1963年に刊行がスタートした『東洋文庫』シリーズ。日本、中国、インド、イスラム圏などアジアが生んだ珠玉の作品の中から、毎週1作品をピックアップ。 1000文字のレビュー、そしてオリジナルカルテとともに、面白くて奥深い「東洋文庫」の世界へいざないます。
夫を残し、55歳で秘境へ大潜入! フランス人女性のチベット探検(1) |
ひと言、呆気にとられました。
本書『パリジェンヌのラサ旅行』の著者アレクサンドラ・ダヴィッド=ネールは、タイトル通り、日本の明治元年にあたる1868年、フランス・パリ郊外に生まれます。ジュール・ヴェルヌの冒険小説を読み漁り、〈私は彼ら(小説の主人公)のような大旅行をしよう〉と幼き頃のネールは心に決めたといいます。20代後半から30代にかけては、オペラ歌手として世界各国を回り(20代の頃、音楽を学ぶ傍ら、サンスクリット語やチベット語も学んでいます)、その後、著述業に転身。この間、36歳で技師と結婚。ここまでは想像の範囲内です。しかし彼女は、結婚の1週間後、何と旅に出てしまうのです! インド、中国、朝鮮、モンゴル、日本……。彼女のアジアの旅は続きます。結局、同居したのは10年に満たなかったといいます(夫は彼女を支え続けます。ふたりの文通は37年間、夫が死ぬまで続きました)。
〈私は、どんな経緯であっても、また相手が誰であっても、自分が敗北したとは思わないことを主義にしている〉
いいでしょ? この台詞。彼女は神も自然も恐れず、人生、常に立ち向かっていったのでした。そして、彼女の旅のハイライトともいえるのが、本書――当時、鎖国状態にあり、ヨーロッパ人が立ち入っていなかったチベット旅行です(ラサはチベットの首都です)。
1923年10月、ネールはチベット人の青年でラマ僧のヨンデン(24歳)を伴い、中国の雲南を出発します(のちにヨンデンを養子にします)。この時、彼女は55歳! ポーターも連れず、野宿をしながら、これから冬に向かうチベットを目指すというのです。常軌を逸しています。しかも外国人とばれたら逮捕されるのです。強盗にあうかもしれない。病気で死ぬかもしれない。序盤の旅は、緊迫感に満ちています。
〈……陰鬱な考えに陥ってはいられなかった。未来に何が起ころうとも、もう引き返せないのだ〉
疲労に悪路、予期せぬ出来事の連続……。私なら一瞬で心が折れます。ところが彼女は、そうした体験を、こう言い換えるのです。
〈……ほとんど毎日、いずれもユーモア溢れる、嬉しいことや嫌なことを経験して、それが逸話となって数珠玉のように増えていった〉
嫌なことでさえユーモアが溢れるとは! なんという前向きさ! 誌面が尽きたので続きは次回!!
ジャンル | 紀行 |
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時代 ・ 舞台 | 1920年代のチベット、中国 |
読後に一言 | 著者は、〈気分がどんなに落ち込んでも、食欲がなかったり眠れなかったことは一度もない〉のだそうです。見倣いたいなあ。 |
効用 | 〈自然が魔法の杖のひと振りで、人間を幻惑し、感覚の至福、生命の喜びに酔わせてしまう、そんな朝だった〉、とこんな具合に、表現も秀逸。読んでいて楽しい紀行です。 |
印象深い一節 ・ 名言 | 「シュバム・アストゥ・サルヴァ・ジャガターム(全ての人々が幸せになりますように)」(「第五章 大氷河とデウ峠を越える」) |
類書 | 同時代の米国人ジャーナリストの中国紀行『東方への私の旅』(東洋文庫17) 同時代のアジア新婚旅行記『トルキスタンの再会』(東洋文庫358) |
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