1963年に刊行がスタートした『東洋文庫』シリーズ。日本、中国、インド、イスラム圏などアジアが生んだ珠玉の作品の中から、毎週1作品をピックアップ。 1000文字のレビュー、そしてオリジナルカルテとともに、面白くて奥深い「東洋文庫」の世界へいざないます。
藤原不比等を称える「続日本紀」 奈良時代に思いを馳せる~その1 |
何の疑問もなく、2月11日は建国記念の日、と受け入れていますが、ふと疑問に思って調べてみると、祝日制定当時は大変な騒ぎだったようです。
この日は、〈明治5年(1872)、日本書紀の伝える神武天皇即位の日に基づいて制定された祝日〉(ジャパンナレッジ「デジタル大辞泉」、「紀元節」の項)で、「紀元節」と呼ばれていました。ところが戦後、〈超国家主義の意識昂揚に結びついてきた〉(同「国史大辞典」、「紀元節問題」の項)ことを反省し、祝日ではなくなりました。しかし〈紀元節を建国記念日として新たに祝日化すべきだとの議が、自由党内に強まり、郷友連盟・神社本庁・右翼諸団体なども復活運動を盛んに推進した〉結果、〈軍国主義復活に通じる〉(同前)という野党や歴史学者の反対を退け、ゾンビのように復活したのです。1966年のことです(適用は翌年から)。さらに調べてみると、神話・伝説を根拠に建国記念日を制定している国は、世界を見回してもほとんどありません。大抵、独立日か憲法制定日です。つまり日本は、国の始まりが定かでないということです。
ならば、ということで東洋文庫に収められている唯一の六国史『続日本紀』(しょくにほんぎ)を紐解くことにしました。で、冒頭で驚いたのです。文武天皇が皇位についたところから始まるのは納得できますが、続いての記述に「ん?」と思ったのです。
〈藤原朝臣(あそん)宮子娘(みやこのいらつめ)(不比等の娘。聖武天皇の母)を、〔文武天皇の〕夫人(ぶにん)とし……〉
ここからは勝手な推測です。文武天皇に皇位を譲ったのは、祖母の持統天皇です。持統天皇は15歳の孫に位を譲る代わりに、上皇となり権勢を振るいました。文武の代も持統の治世の連続と考えれば、文武までを『続日本紀』の前代を記述する『日本書紀』の中に組み入れ、それ以降を『続日本紀』と区切っても良かったはず。そうしなかったのはなぜかと考えると、件の記述に目が行くのです。「不比等の娘」、つまり藤原不比等こそキーなのでは? 不比等登場から『続日本紀』は書き起こされたのではないか、という見立てです。
不比等は中臣鎌足の次男で、〈律令体制を確立し、平城遷都、「養老律令」編修をすすめた〉(同「日本人名大辞典」)人物ですが、その出世を決定づけたのが、娘を文武の後宮に入れたことなのではないかと、筆者は勘繰りたくなります。で、その視点で読み進めると、特にこの1巻(巻一から巻十)は不比等の記述ばかり。『続日本紀』は彼を称える書でもあったのでした。
ジャンル | 歴史 |
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時代 ・ 舞台 | 697~730年の日本(797年成立) |
読後に一言 | 全40巻(東洋文庫では4巻)、697年から791年までの95年間の歴史を扱った大著ですので、1回で収まらず……。東洋文庫の巻にあわせて、4回に分けてお届けします。 |
効用 | 『古事記』『日本書紀』が読みたい方は、ジャパンナレッジの「新編 日本古典文学全集」で。 |
印象深い一節 ・ 名言 | この日、右大臣・正二位の藤原朝臣不比等が薨(こう)じた。天皇はこれを深く悼み惜しんだ。このため〔天皇は〕政務をみず、〔死者に哀悼の意を表して〕悲しみの声を宮中で挙げ〔る礼を行ない〕、とくに天皇の手あつい勅があった。(巻第八) |
類書 | 不比等の逸話が数多く登場する『今昔物語集 本朝部(全6巻)』(東洋文庫80ほか) 不比等の時代に編纂が命じられた『風土記』(東洋文庫145) |
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(2024年5月時点)