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1963年に刊行がスタートした『東洋文庫』シリーズ。日本、中国、インド、イスラム圏などアジアが生んだ珠玉の作品の中から、毎週1作品をピックアップ。 1000文字のレビュー、そしてオリジナルカルテとともに、面白くて奥深い「東洋文庫」の世界へいざないます。

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『続日本紀4』(直木孝次郎ほか訳注)

2016/03/03
アイコン画像    “祟り”によって奈良は終わった!?
奈良時代に思いを馳せる~その4

 中学生の頃、「泣くよ(794年)ウグイス平安京」と語呂合わせで年号を覚えましたが、セットで覚えたのが桓武天皇です。教科書的にはここから平安時代が始まるわけですが、桓武天皇が即位したのは781年。奈良時代の末期です(そして『続日本紀』の編纂が始まります)。桓武天皇は、奈良から平安への橋渡しをしたのだと、本書『続日本紀4』を読んでよくわかりました。

 ではなぜ遷都したのか。

 本書は、光仁天皇と桓武天皇の御代について記されていますが(巻32から巻40、772年から791年まで)、目立つのは、地震、飢餓など天災地変ばかり。


 〈宮中でしきりに怪しいことが起きる〉


 と妖怪の存在を示唆する記述さえ出てきます。そんな中、桓武天皇が即位するのですが、流れは変わりません。すぐに謀反が起こり、地震は頻発。洪水に日食、日照りに飢饉、都には疫病が蔓延し、盗賊が跋扈します。そこで、気分一新、都を移そうとするわけですが……(もちろん、それだけが遷都の理由ではありませんが)。

 〈784年(延暦3)には、それまでの平城京から、山背国(京都府)の長岡京への遷都を断行した。翌年、遷都と絡んで、造営の中心人物藤原種継が暗殺され、皇太弟早良(さわら)親王が廃位され死亡する事件があった〉(ジャパンナレッジ「ニッポニカ」、「桓武天皇」の項)

 大事件ですよ。遷都の立役者が暗殺されるんですから。で、首謀者とされたのが桓武天皇の弟の早良親王。ところが『続日本紀』にはこのあたりことが意図的にふせられています。部下を山科の山陵(天智陵)などに派遣し、〈皇太子(早良親王)を廃したことを告げた〉という簡単な記述だけ。実際は、〈(桓武)天皇は大いに怒り皇太子を廃し、乙訓(おとくに)寺に幽閉し、ついで淡路へ流した。廃太子(早良親王)は自ら飲食を絶って高瀬橋(大阪府門真(かどま)市付近)で絶命した〉(ジャパンナレッジ「ニッポニカ」、「早良親王」の項)というんですから、ただごとじゃありません。これを機に、皇太后や皇后、側近の死、皇太子の病気……と不幸が続き、“早良親王の祟り”といわれるようになります。

 〈七九一年、陰陽寮の占いにより、早良親王の怨霊による祟りであるという結果が出た〉(同「新版 日本架空伝承人名事典」、「崇道天皇(早良親王)」の項)ということですが、これも『続日本紀』に記述なし。桓武天皇は長岡を諦め、平安京に移しますが、これは“祟り”を恐れてのことだったのでしょうか。

 平安時代もまた、道真や将門など「祟り=怨霊」の時代。結局、祟りから逃れられなかったのかもしれません。



本を読む

『続日本紀4』(直木孝次郎ほか訳注)
今週のカルテ
ジャンル歴史
時代 ・ 舞台772~791年の日本(797年成立)
読後に一言今のメディアでも「書かれない」ことが多いのは周知の事実。いつの時代も、政権に慮るのですね。さてこれにて、当シリーズは終了です。
効用名言で紹介した(↓)光仁天皇の記述、3巻には、〈酒をほしいままに飲んで所業をくらまし〉ていたとあります。暗愚を装い、政争から逃れ、位に就いたのは62歳の時でした。本書の中心人物のひとり、光仁天皇も興味深い人物です。
印象深い一節

名言
(光仁)天皇が即位する以前は、人々の中にあってその才智をあらわにすることはなかった。(「巻三十六」)
類書このあとの平安時代から鎌倉幕府開設までの歴史『日本中世史』(東洋文庫146)
このあとの文学の流れ『国文学全史1 平安朝篇』(東洋文庫198)
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