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1963年に刊行がスタートした『東洋文庫』シリーズ。日本、中国、インド、イスラム圏などアジアが生んだ珠玉の作品の中から、毎週1作品をピックアップ。 1000文字のレビュー、そしてオリジナルカルテとともに、面白くて奥深い「東洋文庫」の世界へいざないます。

東洋文庫 82|99|119

『菅江真澄遊覧記 3~5』(菅江真澄著、内田武志・宮本常一編訳)

2014/05/15
アイコン画像    お友達=しがらみを捨てて自由になれ!
旅に生きた民俗学者の生涯を辿る(後編)

 前回に引き続き、菅江真澄である。今回は40代以降から晩年までを追ってみたい。

 旅人・菅江のもうひとつの顔は、薬草学者だった。


 〈朝早く きょうは田山の観音菩薩の杜(もり)で薬草を採集してゆこうと、出発した〉(「すみかの山」)


 という記述からもわかるように、菅江は道中で、たびたび薬草を摘んでいる。それを医者に持っていき、資金を調達していたそうだ。薬草学を学んだ菅江ならではの方法だった。その知識は行く先々で認められ、44歳の時には、津軽藩の「薬物掛」になる。40代後半には秋田に居を移し、四半世紀以上をこの地で過ごす(秋田県立博物館には、立派な「菅江真澄資料センター」がある)。

 解説を読んでいて驚いたのだが、菅江は、自分の日記や記録を、他人に見せることを前提に書いていたらしい。決して秘していないのだ。となると「菅江真澄遊覧記」は、現代のブログのようなものか。

 だがブログとの決定的な違いは2つある。


(1)ブログはコピペが当たり前だが、本書はオリジナル。

(2)ブログは自己PRに長けているが、本書にはない。


 自己PRをまったくしない、というのは、現代人から見ると不思議に思うことかもしれない。実際、自分の出身地(三河)も経歴も隠していたようで、解明されていない謎も多い。見た目も謎で、〈頭巾をはなさず、だれに会ってもその冠りものをとらなかった〉らしく、津軽領を出た頃(40代後半)から被りだし、死ぬまで続いたという(内田武志、本書「菅江真澄というひと」)。しかも妻も娶らず故郷にも帰らない。十分アヤシイ人物だ。

 菅江の日々は、各地を巡り人々と語らうことがすべてだった。道連れになった人の宅に泊まることも多かった。


 〈人びとと語っているうちに夕方になって、灯をともすころ、また本宅にもどってきて、時鳥(ほととぎす)を聞いた。夜更けまで語りあい、この夜は多くの人たちとここに泊まって、翌朝は早く、人びとと別れて出立し……〉(「軒の山吹」)


 自分の友だち、仲間、身内……こうした“お友達”の関係性を好む人間には、菅江真澄の行動は理解できないかも知れない。30歳で故郷=しがらみを捨てた菅江にはしかし、未知の土地で知り合う人々がいた。

 私たち現代人が菅江のような行動をおこせないのは、スマホやネットなどを駆使して、お友達=しがらみで自分を縛り付けているからかもしれない。

本を読む

『菅江真澄遊覧記 3~5』(菅江真澄著、内田武志・宮本常一編訳)
今週のカルテ
ジャンル民俗学/日記
時代 ・ 舞台1700年代後半~1800年代前半の日本
読後に一言この記事が当コラム連載200回目です。皆さまに感謝!
効用当時は、ロシア船が日本に次々とやってきて蝦夷地に注目が集まっていた時代。いわば時代が動いている時でした。
印象深い一節

名言
……出羽の国河北、現在の山本郡の岩館(八森町)という浦を出発した。高い山、低い山の頂にもなお雪がふかく残って、谷をわたるうぐいすの声も冴えわたる心地がする(「おがらの滝」)
類書菅江真澄のエッセイ『菅江真澄随筆集』(東洋文庫143)
同時期の文化人・司馬江漢の紀行日記『江漢西遊日記』(東洋文庫461)
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