1963年に刊行がスタートした『東洋文庫』シリーズ。日本、中国、インド、イスラム圏などアジアが生んだ珠玉の作品の中から、毎週1作品をピックアップ。 1000文字のレビュー、そしてオリジナルカルテとともに、面白くて奥深い「東洋文庫」の世界へいざないます。
良き理解者がいれば、運命は好転する? 30歳以上も離れた詩人たちの奇妙な友情 |
〈鞭声(べんせい)粛々(しゅくしゅく)夜河を渡る~〉
詩吟といったら必ず登場するのが、この「川中島」だ。誰もが知っている出だしだが、この漢詩の作者が今回の主人公。江戸後期の儒者、『日本外史』の著者の頼山陽(らい・さんよう)である。
この頼山陽、調べてみると、変な人である。〈幼時より神経症に悩まされ〉、〈21歳、突如脱藩〉して出奔。〈探し出され、24歳まで自宅の一室に監禁された〉(ジャパンナレッジ「ニッポニカ」)というのだから、問題児だ。
本書『菅茶山と頼山陽』は、そんな頼山陽と30歳以上年の離れた儒学者・菅茶山(かん・ちゃざん)との不思議な交流を、詩歌や手紙、文献をもとに描いたものだ。著者は、頼山陽が、竹原で〈茶山と出会ったことは、山陽にとって一つの大きな事件であったと言ってもいい〉という。頼山陽は、〈たびたびの欝病の発作、気のすすまない結婚と遊蕩、脱藩事件とそれにつづいた幽閉生活等〉の結果、その生活は〈暗く、陰欝〉。そこに現れたのが、〈開放的で、物わかりがよく、しかも自分の詩才を認めてくれる茶山〉だったのだ。茶山は当代きっての知識人で、山陽道を通る文人はこぞって茶山の私塾廉塾を訪ねたという。
ともに詩人としての才も優れ、教養もある。手紙からも、彼らの密な関係がわかる。茶山は、山陽をゆくゆくは廉塾の跡継ぎにと考えていたようで、親も持て余していた山陽を塾の講師として迎え入れるのだが……。
頼山陽はどうやら、押しつけられることがダメなようなのだ。〈他人の眼にも、時として分別のない、駄々っ子のように映じたことは事実であった〉という。だから結婚も失敗した。「塾を継げ」なんてその最たるもので、茶山の真意が判明するや否や、1年あまりで塾を飛び出し、京都に逃げてしまう。〈茶山に対して後足で砂をひっかけていった〉有り様だったらしい。
30歳以上年の離れた友情はしかし、これで終わりにならない。山陽の父の死の前後から、再び関係が深くなり、手紙のやりとりは茶山が亡くなるまで続いた。
頼山陽は今の時代でも(いや今の時代のほうがむしろ)問題児だ。ADHDなど何らかの診断もくだるかもしれない。が、彼には茶山という良き理解者がいた。だからこそ、『日本外史』のような大著も残せた。
誰しも理解者にはなれる。今の時代に足りないのは、茶山のような良き理解者なのかもしれない。
ジャンル | 詩歌/伝記 |
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時代 ・ 舞台 | 1700年代後半~1800年代前半の日本 |
読後に一言 | 年の離れた友人を持て。って何だか啓蒙本みたいなオチですねぇ。 |
効用 | 漢詩による交流が、この書の読みどころのひとつです。 |
印象深い一節 ・ 名言 | 病を聞きて 千里に趨(はし)り/中途にして訃伝を得たり(頼山陽が茶山の没後に着いた神辺で読んだ漢詩) |
類書 | 頼山陽のエピソードも収録『想古録 近世人物逸話集(全2巻)』(東洋文庫632、634) 頼山陽を理想とした山路愛山の史論『源頼朝』(東洋文庫477) |
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(2024年5月時点)