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1963年に刊行がスタートした『東洋文庫』シリーズ。日本、中国、インド、イスラム圏などアジアが生んだ珠玉の作品の中から、毎週1作品をピックアップ。 1000文字のレビュー、そしてオリジナルカルテとともに、面白くて奥深い「東洋文庫」の世界へいざないます。

東洋文庫 779|781

『完全版 知恵の七柱2、3』(T.E.ロレンス著 J.ウィルソン編 田隅恒生訳)

2022/07/07
アイコン画像    透徹した目で世界を見る
1917年のアラビアのロレンス

 『知恵の七柱』とは何でしょうか。

 辞書的には〈第一次世界大戦中、情報部将校としてアラビアの反乱にかかわった行動の体験と、内面の反省を記した自伝的な記録〉(ジャパンナレッジ「日本国語大辞典」)で、過不足ない記述なのですが、何かが抜け落ちています。その正体を本書の中に見つけました。


 〈キャンプは真昼の長い無活動を脱して、黄色い裏地の孔やほころびから長い匕首(あいくち)のような日光が射しこむテントを通して、外の物音が私にも届き始めた。木陰に立っているところで蠅に悩まされる馬が足踏みし、鼻を鳴らす音、駱駝の文句をいう声、コーヒーの豆を擂(す)る乳鉢の響き、遠方の銃声などが聞こえる。彼らの伴奏のつもりで、私もドラムで戦争の目的を叩き始めた〉(2巻「第三十五章 戦略と戦術」)


 長い匕首のような日光(視覚)、駱駝の文句をいう声(聴覚)という五感がフルに描かれていることに気づかれたでしょうか。ロレンスのロレンスたる所以はここにありました。これを文学的と呼んでいいなら、戦争中でありながら、あまりにも文学的なのです。

 では文学とは何でしょう。詩的な言葉を綴ればいいというもんじゃないですよね。ロレンスの「記録」には、自分をも表現対象とみる、透徹した視線がありました。

 たとえばこんなシーン。

 ロレンスは、敵のトルコ軍が守る交通の要地(ダルアーの町)を偵察に行きました。ですが運悪く、見つかってしまう。ロレンスは夜、そこの太った知事のもとに呼び出されます。案内されたのは寝室です。もちろんロレンスは抵抗しますが、多勢に無勢。組み伏せられてしまいます。


 〈知事は、赦しを乞わせてやると言いつつ私に唾を吐きつけた。柔らかい上靴を脱いで、それで私の顔を繰り返して撲った。さらに前かがみになり、血がにじむまで私の首の皮膚に嚙みついた。そして、私に接吻した〉(3巻「第八十七章 悟らされる」)


 ここまででやめておきますが、思い出したくもない暴行シーンを、ロレンスは丹念に微細に描きます。それを記すことが自分の使命と言わんばかりに!

 本書は戦争の記録です。常に「死」を描いています。ですが、それが陰惨ではないのは、ロレンスが距離を取って対象を描いているからでしょう。これはロレンスによる、戦争文学なのです。


本を読む

『完全版 知恵の七柱2、3』(T.E.ロレンス著 J.ウィルソン編 田隅恒生訳)
今週のカルテ
ジャンル記録/随筆
成立・舞台1917年のシリア、レバノン、イスラエル、ヨルダン、サウジアラビア、エジプトなど
読後に一言次回は「1918年のアラビアのロレンス」をお届けします。
効用「完全版」の2、3巻は、第一次大戦も佳境の1917年の記録です。この年、米国が参戦、連合国側につきます。
印象深い一節

名言
(日没に尾根から通ってきた平原を振り返ると)あちこちの真っ赤な斑点や大きく噴き上がる紅蓮(ぐれん)の炎、そして平地にできた雨水の浅い池に落日の反射が見えるほかはすべてが灰色に沈みながら遠ざかってゆく。(3巻「第八十八章 エルサレム」)
類書20代の米国人ジャーナリストが見た第一次世界大戦後の世界、革命『東方への私の旅』(東洋文庫17)
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