宇立て ...
24. あんこくじ【安国寺】長野県:茅野市/安国寺村
日本歴史地名大系
創設当初は七堂伽藍を有し、広大な面積を占めていた(寺伝の古図)といわれ、現在地はその一画である。「梅松論」に「三条殿は六十六ケ国に寺を一宇づつ建立し、各安国寺と ...
25. いえ の 紋(もん)
日本国語大辞典
衣服、調度などにつけるその家の紋所。家紋。紋章。*類従本梅松論〔1349頃〕上「思々の家の紋旗立並て風に瓢したる有様幾千万といふ数を知らず」*増鏡〔1368〜7 ...
26. いがかねみつ【伊賀兼光】
国史大辞典
建武新政なるや、雑訴決断所設置当初よりその三番職員となり、恩賞方・記録所にも寄人として名を連ね、さらに『梅松論』によれば窪所の一員にも加えられた。これによって建 ...
27. いきしろじんじゃ【印岐志呂神社】滋賀県:草津市/片岡村
日本歴史地名大系
山法師成願坊ら三〇〇余騎を一日一夜で攻め落しており、当時当社は城砦化されていたのであろう。「梅松論」には「伊岐代宮」と記され、伊幾須之城・伊岐洲城などともみえる ...
28. いくたのもり【生田森】兵庫県:神戸市/中央区/生田宮村
日本歴史地名大系
足利方の四国勢は新田・楠木軍が京都方面へ逃げるのを妨げるため生田森の辺より上陸して陣取ったという(梅松論)。同年西摂の南朝方と赤松軍が戦った際、赤松方に属した島 ...
29. いずこくふ・いずふちゅう【伊豆国府・伊豆府中】静岡県:三島市
日本歴史地名大系
尊氏・直義の軍勢は当地で合流し府中などに陣を取ったという(建武四年八月日「野本鶴寿丸軍忠状」熊谷家文書、「梅松論」、「太平記」巻一四箱根竹下合戦事・官軍引退箱根 ...
30. いちのたに【一ノ谷】兵庫県:神戸市/須磨区/西須磨村
日本歴史地名大系
延元元年(一三三六)のいわゆる湊川合戦の時には足利尊氏・直義方の陸上軍最前線が一ノ谷であった(梅松論)。なお康安二年(一三六二)京都東寺領矢野庄(現相生市)の年 ...
31. いち の 手段(てだて)
日本国語大辞典
「いち(一)の手(て)(1)」に同じ。*梅松論〔1349頃〕上「川を後にあてて戦ふ時にこそ、退くまじき謀に、舟を焼き、橋を切るこそ武略の一の手だてなれ」 ...
32. いっ‐とう[‥タウ]【一刀】
日本国語大辞典
」(2)刀を一回ふるって切ること。一太刀。また、彫刻をする場合のひときざみ、ひとほり。*類従本梅松論〔1349頃〕下「菊池武敏計(ばかり)は、頼尚が一刀を以て誅 ...
33. いでのさわ【井出の沢】東京都:町田市/本町田村
日本歴史地名大系
埼玉県日高市)・府中で敗北を喫した足利軍は足利直義自ら出陣し、「井出沢辺ニ於テ終日合戦」し(梅松論)、味方に多数の戦死者を出し、東海道を三河国まで敗走した。甲斐 ...
34. いなせがわ【稲瀬川】神奈川県:鎌倉市/長谷村
日本歴史地名大系
元弘三年(一三三三)新田義貞の鎌倉攻めの際「浜面の在家并稲瀬川」東西の民屋に火を放って気勢をあげたこと、「梅松論」は浜の手大将大館次郎宗氏が稲瀬川川辺で討取られ ...
35. いなむらがさき【稲村ヶ崎】神奈川県:鎌倉市/極楽寺村地図
日本歴史地名大系
み、ついに北条氏を滅ぼすことに成功したという。「太平記」にみえるこの話は古来有名であるが、「梅松論」に「ここに不思議なりしは、稲村崎の浪立ぎは石たかく道ほそくし ...
36. いまみちごえ【今道越】滋賀県:大津市/中部地域/山中村
日本歴史地名大系
は、延暦寺に籠った後醍醐天皇を討つために足利尊氏方の園城寺衆徒がこの道の攻撃を担当しており(梅松論)、永享六年(一四三四)一〇月室町幕府と延暦寺衆徒が戦ったとき ...
37. うえすぎしげよし【上杉重能】
国史大辞典
上杉憲房の養子となり足利尊氏に重用され、元弘三年(一三三三)尊氏に従って上洛して六波羅攻めに参加した。『梅松論』によれば、この時重能は細川和氏とともにひそかに後 ...
38. うきしまぬま・うきしまがはら【浮島沼・浮島ヶ原】静岡県:沼津市
日本歴史地名大系
建武二年(一三三五)一二月には箱根竹之下合戦に大勝した足利軍が新田軍を追撃して陣を張っている(梅松論)。天文二三年(一五五四)三月には駿河に攻め入った北条氏康の ...
39. うすがねのよろい【薄金鎧】
国史大辞典
一六に「うす金と云唐綾をどしの鎧に白星の甲」とある木曾義仲の鎧、『太平記』一六、湊河合戦や『梅松論』下に、重代の薄金という赤威の鎧とある新田義貞の鎧、応永二十年 ...
40. 有智山城
日本史年表
延元元(2・29) 丙子〉 2・29 菊池武敏,大宰府を攻撃.少弐貞経, 有智山城 で自殺(梅松論)。  ...
41. うちやまじようあと【有智山城跡】福岡県:太宰府市/内山村
日本歴史地名大系
関市)に足利尊氏を迎えに行った(梅松論)。そのすきに後醍醐天皇方の菊池武敏らは二月二九日「有智山城」を攻撃し、頼尚の父貞経は自刃した(「太平記」巻一六、「梅松論 ...
42. うつのみやずしばくふあと【宇津宮辻子幕府跡】神奈川県:鎌倉市/小町村地図
日本歴史地名大系
新田義貞の鎌倉攻めの際は殿中以下が火に包まれ、北条氏一族などは自害しあるいは落延びたという。この後、「梅松論」に「適大敵の中をのがれて関東に御座可然旨をもて、堅 ...
43. うわ‐や[うは‥]【上矢】
日本国語大辞典
「我身をはじめて十三人が、うは矢をぬき、願書にとり具して、大菩薩の御宝殿にこそおさめけれ」*梅松論〔1349頃〕下「重籐の御弓に上矢をささる」*曾我物語〔南北朝 ...
44. おうぎごえ【仰木越】滋賀県:大津市/北部地域/上仰木村
日本歴史地名大系
建武三年(一三三六)六月、足利方は延暦寺に籠った後醍醐天皇を討つため比叡山に総攻撃をかけた。「梅松論」には「今路越をば三井寺法師旬中、大手の雲母坂は細川の人々四 ...
45. おうさか・おうさかやま【逢坂・逢坂山】滋賀県:大津市/大津町/大谷町
日本歴史地名大系
攻撃した新田義貞・北畠顕家の軍勢は、同月一六日、京都から軍を進めた尊氏方の高師直と関山において激突(「梅松論」など)。このとき師直の指揮下にあって奮戦した三崎政 ...
46. おおくらだにむら【大蔵谷村】兵庫県:明石市
日本歴史地名大系
「大蔵谷の澳」に碇を降ろし、陸上では足利直義の軍勢が当地一帯で篝火を焚いて合戦に備えている(梅松論)。応安四年(一三七一)九州下向の途中「おほくらたに」を通った ...
47. おおたのしょう【太田庄】埼玉県:北埼玉郡
日本歴史地名大系
建武二年(一三三五)一二月に足利尊氏が由緒の地として小山常犬丸に武蔵国太田庄を与えているが(梅松論)、これは前述の上須賀郷の安堵のことと考えられる。永徳二年(一 ...
48. おおともさだのり【大友貞載】
国史大辞典
載に切りつけ、貞載も応戦して親光を斬殺したが、自身もまた疵が因で翌十二日京都で没した。なお『梅松論』は、親光が貞載の裏切りをにくみ、貞載を討たんとして尊氏に偽り ...
49. おおどもやかたあと【大友館跡】大分県:大分市/旧大分市地区/六坊村
日本歴史地名大系
じ、新田義貞に従った千代松丸も翌三年正月九日尊氏方に降った(「太平記」など)。貞載は戦死(「梅松論」など)、千代松丸は九州に落ちる途中尊氏の猶子となり(建武三年 ...
50. おおわだのとまり・ひょうごのつ【大輪田泊・兵庫津】兵庫県:神戸市/兵庫区
日本歴史地名大系
兵庫の魚の御堂で首実検が行われたという。のちに湊川合戦と称されるが、主戦場は兵庫であった(「梅松論」など)。同五年三月二六日には湊川の赤松範資の城で(同年六月日 ...
「梅松論」の情報だけではなく、「梅松論」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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