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1963年に刊行がスタートした『東洋文庫』シリーズ。日本、中国、インド、イスラム圏などアジアが生んだ珠玉の作品の中から、毎週1作品をピックアップ。 1000文字のレビュー、そしてオリジナルカルテとともに、面白くて奥深い「東洋文庫」の世界へいざないます。

東洋文庫 62|70

『清俗紀聞1、2』(中川忠英著 孫伯醇・村松一弥編)

2017/11/23
アイコン画像    長崎奉行所チームが生んだ
当時の清の風俗がわかる本

 『清俗紀聞』という面白い本を見つけました。

 本書は、1790年代に長崎奉行の中川忠英(ただてる/1753~1830)が、浙江・江蘇地方などから来た清国商人を取材し、彼の地の風俗などをまとめたものです。本書の半分は画家に書き起こさせた図版で、これだけを見ているだけでも面白い。服装や飲食、年中行事、婚礼や葬礼などジャンルは多岐にわたり、記述は詳細です。例えばこんな調子。


 〈主人起きて梳洗(スウスイ)〔さかやき、ちょうず〕畢(おわ)りて便服のまま内房(ヌイワン)の椅子に坐して茶たばこのみ、家廟ならびに信仰の仏神(ぶつじん)を拝し、家内起き揃うて朝飯(あさはん)を吃(きつ)す〉


 〈すべて煮物は酒勝ち〔酒の分量は多め〕、醤油少なにして、いずれの品も淡(うす)塩梅なり〉


 1790年代といえば、日本では松平定信の寛政の改革、およびこれを継承した政策が行われていた時期。直前(1789年)にはアメリカではワシントンが初代大統領となり、欧州ではフランス革命が起こります。中川忠英は、〈寛政の改革中は目付として幕臣の綱紀粛正などに努め〉(ジャパンナレッジ「国史大辞典」)た幕臣で、1795年に長崎奉行となります。その後、勘定奉行兼関東郡代や大目付、旗奉行などを歴任します。長崎奉行時代に記録したのが、『清俗紀聞』というわけです。

 中川忠英著とありますから、本人が書いたと思いきや、本人の跋(「解説」所収)によると、自分は編集しただけで、実質の作業は部下がやったと正直に書いているんですね。事実、関係者の名をずらずらと列記しています。で、その作業を担った中心が、近藤重蔵(1771~1829)という幕臣です。〈蝦夷地を探検し、択捉に「大日本恵土呂府」の木標を建てた〉(同「デジタル大辞泉」)ことでも知られています。この近藤、大物といいますか、〈身分不相応の第宅〉(同「国史大辞典」)を築いたことで、のちに顰蹙を買うなど、そういうエピソードに事欠きません(庭に富士塚を造ったそうです)。

 何がすごいって、こういう扱いづらい人物を、中川忠英が抜擢し、かつ『清俗紀聞』を任せたことです。蜀山人こと大田南畝(1749~1823)の抜擢も中川忠英と言いますから、目利きとしてすぐれているのでしょう。そして本書を作ったのは、長崎奉行として、貿易相手の中国を理解するため。いうなれば、「できる上司」。

 できる上司がチームを組めば、優れた結果が残せる。まるでビジネスのお手本のような本なのでした。



本を読む

『清俗紀聞1、2』(中川忠英著 孫伯醇・村松一弥編)
今週のカルテ
ジャンル風俗/事典
時代 ・ 舞台18世紀末の中国(清)
読後に一言自分の手柄にしない、というだけで、中川忠英が「いい上司」であることがわかります。
効用非常に丁寧な仕事です。画家に描かせた図版を含め、第一級の資料でしょう。
印象深い一節

名言
この書は崎陽(きよう)(長崎)へ来る清人にその国(くに)民間の風俗を尋ね問いて、この邦の語に直してしるす処なり。もとより清国東西風(ふう)を異(こと)にし南北俗を殊(こと)にすれば、この編をもて普(あまね)く清国の風俗と思い誤ることなかれ。(附言)
類書清代の北京の様子『北京風俗図譜(全2巻)』(東洋文庫23、30)
清代の蘇州の歳時記『清嘉録』(東洋文庫491)
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