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1963年に刊行がスタートした『東洋文庫』シリーズ。日本、中国、インド、イスラム圏などアジアが生んだ珠玉の作品の中から、毎週1作品をピックアップ。 1000文字のレビュー、そしてオリジナルカルテとともに、面白くて奥深い「東洋文庫」の世界へいざないます。

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『幕末外交談(全2巻)』(田辺太一著、坂田精一訳・校注)

2015/01/22
アイコン画像    幕末を生きた同時代人の肖像
吉田松陰と田辺太一

 かつて高杉晋作に憧れていたこともあり、司馬遼太郎の『世に棲む日日』など、高杉晋作本を貪り読んだ記憶がある。ところが、私の中でさっぱり焦点を結べなかったのが、吉田松陰である。山口県教育委員会が出している『松陰読本』も読んだが、やっぱりわからない。大河ドラマで取り上げられたのを機に、東洋文庫とジャパンナレッジを頼って調べてみることにした。

 その過程の中で見つけたのが、外交官・田辺太一による『幕末外交談』である。田辺は幕臣のひとりで、1859年に〈外国方に起用〉されて以来、外交畑一筋。1863年、32歳の時に〈横浜鎖港談判使節〉団の一員として渡仏。さらに1867年に〈パリ博覧会派遣使節に随行して奔走〉したという人物である(ジャパンナレッジ「国史大辞典」)。

 一方の松陰。生まれは1830年。田辺の1歳年長である。〈9歳のときから藩校明倫館で山鹿流兵学を教授〉(同「日本人名大辞典」)するなど早くから秀才の名を欲しいままにしていたのは、皆が知るところ。田辺が外交の世界に足を踏み入れた1859年、松陰は刑死する。

 同時代を生きた2人。しかしその生き方は水と油ほどに違う。田辺は、早くから開国を唱えていた。


 〈幕府に定見と定力とがあったならば、速かに彼(米国)の請いを容れて、開国の国是をさだめ、天下の人心を一新させることは、一紙の布令をもって成しとげることができたかも知れない〉


 結果論と言うなかれ。田辺には横浜鎖港談判使節団の一員に選ばれた際も、開国論者だとしていったん固辞した経緯がある。幕府は1年前からオランダによって、米国の来航をキャッチしていた。開国は避けられぬのに断を下さず、いたずらに時間を浪費した。これが田辺の主張だ。いわく、〈自己の強をよそおい、未練にも自己の責をのがれようと〉したと。

 田辺は、決断力のなさを批判するものの、一貫して開国に踏み出そうとした幕府首脳を評価する。一方の松陰はどうか。開国派の〈老中間部詮勝の要撃策〉(同「国史大辞典」)を企図し、これが理由で刑死する。松陰は刑場に引き立てられる直前、こう口にした(『松陰読本』)。


 〈吾今国の為に死す、死して君親に負(そむ)かず〉


 松陰は目的のために手段を選ばなかった。そして〈吾今国の為に死す〉と高らかに歌い、歴史に刻印を残した。田辺は冷静に現実を見、そして歴史の中に埋もれた。

 私は松陰よりも、田辺太一を評価したい。

本を読む

『幕末外交談(全2巻)』(田辺太一著、坂田精一訳・校注)
今週のカルテ
ジャンル歴史
時代 ・ 舞台幕末の日本
読後に一言松陰に抱いていた違和感の正体がわかりました。信じる道が正しいとする、その狂気です。ちなみに松陰は、朝鮮の属国化や満州、フィリピンの領有などを唱えていました。松陰の狂気は、私の中でかつての侵略戦争の狂気と重なります。
効用当時の外国の新聞記事や水戸の徳川斉昭の上奏書の引用など、資料性も高く、幕末の外交、政治の様子が、よくわかります。
印象深い一節

名言
予は断乎として言いたい。幕府には外交のことはなかった。ただ朝意を奉じて鎖攘をはかり、それを遂げ得なかった蹟を見るだけであると。
類書幕末に日米修好通商条約を締結『ハリス伝』(東洋文庫61)
福地源一郎による人物評『幕末政治家』(東洋文庫501)
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