1963年に刊行がスタートした『東洋文庫』シリーズ。日本、中国、インド、イスラム圏などアジアが生んだ珠玉の作品の中から、毎週1作品をピックアップ。 1000文字のレビュー、そしてオリジナルカルテとともに、面白くて奥深い「東洋文庫」の世界へいざないます。
江戸の花火大会の名文を味わいながら 現代の隅田川の花火を楽しむ |
まずはこちらの名文をご堪能ください。
〈天黒くして事を挙ぐる、霹靂(へきれき)未だ響かざるに、電光空に掣(ひら)めき、一塊の火丸、砕(くだ)けて万星と為(な)る、銀龍影滅せんと欲して、金烏(きんう)翼已に飜(ひるが)へり……(中略)真に天下の奇観なり〉
漢文の書き下し文なのでわかりにくい部分もありますが、意訳するとこんな感じです。
真っ暗な空、霹靂の音(花火のとどろく音)がする前に、電光が空に輝く。火の玉がくだけて、いくつもの星になる。銀龍(銀色の火花)が消えたかと思うと、金烏(金の火花)がきらめく。まことに「天下の奇観」である。
これ、何のシーンかといえば、隅田川の花火大会の模様なのです(初篇「両国烟火(煙火)」)。今年の隅田川の花火大会は7月28日に行なわれますが、そもそも1733年(享保18)、徳川吉宗の時代に始まったとされています。この頃、享保の大飢饉(餓死者90余万人)やコロリ病(コレラ)の流行で日本は大変なことになっており、〈幕府はその慰霊と悪病退散のため水神祭を行い、次の年からは花火も打ち上げるようになった〉(ジャパンナレッジ「ニッポニカ」)んだそうです。花火は慰霊のためだったんですね。
で、戦局の悪化で1940年に隅田川の花火大会は中止に追い込まれ、戦後に復活するも交通事情や水質悪化で中断され、今から40年前の1978年7月29日にようやく復活したのです。飢饉を理由に始まり、戦争や公害で中断する……花火は平和の象徴なのかもしれません。
という思いで前段の文章を読むと、平和な江戸の姿が浮かんできます。時は天保前期。熟爛の化政文化も終焉を迎える頃です。著者の寺門静軒(1796~1868)は水戸出身の儒者で、この時期を代表する文人のひとり。本書はその代表作『江戸繁昌記』のくだりです。
『江戸繁昌記』は、相撲、吉原、浅草寺の賑わい、火消しの現場、銭湯など、〈江戸の世俗の繁華を漢文で戯(ざ)れ書きするという新しい試み〉が大いに当たり、〈江戸期には希有(けう)の現実風刺の文学〉と評価される〈江戸後期の漢文戯作〉ですが、一方で、〈作者生まれつきの皮肉な目と批判精神により〉(同「ニッポニカ」)発禁処分を受け、それでも5巻まで出し続けたため、〈江戸を追放される〉(同「デジタル大辞泉」「寺門静軒」の項)という憂き目にあってしまうのですが……。
今年の隅田川の花火は、〈天黒くして事を挙ぐる……〉の名文を反芻しながら、堪能したいと思います。
ジャンル | 風俗/文学 |
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時代 ・ 舞台 | 1830年代、天保期の江戸 |
読後に一言 | いったい静軒はどんな虎の尾を踏んだのか? 東洋文庫2巻、3巻でじっくり見ていくことにします。 |
効用 | 原著の漢文を書き下し文に改めているので多少は読みやすいのですが、それでも骨が折れます。ですがこれほどまでに化政文化熟爛期の風俗を細かく描写したものは、本書をおいてほかにありません。 |
印象深い一節 ・ 名言 | 今の太平は、開闢(かいびゃく)以来未だ之れ有らざるなり。江戸の繁昌は開府以還未だ之れ有らざるなり(二篇「序」) |
類書 | 両国花火大会にも触れる幕末維新の頃を振り返る随筆『名ごりの夢』(東洋文庫9) 化政文化期の年中行事『東都歳事記(全3巻)』(東洋文庫159ほか) |
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(2024年5月時点)