1963年に刊行がスタートした『東洋文庫』シリーズ。日本、中国、インド、イスラム圏などアジアが生んだ珠玉の作品の中から、毎週1作品をピックアップ。 1000文字のレビュー、そしてオリジナルカルテとともに、面白くて奥深い「東洋文庫」の世界へいざないます。
幕末から明治を駆け抜けたひとりの青年の 半生から、激動の時代の姿が見えてくる。 |
日本人の明治維新好きは、司馬遼太郎による洗脳じゃないかと睨んでいるが、そんな穿った見方はともかく、この時代、日本が大きな改革を成し遂げたのは事実だろう。ではなぜゆえに? というのが今回のテーマ。
スポットを当てるのは、赤松則良という人物である。
〈明治時代の軍人、造船技術者。(中略)長崎海軍伝習所でまなぶ。咸臨(かんりん)丸にのりくみ渡米。文久2年オランダに留学して造船学をおさめる。(中略)明治20年海軍中将、30年貴族院議員。〉
(ジャパンナレッジ「日本人名大辞典」)
17歳(数え)から長崎海軍伝習所(勝海舟は第1期生)で学んだ赤松は、どこにでもいる志高き青年であった。
〈私は新らしい学問の為めに、深い興味と強い熱心とを以て寸時を惜んで勉強した〉
その甲斐あってか、咸臨丸による渡米メンバーに選ばれ、さらには22歳の時から約6年間、西周や榎本武揚らと共に、オランダに留学する。幕府の将来をかけた国費留学生だ。その途中に起こった明治維新。赤松はどうしたか。急遽帰国した赤松は、盟友榎本武揚を訪ねる。榎本は船で函館に向かおうとしていた。一緒に闘おうとする赤松を榎本はこう言って諭したという。
〈これからが日本の海軍にとって大事なところで、これには新しい知識が必要である。君は五年間もオランダに居て造船学を勉強して来た貴重な人材だ。(中略)君はどうしても残って、将来の日本海軍の創設のために貢献して貰わなければならない。だから一緒に行くのはあきらめてくれ〉
この立ち位置である。箱館戦争で降伏した榎本は、自分の命と引き替えに、肌身離さず持ち歩いていた「万国海律全書」を敵将に託したが、これも国を思ってのことだった。赤松もまた、国を思い、榎本の言を聞き入れた。「このままでは欧米列強によって国が滅びる」という危機感が、立場を異にした青年たちを最終的に明治国家建設へと向かわせたのである。榎本は農商相や外相を歴任し、かつての同僚勝海舟は明治政府の参議などを務めた。当の赤松も明治政府に仕え、海軍兵学校大教授や横須賀造船所長、横須賀鎮守府司令長官などを歴任した。学んできた造船技術などを、後世に伝えたのである。
ここには党派も私利私欲もない。あるのは、国を思う気持ちだけだ。利己的でない愛国心が、明治維新の大本にあったように、私には思われるのである。
ジャンル | 伝記/歴史 |
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時代 ・ 舞台 | 幕末から明治維新にかけて |
読後に一言 | 「公」に対する立ち居振る舞いが、その人の「格」を決めるのか。 |
効用 | 志高い赤松則良のような多くの青年が、歴史を動かしたということに、啓発されます。 |
印象深い一節 ・ 名言 | さすれば漸次(だんだん)外国との交渉は年を逐ふて繁くなつて行くのは当然だから、是からの者は洋語を学ばねば十分御上(おかみ)の御用に立たぬと云つて、(父は)私(赤松則良)に英語を学ばせやうとした…… |
類書 | 渋沢栄一による幕末・維新期の通史『徳川慶喜公伝(全4巻)』(東洋文庫88ほか) オランダ士官が見た当時の青年像『長崎海軍伝習所の日々』(東洋文庫26) |
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(2024年5月時点)