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遣唐使(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
7世紀から9世紀にかけて日本から唐(618~907)に派遣された公式の使節。630年(舒明天皇2)8月に犬上御田鍬(耜)を派遣したのを最初とし、894年(寛平6)に菅原道真の建議によって停止されるまで、約20回の任命があり、うち16回は実際に渡海している。
大宝律令(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
律令時代盛期の基本法典。刑部親王らの撰。律六巻・令十一巻。施行期間は、令が大宝元年(七〇一)から、律が翌二年から、いずれも『養老律令』に代わった天平宝字元年(七五七)まで。『養老律令』に対して古律・古令という。かねてから夫の天武天皇とともに律令制定を命じていた
平城京(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
8世紀、約70年間にわたって奈良に営まれた都城。710年(和銅3)に藤原京から遷都してきて以来784年(延暦3)長岡京に遷るまでの間であるが、藤原広嗣の乱(740)後の5年間ほどは難波を都としたため空白期間がある。奈良盆地の北端に位置しており、山背国(京都府)へ抜けると木津・淀川
素戔嗚尊・須佐之男命(日本国語大辞典)
記紀・風土記などに見える神。「古事記」では、伊邪那岐(いざなぎ)命のみの子とされるが、「日本書紀」では、伊弉諾・伊弉冉(いざなき・いざなみ)二神の間に生まれたとされる。天照大神の弟。
高御産巣日神・高皇産霊神(日本国語大辞典)
(「たか」「み」は美称、「むす」は生ずる、「ひ」は霊威の意。生成力の神格化。「たかみむすびのかみ」とも)記紀などに見える神。「古事記」では、天地が初めて出現した時、天之御中主神についで、神産巣日神とともに現われた造化三神の一つ。
伊邪那岐命・伊弉諾尊(日本国語大辞典・日本架空伝承人名事典)
(古くは「いざなきのみこと」か)記紀などに見える神。国生みを行なった男神。神代七代の最後の神。「古事記」によれば、天神の命で、伊邪那美命とともに大八洲の国をはじめ、山川草木や万物を司る神々を生み、最後に天照大神、月読命、須佐之男命を生んで、治めさせる国々を定めた。
天照大神・天照大御神(日本国語大辞典)
(「あまてらすおおんかみ」とも)記紀などに見える、王権を保証する天上他界の主神。日の神。伊奘諾尊の娘。誕生には、水生・胎生・鏡生の三伝承がある。弟の素戔嗚尊の粗暴なふるまいを怒って天の岩屋戸に隠れた神話や、日月離反の神話が伝わる。
古語拾遺(改訂新版 世界大百科事典・国史大辞典)
平安初期に書かれた歴史書。著者は斎部広成。1巻。807年(大同2)2月13日完成。忌部(斎部)氏は大和朝廷時代には中臣氏と並んで祭祀を担当していたが,大化改新後は中臣氏から藤原氏が出て政界で有力になると,中臣氏も奈良時代には祭祀関係の要職を独占するようになった。
新撰姓氏録(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・国史大辞典)
815年(弘仁6)に編纂された古代氏族の系譜書。本書の編纂は799年(延暦18)、諸国に本系帳の撰上を命じたことに始まる。814年に至り万多親王、藤原園人、同緒嗣らによって完成されたが、さらに源朝臣の条などを追加し、不備な点を補って翌年に
シャクシャインの戦い(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
1669年(寛文9)、東蝦夷地(ひがしえぞち)シブチャリ(北海道新ひだか町)に拠点をもつアイヌの首長シャクシャインが起こした蜂起(ほうき)。この蜂起は東西蝦夷地の各地に波及し、鷹待(たかまち)(鷹匠)や商船の船頭など日本人390人余(『津軽一統志(つ
禁門の変(蛤御門の変)(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
元治元年(一八六四)七月、京都での尊攘派の勢力挽回を策した長州軍と京都を守る会津・薩摩藩を中心とする公武合体派軍との軍事衝突。元治甲子の変または蛤御門の変ともいう。文久三年(一八六三)八月十八日の政変は、それまで京摂間で猛威を
天狗党の乱(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
幕末期水戸藩尊攘激派(天狗党)による筑波山挙兵とそれを契機に起った争乱。天狗の呼称は水戸藩藩主徳川斉昭が天保度の藩政改革を実施した際、改革を喜ばない門閥派が改革派藩士を批難したところから発したもので、改革派には軽格武士が多かったから
大塩平八郎の乱(日本大百科全書・国史大辞典)
江戸後期、大坂で大塩平八郎らが救民のため挙兵した反乱。1828年(文政11)の九州大洪水より、断続的に天災による諸国異作が続き、36年(天保7)は未曽有の大飢饉であった。この打ち続く凶作・飢饉により米価高騰し、大坂市中には飢餓による死者が続出する。
生田万の乱(国史大辞典・日本大百科全書)
天保八年(一八三七)六月一日の明け方、平田篤胤の元塾頭生田万らが桑名藩領柏崎陣屋(新潟県柏崎市)に乱入した事件。柏崎騒動ともいう。柏崎陣屋は桑名藩の越後領四郡六万石の総支配所で、大役所・預役所・刈羽会所の三役所があり、郡代以下五十数名で領政を担当していた。
島原の乱(島原・天草一揆)(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
江戸時代初期、松倉勝家領の肥前国島原と同国唐津寺沢堅高領の肥後国天草の領民が連帯し、少年益田(天草)四郎時貞を盟主に蜂起し、島原の原城にたてこもって幕府・諸藩兵と戦い、全員誅殺された大農民一揆。天草一揆ともいう。この一揆に対する
関ヶ原の戦い(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
1600年(慶長5)9月、徳川家康の率いる東軍と、石田三成を中心とする西軍によって、美濃国関ヶ原(岐阜県不破郡関ヶ原町)で行われた「天下分け目」の戦い。 [岡本良一]三成挙兵 1598年(慶長3)豊臣秀吉が死ぬと、豊臣政権はたちまち内部分裂の兆しをみせ始めた。秀吉は生前から、家康の
方広寺鐘銘事件(国史大辞典)
豊臣秀頼による方広寺大仏殿再興に際しひき起され、大坂冬の陣の原因の一つとなった事件。豊臣秀頼は、亡父秀吉追善供養のため、慶長七年(一六〇二)、方広寺大仏殿(東山大仏堂)の再建に着手したが、年末の失火で頓挫、あらためて片桐且元を奉行に七年後に事業を再開、同十五年六月
鳥浜貝塚(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
福井県三方上中郡若狭町鳥浜にある縄文時代前期から草創期にかけての貝層を伴う低湿地遺跡。1962年(昭和37)から10年間にわたり、若狭考古学研究会のメンバーを中心に発掘が行われ、多大の成果を収めた。また、自然科学の各分野の研究者が参加協力し、共同研究の実をあげた。
三内丸山遺跡(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
青森市三内字丸山に所在する縄文時代の遺跡。沖館川右岸の河岸段丘上にあり、標高は約二〇メートル。範囲は約三八ヘクタールと推定。江戸時代から知られ、山崎立朴の『永禄日記』や菅江真澄の『栖家の山』にも遺物発見の記載がある
縄文土器(日本国語大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
縄文文化の土器の総称。縄や蓆でつけたような文様があるので、はじめ縄蓆文土器とも称されたが、昭和初期にこの名称に統一された。明治一〇年(一八七七)、大森貝塚を発掘したE=S=モースが、その土器をCord marked pottery と呼んだのが起源
貝塚(国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
貝類の繁殖に適した海岸・湖岸近くに居住した人々が、食料として貝を多量に捕食し、食したあとの貝殻を、他の不用品とともに一定の場所に投棄したため、貝殻が層をなして堆積して今日まで残存したものを一般に貝塚と呼んでいる。縄文時代の貝塚を発掘すると貝層中から埋葬人骨
竪穴住居(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
地面を円形や方形に数十センチメートル掘りくぼめて、垂直に近い壁や平らな土間の床をつくり、その上に屋根を架した半地下式の住居である。おもに考古学的調査で発見され、日本では旧石器時代から中世まで使われた主要な住居様式の一つである。一般的には、一辺あるいは径が数メートルで
寛政重修諸家譜(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
寛政年間(一七八九―一八〇一)に江戸幕府が編修した系譜の書。千五百二十巻目九巻序・条例一冊(千五百三十冊)。文化九年(一八一二)完成。『寛永諸家系図伝』編集の後、『譜牒余録』を経て、系譜の補筆改訂の動きが寛政の初年におこった
寛永諸家系図伝(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
「しょか」は「しょけ」と読む人もある。寛永年間(一六二四―四四)に江戸幕府が編修した系譜の書。仮名本・真名本各百八十六冊。松平氏・清和源氏・平氏・藤原氏・諸氏の五種、および医者・同朋・茶道の三類に分類して収めてある
系図纂要(国史大辞典)
皇室および諸氏・諸家の系図を集成した書物。飯田忠彦が編集したものとみられる。内閣文庫本は百三冊。ただしもとこれと一具をなしたと思われる一冊が東大史料編纂所に蔵せられ、現伝の形で完具するか否か一考の余地がある。成立年代は本文に安政四年(一八五七)までの記事を含むことや
尊卑分脈(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
諸氏の系図を集成・編集した書物。洞院公定原撰。現行の本には欠逸した部分があり、また後人の追補・改訂も多いとみられる。伝本によって収載する系図に出入・異同があり、その配列も区々で、原形を復原推定することは困難である。江戸時代の刊本『諸家大系図』は十四冊
王政復古(日本大百科全書・世界大百科事典・日本国語大辞典)
江戸幕府の崩壊から明治政府の成立過程における一つの政治理念で、最終的には、1868年1月3日(慶応3年12月9日)の「王政復古の大号令」の発表による新政府成立を示す。江戸時代には、全国統治の実権は将軍=徳川氏と幕府に握られ、天皇や公卿で構成される朝廷は、儀礼的な存在に形骸
日本武尊(新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
『古事記』『日本書紀』『風土記』などに伝えられる英雄伝説の主人公。記では倭建命と記す。景行天皇の第三皇子で、母は播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)とされ、幼名に小碓(おうす)命、倭男具那(やまとおぐな)王がある。
蘇民将来(日本架空伝承人名事典・国史大辞典・世界大百科事典)
古代説話に登場する人物で、護符の一種でもある。護符は晴明判(魔よけの星象)や「蘇民将来子孫」などの文字を記した六角柱または八角柱の短い棒で、房状の飾りや紐をつけて帯に結び下げるようになったものもある。正月に、牛頭天王(ごずてんのう)と縁の深い
邪馬台国(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・Encyclopedia of Japan)
二、三世紀の日本列島内にあった小国の一つで、対馬国(のちの対馬島上県・下県郡、現在の長崎県上県・下県郡)以下二十八の小国を統属していた倭国連合の盟主国。二世紀末から三世紀前半まで女王卑弥呼が都としていた国。この国への道程は『魏志』倭人伝によれば諸
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