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1963年に刊行がスタートした『東洋文庫』シリーズ。日本、中国、インド、イスラム圏などアジアが生んだ珠玉の作品の中から、毎週1作品をピックアップ。 1000文字のレビュー、そしてオリジナルカルテとともに、面白くて奥深い「東洋文庫」の世界へいざないます。

東洋文庫 522

『随筆北京』(奥野信太郎著)

2017/07/27
アイコン画像    外国に暮らしたくなる!?
中国文学者の名エッセイ

 人生、「やっときゃよかったなあ」と思うことが2つあります。会社勤めと外国暮らしです。もちろん、どちらも今後の可能性がないわけじゃありませんが、さすがにねぇ。特に外国暮らしは、こうした文章を読んでしまうと、さらに恋い焦がれます。


 〈支那人を飽くまで異邦人として眺め、またそれら異邦人のなかに、ただ一人で混つてゐる自分を眺めることによつて、童稚の精神に立ちかへつた自分が、再び成長に発足してゆく過程を観察してゆくことは、比較的容易であった〉


 中国文学者・奥野信太郎氏のエッセイ『藝文おりおり草』は、当欄でも取り上げましたが、氏は、1936年から2年間、中国・北京で暮らしました。本書はその時のエッセイです。1937年に盧溝橋事件(支那事変)が起こっていますから、激動の北京に、氏はいたことになります。

 元々氏は、〈陸軍士官学校をわざと落第、浅草オペラに入りびたる〉という青年時代を送っていたようで、中国文学者になってからは、〈中国文学に独特の鋭い眼識をもっていたが、粋人肌の彼は論文というやぼな形式を好まず、もっぱら随筆を書いた〉(ジャパンナレッジ「ニッポニカ」)そうです。そういう粋人の氏が、北京に住んで、〈童稚の精神に立ちかへつた〉という。これまでの鎧を脱ぎ捨て――つまりリセットして、自分を成長させたと言っているのです。なるほど、これが「外国暮らし」のあり得べき姿なのでしょう。

 氏は激動の中にいながら、あえて、市井に目を向けます。食、旅、演劇、街の様子……。そこには、時代に巻き込まれてなるものか、という意志さえ感じられます。

 特に盧溝橋事件の前夜を回顧したエッセイには驚かされました(「その前夜」)。


 〈蒸し暑い、だがすべてが昨日に変りない一夜であった。/その夜が明けてうす曇りの空に鈍い砲声を聞かうなどとは誰しも予期しなかつた〉


 3ページほどの小品なのですが、そうした大事件の前夜であっても、変わらない営みがあったということを淡々と記しています。

 世に、嫌中、嫌韓の本が溢れていますが、もしかしたらその著者も読者も、「異邦人」を恐れているだけではないか、と本書を読んで思いました。彼我の営みにどれほどの差があるのでしょうか。



本を読む

『随筆北京』(奥野信太郎著)
今週のカルテ
ジャンル随筆/風俗
時代 ・ 舞台1936~38年の中国
読後に一言「高所」から語らず、常に自分をわきまえる。著者のスタンスは、今なお、有効です。
効用「支那人のこころ」は特に名随筆。これを読めば、中国人との距離がぐっと縮まります。
印象深い一節

名言
女色は愛書の心ではないにしても愛書は色を好むによく似てゐる。時として焦躁し、時として満悦し、そのために身を破るに至った例は書癡情擬ふたつながら世に少くない。
類書日本人による中国エッセイ、その1『増訂 長安の春』(東洋文庫91)
日本人による中国エッセイ、その2『琴棊書画』(東洋文庫 520)
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