1963年に刊行がスタートした『東洋文庫』シリーズ。日本、中国、インド、イスラム圏などアジアが生んだ珠玉の作品の中から、毎週1作品をピックアップ。 1000文字のレビュー、そしてオリジナルカルテとともに、面白くて奥深い「東洋文庫」の世界へいざないます。
幕府の御典医の家に生まれた著者が、 80歳を過ぎてから語った、維新前夜の昔がたり。 |
世の中には思い出ばかり話す人がいる。彼らは決まって、初対面の人にも若かりし頃の自慢話をする。"今"がよっぽど辛いのだろうか、と勘ぐってしまうほどだ。
だが一方で、本当の「色褪せぬ記憶」を持つ人の幸福度といったらない。ところが彼らは、口にした途端に消えると思っているのか、なかなか過去を語らない。極稀にそれが文章化されることがあり、私たちはそれによって彼らの過去=幸福にちょっとだけ触れることができる。
『名ごりの夢』はいわば、そんな本である。著者は、幕末を生きた蘭医・桂川甫周の次女。
桂川甫周とはジャパンナレッジにある「日本人名大辞典」によれば、〈桂川家7代。幕府の医官となり、弘化4(1847)年西洋医学所教授に就任。オランダ商館長ズーフが編集した蘭日辞書の刊行を幕府にねがいでて、「和蘭字彙」と名づけて出版した〉という当代一の知識人。福沢諭吉いわく「日本国中蘭学社会の人で桂川という名前を知らない者はない」(『福翁自伝』)という有名人で、福沢も頻繁に出入りしていた青年のひとり。で、当時、少女だった著者。
〈私は福沢さんの足袋の穴を見つけて、松葉を十本ばかりたばにして突つきましたが、話に熱心にききいっていて、動くにはうごかれずだいぶお困りのようでした〉
なんとも微笑ましいお転婆ぶりだが、幕末は明るい調子に終始するばかりではない。
〈それはちょうど三月の御節句の日でして、井伊の御家例で御主人が鼓をお打ちになると聞きました。その鼓を一打ちあそばすと皮がパアンと破れました。奥方初め家老たちはみんなで気にして御出勤をお止めしたのですけれど、何と申しあげてもお聞きにならず、大事な時だぜひ出るから支度せよと言われますので仕方ありませんでした〉
井伊直弼はこの日、暗殺される。「桜田門外の変」だ。桂川家も〈うちの者は誰も顔の色がなく、無言であっちへ飛びこっちへ飛び、廊下で突きあたるというくらいの大騒ぎ〉だった。この日の出来事は、〈御維新の下地だったと後からうなずかれる〉と著者。
緊迫感のある重いトーンだ。が、こちらを引き込む明るさもある。著者の今泉みねは、人を批判したり妬んだりしない。現在の境遇を嘆くこともない。本書に通底するこのカラーは、「色褪せぬ記憶」を持つ者のみが出せる。本書は、幸せだからこそできた回想でもあったのだ。
ジャンル | エッセイ |
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時代 ・ 舞台 | 幕末の江戸 |
読後に一言 | シミジミとした味わい。再発見あり。 |
効用 | ♪人生いろいろ?。激動の時代を生きることに比べれば、いまの浮き沈みなんて大丈夫だと思えてくる。 |
印象深い一節 ・ 名言 | 今でも雪がチラチラするのを炬燵の中からじっと眺めておりますと、掃部(井伊直弼)様が桜田御門外で殺されなされたときの騒ぎが目の前にちらついて、幼いころの朧ろな思い出がつぎつぎと浮かんでまいります。(95ページ) |
類書 | 同時代の記録『長崎海軍伝習所の日々』(東洋文庫026) 同時代の自伝的エッセイ『夢酔独言他』(東洋文庫138) |
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(2024年5月時点)