1963年に刊行がスタートした『東洋文庫』シリーズ。日本、中国、インド、イスラム圏などアジアが生んだ珠玉の作品の中から、毎週1作品をピックアップ。 1000文字のレビュー、そしてオリジナルカルテとともに、面白くて奥深い「東洋文庫」の世界へいざないます。
“誤った信念”は国を滅ぼす!? 清朝末の小説が描く正義の危うさ |
東洋文庫を検索すると、書名の下に100文字程度のレビューがついている。これを読んでいるだけでも何だか博識になった気がして楽しいのだが、そのレビューの中に気になる一文を見つけた。
〈能吏の誤った信念による行動は,賄賂を受けるよりも悪いと断じる清代末の政客劉鶚〉
これ、簡単なことを言っているようで、非常に難しい。収賄はだめ、政治資金規制法違反はだめ……というジャッジは簡単だ。でも〈誤った信念〉とそうでない〈信念〉を見分けるのは並大抵ではない。
そこで小説家であり、幕客・実業家でもあった劉鶚(りゅうがく)の『老残遊記』を紐解いた。のっけから難破船のシーンだ(解説いわく、当時の中国の状況を指し示しているらしい)。
旅医者・老残(主人公)は難破しかかっている船を見つける。よくみると、水夫たちは船を岸に着けず、客の食料を取り上げ、着物を剥いでいる。老残は彼らを救うため、羅針盤を届けにいく。「正しい指針」なき状態が難破の理由だと看破したのだ。そうこうするうちに、船では進展が。男が立ち上がり、大声で演説を始めたのだ。
〈お前らも知ってのとおり、今は金がなくては通用しない世の中だ。お前らはみんな金を出すんだ。俺たちは俺たちの精神を投げ出し血を流して、お前らのために永久に安穏無事で自由に暮らせるような基礎をつくってやるが、どうだ〉
ん? この船、現代の日本じゃないですよね? 「経済成長」「この道しかない」とがなりたてるリーダーの言動と重ねてしまったのは私だけでしょうか?
さあ乗客はどうしたか。今の日本と同じだ。この大声の男に金と判断を預けてしまうんですね。結局、男は人に指図し、血を流させるだけで自分は何一つ動こうとしない。口だけだ。そこに小船に乗った老残が到着し、羅針盤などを使ってくれと手渡すのだが、馬鹿な水夫は意外な反応に出る。〈毛唐に差し向けられた漢奸〉だと拒否。大声の口だけリーダーも〈早くやっつけちまえ!〉と叫ぶ始末。老残たちの小船は沈められてしまうのでした。
難破しかかった船はどうなったか。本書では触れられないが、推して知るべしでしょう。
小説では、〈能吏の誤った信念による行動は、賄賂を受けるよりも悪い〉例が、手を替え品を替え描かれる。信念……この強さに惑わされるな、ということなのだろう。
ジャンル | 文学 |
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時代 ・ 舞台 | 清朝末の中国 |
読後に一言 | 著者の劉鶚は、難民を救済するために、太倉(政府の米倉)の米を困窮者救済に当てますが、のちにこれが太倉私売の罪となり、1908年(この小説執筆の2年後)に新疆に流され,翌年その地で亡くなったそうです……。 |
効用 | 小説に仮託した現実社会への批判。この批判はいまなお有効です。 |
印象深い一節 ・ 名言 | 自分は海内の千紅、人間(じんかん)の万豔(ばんえん)の中には、必ずや自分とともに哭(な)き悲しむものあるに違いないと信じている(「自叙」) |
類書 | 清朝末の文学史『晩清小説史』(東洋文庫349) 清の風俗や制度『清俗紀聞(全2巻)』(東洋文庫62、70) |
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