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1963年に刊行がスタートした『東洋文庫』シリーズ。日本、中国、インド、イスラム圏などアジアの古典・名著がズラリそろって、その数なんと850点余! 後世にぜひ引き継いでいきたい、まさにアジアの文化遺産なのです。

そんな珠玉の作品の中から、毎週1作品をピックアップ。1000文字のレビュー、そしてオリジナルカルテとともに、あなたを面白くて奥深い「東洋文庫」の世界へいざないます。

東洋文庫
『東洋金鴻 英国留学生への通信』(川路聖謨著 川田貞夫校注)

2021/03/18
   歴史のかわり目に立ち会った
元勘定奉行が記したかったこと

 川路聖謨(かわじ・としあきら、1801~68)といえば、当欄でもお馴染みで、佐渡奉行時代の日記『島根のすさみ』(東洋文庫226)や、ロシア使節との交渉日記『長崎日記・下田日記』(東洋文庫124)を紹介してきた。〈幕末の勘定奉行で,能吏として知られた〉(ジャパンナレッジ「世界大百科事典」)の説明はまさにその通りで、〈ペリー来航以前にたたきあげでここ(勘定奉行)まで上ったのは珍しい例だった〉(同前)という記述を付け加えれば、川路の切れ者ぶりがわかるのではないか。

 その川路が、英国に留学中の孫・川路太郎に送り続けていた日記をまとめたものが、この『東洋金鴻』である。


 〈七十ノ病翁殊ニ孫ヲ愛ス〉


 日記の最初にこう書かれているのだが、何もイマドキの孫溺愛の話ではない。実は孫の太郎は、3歳で父を亡くしている。母は実家に戻され、本人は川路の弟の元で育つ。8歳から川路の手元に引き取られた。聖謨からみれば我が子同然の存在なのである。

 慶応2年(1866)、幕府は西洋式兵法を学ぶため、12人の留学生を英国に送り込む。その際の取締役(引率責任者)に抜擢されたのが、孫の太郎(23歳)だった。聖謨は外国奉行の厚意によって、幕府の船便で手紙を出すことができた。手紙代わりに送ったのが、この日記『東洋金鴻』なのである。したがって日々の出来事に加え、リーダーとしての心構えも説かれている。〈人を選び交ること簡要なり〉といった具合だ。


 フムフムと読み進めていたのだが、慶応4年になると、急にトーンが変わってくる。


 〈当正月、往来等殊の外さびし。女大夫壱人も通らず、太神楽の太鼓、只一度耳に入り候〉


 日付は1月4日。前日には鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗退していた。薩摩が攻め入ってくるのでは、と人々が息を潜めていたのだ。川路はこの時、60代後半。中風で動くのもままならなかった。ゆえにこう記す。


 〈残念なるは、腰抜けて、七十近く存命なるわがことなり。嗟歎(さたん)、嗟歎〉


 2月になり梅も咲き鶯が鳴くも、川路は、〈春も中々にうらみなるここちす〉と記すのであった。体さえ動くならば自分が、と思っていたに違いない。慶応4年〈三月七日夕八ツ時過〉の日付と署名で、本書は閉じられる。その1週間後、〈江戸開城締約の翌日(3月15日)〉、川路は〈ピストル自殺を遂げた〉(同「ニッポニカ」)のだった。



今週のカルテ

ジャンル日記
時代・舞台幕末の日本(1866~1868年)
読後に一言「敗者」の側から見る記録は、別の視点を与えてくれます。
効用慶応という時代の流れが掴めます。
印象深い一節

名言
偽り多き人、才も智も、まさかのときに出(いで)ず候。(「慶応四年 正月」)
類書幕末を振り返る女性のエッセイ『名ごりの夢』(東洋文庫9)
幕末のオランダ留学の記録『赤松則良半生談』(東洋文庫317)
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