1963年に刊行がスタートした『東洋文庫』シリーズ。日本、中国、インド、イスラム圏などアジアが生んだ珠玉の作品の中から、毎週1作品をピックアップ。 1000文字のレビュー、そしてオリジナルカルテとともに、面白くて奥深い「東洋文庫」の世界へいざないます。
日本人が“論理”を苦手とする理由は? キリシタン文学にみる「神との対話」 |
「論理」について考えてみたいと思います。
たとえば日本の政治家は「丁寧に説明する」とひっきりなしに口にしますが、私が知る限り、彼らから“論理的”な説明を聞いたことがありません。これは何も政治家に限ったことではなく、日本人の傾向として、「論理」は得意ではありません。
なぜでしょう?
本書『吉利支丹文学集1』に答えを見つけました。本書では、キリスト教および吉利支丹文学を説明するのに際し、それらが持つ精神を次のように規定します。
〈それは理性を重んじ、物事を合理的に考へてゆく精神である〉
ではなぜ「合理的に考へてゆく精神」、いわゆる「論理」が生まれたのでしょうか。
〈X(きりしと)の御ことばをあちはひ(味わい)、ふかくふんべつ(理解)したくおもはゞ、わが身のしんだい(行動)ことごとくXにひとしく奉らんとなげく(切に願う)べし〉
これは本書所収の「こんてむつすむん地」の一節です。これは、「イミタチオ・クリスティ」(キリストに倣いて)という信心書で、〈聖書に次いで最も多く読まれ〉ているそうです。日本では、1610年に刊行されています(訳されて信者たちには知られていました)。
「巻第一」の「第一」に登場する言葉なのですが、キリストの言葉を「理解する」というところがポイントなのではないでしょうか。いわゆる「神との対話」です。
翻って仏教はどうでしょうか? 一部例外はありますが、「般若心経」も「法華経」も日本では漢訳されたものをそのまま音読しています。つまりたいていの日本人は、お経を耳で聞いても意味がわからないのです(私はかつて坊主の経験がありますが、私もわかりません)。
一方で、「こんてむつすむん地」はどうでしょう? 信者が「理解する」ことが前提に書かれています。そのためわざわざ日本語に訳されています。
意味がわからなければ、ありがたがっていれば終わります。しかしキリスト教では理解を求める。考えざるを得ません。やや強引に結論づければ、それゆえに考えること――論理が発展したのでしょう。
ではキリスト教徒ではない日本人は、論理は身につかないのでしょうか? そうではありません。他の文化や他者を「ふかくふんべつしたく」思えば、それが論理を磨くきっかけとなるのです。
ジャンル | 宗教/文学 |
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時代・舞台 | 16~17世紀の日本 |
読後に一言 | 今年ようやく「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界遺産になりましたが、何よりもまず、「信仰が続いている」ことに驚きます。本書は、キリシタン文学の思想的背景や布教史などが書かれており、彼らキリシタンの信仰理解の一助になるのでは。 |
効用 | 本書校注者いわく、〈精神的な面からみれば、それ(吉利支丹文学)は日本の文化史の中に大きな地位を与へられるべきものである〉。 |
印象深い一節 ・ 名言 | 人としてみだりに物をのぞめば、かならず心さはがしくなる也。(「こんてむつすむん地」) |
類書 | 宣教師ルイス・フロイスが見た日本『日本史(全5巻)』(東洋文庫4ほか) 仏教・神道・儒教vs.キリスト教の論争『南蛮寺興廃記・邪教大意・妙貞問答・破提宇子』(東洋文庫14) |
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