1963年に刊行がスタートした『東洋文庫』シリーズ。日本、中国、インド、イスラム圏などアジアが生んだ珠玉の作品の中から、毎週1作品をピックアップ。 1000文字のレビュー、そしてオリジナルカルテとともに、面白くて奥深い「東洋文庫」の世界へいざないます。
無血開城とならなかった長岡藩の悲劇 河井継之助の見通す力とは。 |
幕臣・勝海舟が薩長側の西郷隆盛と会談して江戸の無血開城を実現させた。教科書にも載る事実です。しかし同時期に長岡(新潟県)で行われた会談は、それほど知られていません。こちらの会談は決裂し、〈戉辰戦争中,もっとも激しい焦土戦(=北越戦争)〉(ジャパンナレッジ「世界大百科事典」)へと繋がっていきます。
勝海舟にあたる人物が、長岡藩の河井継之助(1827~1868)です。継之助は、〈新政府,旧幕のどちらにも荷担しない局外中立を宣言〉(同前)し、戦争を回避しようとします。しかし会談の場に出て来たのは、20代の血気盛んな軍監・岩村精一郎。要求を蹴ります。のちに、長州の品川弥二郎は、「岩村のような小僧を出したのが大なる誤算であった」と嘆いたといいます。
本書『塵壺 河井継之助日記』は、継之助の唯一の著作(日記)と手紙、伝記を収めた書です。彼の手紙の中に、こんな文言があります。
〈天下の形勢は、早晩、大変動を免かれざる可しと存ぜられ候(そうろう)〉
〈攘夷とは何たる儀に候や。洋舶渡来候とて、吾に綱紀立ち、兵強く、国富み候わば、恐るるに足らざる事に候。用意も致さず候て、攘夷々々と騒ぎ候は、臆病者のたわごと、心痛、此の事に候〉
すでに幕末の騒乱を予言しています。そして諸外国と渡り合うためには、国を開き、富国強兵すべきである、と断言。まさに先見の明があったといえるでしょう。
では継之助はなぜ見通すことができたのか。そのヒントが、日記「塵壺」です。約150年前、1859年の6月に、30代の継之助は遊学先の江戸から西国を目指します。鎌倉、富士、伊勢、琴平、宮島、太宰府……と名所巡りのような道中ですが、随所に、継之助の観察が光ります。詳述はしませんが、各藩の政策をよく見ています。長崎では、オランダ人や中国人とも語らい、見聞を広めます。
継之助らしさが出たのは、島原湾を船で航行中、台風の直撃を受けた時です。彼は、〈憂ても詮無き事なり〉と腹を括る。同乗者はこの姿に驚いて呟きます。
〈斯る危きに、如何なる心にて、此の如く寝らるる者や〉
この腹の括り方は、談判に失敗し、北越戦争に挑んだ継之助そのものです。
継之助が先を見通すことができたのは、見聞と胆力、このふたつが合わさったからなのでしょう。
ジャンル | 紀行/伝記 |
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時代 ・ 舞台 | 幕末の江戸時代(1850年代) |
読後に一言 | 継之助は結局、銃で撃たれた傷がもとで命を落とします。彼らのような数多の死の上に、明治維新は成り立っているのです。 |
効用 | 作品としての日記ではなく、メモに近い日記なので、資料としても優れていると言えるでしょう。 |
印象深い一節 ・ 名言 | 天下になくてはならぬ人となるか、有ってはならぬ人となれ(一二「北越戦争の終幕」) |
類書 | 敗れた側からの幕末・維新期の通史『徳川慶喜公伝(全4巻)』(東洋文庫88ほか) 旧会津藩藩士の幕末手記『京都守護職始末(全2巻)』(東洋文庫49、60) |
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(2024年5月時点)