1963年に刊行がスタートした『東洋文庫』シリーズ。日本、中国、インド、イスラム圏などアジアが生んだ珠玉の作品の中から、毎週1作品をピックアップ。 1000文字のレビュー、そしてオリジナルカルテとともに、面白くて奥深い「東洋文庫」の世界へいざないます。
偉業を“引き継ぐ”ということの重み。 半年でアラビアン・ナイトを読み切る(5) |
これまでアラビアン・ナイト12巻まで終えたので、次は13~15巻なのだが、一緒に「別巻」を取り上げたい。
別巻には、全18巻の定本とは別のアラビア語原典からわざわざ翻訳された2編(「アラジンと魔法のランプ」と「アリババ」)が収められているのだが、実はこの別巻をもって前嶋訳は終わる。なぜか。その答えは、別巻冒頭に記されている。
〈本書の訳者前嶋信次先生は、本文御脱稿後、一九八三年六月三日、長逝されました〉
1966年7月に第1巻が訳出されてから15年以上にわたって続けられてきた翻訳作業も、本人の死をもって閉じてしまったのである。無念いかばかりか。
だが、今もなお、前嶋訳のアラビアン・ナイトは輝きを放っている。それは“完訳”されているからだ。とすれば、あとを継いで訳を完成させた池田修氏(大阪外国語大学名誉教授)の功績も大きい、ということになる。
だって、偉業を引き継ぐんですよ? 自分なら……と考えたら尻込みしてしまうだろう。尻ぬぐい程度ならできても、偉業を引き継ぐには覚悟がいる。
池田氏が最初に訳した13巻には、「クンダミル王の子アジーブとガリーブの物語」という長編が登場するが、これは、西洋の訳者が「退屈」と評したり、翻訳から外したりすることもあるいわく付きの物語。しかも、〈人物名で、前後の関係から明らかに間違って語られているものもあった〉(あとがき)というから、難題だ。これを氏はいかに訳したか。この物語に登場する食人鬼サアダーンの口上。
〈偶像崇拝者ども。今日こそは出て来て立ち合え。今日こそは粉砕の日ぞ。わしを知るやつは、わしに充分痛い目に会ったはずだ。だが、わしをまだ知らぬやつには、自ら目にもの見せてくれようぞ。わしはカリーブ王の下僕サアダーンなるぞ。誰か一騎打ちする者はいないか〉
どうです? 臨場感あふれる感じじゃありませんか? 確かに骨の折れる長さでしたが、決して退屈な物語ではありませんでした。訳者の腕でしょう。
日本人は「伝統」という言葉が大好きで、やたらこの言葉をありがたがるけれど、その裏には、必ず、名も無き職人の「引き継ぐ覚悟」があったはずだ。これがなければ、伝統は失われ朽ちていく。
「アラビアン・ナイト」の翻訳作業は、そうしたもののひとつなのだ。その成果を享受できることに感謝したい。
ジャンル | 文学 |
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時代 ・ 舞台 | 中世のアラビア(イラン、イラク、エジプト、シリアなど) |
読後に一言 | これまで前嶋信次氏の仕事を翻訳を通じて追ってきただけに、前嶋氏逝去の一文にはうるっときました。 |
効用 | 別巻の「アラジンと魔法のランプ」と「アリババ」、知っている物語の原典を読む作業は面白いものです。 |
印象深い一節 ・ 名言 | 有名な「開けゴマ!」のシーン、〈おいシムシム(胡麻)、お前の門をあけろ!〉(別巻「アリ・ババと四十人の盗賊の物語」) |
類書 | 前嶋信次の“出会い”にまつわるエッセイ『書物と旅 東西往還 前嶋信次著作選4』(東洋文庫684) 前嶋信次の「アラビアン・ナイト」論『千夜一夜物語と中東文化 前嶋信次著作選1』(東洋文庫669) |
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