1963年に刊行がスタートした『東洋文庫』シリーズ。日本、中国、インド、イスラム圏などアジアが生んだ珠玉の作品の中から、毎週1作品をピックアップ。 1000文字のレビュー、そしてオリジナルカルテとともに、面白くて奥深い「東洋文庫」の世界へいざないます。
シーボルトの命日は10月18日! 「報告書」で振り返る波瀾万丈人生 |
シーボルトの名を知らない人はいないと思いますが、命日(10月18日/享年70)を控え、改めてその人生に思いを馳せようかと思います。テキストは『シーボルトの日本報告』。編訳者が出島オランダ商館資料の中から、シーボルト関連文書を総ざらいしたという労作です。
さて改めてシーボルトの人生を年表にして見ましょう。
1796年 ドイツ・バイエルンで誕生。
1820年(24歳) ヴュルツブルク大学医学部卒業。
ここまで順風満帆のようですが、本書解説によれば2歳で父を亡くし、生活は苦しかったようです。そこに、植民地陸軍軍医少佐としてジャワ(インドネシア)に行かないかと誘われます。破格の報酬に、シーボルトは二つ返事でいざアジアへ。
〈我が家名と家計状況があれより沈下してゆくのを私はもう見ていられません。これが私を広い世界へと駆り立てたのです。……だから名誉と財貨を持たざる私を見ることは決してありません〉
1822年(26歳) オランダから船で出発。
1823年(27歳) 来日。
1827年(31歳) 「たき」との間に娘が生まれる。
1828年(32歳) シーボルト事件。
1829年(33歳) 国外追放処分。
シーボルトは、ある使命をもって来日しています。その強い意志が、日本オランダ商館長などへあてた書簡の署名にみてとれます。
〈日本における自然調査を任務とする外科医少佐 Dr・フォン・シーボルト〉
彼の目的は自然科学分野での学術調査にありました。
〈この国(日本)における私の調査に日々見られた進歩〔と私は考えています〕は、(中略)かれら(自然科学者兼探検家のフンボルトやペロン)に劣らない熱意と雄々しいひたむきさをもって実施したこれらの調査に閣下(オランダ領東インド植民地総督)の大きな関心をお寄せくださることをお願いする勇気を与えてくれます〉
回りくどい文章ですが、熱意がほとばしっています。よくよく考えれば、この時シーボルトは20代後半から30代前半。彼にとっての日本は、若さゆえの野心を叶えてくれる、いわば冒険の地だったのでしょう。
ジャンル | 記録 |
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時代・舞台 | 1822~29年/インドネシア、日本 |
読後に一言 | シーボルトが未知への憧れや科学的好奇心をモーチベーションにしていたことが、よくわかりました。 |
効用 | シーボルトの長男が記した日本再訪記『ジーボルト最後の日本旅行』(東洋文庫398)や、次男による北海道調査記録『小シーボルト蝦夷見聞記』(東洋文庫597)も収録されていますので、あわせてどうぞ。 |
印象深い一節 ・ 名言 | (日本に行くことで)世界的名声を博する機会を所有する唯一の人間であるのですから(シーボルト書簡、「解説」) |
類書 | シーボルト自身による日本体験記『江戸参府紀行』(東洋文庫87) シーボルトの伝記『シーボルト先生(全3巻)』(東洋文庫103ほか) |
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