1963年に刊行がスタートした『東洋文庫』シリーズ。日本、中国、インド、イスラム圏などアジアが生んだ珠玉の作品の中から、毎週1作品をピックアップ。 1000文字のレビュー、そしてオリジナルカルテとともに、面白くて奥深い「東洋文庫」の世界へいざないます。
これぞ親鸞の「自然体スタンス」の到達点! 現代語訳で親鸞のオリジナルワールドを体感する。 |
2011年、つまり今年の春から、浄土真宗の開祖、親鸞の七五〇回忌法要が各地で始まる。東洋文庫に『歎異抄』がある以上、今年これを取り上げぬわけにはいかない。しかし一方で、たった1000字で扱っていいのか、という思いもある(といいながら、すでに130字)。
個人的な話で恐縮だが、私は、曹洞宗の禅寺で育った。かつて半年ばかり本山で修行もした。今は一切、無関係だが、元禅坊主、というわけだ。で、私の禅の捉え方は、「自己責任の宗教」。独り坐し、己を突き詰める。悟ったと思っても「悟りを捨てろ」といわれるから、ゴールもない。ひたすら自分と向き合う。いわば死ぬまで修行だ。
という出自ゆえ、浄土真宗に関して、一般人よりはわかっていたつもりだったのだけど、今回初めて親鸞の『歎異抄』現代語訳を読んで、仰天してしまった。
〈(阿弥陀仏の)本願にあまえる心があるからこそ、はじめて、他力をたのむ信心もしっかりと定まる〉
〈浄土に生れるのは阿弥陀仏のおはからいによることであるから、わたくしの才覚によるものであるはずがない〉
煩悩や罪悪を断ち切ることは難しい。それはその通りだ。だからこそ道元は「修証一如」といい、修行=悟りだと説いた。だが親鸞は、悟るのは難しいからこそ、自分たちにその才覚がないからこそ、阿弥陀に甘えなさい、と説く。下手な努力はするな、ひたすら信じよ、と。
禅の考えに慣れていた私にとって、このスタンスは衝撃的だ。禅に限らず、「努力すれば、良くなる」と考えたいのは人の常だが、親鸞は、それを「あさはかな才覚」と否定する(原文:念仏には無義をもつて義とす)。
『歎異抄』が、親鸞の死後に成立したのは、弟子たちが親鸞の教えが曲解されていることを嘆いたからだといわれている。「因果を取り払いますよ」と信者をそそのかす僧のいることが、本書「改邪鈔」にある。つまり乱暴にいうなら、浄土真宗の僧侶でさえも、因果応報、自分の行いが自分に跳ね返るという考えから逃れられなかったのである。いわんや愚かな私は、どうしても「自己責任」の考え方から逃れられない。この考え方が、弱者切り捨ての考え方であっても、だ。親鸞はいう。
〈才覚を加えないことを、自然という(はからはざるを、自然と申すなり)〉
「自然」であることは、しかし何より難しい。
ジャンル | 宗教 |
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時代 ・ 舞台 | 鎌倉時代 |
読後に一言 | 俗っぽくいうならば、「甘える」ということは、一種の才覚なのでは? |
効用 | 一本筋の通った書物を読むと、自身の背もすーっとのびてくる。 |
印象深い一節 ・ 名言 | 念仏においては、あさはかな才覚を捨てることを才覚とする |
類書 | 浄土真宗中興の祖・蓮如上人の遺文『御ふみ』(東洋文庫345) 恵心僧都・源信が浄土教の基盤を築いた『往生要集1、2 日本浄土教の夜明け』(東洋文庫8、21) |
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