1963年に刊行がスタートした『東洋文庫』シリーズ。日本、中国、インド、イスラム圏などアジアが生んだ珠玉の作品の中から、毎週1作品をピックアップ。 1000文字のレビュー、そしてオリジナルカルテとともに、面白くて奥深い「東洋文庫」の世界へいざないます。
“批判”するからこそ推敲する 唐詩の“言葉”をとくと味わう(3) |
『唐詩三百首』の最終回は「晩唐」です。中国の唐代(618−907)に作られた詩歌を3回で総ざらいしようというのです。乱暴は承知でしばしお付き合いください。
晩唐というぐらいですから、唐という国自体が衰えつつある時期です。デカダンスと言いますか、退廃的な“言葉”が目立ってきます。一方で、晩唐の詩には、妙な明るさというか、軽さがあるのです。
〈晩唐前期の詩壇は、杜牧、李商隠、温庭筠(おんていいん)の3人によって代表される〉(ジャパンナレッジ「世界文学大事典」、「唐詩」の項)そうですが、そのうちの二人が、「楽遊原」という古くからの名所に登った時のことを歌にしています。まずは、〈抒情詩としての表現の可能性のひとつの極致を示す〉(同前、「李商隠」の項)という李商隠の「楽遊原に登る」から。
〈晩に向かって意適せず/車を駆って古原(こげん)に登る/夕陽(せきよう)限り無く好し/只是れ黄昏(こうこん)近し〉
夕暮れ時、心が晴れないんですね。車で丘に登る李商隠。夕日は限り無く美しいが、黄昏――人生の黄昏? 国の終わり?――が近づいている。余韻のある詩です。
続いて、〈感傷と頽廃の色濃い詩風で、絶句にすぐれ、杜甫の老杜に対し小杜と呼ばれる〉(同「日本国語大辞典」)という杜牧の「将に呉興に赴かんとして、楽遊原に登る」。
〈清時(せいじ)味わい有るは是れ無能/間(かん)には孤雲を愛し 静(せい)には僧を愛す/一麾(き)を把(と)って江海(こうかい)に去らんと欲し/楽遊原上(らくゆうげんじょう) 昭陵(しょうりょう)を望む〉
平和な世では無能であるほうが味わいあり、と皮肉っています。で、有能だけど出世しない杜牧は、雲を見、僧と交流し……都を去るにあたって、お別れのために丘に登ったと歌っています。李商隠のものより、わかりにくいですが、李商隠以上に批判精神が読み取れます。
奇しくも、同じ場所から詠んだ2つの詩には、彼らにとっての“今”に対する“批判”があります。仮託するものは違えど、現状を謳歌している詩でないことは確かです。ひるがえって、現代社会は、ネットでも国会でも“批判”だらけです(正確にいうと「罵り合い」ですが)。しかも使われる言葉は直接的で思考の深さもない。前言撤回もザラ。つまり、“推敲しない言葉”が溢れているのです。小杜や李商隠の言葉は、練られているが故に現代の私たちにも届きます。口に出す(書き込む)前の推敲――私はこれを自身に課そうと思いました。
ジャンル | 詩歌/評論 |
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編纂された時代 ・ 舞台 | 18世紀中ごろ/中国 |
読後に一言 | 人生で初めて晩唐の詩を読みました。斜に構えた感じ、非常に好きです。 |
効用 | 3回のシリーズ、時代順に追いましたが、『唐詩三百首』自体は時代ごとに編纂された詩集ではありません。3巻を通読し、輝きを放つ“言葉”を味わってもらえたら嬉しいです。 |
印象深い一節 ・ 名言 | 氷簟銀床(ひょうてんぎんしょう) 夢成らず/碧天(へきてん)水の如く 夜雲(やうん)軽(かろ)し(涼しい竹席(たかむしろ) 銀(しろがね)の牀(ねどこ) 夢結びがてに仰ぎ看れば/夜空は水のように澄みわたり うき雲がわずかに流れる)(温庭筠「瑤瑟怨」) |
類書 | 白川静訳の中国最古の詩集『詩経国風』(東洋文庫518) 本書には未収録の唐代の鬼才『李賀歌詩編(全3巻)』(東洋文庫645ほか) |
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