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1963年に刊行がスタートした『東洋文庫』シリーズ。日本、中国、インド、イスラム圏などアジアが生んだ珠玉の作品の中から、毎週1作品をピックアップ。 1000文字のレビュー、そしてオリジナルカルテとともに、面白くて奥深い「東洋文庫」の世界へいざないます。

東洋文庫 157

『入唐求法巡礼行記 1』(円仁著 足立喜六訳注 塩入良道補注)

2018/05/17
アイコン画像    約1200年前の命をかけた渡航とは?
最後の遣唐使、天台僧・円仁

 もう少し頭のキレをよくしようと、ここ数年、菅原道真にあやかるべく「天神さま」を見つけてはお参りしています。湯島天神、亀戸天神社、谷保天満宮、鎌倉の荏柄天神社、道真公の自作像が伝わる永谷天満宮……。ま、結果は推して知るべしですが、菅原道真といえば、「白紙(894年)に戻せ、遣唐使」でしょう。600年に始まった遣隋使から約300年。道真の建白によって、ひとつの国家的イベントが幕を閉じたのでした。

 では、最後の遣唐使とは?

 気になって調べてみると、〈平安時代には804年(延暦23)と838年(承和5)の2回にわたって遣使されているが、それ以降はまったく中断〉(ジャパンナレッジ「ニッポニカ」、「遣唐使」の項)されています。で、道真の中止に繋がっていくので、最後の渡航は、838年のこととなります。

 この最後の遣唐使の様子を詳しく記している本が、東洋文庫に収録されているのです。それが本書、『入唐求法巡礼行記 1』。著者は、円仁(794~864)。

 〈八五四年(斉衡一)第三代天台座主となり、天台宗山門派の祖となった〉(同「新版 日本架空伝承人名事典」)天台宗の僧で、〈天台宗のその後の興隆は、円仁によるところが大きい〉(同前)のだとか。

 円仁は、838年6月13日に乗船し、同月17日に博多を出発します。すでに836、837年と渡航に失敗しており、これが三度目の正直。しかしこの航海も災難続きでした。


 〈舶(船)は沈んで泥に居り、前(すす)まず却(しりぞ)かず。(中略)舶は卒(つい)に傾覆し、殆(ほと)んど将(まさ)に埋沈せんとす。人々は驚き怕(おそ)れ、競うて舶側(ふなばた)に依(よ)り、各々褌(ふんどし)を帯し、処々に縄を結んで繋居(けいきょ)〔つなぐ〕して死を待つ〉


 皆、死を覚悟したのでした。遣唐使とは、このように常に命がけだったのです。

 円仁は辛くも助かり、中国に上陸します。さあ仏教を修めるためにいざ天台山へ……とはやるも、許可が下りません。円仁の立場は短期留学の研究僧。天台山の修行のためには長期滞在の許可が必要なんですね。ところが、中国から「朝貢使」と下に見られている遣唐使一行は立場が弱い。7か月待ちぼうけをくらわされた挙げ句、「お前は国へ帰れ!」と命じられてしまいます。円仁は新羅人(韓国人)に化けたりと策を弄しますが、すべて失敗。こんなに苦労して中国へ来たのに……。円仁の嘆きが伝わってくるようでした。

 遣唐使とは、かくも過酷なものだったのです。道真が白紙に戻すのも頷けます。



本を読む

『入唐求法巡礼行記 1』(円仁著 足立喜六訳注 塩入良道補注)
今週のカルテ
ジャンル紀行/宗教
時代 ・ 舞台800年代の中国・唐
読後に一言円仁は新羅人らの助けを得て、天台山ではなく、「五台山」で修行することにします。円仁の待ちに待った修行が始まるのでした。では円仁は何を得たのか? 次回、円仁の修行編(第2巻)をお送りします。
効用遣唐使の手続きの煩雑さがよくわかります。当時の外交事情を知る上で、格好の資料でしょう。
印象深い一節

名言
仏法を求むるが為に謀を起こすこと数度なるも、未だ斯(こ)の意を遂げず(第6章)
類書三蔵法師の求法の旅『大唐西域記(全3巻)』(東洋文庫653ほか)
日本の初期仏教の重要な教典『維摩経』(東洋文庫67)
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