1963年に刊行がスタートした『東洋文庫』シリーズ。日本、中国、インド、イスラム圏などアジアが生んだ珠玉の作品の中から、毎週1作品をピックアップ。 1000文字のレビュー、そしてオリジナルカルテとともに、面白くて奥深い「東洋文庫」の世界へいざないます。
彼女や妻に三行半をつきつけられたら? 酒と学問に生きた幕末の洋学者 |
埼玉育ちなので、「上京」という言葉にピンとこないのですが、九州や中国地方の友人に聞くと、羽田空港に降り立った緊張感や、東京駅の喧噪を覚えているそうです。
今は交通網も発達し、上京にそれほどの緊張も時間も伴わないでしょうが、さて江戸時代に故郷を離れて江戸に出てくるには、どんな覚悟が必要だったのでしょうか。
『柴田収蔵日記』は、佐渡で生まれ育った柴田収蔵(1820~1859)という地理学者の日記です。収蔵は、『新訂坤輿略全図』という精巧な世界地図を残したことでも知られています(佐渡市のwebで地図が見られます)。
収蔵は24歳の時に江戸に行き、蘭方医学を学ぶのですが、その時の決意が日記にしたためられています。
〈今夜医学修行旅行相談極(る)〉
ところがこれ、決意の裏には悲しい事実があります。「解題」によれば、妻に不倫され、出て行かれたというんですね。いわば、未練を断つための遊学でもあったのです。
実際、この日記には「宿酔」という言葉が頻出します。二日酔いのことです。妻が出て行く前と後では、頻度が大きく異なります。ジャパンナレッジの東洋文庫検索によると、妻と暮らした日々を中心に綴った1巻には「宿酔」がページ数で(以下同)5、別離後の2巻には28! 「飲む」で検索すると、1巻は5、2巻は154! 「酌む」は2巻にしか登場しません(75)。
明らかに、奥さんと別れた後、酒量が増えています(河島英五も寂しい時に男は酒を飲むと歌っています)。アル中にならずに踏ん張れたのは、収蔵の勉学への意気込みだった……とするのは、あまりにもうがち過ぎでしょうか。つまり、妻(彼女)に三行半をつきつけられた、という不幸を、上京のエネルギーに変えた、と。
本書の日記から読み取れるのは、彼がたくさんの書物や資料を読み、写していたことです。
〈仏と琉球との約条を写す。星図を写す〉
という具合です。本書1巻には、日記に登場する書名リスト「書名解題」が付いていますが、これだけでも100冊近くにのぼります。
離婚も失恋も裏切りも、男と女の間の哀しみは、すべて人生のバネなのでしょう。収蔵の『新訂坤輿略全図』を見て、つくづくそう思いました。
ジャンル | 日記 |
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時代 ・ 舞台 | 1800年代半ばの江戸、佐渡 |
読後に一言 | 家計簿のようなものも掲載されていて、収蔵の細かさがよくわかります。あるいは、細かすぎたのか……。 |
効用 | 診療の記録も詳しく、当時の診療の実態がよくわかります。 |
印象深い一節 ・ 名言 | いかに今日の人が賢くなったとはいっても、見かけだけではわからない。医者という者は医学を学ぶものでなければならない。(解説) |
類書 | 幕末の蘭医の娘の回想録『名ごりの夢』(東洋文庫9) 蘭学はどう受容されていったのか『前野蘭化(全3巻)』(東洋文庫600ほか) |
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(2024年5月時点)